第27話 遠いどこかへと流れるもの
前回までのあらすじ: 全てが終わりへと向かっていた。メイベルは過去と相対し、ある種の決着をみた。ミリィ・ブランシェットは爆弾の傍らで「真実」へ辿り着いた。そして、ノエル・ルインとエンダー・ゴートの凄絶な戦いが、異貌都市の薄氷の盤面に終局図を描き出す! やがて都市に夜が訪れ、陽はまた昇る――。
「今、俺に残っているものは何だと思う?」
溶け出した左手をノエルへと向ける。
「貴様に、答えられるか?」
エンダーの左腕が、三つに裂けた。三条の刃の暴風と化し、ノエルへと殺到した。
銀の切っ先がノエルを貫こうとのたうつ。まるで、それ自体が生きているかのような躍動だった。
ノエルがまず正面から驀進してくる刃の毒牙を弾く。鋼の蛇が上方へと逸らされた。ほぼ同時に、二条の剣がノエルに裁きの挟撃。
ノエルが斬り上げた勢いで前へと踏み込みつつ跳躍。刃の挟み撃ちは交錯し、空振りに終わる。
しかし、そこからがエンダーの執念だった。
銀の奔流の付け根――エンダーの左手首付近が再び分裂する。今度は四条の剣尖と化した。
刃は互いに絡み合う嵐だ。猛り狂った銀の剣は群れをなす。獰猛な蜂のように宙空を突進してくる。
ノエルが直進から円弧へと移動を変更。迫り来る凶具の群れ群れを鋭く弾きながら、距離を保ち続ける。鮮やかな火炎が、刀と剣が触れるたびに閃く。
計七条にまで膨れ上がった刃の輪舞を躱し続けることは不可能だった。
そう、躱し続けることは。
「答えろっ! ノエル・ルイン!」
「お前に残っているのは過去だ!」
ノエルが叫びながら、靴底でアスファルトを擦り上げ、急停止。
殺しきれぬ勢いを、再びエンダーへの突進に振り向ける。すぐさま剣尖がノエルの動きに合わせてきた。白銀の竜巻が、ノエルの眼前で荒れ狂う。
恐れている場合ではなかった。止まることなど許されていなかった。
「過去に囚われ、それを乗り越えようと藻掻いている! だが、お前はそれだけだ! お前は、過去に縋り付くだけの、どこにでもいる平凡な男なのだ!」
「それを貴様が言うのか! 過去を乗り越えようともせず、忘却をもって無関係を装う貴様が、俺の過去を語るのか?」
ノエルの肩口を、銀の狂風の一端が掠めた。血が細切れに飛び出すも、ノエルは止まらない。刃を閃かせ、エンダーへと繰り出す。
エンダーが距離を取るように動く。台風の中心が平穏な状態であるように、エンダーのすぐ側では剣の輪舞は威力を発揮しない。だからこそ、ノエルもまたエンダーから離れずに踏み込んでいく。
エンダーが再び左腕を分裂させた。二条の刃が生まれるやいなや、獲物目掛けて駆けずり始める。
躱しきれない。わかっていたことだ。あまりにも距離が近かった。
二条の毒牙がノエルの左脇腹と右肩を貫く。
ノエルはその二撃を躱すことができなかった。しかし、それを覚悟の上で進んだのだ。ノエルはかつてエンダーに痛みを与えた。精神すら砕くほどの酷痛を。それと同じことをされても、何も文句はなかった。ここはそういう場なのだから。
一方で、エンダーが至近距離から放った剣尖は、しかし勢いに乏しかった。ゆえに、ノエルはまだ進むことができた。
ノエルが肩と脇腹を砕かれながら、刃を放つ。回転する凶具が、エンダーへと接近。エンダーは驚愕と絶望に目を見開く。
エンダーが繰り出す刃に比べて、腕を振ることによって空中を駆ける刃は、それだけで勢いで勝る。
かくして、エンダーが右腕で防御に入った。だが、敏捷な鋼はエンダーの鋼鉄の腕に突き立った。そしてそれだけでなく、半ばまで沈み込み、エンダーの胸にまで食い込んだ。
エンダーが吐血した。自身の腕を信じられないと言わんばかりの目で見る。
エンダーの両手は流体鋼で構成されているものの、腕と五指としての柔軟性を保つために、ある程度融解している必要がある。それが徒となった。柔軟な鋼は、一振りの刀を上回る硬さにはならないのだ。
動きの遅れたエンダーに、ノエルがすぐさま刃を形成し直し、さらに突き込んでいく。
向かって左の、エンダーの首を狙う。左の手は刃の大群となっていて、防御に使うことができない。
エンダーが蹴りを繰り出す。ノエルの身体を吹き飛ばそうという魂胆だった。しかし、それすらもノエルは読んでいる。先ほど砕かれた脇の高さで薙ぎ払われる巨木のような脚を、ノエルは限界まで姿勢を低めることで回避した。
ノエルが立ち上がる勢いで刀身を天へ。見事な半弧を描き出す。すでに彼の狙いは首から顎へと移っていた。
捉えたという確かな感覚があった。エンダーの胸元から顎にかけて、切っ先が下から上へ切り裂いていた。
エンダーが後ろへ倒れていく。しかし、それすらも陽動だった。エンダーは後方に倒立しつつ、銀の脚をノエルへと繰り出す。
しかし、ノエルは刃でこれを弾く。それどころか、切り返していた。さらなる追撃を加えようとノエルが前へ進み出る。
倒立を終えていたエンダーの碧眼が、輝きを増した。
「かかったな、ノエル・ルインッ!」
ノエルの脚が、何かを撥ねた。
それは、銀色の水溜まりだった。夕陽を朧気に反射していた。
瞬間、激痛。ノエルの左胸を、銀の槍が貫いていた。地面から飛び出した伏兵の一撃だった。
ノエルの身体が槍に穿たれたまま宙づりになった。全体重が胸の傷口にかかり、ノエルが絶叫した。視界が赤く染まっていった。
「貴様もこれで終わりだ」
エンダーの声も遠のいていく。精神が散り散りになりそうだった。何も考えられそうになかった。一瞬が永遠のように引き伸ばされ、痛みだけが濃縮されていた。
それでも、どうにか五指を動かす。自分を貫く長槍に触れる。鋼が溶け出し、分解されていく。
同時に、ノエルの左胸から、夥しい量の鮮血があふれ出す。ノエルは自分のそれを見つめたまま、地面へと降り立った。もはや先は長くない。確信を持って言えた。
「いつまでもつかな?」
エンダーが凶悪な笑みを浮かべる。
ノエルは、流体刀の刃を融解させた。液状となった鋼を、自分の傷口に這わせた。銀と赤が混ざり合い、地面へと垂れていく。
しかし、少しずつ固まり始めていた。これが、出血を少しは抑えてくれるだろう。
エンダーもまた、次なる攻防のための準備を整えていた。左腕から迸った鈍色の液体を、右手の刀に塗りたくるようにした。すると、液体と混ぜ合わさり、刀の形状が変化していく。
現れたのは、長大な斧だった。見る者に畏怖すら抱かせる巨斧。ぎらぎらと輝く刃は、朽ちることのない憎悪そのものを体現していた。
「来いっ!」
両者ともに疾走を開始する。
そうしながら、ノエルはあることを考えていた。胸と脇腹と肩の痛みがありながら、思考はどこか穏やかだった。
エンダーの骸冑は強力だ。このままでは埒が明かないどころか、すぐに返り討ちに遭う。防戦一方になる前に、すぐに決着を付けられてしまう。
一つだけ、策があった。それだけが希望だった。だが、あまりに難度が高い。絶望的なまでに。まず、エンダーの熾烈な刃を再びくぐり抜けなければならないのだ。
それでも、道はそれしかなかった。
ノエルは止まらない。一縷の怯えもなかった。
エンダーが、これまでの全ての憎悪をぶつけるかのように、骸冑を多重展開しはじめる。巨斧を両手で持ちつつ、左腕からは銀の狂風が生まれ出でる。足下に滲んだ銀の水面は、ノエルを食い殺せる瞬間を待っている。
両者激突。まず刃の海原がノエルへ押し寄せた。計八条。全てが鋭利で、ノエルを斬り伏せるべく動く。
ノエルの刃と交わり、次々に火花を散らす。もはやまともに弾き返す時間すら惜しかった。半ばいなすようにしてノエルは先を急ぐ。
銀の毒牙が一条閃き、ノエルの右鎖骨を削り取っていった。どうにか首が刎ね飛ばされるのだけは避けた。安堵はない。むしろこれから苛烈な瞋恚の烈風に飛び込んでいくのだ。
斧が動きだす。エンダーは腕の膂力で、常人では持ち上げることすら不可能な巨獣を振り回す。もはや掠ることすら許されそうになかった。少しでも触れれば、身体ごと命を持っていかれるだろう。
風すら悲鳴を上げ、斧が頭上を一閃。ノエルは躱しつつ、エンダーの側面へ回り込もうと移動する。
そのとき、恐るべき勢いで斧が回転してkた。エンダーの剛力が成す荒技。全ての力をかけて振り回し、斧を軸にして体を翻す。最後に残った速度の全てを力へと変換し、刃を繰り出してきていた。
刀で弾くことはできなかった。馬力があまりにも違いすぎる。そもそも刀とは楯ではないのだ。
ゆえに、ノエルには回避しか残っていない。そこに鋼の剣が舞い踊る。エンダーもまた理解していた。ノエルに残された道は、回避しかないと。
だからこそ、ノエルの周囲に水面を仕掛けていた。不退転の状況に、ノエルを追い込んでいた。
しかし、ノエルは半ばアスファルトの上を転がるほどに姿勢を低め、水面に手を触れた。
たちまち水面が分解される。ノエルが串刺しにされることはない。だが、そうしている間にも、刃の波状攻撃が彼を追い回す。
切っ先が、ノエルの片脚を切り裂いた。苦悶の表情でも、ノエルは前へと出る。
エンダーが再び斧を振り回す瞬間を狙うしかない。ノエルの心にあるのはそれだけだった。
はたして、エンダーの足腰が据わった。
ノエルが果敢にも飛び込んでいく。刃の乱舞は振り切っていた。
エンダーの斧の猛撃が繰り出されたとき――ノエルは、彼の左腕に触れていた。
エンダーの瞳に恐怖の色。すぐさま分解が始まった。刃の群れが力を失い、しおれるようにして消えていく。
「貴様……! また俺から腕を奪ったな!」
エンダーが吠え猛る。振るわれた斧が空振りに終わる。ノエルは姿勢を低め、左脚に触れる。殴打も何も必要ない。触れてやるだけでよかった。
左脚も融解。どろどろと地面へ垂れていく。
エンダーが再度咆哮する。今度は脚まで奪われた。
ノエルは距離を取る。これ以上は必要なかった。身体の左の手足を失ったエンダーのバランスが、崩れていく。
エンダーは、それでも執念を見せる。右腕の斧を単純な刃に切り替え、ノエルへと投擲する。
何度となく繰り返した動きで、凶具を弾く。地平線へと沈み始めている夕陽の方へ、消えていった。
「俺は、貴様に勝たなければならないのだっ!」
エンダーが血の混じった怒声を放つ。煮えたぎる汚泥のような声だった。
ノエルはついに完全に這いつくばったエンダーの姿を見ていた。
かつて自分が奪ったもの。かつて、自分がエンダーにした仕打ちが、目の前で再現されているようだった。
それでも、胸に去来する記憶はなかった。どうしようもない虚しさだけが募った。
ノエルが歩きだす。刃を構成し直しておく。
これから自分が為すことに、失敗がないように。
「待て……来るな!」
エンダーがうつ伏せのままこちらを見ている。残った右腕と右足だけで、どうにか距離を取ろうとする。
顔にはありありと絶望が浮かんでいた。これから自分は終わるのだということに、底なしの恐怖を感じていた。
だが、
「この街を吹き飛ばすぞっ! 全てが終わるぞ、いいのかっ?」
エンダーが右腕で装置を探り当て、それを掲げて見せた。
ノエルの歩みが止まる。
その瞬間、エンダーの顔が輝きを取り戻した。碧眼は、歓喜に満ちていた。
「お前の負けだ、ノエル・ルイン」
エンダーが哄笑と共に、スイッチを押し込んだ。
そして、爆発が起こった。
屋上の高みからだと、それを見下ろせた。ノエルの背後で、館のような大きさの施設が、爆炎を上げた。
轟音が鳴り渡った。白煙が噴き出す。
だが、それだけだった。
異貌都市全域に爆裂の嵐が吹き荒れるどころか、ノエルたちに許にはそよ風一つ届かなかった。
ノエルは爆発を見た。破壊された屋根からは、プールのような設備が見えていた。
「……どういうことだ」
エンダーが困惑し、
「どういうことだ! ドレニア! メゼンタ! マディソン! 何をしているんだっ! アネモネはどうしたっ! なぜあの程度の爆発なんだぁっ!」
激烈に喚いた。困惑はもはや深い哀しみと絶望だった。
エンダーの計画は、ついぞ達成されることがなかった。なぜだか、爆弾は施設の一つに穴を開けるのが精一杯だった。
ノエルはもう一度歩みを再開する。
エンダーが顔を上げる。
「ノエル・ルイン――」
この世の全てを憎むような咆哮が、名前に続いて溢れだした。大声で泣き叫んでいるかのようでもあった。
「やめてくれ――」
声が消えた。
取り替えたばかりのノエルの刃が、血で染まっている。
切り飛ばされたエンダーの首が、屋上を転がっていき、やがて止まった。
ノエルはその動きが終わるまでを、見届けた。
己に苦痛をもたらした仇敵への復讐に燃え、かつて愛していた帝国の変わり果てた姿を嘆き、そして全てを破壊することで解決を図った男は、死んだ。
それでも、何も変わっていない。太陽は同じ速度で沈んでいく。夜が訪れ、また朝が来るだろう。
そして、いつの日か、人々の記憶から忘れ去られ、過去の存在となるのだろう。
エンダーがついぞ赦せなかった忘却を、ノエルは赦すことができていた。
忘却は、とても哀しいことなのかもしれない。
しかし、今はそれが心地よかった。
息を吐くと、身体から力が抜けていった。
地面が急速に近づいてくる感覚を最後に、ノエルは意識を失った。
明日、いよいよ最終話。「前編」と「後編」に分けて投稿します。




