第26話 鍵
前回までのあらすじ: ノエルとエンダーが決着を望み、互いの魂を疾走させる。一方、メイベルはアネモネとの決着、そしてミリィ・ブランシェットとの脱出を図る。残された手立てと時間はあまりにも少ない。それでも都市に安息をもたらすために、爆弾の元へ向かうしかなかった。
「ミリィ、爆弾が起爆する条件は?」
メイベルが、目を真っ赤に腫らした少女にたずねる。できるだけ穏やかな声音で。先ほどの戦いを見せてしまったため、ミリィはひどく怯えていた。
不思議と、今は怒りが湧いてこなかった。ミリィに申し訳なかったという気持ちすら湧いてきていた。
この戦いが終わった後に姉について考えるとき、自分はミリィについてどう思うのだろうか。
今はわからない。想像もつかない。
「最終的な起爆装置はエンダーが持っていて、彼にはもう暗号を教えちゃった――」
「なんてこと」
ミリィが再び泣きそうになる。だが。どうにか堪えようとしていた。彼女わかっているのだ。泣きじゃくるだけではどうにもならない。何も解決しないと。
メイベルがすぐにドクターに通信を入れる。
その側で、ミリィもできることを考える。落ち着けと自分に言い聞かせ、深呼吸をする。難しいことは考えなくていい。自分はミリィ・ブランシェット。与えられた側の人間――。
「……安全装置」
ミリィが呟く。メイベルが通信したまま、すぐに反応した。
「安全装置があるの?」
「多分、ある。アンケミア社の製品――特に大量破壊兵器には、アンケミア社の一部の人間しか知らない暗号が設定されてる。それは、アンケミア社の独断で大量破壊を支配下に置くことで、戦場をコントロールすることを目的としてる」
「それを打ち込めば――」
「止まる、かも。でも、問題は、わたしもその暗号を知らないの。アンケミア社の社長、それか役員幹部なら――」
メイベルが端末の映像に顔を戻す。
「ドクター、聞いてた? アンケミア社の社長にどうにかして繋げて。お宅の造った爆弾で街が吹き飛ばされそうなのに、だんまりですかって」
《頑張ってみる……けど。時間がかかるかも。二人はアネモネの側に行ってくれ》
「わかった」
メイベルが通信を終えた。
「さ、ミリィ。後始末の時間よ」
ミリィが頷いた。メイベルは、まだ自分を見捨てていない。そのことにまた熱いものが込み上がりそうだった。
帝国派のミリィと、帝国で生まれ育ったメイベル。信頼は、共通の祖国があるからではない。むしろ、これまでの行いを考えれば、ミリィは憎まれていても文句は言えない。だが今は、その因縁すらも超える状況だった。ここを脱出しなければ、共に一度吹き込まれた命を再度喪うかもしれないかった。
もはやミリィは帝国も神皇国も憎んでなどいなかった。ただ、メイベルがノエルの過去を許したように、自分も全てを許したかった。
そうすれば、メイベルに、少しでも近づくことができる気がしたからだ。
「走れるかしら?」
「うん。わたしも屍者になったから」
ミリィが頷き、メイベルも頷き返す。今はミリィが主導する番だった。不安はいくらでもあった。だが、今も自分たちのために戦っている者がいると思えば、怖さがやわらいだ。
●
異貌都市軍基地の外。
仮設営された天幕の下に、三人が椅子に座っている。机の二台の投影装置に浮かび上がる二つの映像に、二人が見入っている。残りの一人は、別の大型機械の鍵盤を叩いている。
「繋がってくれ……」
ドクターが焦燥の混じった声で呟く。指が鍵盤をせわしなく叩く。どうにかして社長の回線に入り込もうとしているようだった。
「無駄だと思うよ、ドクター」
微笑みを崩さず、映像を見つつ、ビショップは言う。
「アンケミア社は証拠の隠滅で大忙し。社長はおそらく、すでに異貌都市から退避しているよ」
「それでも、携帯端末ぐらい持ってるだろう……!」
「すごい執念だ」
反応の薄いビショップが見つめる先には、上から撮影している基地の屋上が映っている。
そこでは、今まさに命を散らす死闘が繰り広げられているのだ。
リポーターの説明と実況が邪魔なので、音声は切ってあった。
「エンダーは、爆弾を起爆させると思うか?」
ハンクが横のビショップにたずねた。口ぶりからするにどうやら彼は、ビショップの正体に気づいていないようだ。それも無理もない話だったが。
「どうだろうね。彼が自分の力での勝負に拘る男なら、最後まで男らしく戦うだろうけど。ノエルと、この街の全てを道連れにしようとする可能性も否定できない」
ビショップが愉快そうに笑みを濃くする。
「こういう極限状態でこそ、人間の真実が試されるね」
「繋がった!」
ドクターが声を上げた。ハンクとビショップが同時に顔を寄せる。
「そちらは、エルオット・アンケミア社長ですか?」
ドクターの声に、しばしの間が空き、やがて返答が返ってくる。
「……そうだが」
重々しい声。面倒くさそうなのがすぐに伝わってきた。
「用件だけ言います。そちらが開発したアネモネの安全装置。その暗号を教えていただきたい!」
嘆息。ドクターは苛立ちを抑え、向こうのさらなる言葉を待った。
「……では、こちらも答えだけを言おう。何があっても教えるわけにはいかん。考えてもみろ。アネモネの暗号が貴様のような得体の知れない存在に漏れ、そこから他製品の暗号までもが解読されてしまえば、我が社は終わりだ」
ドクターが歯噛みする。ハンクが顔をしかめる。ビショップは飄々としている。人間の欲望と下劣さを突きつけられているようだった。
「異貌都市の命運がかかっています! 六十万人の市民の命が!」
「私にはもはや関係のないことだ」
「あなたたちが生み出したエンダー・ゴート、マディソン・モートの仕業なんですよ!」
「はて、何のことやら。そんな名前に聞き覚えはないな」
地鳴りのような笑い声が聞こえてくる。怒りのあまり、ドクターが拳を振り上げる。ハンクがそれを掴んで止めた。
「用件はそれだけか? では、失礼するよ。瀕死の街を救うべく、せいぜい頑張りたまえ」
通信が切れた。
「くそっ!」
ドクターが堪えきれず、ハンクを振り切って拳を机に叩きつけた。
瞬間、ドクターの端末が、再び光を放った。顔を上げたドクターの眼前に、文字列が浮かび上がっていた。
――phantom。
●
塩素の匂い。
輝く水面。
メイベルとミリィの前に、見上げるほどの樽が横倒しの状態で鎮座していた。
そこはプールだった。薄暗い照明の下、水面が光りながら揺らめいてた。向こう岸がかろうじて見渡せる程度の明るさしかない。
爆弾は、訓練用の巨大プールの通路に安置されていた。
ミリィは、エンダーに起爆の手順を教えるために一度ここへ来ていた。場所が変わっていないかが心配だったが、杞憂だったようだ。
だが、ミリィは近づいてみて気づいた。
位置が、少しだけずれている。誰かが動かした形跡があった。
(一体誰が――)
ミリィの心配をよそに、メイベルが通信を繋げる。
「ドクター、爆弾の目の前に来たわ。そっちはどう?」
《いいかい、これを打ち込んでくれ。駄目元に近いけど……》
送られてきた文字列。それは、phantom。
「駄目元ってどういうこと?」
メイベルが聞き返した。だが、ミリィはすでに動いていた。爆弾の周囲を回り、鍵盤を探した。
《社長の協力は得られなかったんだけど、通話を着られた直後にこの文字列が誰かから送られてきたんだ。これが暗号だなんて、あり得ないかもしれない。でも、もうこれにかけるしかない》
ミリィが円筒の上へよじ登る。あった。鍵盤が。
七文字の入力を一瞬で終える。すると、新たに無数の文字列と、立体の幾何学図形、グラフが浮かび上がった。二重の仕掛けだった。兵器の安全装置がたった七文字で起動するわけがないのだ。
だが、ミリィからすればこの程度の多体問題など、呼吸をするよりも簡単だった。五秒とかからずに答えの入力が終わり、躊躇うことなく送信ボタンを押す。
だが、
「あれ……?」
ミリィの答えは受け付けられなかった。
まさかと思い、答えを見直す。だが、間違えているはずもなかった。
そこで、ミリィは、操作画面に浮かび上がっていた注意書きに気づいた。
《このリクエストは、すでに承認されています》
「え――?」
そこで、ミリィは恐ろしい事実に思い至った。
全ての真実がわかってしまった。真相を何重にも覆っていた闇が、全て解けていった。
――phantom。
――エンダーの言っていたウイルス――。
「そっか――」
――自分は、このために生きていたんだ。生かされていたんだ。
「どうしたの、ミリィ!」
メイベルが、爆弾の上で動かなくなったミリィに向かって叫ぶ。
ミリィがようやく振り返ったとき、彼女はすがすがしいほどの笑顔だった。
「メイベルさん、短い間だったけど、今までありがとう。ノエルさんと、ドクターにも伝えておいて」
メイベルが困惑の表情を浮かべる。
「何を言ってるの?」
「あのとき、助けてくれたこと、本当にありがとう。お姉ちゃんのことを知って、それでも私を殺さないでいてくれて、ありがとう――」
ミリィの視界が静止していく。全ての運動が緩やかになる。メイベルの声も引き延ばされる。
一瞬にして、メイベルは自分の人生の全光景を追憶し、
「――そして、ごめんなさい」
亡霊に還った。




