第24話 レヴェナント・レクイエム
前回までのあらすじ: 怒りを滾らせたメイベルの炎。ノエルの背負った過去と罪。マディソンの思い描く理想。何が報われ、何が償われ、何が実現するのか。少女の選択はマディソンを否定した。しかし、ノエルを肯定するものでもなかった。ただあるべき道を進むために、炎を鎮める。そしてノエルもまた考えている。激烈な憎悪に支配された屍者たちを鎮める道を。
マディソン・モートは全身を灼く痛みに耐えながら、扉を押し開く。吐息すら辛かった。喉から炎が迸るような心地だった。
「やったのか、〈マミー〉?」
〈デーモン〉はこちらを振り向きもしない。暗闇に無数に浮かぶ立体光学映像のみを見据え、マディソンには背中を向けていた。
「いえ……それが、理解不能な事態が、起きました」
マディソンは喘鳴と共に報告する。
「メイベル・シュピーゲルに、真実を伝えたのですが、協力を得られませんでした。奴は、おそらくノエル・ルインとミリィ・ブランシェットを助け、こちらに向かうはずです」
息をついたマディソンを〈デーモン〉が振り返った。
「失敗したのだな?」
重圧を伴った声だった。恫喝と言ってもよい迫力だった。マディソンは霞む意識で、言葉を紡ぐ。
「……そもそも、彼女の協力を得るという方策が間違っていたのでは――」
「失敗したのだな?」
マディソンの言葉が途切れる。呆然としていた。〈デーモン〉の双眸は瞋恚で燃え盛っていた。思考すら崩しにかかるような凄絶な目つきだった。
「……〈リッパー〉もノエル・ルインを捕らえることに失敗していたはずです。爆発が起こった、などと言っていました」
出てくるのは、言い訳だけだった。
「いいだろう。誤算でも何でもない。むしろ好都合だ」
〈デーモン〉が椅子から立ち上がる。マディソンは不穏な気配を感じ取り、身構える。
「好都合……?」
瞬間、マディソンの腹を貫くものがあった。げえ、と奇妙な悲鳴が漏れ出た。マディソンは勢いのままもんどり打ってひっくり返る。
マディソンは立ち上がろうとしたが、できなかった。むしろ、ひとりでに身体が浮き上がっていた。脚が床面を離れ、虚空を掻く。
〈デーモン〉から、鈍色の何かが伸びていた。蛇のようなそれは、そのままマディソンの腹を貫き、身体に巻き付いていた。硬質だが、柔軟性のある縄のような物体だ。
「エンダー……! 何を!」
マディソンが絶叫と怒声を同時に吐き出す。
「俺は、貴様を仲間だと思ったことはないのだ」
エンダーは冷え切った声で宣告した。
「貴様の野望が達せられることはない。完全な繊維生物? ご立派なことだ。だが、貴様は未来を見過ぎている。それゆえに、足下を掬われるのだ」
マディソンが吐血する。
「そして、貴様は俺たちを屍者に変えた張本人だろうが? 自分も屍者になったから、仲間として扱ってもらえると思っていたのか? 残念ながら、過去の行いは消えない。必ず報いが追いかけてくるのだよ」
エンダーが、マディソンを地面に叩きつけた。何度も何度も。血飛沫が床や壁に飛び散っていく。
朦朧とする意識が呼ぶのは、かつて愛した者の名だった。
「アネモネ――」
頭が叩き割られ、脳漿が這い出す。
全ての景色が遠ざかっていく。
「すまなかった――」
もはや後悔する時間も、自分を責める時間もなかった。全てが終わりへ近づいていた。
「もう一度、君に――」
そして、終わった。身体から力が抜けきった。エンダーがそれを感じ取り、放り出した。赤く染まった壁にぶつかり、そのまま落下。
もはや二度と動かなかった。
「――さて」
エンダーは、マディソンからすぐさま興味を失い、映像を見つめる。
宿敵が、目を覚まそうとしていた。
「これで最後だ、ノエル・ルイン――」
汚泥のような憎悪の声を聞く者は、他に誰もいなかった。
●
「あなたを許したわけじゃない」
ノエルは上体を起こす。メイベルが、柄だけの刀を差しだしてくる。確かメイベルの蹴りで意識を失い、そのまま手から柄が放り出されたのだ。
「――すまない」
ノエルは謝ることしかできない。それすら傲慢と言われることを覚悟してのことだった。
「申し訳ないと思うのなら、エンダーをどうにかしてね。あなたの因縁の相手らしいから」
ノエルは、メイベルの頬を凝視した。涙の跡が微かに浮かんでいるような気がしたのだ。
泣いたのか――。それを聞くことはしなかった。
彼女はすでに瞳に力を取り戻していた。傷だらけでも、心はまだ死んでいなかった。
メイベルがドクターに通信を入れている間、ノエルは考え続ける。
自分の過去と、罪を。
セインフロド共和国の兵士。エンダーとアネモネ、後衛にはマディソン。彼らの部隊は爆撃で散り散りになり、ノエルたちがエンダーとアネモネを捕縛。拷問したという。
思い出されるものは依然として一つもなかった。
思い出せないこと――それこそが、今なお深まっていく罪の所業なのかもしれない。
どうすれば、安らぎを得られるだろう。
どうすれば、エンダーは納得するのだろう。
ノエルの中では、ただエンダーを殺せば何もかもが解決するという話ではなかった。殺すことで自分の忌まわしい過去を葬り去り、新たな自分に生まれ変わる。それは、まさしくエンダーがしようとしていることと同じなのだ。自分の人生を始めるために、けじめという名の復讐に走るあの悪魔と。
ノエルは、別の道を探りたかった。この街で全てを焼き付くさんと燃え上がる屍者たちへ送る、静かな鎮魂歌を見つけ出したかった。
それが、自分の喪われた過去を弔う歌になり、やがて罪を贖う一歩になるだろうと信じたかった。
それでも何も知らない、何も覚えていないという無力感が壁となって立ち塞がる。
「――鎮魂歌などないのか?」
声に出ていた。思いがけないことだった。ノエルの内で渦巻いていた悲痛な叫びが、静かに零れ落ちたようだった。
「――あなた、結構詩人に向いてるかもよ?」
メイベルが声を掛けてきた。とっくに通信は終わっていたようだ。
「――屍者の詩人は珍しいかもな」
「ノエル、あなたは過去に囚われては駄目よ」
メイベルは精悍な顔つきをしていた。過去を振り切れたなら、そんな顔ができるのだろうか、とノエルは考える。
「過去があるからこそ、人も屍者も悩むの。過去っていうのは、自分の選んできた道。そして、自分を縛る枷。一度選んだ道を選び直すことは、簡単じゃない。その点、あなたは違うでしょ?」
「どう違うんだ?」
メイベルは得意げな顔をする。
「あなたは過去を持っていないのよ? つまり、これからどうにでも人生を変えていける。自分の道を選んでいけるの。あなた――ノエル・ルインという人間は、生まれたばかりの無垢な赤子。まだ可能性は充分に残されているわ。だから、あるはずのない後ろの道をあれこれ悩むのはやめなさい」
「良い言葉だ」
「なっ……!」
メイベルが絶句し、顔を紅潮させる。
その感想は、ノエルの本心だった。メイベルも、ノエルが心の底の一言を紡ぎだしたことを悟り、照れくさそうに笑った。
「それに、私もついてるしね。一緒に考えてあげるわ。……さあ、立ち上がって」
メイベルの手を、ノエルはまじまじと見つめる。
勇気が必要だった。困難な勇気が。それでも、ノエルはその手を借りた。
立ち上がる。同時に、確固たる意志が固まった。
「さて、これからどうするかだけど……。ミリィを解放して、エンダーと戦うのは彼女が危ないし……。まだメゼンタ・ゼヴこと〈エトランジェ〉もいるだろうし……」
「――メイ」
ノエルは、彼女を愛称で呼んでみた。その方が、想いを伝えるのに効果的だと思ったからだ。
メイベルが目を見開く。
「――エンダーは、俺がやる。君は、アネモネをどうにかし、ミリィと共に脱出してくれ」
「何を……」
「あいつは、俺だけを待っている。俺との一騎討ちを待っている。どちらかが死に、どちらかが生き残る。そういう決着を望んでいる」
「だ、だからって……! それに応じる必要は無いでしょ?」
「いや、ある」
ノエルが言う。まるで、自分に聞かせるように。
「俺は、あいつに鎮魂歌を送りたい。送らなければならない。これ以上頑張らなくていいのだと、伝えなければならない」
(――亡霊たれ、ノエル・ルイン。亡霊としての責務を果たすのだ)
ミリィ・ブランシェットの周囲を囲い込む糸を切り終えた後。
ノエルは、一歩を踏み出す。
「――もう一度、私と戦ってみない? 私に負けて、諦めがつくかもよ? 二人で戦えばいいじゃない。私だって、エンダーに思うところはあるしさ……」
ノエルはもう何も言わないし、振り返らなかった。
メイベルの奥から込み上がってくるものがあった。小さくなっていく背中が、滲んだ。
ここに来て二度も涙が出るとは思わなかった。姉の過去を振り切った時点で、涸れたものだと思っていた。
だが、この涙は――別種だった。
メイベルはノエルに手を伸ばさない代わりに、自分の口を押さえた。嗚咽が漏れないように。ノエルに不安を残さないように。




