第21話 記憶の片隅
前回までのあらすじ: ついに都市軍基地へと突入したノエルとメイベル。屍者という忌避の対象である兵士たちとの対話を経て、絶望的な状況を覆すべく、進み続ける。そんな彼らの前に、ついに強敵が揃い踏みする。始まる戦いは、少女が抱える過去との因縁を巡る、最後の死闘だった――。
《でかしたぞ、ルイン。神皇国派と連絡が取れた。間もなく機動隊が負傷者を運び出し、第二陣が突入する》
ハンクから通信が入る。
戦局は刻一刻と変化していた。奮起した神皇国派と警察機動隊が連携し、徐々に帝国派を押し戻していた。
両者負傷を免れない不退転の状況。鉛玉と雷撃、火炎、毒液が飛び交う。
ノエルとメイベルはエンダーの許へ急いでいた。ビショップの腹心からの情報を頼りに、迷うことなく。逡巡は許されなかった。後ろを振り返る余裕すらなかった。
「――邪魔よっ!」
メイベルの腕が青白く光る。雷撃が、前方の兵士たちを薙ぎ払う。同時に飛来する弾丸をノエルが弾き、手の平で火炎を分解していく。
神皇国派の援護もあるが、待っていられない。遮蔽物に身を隠しながら進んでいては、日が暮れてしまう。帝国派を挫くことはレキュロス連邦の作戦を揺らがせることにも繋がる。ゆえに、止まっていられないのだ。
それに、エンダーは待ち構えている。二人が上ってくるのを、画面を通して見ている。
階段を駆け上がる。上で待ち構えていた兵士が、一斉に射撃を見舞う。ノエルは刀を乱舞して弾き返す。しかし、被弾は免れなかった。脇腹を掠めた痛みすら乗り越え、前に出る。刃を一閃し、防護服を容易く両断。
後続が出てくる。ノエルは崩れ落ちていく兵士を踏みつけ、跳躍。兵士たちは突然躍り出たノエルに対応できず、見上げるだけだった。上から切り下ろし、血糊を浴びる。ただ前だけを見つめて疾走を再開した。
「――広い場所に出るぞ」
ノエルが呟く。メイベルが頷く。彼女の脚が赤い残像を残し、閉ざされた扉をぶち破る。
扉がやかましい音を立てた。一気に中へと侵入する。だが、予想に反して、誰もいなかった。
しかし、異様な光景が広がっている。
赤黒い塊が、柱や床、壁、天井にまで伸びていた。剥き出しの配管が天井高くまで続いている。それもほとんどが赤に覆われている。床にはかろうじて白線が残っている。
軍用機が静止している。重力式飛行船や、陸上戦車が。それらにも肉塊が蔓延っていた。
すぐにわかった。
ここは倉庫であり、
「――マディソン・モート」
メイベルが呻いた。
「……いや、奴だけじゃない」
視界の端で、ノエルは煌めくものを捉えていた。悪寒が走る。同時に、殺意が襲いかかってくる。歩きだそうとするメイベルの手を掴み、一気に引き寄せ、転がる。
二人のいた場所を、目に見えない刃が薙いでいった。
「そうだ、我もいるぞ!」
気づけば、倉庫の奥の飛行船から、二つの影が降りてきていた。
〈死の舞踏〉の二体が、ノエルとメイベルを見据える。
「いきなり二体……」
「怖じ気づいたか? メイベル」
「正直、動じないあんたが羨ましい」
メイベルは前を見たまま呟く。
「……ノエル、私にマディソンをやらせてくれないかしら?」
「私情を持ち込むのは褒められたことではないな」
ノエルはすげなく返す。だが、
「いいだろう。あんたの骸冑ではドレニアの糸とは相性が悪い。マディソンは任せる」
「作戦会議は終わりか?」
ドレニアが声を張り上げる。彼の周囲では、すでに糸が輝きを放っている。空間が神々しさを宿している。
「メイベルくんとは一度話したかったんだ」
と、マディソン。
「行くぞ! 我に至上の死をっ! ノエル・ルインッ!」
と、ドレニア。
四体の屍者が、疾走を開始した。
●
風が切り裂かれる音が重層の波濤と化し、ノエルを追う。
そびえ立つ戦車や飛行船は、もはや遮蔽物となり得ない。ドレニアが放つ凶具は、鋼鉄の巨体をいとも容易く切断するからだ。
それでも、相手に位置を悟られない程度の役割は果たしてくれる。
ドレニアも、そのことをわかっていた。だからこそ、一瞬を狙っていた。ノエルが、遮蔽物から遮蔽物へと飛び移る瞬間を。その一瞬に全神経を集中させていた。
互いの思考は、すがすがしいほどに表裏一体だった。案の定、ノエルが刃を投擲した瞬間、ドレニアは糸を放った。長大な糸だった。放たれた刃の先制に引っかかりつつも、陰に隠れたままのノエルの肉体すら、戦車の鋼板と共に切断しようとしていた。
ノエルは放った刃と反対側の、戦車と飛行船の間へと移る。
身を隠しているノエルは、糸の軌道を見極めることができない。つまり、一挙一動が綱の上を渡るに等しかった。
ドレニアはノエルの位置を知らない。だが、ノエルもまた糸鋸の軌道を知らない。
何が生死を分けるのか。ノエルはもちろん、ただの運とは考えていなかった。ドレニアの姿が、飛行船の前面の窓硝子に映り込んでいた。鮮明ではないが、相手の動きを予測するには充分だった。
「どうした、ノエル! 隠れ続けるだけか!」
ドレニアはゆっくりと歩いてきていた。ノエルは気づく。どうやら、彼もまたこちらの思考に至っているらしい。
糸の輝きがいつもより多く、一見すれば無闇に動かしているように乱れて見えた。ノエルが硝子を透かして見ているのを察し、光を動かすことで攪乱しているのだ。
ノエルは凶悪な笑みを浮かべた。やはりただ者ではない。
ノエルは戦車の無限軌道車輪に脚を掛ける。
ここで待つ理由はなかった。三点を確認する。戦車の高さ、背後の硝子越しにドレニアの動き、天井に無数に交差する橋梁を。
そして、刀の刃を、先ほどと反対方向に投擲する。
ドレニアが見逃すはずもない。その物体がノエルかどうかを確認する前に、糸を発射している。
同時に、ノエルが一気に戦車の車体を駆け上がった。
空中に躍り出る。ドレニアの対応が遅れた。再び糸を放った瞬間には、ノエルは二階の高さの梁に上っていた。
ドレニアはすぐに次の手を打つ。糸を唸らせ、ノエルの行く先に糸を射出。
ノエルは交差する梁を次々に飛び移っていく。糸鋸が梁を呆気なく切断していった。ノエルは止まらず、無論ドレニアの真上を目指す。鉄骨や整備用の通路を駆け抜ける。
そして、彼もまた、逃げるだけに留まらない。
ノエル自身が、駆け抜けた鉄骨を切断しながら動いていた。切り離された巨大な鉄塊が、ドレニアの周囲に降り注いだ。戦車や飛行船すらも押し潰し、機械や鋼板を撥ね飛ばしていく。同時に轟音が鳴り渡り、ドレニアの注意が強制的に逸らされる。
ノエルは好機を逃さない。ついにドレニアの真上へと達し、最後にもう一度鉄筋を切断。
豪速で迫る破壊の鉄槌が、ドレニアの上からやってくる。
全てを叩き潰す破滅の嵐が吹き荒れ、やがて消えた。
●
「わたし、お姉ちゃんみたいになりたいな――」
いつかのどこか。記憶の片隅の少女が、そう呟く。
自分と同じ髪色をした女性が、ふんわりと微笑む。大人びた笑みだった。少女のまだあどけない想いを、受け止めてくれる優しさを帯びてくれていた。
少女はここではない場所で生まれた。隣の国だ。帝国と呼ばれる地。
生活は決して豊かではなかった。ぼろぼろの集合住宅の一室。電球は明滅を繰り返し、水道からは錆が混じって出てくる。父はおらず、母親が育ててくれた。なけなしの愛情を、できる限りの知恵を、無償で与えてくれた。
この世界で生きていくために。
そんな母は、いつも帰ってくるのが遅かった。それが、もちろん働いているからだと、少女は理解していた。
寂しさを抑えることは簡単だった。年の近い友達もいなかったし、物心つけば昏い部屋に取り残されていることの多かった少女は、慣れきってしまっていた。寂しいという感覚すら、かなり遠いところにあった。
それに、少女には姉がいた。母がいない夜は、姉が側にいてくれた。彼女もまた、少女に無償の愛情を注いでくれた。
「わたし、お母さんとお姉ちゃんみたいになりたいな――」
それが、いつしか少女の口癖になっていた。
だが、平和は長く続かなかった。
ある日、母が帰ってこなかった。翌日の朝になっても、再び太陽が沈み、また上っても。そして雨が降った。土砂降りだった。太陽があるかすらも疑われるような黒雲が渦巻き、日にちの感覚すら少女と姉から奪った。
誰かが家に訪ねてきた。
姉が慎重に扉を開けた。少女は、なぜそんなにも警戒する必要があるのか分からなかった。
立っていたのは、二人組の警官だった。
警官の一人が言った。
母は病院にいると。
母は、両腕と両脚を失っていた。切り取られていたのだ。少女と姉が見た母の四肢は、すでに義手と義足に付け替えられていた。
後に少女が知った真実――それは、母が客の財布を盗んだことが発端だった。
客は、実はその辺りでは有名な暗部組織の幹部だった。
彼らはすぐに、母の所業に気づいた。そして、罰を与えた。両手両脚を奪ったのだ。その状態で、店の前に放置した。かつて母が客に愛を囁いて回った店の前に。
崩壊は突然で、なおかつ無慈悲なまでに迅速だった。
母は職を失い、家に籠りきりになった。義手と義足を動かすことも億劫なようで、一日中死んだように寝ているようになった。
それでも、誰かが金を手に入れなければならなかった。この世界で生きていくために。なけなしの愛情も、できる限りの知恵も、全て捨て去ってでも求めなければならなかった。
病院からの治療費の請求。食費。電気代。水道費。ありとあらゆるところに金が必要だった。
安息の地は地獄に変わった。姉は以前よりも長く多く働くようになり、家にいないことも増えた。
母は、部屋の隅で腹を空かせている少女に当たり散らすようになった。
振るわれたのは純粋な暴力だった。けれども、そこには人間の熱が通っていなかった。
義手と義足は、硬く、冷たかった。
訳のわからない叫び。飛び散る唾。血走った目。乱れた髪。
少女は、初めてそれを感じ、それを理解した。この胸を締めつけられるような感覚こそ、孤独なのだと。
それを発見した姉が、母を殺すまでに時間は要らなかった。
姉が瓶を振り下ろしたのを覚えている。何度も何度も。
凶器が砕け散る頃には、少女の心にあった母親の姿も同じような状態になっていた。
ふと、久しぶりの暖かさに包まれていた。
姉が、抱きしめてくれていた。血まみれの服と手で。
「ごめんね、メイ。もう一回、やり直そう。私の全部を、あげるから――」




