第20話 瀕死
前回までのあらすじ: 〈マミー〉、〈リッパー〉、〈エトランジェ〉、〈デーモン〉。四体の屍者が異貌都市軍基地に渾沌を呼び起こし、ノエルたちを待ち構えている。彼らはついに、メイベルの真実を暴き出した――彼女とアネモネを繋ぐものを。待ち受ける悪意は、どこまでも膨れ上がっていく……。
ノエルは異変に気づいた。あまりに兵士が少なすぎる。
渡り廊下には凄惨な光景が広がっている。力を失った肉体が、赤い飛沫をまき散らし、倒れ伏している。だが、それだけだった。
敵の姿がどこにもない。
「ただ単に警備が薄いって訳でもなさそうね」
メイベルが横で呟く。彼女もまた気づいていたようだ。
《いい、二人とも? まずは域CとDを目指すんだ。神皇国派が籠城しているという情報が入っている。まだ生きていれば、の話だけど》
ドクターから通信が入った。
「ドクター、敵が少ない。未だ一度も接敵しないぞ」
《警察も陽動に尽力しているからね。そちらに兵士を取られているんだろう》
本当にそうだろうか。
ノエルは目線を上げる。監視装置が、未だ起動していることを告げる灯りを点けていた。
エンダーほどノエルに執着する男が、易々と侵入を見逃すものなのだろうか。
(いや、そうか)
ノエルは思い至った。むしろ、エンダーが指揮を執っているからこそ、自分たちを見逃しているのだと。
自らの手でノエルを終わらせるために。奴は、待っているのだ。仇敵がやってくるそのときを。
装置のレンズの向こうには、エンダーがいる。
域Cが近い。ノエルは周囲への感覚を研ぎ澄ます。やはりというべきか、〈リッパー〉――ドレニア・アルクーネの糸が、周囲に張り巡らされている。神皇国派の身動きが取れない原因の一つだった。
ノエルは刀に流体鋼を形成し、糸に向かって振り下ろす。ただの一本程度なら、刃の方が鋭い。糸は簡単に断ち切ることができた。
糸を切り離しながら、二人は廊下を駆け抜ける。そこは惨憺たる戦場だった。銃創が壁や床、天井にまで及び、焦げ付き、血で上塗りされていた。
生々しい交戦の痕を横目に、二人はついに域Cに到達した。
「――大丈夫か」
その広間――屋内の運動場には、多くの兵士がいた。彼らが一斉に顔を上げ、ノエルたちを見た。
多くの者が包帯を至る所に巻き付けていた。節々に血が滲んでいた。
「――誰だ!」
どこかで声が上がる。それを機に、慌てて兵士たちが立ち上がろうとする。
メイベルが声を張り上げる。
「待って、違うの! 私たちは、あなたたち神皇国派を助けに来た、味方よ!」
「味方……? こんな餓鬼が……?」
「ええ、そうよ。まず、立てない者は脱出経路を教えるから、何人かで協力して施設から出ていって。いるだけ邪魔だから。それか、身体の再生を待って、後から私たちについて来て。立てる者はいる? 立てる人たちは一緒にこの馬鹿げた武装蜂起を鎮圧しに行くわよ」
兵士たちは困惑の表情を浮かべ、互いに顔を見合わせる。
「そんなことをしたって意味がないじゃないか」
誰かが声を上げた。メイベルはそちらを見る。
「どうして?」
「帝国派――特に今まで存在すら隠されていた〈死の舞踏〉相手に、勝ち目はない。俺らの半分以上がもう機能停止しているんだぞ……。それに俺らは、結局屍者だ。ここを切り抜けたところで、廃棄は決まっている」
「廃棄って、どういうこと?」
「決まってるだろ。今回の騒ぎは都市軍の屍者によるものだ。だったら、屍者たちは相応の制裁を受けることになる。ただ一方的に虐殺された俺たちも、同じだ。屍者であるというだけで人間として扱われず、人々から憎悪の罵声を受け、ただの道具として棄てられる。そういう運命なのに、なぜ戦う必要がある?」
そうだ、とまた誰かが声を上げる。多くの兵士が頷いていた。
メイベルは言葉を失い、立ち尽した。屍者の兵士たちは、何かもを諦めてしまっている。いや、彼らの態度こそが正しいのかもしれない。屍者と生者の間にある隔たりは、誰が見たって厳然たるものなのだ。
屍者は、どうしたって生者に戻ることができない。この不可逆な変化が、ある意味で生者の権力を優越させている側面もあった。
屍者として生きる意味。彼らは初めからそれに飢えているのだ。屍者として蘇ったときから。誰のために生きるべきなのか。誰のために喜ばれるのか。それを見失っているのだ。
「屍者に戦う理由などいらない」
ノエルが呟いた。
「廃棄されたいのなら、そこで見ていればいい。屍者が道具であることを受け入れるのなら。だが、俺は抗う。お前たち木偶の坊と違い、責務があるからだ。生者に戻りたいと思うのならば、せめて生者のように振る舞うことだな。生きる責務を負っているように振る舞うのだ。それができないのならば、今から攻め込んでくる帝国派に特攻してくれ。それが最期にお前たちができる唯一のことだ」
遠くで発砲の音が聞こえた。帝国派が、廊下に転がっている屍者たちにとどめを刺して回っているのだ。
兵士たちの瞳が揺らぐ。ノエルが最後通牒を行う。
「早くしろ! どちらか選び、そして死ね! 屍者らしく死んでいくか、生者らしく死んでいくかだ!」
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透明な檻の中に、ミリィ・ブランシェットはうずくまっていた。 とっくに逃げ出すことは諦めていた。周囲に張り巡らされた凶悪な糸鋸が彼女をここに留めているというよりは、彼女自身、気力を失っていた。
当然の報いだ。そういう思いが湧いてきていた。自分は罰を受けたのだと。
あの怪物たちの襲撃も、自分が屍者になったのも、ここに幽閉されているのも、メイベルの姉にしてしまった過ちも、それに苦しむ自分ですら、全て罪だった。
涙はとうに涸れていた。泣くことすらおこがましい。自分は悪魔に魂を売ったのだから。
〝アネモネ〟の起爆コードを教えてしまった。
苦痛から逃れるためだけに。一時の恐怖から逃れるためだけに。
「聞いているのか、ミリィ・ブランシェット」
降り注いだ無機質な声に、ミリィは顔を上げる。
悪魔――エンダー・ゴートの碧く燃える双眸が、ミリィを見下ろしている。
「ファントムという感染症に聞き覚えがあるのかと聞いている」
ミリィは声を絞り出す。
「……知りません」
「嘘を言ったってすぐにわかるぞ? アンケミア社の機密データの解析がもうじき終わる。貴様の研究内容もすぐに丸裸だ」
ミリィは何も言わず、俯く。
「言えっ!」
瞬間、凄まじい怒号が鼓膜を震わせた。
「ビショップが言っていたファントムとは何だ! 貴様は知っているはずだ、ビショップが誰なのかも、ファントムのことも!」
怒声はミリィの心の殻にひびを入れ、隙間から入り込んでくる。恐怖で吐き気がしてきた。いっそ気を失うことができたのなら、どれほど楽だろうかと考えた。
そのとき、また別の声がした。
「〈デーモン〉……ノエル・ルインが神皇国派を解放しました。じきにこちらにやってきます」
〈リッパー〉と呼ばれていた男――ミリィの周囲に糸を張り巡らせた男、ドレニア・アルクーネがやってきた。
「やっとか。まずは〈マミー〉とお前にやらせる」
「殺すのですか?」
「殺すのは横にいる女だけだ。相棒を喪う苦しみを味わわせなければな」
エンダーは恍惚とした表情で、
「何かを何かを手にすれば何かを喪う。何かを喪えば何かを手にする。全てを奪い、手に入れた者は、結局全てを奪われ、喪うのだ。ノエル・ルイン……お前が俺から全てを奪い、これから俺がそれらを取り戻すように」
呪文のように唱えた。
「……一つよろしいでしょうか?」
「何だ?」
ドレニアが、言った。ミリィが決して暴いてほしくなかった秘密を。
「メイベルというあの少女――姓をシュピーゲルと言うそうです」
「何だと?」
エンダーが驚愕に振り返った。
ミリィの全身が凍りついた。今すぐに死んでしまいたかった。
「まさか、アネモネの妹か――! だが、そんな情報はどこにもなかった……」
「アネモネが隠していた可能性はあります」
「なぜだ……?」
「わかりません」
エンダーはしばし考え込むように黙った。そして、
「可哀想に。相棒はかつて姉を殺し、自分が助けたミリィ・ブランシェットは姉を爆弾に変えたとは……救いがない」
エンダーはミリィに醜悪な嘲笑を向け、さらに続ける。
「やはり、メイベル・シュピーゲルは〈マミー〉にやらせる。感動的じゃないか、かつて姉を蘇らせた者に、妹が命を絶たれるのだ。そして、最期に知るのだ。自分の側にいた相棒こそ、愛する姉を殺した仇なのだと! 自分が助けてやった相手こそ、姉を鋼鉄の中に封じ込めたのだと!」
エンダーは高笑いをしながら部屋を出ていった。
ミリィはこれ以上ない絶望に突き落とされていた。意識すらかすみ、闇に沈み込んでいく。
ドレニアはそんなミリィには目もくれない。端末を操作し、ミリィの目の前で通信を繋げる。
「……はい、メゼンタ――〈エトランジェ〉は上手くやってくれたようです。ミリィ・ブランシェットは記憶を失っています。ええ、そうです。連れ去られた際の記憶です。……はい、誰も〈エトランジェ〉の能力を疑っておりません……」
……記憶?
ミリィはドレニアを見つめる。だが、彼とは一向に目が合わなかった。まるでミリィの存在を忘れているかのように。最初からいないものかのように。
――何か、大事なことを忘れている気がする。
ミリィの中で、気持ちの悪い胸騒ぎが増幅していった。




