第2話 望まれざる返答
前回までのあらすじ: 捜査現場に到着した屍者執行官のメイベルは、今日よりパートナーとなる黒衣の男・ノエルと合流した。しかしメイベルは、ノエルについての情報を一切知らされていない状態で捜査に臨まなければならなかった。
ノエル・ルインと名乗った亡霊のような男を、メイベルは半眼で眺めた。
こいつが自分のパートナーになる。ノエルはそう言った。だが、メイベルからすれば名前と顔を知ったのはたった今、この瞬間だった。
本当にこの男がそうなのか? という疑問があった。ドクターが騙されているのか、それとも自分もまたこの男に嘯かれているのか。
ドクターに何も知らせずにこの男を送り込んだ何者か――あまりに怪しすぎる。一体なんの目的でこの男を遣わせた?
そもそも、ドクターはなぜ何も知らない?
今までも後ろ暗い取引や根回しを行ってきたが、ドクターはいつも類い希なる頭脳で全てを把握していた。〈監視者〉、〈番犬〉、〈覗き魔〉。ドクターの様々な異名は、彼女の覗き嗜好だけでなく、常に盤面を把握し続ける処理能力をも意味していた。
その彼女から「わからない」の一言が出てくるとは、メイベルは思ってもみなかった。
何も言わないメイベルの冷ややかな視線に気づき、ノエルは彼女を見つめ返した。メイベルは、うなじに冷水を垂らされたような感覚に陥った。ノエルの眼には全く力が籠もっていない。深い海の底の色が閉じ込められた硝子玉のようだった。
「……執行官の身分で棺桶車を使うなんてあり得ない。常識的に考えてよ」
メイベルは、今しがたノエルが降りた平べったい車を見やった。屍者専用の移送車は、音もなく発進した。
ノエルが大通りの奥に遠ざかっていく棺桶車を振り返り、すぐにメイベルに視線を戻した。
「なぜだ?」
ノエルはわずかに首を傾げた。
「なぜって……あなた執行官になったんだよ?」
「すまない、俺がこの街に来たのはついさっきだ。だからまだ知らないことが多くある。教えてくれないか、なぜ俺はあの公共交通機関を使ってはならない?」
メイベルは苦々しく、それでいて吐き捨てるように教えてやる。
「執行官は目立った真似をしないの。一般市民の安全のためにね」
ノエルは俯き、しばし沈黙した。メイベルからすれば、なぜそこまで深く考え込む必要があるのかがわからない。それこそ、この街で生まれ、この街で育った彼女と異邦人であるノエルの常識の違いだった。
やがてノエルが顔を上げ、口を開く。
「だが、異貌都市の屍者運用基本法に基づけば、執行官は一般市民を屍者による危害から守るための職業であるはずだ。それに、あの公共交通機関は屍者専用。何も問題はないように思えるが」
メイベルは苛立ちを混ぜて皮肉る。
「この街のみんながみんな、良い人だったらね」
「市民が屍者を破壊するのか?」
ノエルは真面目くさった顔をしている。それが妙に鼻につく。
「いいこと?」
メイベルは聞き分けのない子供に言い聞かせるように三つ指を立ててみせる。
「あなたにはこれから私が言う三つのことを守ってもらう。守れなかった場合にはバスターズ・オフィスから出て行きなさい」
「俺の処遇を決めるのはあんたじゃない。俺のボスだ。そして守れるかどうかは捜査に支障をきたすかどうかによる」
「……一つ目、あなたは屍者である。ゆえに、市民のどんな要求にも応えること。靴を舐めろと言われれば喜んでひざまずき、右の頬を殴られたら喜んで左の頬を差し出しなさい。市民のために身も心も捧げなさい」
「さっそく無理な話だ。そんなことを言っていたら捜査が成り立たない」
「……二つ目、あなたは執行官である。ゆえに、捜査のことだけを考えなさい。余計な口答えは不要。警察の邪魔をせず、ただ役に立つことだけを目標にして」
「一つ目と矛盾している。市民と警察双方に献身しつつ、要求に応えるなど不可能に近い」
「……三つ目! これ以上私を苛立たせないこと! 以上!」
メイベルはものすごい形相のままハンクを振り返る。拍子に赤髪が勢いよく翻る。
「ランドルフ警部補、指示をください!」
今まで黙って静観していた巨漢は気まずげに咳払いをし、
「突入だ。バスターズ・オフィス経由で資料は送られているな? それを参考に対象を確保しろ。エリア内において、骸冑を使用することを許可する」
メイベルは腕に填めた端末を操作し、立体光学映像を起動する。すでにデータは頭に叩き込まれているが、最後の確認のためだった。
そしてドクターに通信を繋げる。
《ドクター。ノエル・ルインと合流したよ。今から作戦を開始する》
《ノエル? ……ああ、彼の名前か》
メイベルはドクターの言葉に呆れそうになった。だが、彼女も何も知らされていなかったのだと思い出した。
《ドクター・ヴィクトリアだな?》
そのとき、二人の通信に割り込む声があった。メイベルはきつくノエルを睨みつけ、ドクターは通信口で息を呑んだ。
《……そっちは件のノエル・ルインだね?》
《ああ。これから突入するのだが……その前に一つ聞いておきたいことがある》
《な、なに?》
《俺は市民と警察、どちらのために働くべきだろうか?》
《……どういう意味?》
《メイベル・シュピーゲルに言われた。だが、双方に尽くすなんてことは、俺には至難の業のように思える》
《ええ、と》
《ノエル、無駄話をしている暇はないわ。突入するからさっさと通信を切って》
《業務を遂行するにあたって必要な手順だ。言質を取らないことには、俺は俺を信用できない》
メイベルは端末を操作した。
強制的に電子干渉が排され、ノエルとドクターが寸断された。
ノエルが無機質な表情でメイベルを睨む。メイベルは彼が怒っているのかと思った。
「なによ。あなたがあなたを信用できるかどうかは問題じゃない。私が、ドクターが、市民や警察があなたを信用するかどうかが問題なの。この街で信用のない屍者なんて生き延びられないわよ」
「自分を信用できているあんたにはわからないだろうな」
ノエルがむすっとした表情で独りごちる。
「自分で自分を信用できない状態が、どれほどの苦痛を伴うかを」
「どういう意味――」
「無駄話をしている暇はないんだろう?」
メイベルは両の拳を握りしめ、怒鳴りつけないように堪える必要があった。ノエルはすでに歩き始めている。なぜか主導権を握られているこの状況とノエルを最大限に呪いながら、規制線をくぐっていった。
細まった小路。警報灯の光さえ入り込めない路地を、二人は進みはじめた。
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「ちょっと、なんであなたが先を行くの?」
ノエルが振り返った。路地の奥をずかずかと突き進むノエルの後ろ姿は、まさに闇夜と同化している。一見すればそこにいるのかすらわからない。
「俺の骸冑について何も聞かされていないのか?」
「知らないわよ。こっちはあなたのボスも知らないし、あなたの名前もさっき初めて知ったんだから」
「なんだと?」
ノエルがわずかに目を見開いた。
「ドクター・ヴィクトリアは何をやっていたんだ? パートナーに何も情報を知らせないなんて」
「あなたのボスとやらの所為でしょうが!」
メイベルの怒りはついに爆発した。対象に気づかれないかという懸念は二の次だった。
ノエルが彼女の剣幕にたじろいだのか、歩みが止まった。
「俺の……ボスが?」
「ええ、そうよ。そんなに言うなら聞きましょう。あなたのボスが誰で、どんな手口でドクターを脅しているのか」
長い間、ノエルの視線が虚空を彷徨った。酒気で酩酊しているかのようなおぼつかない眼差しだった。
「……わからない」
「……はあ?」
メイベルは再び声を上げた。悲鳴に近い甲高い声だった。
「わからない。ボスのことも、何もかも。俺は俺を信用できない」
「意味わかんないわ。ドクターもあなたもどうしてそうなの?」
ノエルは答えない。
「……何か知っていることはないの? 些細なことでいいから」
「俺は、俺の名前と骸冑についてならわかる」
それでも、ノエルの声は今にも消え入りそうなほど小さかった。
「……骸冑について教えて。今は時間がないからそれだけでいい」
メイベルがそう言い終えた瞬間、ノエルの瞳が鋭く輝いた。
気づけば、メイベルはアスファルトの上を派手に転がっていた。
理解するのに時間を要した。ノエルに突き飛ばされた。目にも留まらぬ速さで。
メイベルは打ちつけた身体の節々をさすりながら素早く立ち上がる。
「ちょっと、何するの――!」
「お出ましだ」
ノエルが厳かに言った。彼は腰を低く下げ、膝を曲げていた。
臨戦態勢。彼の向く先には、頭上から奇襲を仕掛けてきた何者かが立っている。
「ジョージ・ダンヴィルだな?」
捜査・執行の対象者の名前を呼んだ。
ダンヴィルが無言で何かを構えた。鈍い光を放つそれは、ナイフだった。だが、包丁ほどの大きさもなかった。両手の指の間に四本ずつ、計八本の刃を挟み、その切っ先を二人に向ける。
「お喋りが多いんだよ。執行官殿」
低い獣のような声で、ダンヴィルはせせら笑う。
「俺が一瞬で黙らせてやっからよぉ、動かないでもらえるか。でないと、長く苦しむことになるぜ――」
メイベルが骸冑を形成しはじめた瞬間、ノエルとダンヴィルが動きだしていた。