第17話 痛みの紡ぎ手
前回までのあらすじ: ビショップと帝国の対話が合意に至ろうとしたとき、現れたのはノエルを憎悪する男・エンダーと、隻眼の糸使い・ドレニアだった。エンダーは爆弾「アネモネ」起爆の鍵となるミリィ・ブランシェットの強奪を宣言した。ノエルたちとかつてない強敵との戦いが始まり、異貌都市の悲劇の盤面は終局へと加速を始める!
ドレニアが廊下へと出てくる。
彼の周囲が光り輝く。恐るべき本数の糸鋸が、血に飢えていた。
ノエルは後退しながら、隙を窺う。無闇に突っ込もうものなら、八つ裂きの肉片に生まれ変わるのがおちだ。
「ノエル、時間がないぞ?」
エンダーが愉快そうに声を飛ばしてくる。
メイベルが腕を構えた。青白い閃光が廊下に浮かび上がる。
「死に至るほどの至高の電撃を、俺にくれ!」
ドレニアが叫ぶ。隻眼が見開かれている。正常には見えなかった。
メイベルが電撃を放った。瞬間、ほぼ同時にドレニアが右手を振るう。
極細の糸が躍動し、のたうち、輝いた。鮮烈な火花が散った。
廊下を縦横無尽に駆け巡った銀糸に、高圧の電流が絡みついたのだ。ドレニアの許に雷は届かなかった。つまり、伝導体である糸が避雷針の役割を果たし、メイベルの攻撃を逸らしたのだ。
そして、ドレニアには二発目が残っていた。左手の糸が、空間に微かな輝きを放つ。
「おい、なんだこれは!」
他の護衛たちがようやく異変に気づき、走ってくる。気づくのが遅くないかとノエルは疑問に思いながら、声を張り上げる。
「来るな!」
「――哀しみのない死をっ!」
ドレニアが吠えながら左手を振り下ろした。
ノエルとメイベルはそれぞれ反対方向へと跳ぶ。直後、彼らがいた場所に糸が叩きつけられた。風が裂かれ、床が無数の裂傷を負う。
そして、護衛の腕や耳、首、脚が刻まれる。
あまりに鮮やかな切り口ゆえに、痛みがなかったのだろう。ビショップについていた護衛たちも、ミナルト・ズズィについていた護衛たちも、等しく床に転がされた。
突然の出来事に理解が追いつかないが、すぐさま立つことができなくなくなっていることに気づく。腕が、脚が床に落ちているのを見る。耐えきれなくなった者から絶叫が始まる。芋虫よろしくのたうつ様は、見るに堪えない。流血の海が広がっていった。
だが、ノエルもメイベルも苦しむ彼らにかまけてはいなかった。それぞれがすでに仕掛けていた。
ノエルが壁を蹴るようにして走り、張り巡らされた糸をくぐり抜ける。刀を繰り出しにいく。
ドレニアが右手を掲げる。ノエルの繰り出した突きが、あろうことか虚空に受け止められた。
ノエルが驚愕に目を見開いた。そこにも透明な糸が存在していた。無数の糸はまるで縫い物のように編み込まれ、流体刀すらも通さない強度を持つ布になっていた。ノエルの刃は、布の表面で止まっていた。
この糸の盾を瞬時に生み出したドレニアに愕然とした。
メイベルは脚を骸冑で覆っていた。左脚を軸に、強烈な蹴りを繰り出す――壁に向かって。轟音と共に削り取られた壁の破片が、豪速でドレニアの許へ駆け抜ける。
だが、またしても盾に食い止められた。そして、それだけではなかった。無数の礫は、ゆっくりとメイベルとドレニアの間の空中に静止したかと思うと、送り主へとはね返された。
メイベルが咄嗟に腕を前に出す。自分を守るための反射的な動きだった。ほぼ同時に凶悪な弾丸の数々が到達し、メイベルの腕を破砕しにかかった。金属の削れる無惨な音が鳴り響いた。
メイベルは勢いのまま後方へと吹き飛ぶ。そして、ノエルは刀を受け止められ、すぐさま回避に移ろうとしている。
ドレニアが逃すはずもなく、さらなる糸を両手の平から吐き出した。ノエルの身体に絡みつき、退路を断つ。
「叫びたくなるほどの、死を!」
ドレニアが手を引くと、ノエルの胴体に糸が食い込んだ。鎧を突き破らんとする勢いだった。
ノエルがすぐさま手で糸に触れた。すると、糸は煙を上げて揺るみ始める。ドレニアの骸冑で生成された糸が、粒子にまで分解されていく。
ドレニアがノエルの骸冑を理解する前に、ノエルが速攻をかける。自由となった身で、刃を水平に繰り出す。
ドレニアが身体をよじる。それでも、右手の五指が切り飛ばされた。
だが、片方の手は健在だ。ノエルが追撃に上から振り下ろす刃は、火花を散らして糸に受け止められる。
ドレニアがノエルの腹に蹴りを見舞うと同時に、自身も背後へ後退する。
ノエルは、受身を取ってすぐさま跳ね起きる。同じく回廊にまで吹き飛ばされていたメイベルの身体を起こす。腹部や脇腹から出血していた。瓦礫の破片の直撃を免れていなかった。意識が朦朧としているようで、掠れた呼吸の音だけが聞こえる。
ノエルは猛烈な思考を巡らせる。このままドレニアと交戦を続けるべきではなかった。歯が立たないし、メイベルも動けずにいる。バスターズ・オフィスのドクターとミリィを守らなければ。だが、一方で、ここにはビショップとミナルト・ズズィがいる。
そもそもビショップたちはまだ無事でいるのか――?
(――亡霊たれ、ノエル・ルイン。亡霊としての責務を果たすのだ)
その声が、ノエルの内側で虚ろに木霊した。
●
死体が横たわっている。
血液が、首の断面から滾々と溢れている。離れた位置に頭部が転がっている。驚愕と絶望に見開かれた目。しかし光を失っていて、何も語ろうとしない。
ビショップはミナルト・ズズィの死骸から、エンダー・ゴートへと視線を移す。
ビショップは今、椅子に座り直していた。
「ずいぶんと落ち着いておられるな、円卓軍最高司令官殿?」
エンダーの凄絶な笑みに、ビショップが苦笑を返す。
「今さらこれしきのことで感情を表に出すのも馬鹿らしいよ。それで? なぜ私は今も生きていられるのかな?」
「あんたを殺したところで俺たちに利点がないからだ」
「そのようだね。どうやら帝国派を殺し、帝国派を焚きつけている張本人こそ、帝国派であるという私の予想は正しかったみたいだね」
「それは少し違うな」
エンダーが語気を強める。
「俺は帝国を真に愛している。そこらの有象無象と一緒にされては困る」
「愛国心というのは、人を喜んで殺し、つまらないことのために死ぬことを言うんだよ」
ビショップは諭すような口調になる。慈母のような眼差しでエンダーを見ている。
「まったくもって君のことだよ。復讐という、古今東西で最も凡庸な原動力を駆使することでしか、自分を表現できない君にぴったりな言葉だ」
「……何だと」
エンダーの白磁の額に深い皺が刻まれた。
「ノエル・ルインを殺せば、改めて自分の人生を始められると思い込んでいるんだろう。でも、復讐というのはただの自己満足だ。相手の苦しむ顔を拝み、その命を奪えたからといって何かが変わるわけでもない」
エンダーは二の句を告げられずに固まっていた。ビショップはそんな彼の様子を観察しながら続ける。
「復讐は救いではないんだよ。むしろ悪夢の始まりだ。君がノエルを殺したとき、君はノエルの代わりを――亡霊を求めて彷徨うようになるだろうね。自分の人生が何も変わらないことに絶望しながら」
「この場で俺を否定する勇気があることだけは認めてやろう」
エンダーは鼻で笑った。いつの間にか存在している鈍色の両手を広げ、大げさに室内を歩いてみせる。
「だが、残念ながら俺の勝ちだ、ビショップ。貴様の計画はとうに挫かれている。マディソン・モートに起こさせた、屍者連続破壊事件。アンケミア社での殺戮劇。そして、今回の会談の襲撃で、帝国本土の使者、ミナルト・ズズィが殺された」
「帝国派が沸騰するには充分だということかい?」
「充分だろう? それに、これまでの事件は全て、帝国派の暴走を正当化するための理由付けに過ぎない」
「異貌都市から神皇国を追い出すための、か」
エンダーの笑みが濃くなる。
「それもあるが、本筋ではない。俺たちはある組織と契約し、帝国を救済することにしたのだ。全ては帝国を救うためだと言える」
「何となくわかったよ。君たちが何をしたいのか、ね。それが達成されることはないんだけどね」
「強がらなくていいぞ」
「ファントム」
ビショップもまた笑みを返す。
「君の体内には、そう呼ばれる感染症が蔓延っている。君だけじゃない。君の仲間にも、君を通して感染しているはずだ」
エンダーの瞳が一瞬揺らぐ。だが、すぐに平静を取り戻す。
「はったりだな。……そろそろ時間が近づいてきている。ミリィ・ブランシェットを手に入れ、俺たちはアネモネを掌握。異貌都市に新たな秩序を打ち立てることになる」
「私は殺さないのかい」
「この場ではミナルト・ズズィが殺されることが重要なのだ。帝国の重臣だけがな。ただし、お前も自分の先が長くないと、わかっているだろう?」
エンダーが踵を返し、部屋から出て行く。ビショップは彼の後ろ姿を見送った。影も完全に消えると、優雅に端末を操作し出す。
もはやミナルト・ズズィの死体には目もくれない。まるで忘れているかのように。
●
ドレニアが飛翔する。
強靱な糸を天井に伸ばし、自ら宙へと飛び上がった。かと思えば、身体は空中で動かなくなる。何もない空間に直立していた。
まるで曲芸師のように、極細の糸の上に立っているのだ。
ノエルが刀を振ると同時に柄から流体鋼を切り離し、刃を発射した。ドレニアが再度跳躍し、楽々と別の糸に移った。
そして左手に繋がれた糸を、眼下に向かって放つ。
ノエルは力を失ったメイベルを担ぎ上げ、すぐさま疾走。
風が鳴り渡る。かすかに煌めいて見える糸の軌道を見極める。回廊の柱や椅子が次々に切断されていくのを横目に、ノエルは思考を巡らせていた。
「……ノエル」
メイベルが肩で呟いた。薄く目を開いていた。
「起きていたのか」
「これも作戦よ」
「何かあるのか?」
「いいからこのまま逃げ回ってなさい。できるだけドレニアの近くで」
ノエルはメイベルを信じることにする。すべきことは変わらなかった。
「逃げ回るだけか! もっと死を近くに! 死を感じさせてくれ!」
ドレニアの狂気の叫び。ノエルは糸の挟撃を躱しながら、ドレニアの許へ近づいていく。
頭上の高みで、ドレニアが糸を操っている。まるで浮かびながら踊っているかのようだ。煌めく糸の軌跡が後光のようで、神々しささえ感じさせた。
「行くわよ。私が仕掛けたら、この機を絶対に逃さないように」
「了解した」
ドレニアの糸が耳元で鳴り立てる。
「今――」
ノエルの背で、メイベルが両腕を頭上に掲げる。
青い光が膨れ上がった。
放たれた雷撃が、ドレニアの許へと向かう。周囲を駆け抜ける糸に軌道を逸らされながらも、枝分かれした雷光がドレニアに向かう。
ドレニアが跳んだ。半ば身を投げ出す形で。その瞬間、ノエルが再び流体刀を閃かせる。放たれた刃の弾丸が、空中の獲物に向かって突き進む。
ドレニアが身体を捻る。糸を壁に発射し、落下の向きを変える。刃がすんでのところで回避された。ドレニアは壁へ向かって急速に移動。
その下で、メイベルが動いている。ノエルの背中から飛び降り、両脚を骸冑で覆う。赤い光を残しながら、疾駆する。ドレニアが着地する壁の一点だけを目指して。
ドレニアが壁に脚を着けるよりも一瞬早く、メイベルは膂力で跳び上がっている。
さしものドレニアも、動けない。着地の瞬間だけは、周囲の状況の把握と行動の開始に時間を取られる。全ての動きの間隙を、メイベルが狙っていた。
メイベルの鉄拳が、空中でドレニアの腹をぶち抜いた。
どん、という鈍い音が響いた。それはドレニアの腹が穿たれる音であり、壁にメイベルの拳が食い込む音でもあった。
ドレニアが姿勢を崩して床へ落下。メイベルもそれを追うように失墜。ノエルが走り出す。
メイベルが拳を繰り出す寸前、ドレニアが蹴りを入れながら床を這う。メイベルの拳が捉えられずに宙を殴り、彼女の身体が吹き飛ばされた。
そうしながら、ドレニアは走ってくるノエルの姿にも気づいていた。咳き込み、血を吐き出しながら糸を放った。
ノエルが構わずに突進。全ての行動が惜しい。この機を逃すな――メイベルのその言葉にのみ身を委ねた。
ノエルが鋼の波濤を放つ。鋼鉄が固まりながら、鈍色の大群となり、ドレニアに殺到。
ドレニアの残された隻眼に鋼が突き立った。
と、同時に、ノエルから右腕の感覚が消えた。
ドレニアは盲目となりながら、それでも身をよじって立ち上がる。そして、眼帯を外した。
「なっ――」
メイベルがドレニアを追うが、彼は周囲の様子を把握し、すぐさま空中へと逃れる。右手で糸を張り巡らせ、再び宙に直立してみせた。
「至上の死に感謝!」
ドレニアが吠える。メイベルが再び電撃を放とうとする。しかし、ドレニアは再び跳躍し、そこにあった窓に身体をぶつける。
硝子が破砕され、ドレニアが建物の外へ飛び出していった。
「――ノエル?」
メイベルが振り返り、ノエルの有り様に気づいた。
右腕が消失し、どくどくと赤い液体が流れ出している。
傷だらけの床の上に、血溜まりをつくる右腕が、刀の柄を握ったまま転がっていた。
それでも、ノエルは平然とこちらに歩いてくる。
「ノエル――」
「大丈夫だ。痛みはない。切り方が綺麗で、速かったおかげだ――」
言い終える寸前、ノエルが膝をつく。
「毒……?」
ノエルが呻く。口から血が溢れかえり、顎を伝った。
メイベルが駆け寄った。だが、どうすればいいかわからなかった。
「運良く生き残ったようだな、ノエル」
そんな二人に、かけられる声があった。
二人が顔を上げる。遠くにエンダーが立っていた。
彼の傍らには、巨大な鳥が――蝶の顔と翼を持った繊維生物がいた。
「先ほど、俺たちはミリィ・ブランシェットを手に入れた。異貌都市の悲劇もフィナーレだ。残りの時間を、せいぜい仲良くな」
エンダーは怪物の背に乗った。怪物が翼をはためかせ、浮かび上がる。
そして、ノエルたちの頭上を通過し、割れた窓から飛び出していった。
「ミリィ……」
メイベルが呆然と呟く。様々な感情がないまぜになり、渦巻いていた。それをどうすればいいのか、わからなかった。
その彼女の腕の中で、ノエルがゆっくりと目を瞑った。




