吾輩は『ねこ』なのである。 9
あの猫を見て以降、吾輩の頭の中は主とオナゴの間に、あの猫も入り込んできてしまっていた。
随分とべっぴんな猫だったのだ。吾輩の隣にあの猫が座ってくれると、どれだけ吾輩の余生も有意義に過ごせるだろうか。そんな事を毎時思うようになってしまった。
あの時は敵意を見せないように―――というのは建前だが―――半ば本能も含めて窓辺に顎を摺り寄せていた。あの行動が、あの猫にとっては拒否反応だったのかもしれない。
ああ・・・
今、あの猫はどこにいるのだろうか。
そこまで考えてしまうと、途端に我に返るように自責の念に駆られる。
吾輩には、主という絶対的な存在がいるのだ。
その主が戻ってくると信じている。期限を決めてしまったが、それでも、その期限までは吾輩は主のもとへ戻りたいのだ。
それなのに、何故、あのメス猫の事を考えてしまうのだ。
邪念を棄てろ。棄てるのだ。
頭をブルブルと振り回し、必死になってあのメス猫の事を思わないようにする。が、知らぬうちに吾輩の脳裏からひっそり、そしてゆっくりと大きくなっていくのだ。
こんな感覚は、吾輩は初めてだ。主にも、オナゴにも感じたことのない変な感情に、戸惑いを隠しきれない。
そうだ、と吾輩は揃えていた足をゆっくりと動かし始めた。
舎弟よ。いったい何処にいるのだ。
家中をくまなく探し回ると、舎弟はこの家にあったキャットタワーのてっぺんで寝息をたてているようだった。それを確認するや、下からゆっくりと上がり、舎弟の体のすぐそばで前足を付けると、見せている横腹に舌を這わせた。
舎弟よ。起きろ。
吾輩と遊ぶのだ。
吾輩は今、謎めいた感情から逃げているのだ。親方が困っていたら相手をするのが舎弟の役目だろう。お前も、上下関係をまるで無視するように遊びに誘っておったではないか。今度は吾輩の誘いに応える番だぞ。
しかし、どれだけ策を弄しても舎弟はピクリとも動いてはくれなかった。
「仲良しさんね」
その代わり、側から聞こえてきたのはオババの声だった。そちらに視線を向けると、白い湯気が上っている飲み入れを口に付けながら、ズズズと音を立てている。
それを口から離すと、再び吾輩と目が合い、口角を上げている。
「どうしたの?」
鼻先をぺろりと舐めると、オババは小さく息を吐きながら吾輩の動きを観察しているような、じっと見つめるその姿に、一抹の希望と不安を抱いた。
舎弟ではダメだ。
仕方がない、オババに相手をしてもらうか。
下に二段あるキャットタワーを使わずに飛び降りると、オババの元へ歩み、鼻先を近づけた。
「遊んで欲しいのかい?」
オババの五本指の内の一本が吾輩の鼻先をくすぐる。オババよ。吾輩は特に警戒などはしておらぬ。それよりも、早く吾輩と遊ぶのだ。
でなければ、吾輩の頭はあのメス猫の事ばかりで気が狂いそうなのだ。
さあ、遊べ。
なんなら、飯でもかまわぬぞ。
「あらぁ、大変ねぇ」
しかし、オババは吾輩の頭を心あらずな手つきで撫でながら、我輩に後頭部を向けて何か呟いていた。
そこには、何やら電磁波を送っているような箱に男の顔が一つ。何かブツブツと言っているが、その相手は吾輩でもオババでも無さそうだった。
主やオナゴも似たような物を見ている事が多々あったが、あの男は誰に語りかけているのかさっぱりだ。
「あらあら、怖いじゃないの」
オババは、変わらず吾輩の頭をわしゃわしゃと撫でてきている。オババよ。そんな乱暴な扱いなら吾輩はもう行くぞ。
オババの気は既に目の前の男の方に集中していた。なるほど。舎弟も一度は相手をお願いしたのだが、そうさせてくれないから不貞腐れたということか。
あんな高いところで寝息を立てている理由がようやく理解できたぞ。
ならば、吾輩も別の部屋でのんびり過ごすとしよう。
そう思いながら、のそのそと歩いて行った先は、あのメス猫が姿を現した窓だった。
ふむ・・・
今日は来てはおらんな。随分と優雅に現れた記憶だが、あのメス猫。なんとか接触することは出来ないだろうか。
主が戻ってこないのであれば、吾輩はここで住む事になるだろう。そうなったら、吾輩が嫌いなあの男とも過ごさなければならない時間が出来るだろう。もしそうなってしまったら、吾輩の精神はみるみると削ぎ落とされてしまう。
そんな心の在りどころに、あのメス猫にはなってもらいたい。
そのためには、今からアプローチせねばなるまいて。
・・・主よ。戻ってくるのだ。
戻ってこなければ、吾輩はそのメス猫の方にうつつを抜かしてしまうぞ。
自身の中でワクワクとドキドキが入り混じっている。もう十分大人となったのに、なんとも拙い気持ちの昂ぶりかと思うだろう。
だが、陽差しがゆっくりと吾輩の全身を温めているせいもあってか、心の余裕が、あのメス猫に出会ってから桁違いの変わりようになっていたのだ。
無論、主が我輩を迎えに戻ってきたのであれば、吾輩は主に付き従うまで。
主が住んでいた家からここまでも、さほど距離などありはしない。よもや、あのメス猫と再び、向こうの家で出会う可能性もゼロではない。
もし、あのメス猫が向こうの家の近くで姿を現したら、吾輩が手厚く迎え入れれば良いだけの事だ。
そうだ。
吾輩の計画は完璧なのだ。
唯一の懸念点は、舎弟とは毎日会えなくなってしまうことくらいだろう。
だが、まだまだ舎弟は子供。吾輩のようにどっしりと構えられるような存在になるには、まだまだ青い。
「ただいまー」
オナゴの声がしたと思えば、吾輩の姿に気づく。
「また日向ぽっこ?」
オナゴの声が少し明るい。ようやく元気になってきたのか?
さすがは吾輩だ。オナゴの元気を取り戻すのは吾輩の務めなのだ。主がいない時のオナゴの相手は吾輩だと、あの家に来た時からずっとそうだったのだ。
「遊ぼっか!」
オナゴの声が更に明るくなった。またあの甲高い声を聞くのにも、そう時間はかからないやもしれんな。
嬉しいような、それでも、少し地獄なような。なんとも複雑な気分だ。
足元を見る。眠気が強くなってくる。まぶたも重たくなってきた。
ゆっくりゆっくりと目を閉じ始めていると、その視界に別の影が現れた。
吾輩でも無ければ、舎弟のものでもない。オナゴやオババのような人間の影ほど大きくもない。そんな影が、窓の方から伸びていた。
寝転ぶまで時間の問題だと思っていた体の重さを堪えながら、ゆっくりとその姿を確認すると、例のメス猫の姿がそこにはあった。
まさか、吾輩の気配を感じて、ここに―――
「おまたせー」
ごめんね、とオナゴが意気揚々と姿を現したのは、それから間もなくのことだった。
「猫じゃらしが何処にいったのかわからなくなっちゃってさ」
ウキウキとした言葉弾みで我輩に近づいてきていたが、吾輩の鼻先は既にメス猫の目の前まで来ていた。
眠気なぞ、とうに消えてなくなっていた。
「どうし・・・あ、リリーちゃんじゃない」
吾輩の動きが気になったのか、オナゴは窓の外を確認すると、そう言いながら吾輩の隣で膝を落とした。
直後、閉めていた窓がゆっくりと開き、メス猫がチャンスとばかりに入り込んでくる。
「ちょっとまって、足の裏拭かせて」
再び立ち上がっては、足音を大きくさせて部屋をあとにする。まったく、元気になったのは良いのだが、いつものせわしないオナゴに逆戻りか。
まったく、困ったオナゴだ。
だが、やはり・・・それがいい。
そんなオナゴの後ろ姿を喜びも含めた視線で見送ると、メス猫は間に入るように視界に入っては鼻先を近づけてきた。少々驚きの姿を見せてしまったが、すぐに我に返る吾輩はお返しとばかりに鼻先をくっつけて挨拶を交わす。
お前は、名はなんと言うのだ?
お前は、普段はどこにおるのだ?
「おまたせ」
吾輩の問いかけに返してきたのはオナゴの方。急ぐようにメス猫の側で座り、足の裏を拭いている顔から、一筋の雫が頬を伝っては落ちた。
オナゴよ、泣いているのか?
今もなお元気な口調で接しているではないか。
無理はしてはおらんか?
無理は体に良くないぞ。
「はい、おまたせ」
オナゴはゆっくりと立ち上がり、向こうの方へ持ってきた雑巾を片手に隠れていった。
その後ろをメス猫が追い、その更に後ろを吾輩が追う。
メス猫よ。少し吾輩と時間を取らぬか?
おかしいのだ。吾輩は今までどおり過ごしているはずなのに、何故かおまえの事を考えてしまうのだ。
どうすればいいか、お前はわかるか?
しかし、メス猫は振り向きもせず止まりもしないままオババの方へ歩いていく。
「あら、リリーちゃん。また来たの?」
「そう、猫じゃらし取りに来て、あっちに行ったらいてた」
「また。お隣さんが心配するから、あんまり来たらダメでしょう」
オババがメス猫の相手をしている。オナゴは、飯のいい匂いが漂う場所で作業に勤しんでいる。二人共、吾輩の存在は確認できているのか不安になる。
舎弟は・・・
さっきまでいた場所に目を向けると、舎弟は同じ場所から我輩を見下ろしていた。
なんだ?
吾輩と遊びたいのか?
随分と羨ましそうな目をこちらに向けるではないか。わかっているぞ。吾輩と遊びたいという目をしておる。
仕方がない。遊んでやろうではないか。
吾輩はキャットタワーを一段ずつ上ると、舎弟は横腹を見せながら目を開けつつも動かなくなった。
・・・やれやれ。
舎弟が寂しそうに見ていたから相手をしてやろうと上ったのに、グルーミングをしろというのか。
仕方がない。吾輩も決して、この状況に寂しさを感じたわけではないが、そこまでされたらやらざるを得ん。
寂しくはないが、おまえの相手をしてやろうではないか。
ゆっくりと舎弟の毛質を舌で感じながら、吾輩は最後の最後まで舎弟の世話をするのだった。
次回公開は、21日0時になります。