吾輩は『ねこ』なのである。 4
昨晩、あの喧嘩が終わった頃、オナゴのすすり泣く声が吾輩の耳に届いた。一枚壁があるという違う部屋なのに。この壁は、本当に役に立っているのか疑いたくなる。
試しに、壁に手をかけて爪を立ててみた。ガリガリと削れていく様は見て取れるのだが、なかなか向こうの部屋には繋がらない。これは、隣の部屋に通ずるより先に、主かオナゴ、どちらかから制止がかかるやもしれんな。
「おはよう」
主はいない。
オナゴは、何か粧しているのか。これをしている時は共通して外出する事は予想できる。
そうか、吾輩の飯を買ってくるのだな。そのついでに、オナゴ達の食物も買ってくるのだろう。吾輩と比べて、オナゴ達が食べる物は桁違いに多いのが気に障るが、毎日あのマグロの芳しい香りを少しでも多く堪能させてくれれば許してやっている。吾輩は温厚な『ねこ』だ。このような事では怒りなぞせん。
オナゴよ。あの噛むたびに良い音を鳴らす飯を、今日は一粒追加しておけ。
「よっし! 行こっか」
強く息を吐きながらオナゴは椅子から立ち上がった。一昨日の晩もそうであったが、オナゴは何故、あの時の暗い雰囲気、怒りのオーラを身に纏っていたのに、今ではケロッとしているのだろうか。怒りの対象が今目の前にいないからなのか。それとも、吾輩のおかげか?
まったく。吾輩がいなければオナゴも苦労するとて。いつでも吾輩はついていくぞ。
もっとも、あの甲高い声だけは直してくれんと困るがな。
吾輩の尻尾も、今日は先までピンと上を向いている。鼻歌をゆっくりと唄いながらオナゴの足元をついていくと、台所に入ったオナゴは、吾輩の飯が入った戸棚をゆっくりと開けた。
「喉鳴らしてるの?」
喉ではない。鼻歌だ。オナゴが今は元気である事に、なけなしではあるが安心感が芽生えておるのだ。それも気づかないのか。
本当に、本当に困ったオナゴだ。
「ちょっと待ってね。ご飯用意するから」
そう言いながら、オナゴも小さな声で何かを喋り続けている。吾輩にはよくわからない。話しかけられてる訳でも無さそうだ。ま、良いだろう。
頭を撫で、その手が吾輩の頬を撫でたと思ったら、顎につま先を立てられる。あぁ、堪らんぞ、オナゴのそのマッサージは。
そう思っている内に、吾輩のご飯の準備が整ったようだ。盛り付けた皿をゆっくりと、飯をかっ食らう場所まで移動し、それをゆっくりと足元に置いた刹那、吾輩は鼻先を盛り付けた飯に埋めながらガツガツと頬張った。
「今日でこの家ともお別れだからね。いっぱい食べないとダメだよ」
頭のずっと上からオナゴの声がしたが、よくわからないまま胃に流し込んだ。
食った。
オナゴの出す飯は最高だ。
「さぁさぁ、それじゃあ行こうか」
ゆっくりと顔を洗いながらオナゴの声色の調子を窺う。やはり、昨晩のような物は無さそうだ。
まったく、オナゴの考えていることはよくわからぬ―――
しかし、一旦姿が消えたオナゴが再び姿を現したときに持っていたのは、我輩を病院へ連れて行く時によく手にしているかばんだった。
それを見た瞬間、背筋の寒気とともに、オナゴが近づけない場所を探しながら逃げ始める。
リビングの隣にある和室。そこのキャットタワーのてっぺんまで登れば・・・
無い!?
キャットタワーが・・・無いぞ!?
「つかまえた!」
そう思っていたのも束の間、オナゴの両手が吾輩の脇腹を挟むように持ち上げ、かばんの中に押し込もうとし始めていた。必死に叫び、時に牙も向けたが、オナゴには通用していない。喉が壊れるような焼ける声を出したが、オナゴは口を尖らせているだけで全く聞く耳を持ってくれなかった。
おい、オナゴ。
キャットタワーはどうした? 病院へ行くのか? 吾輩は言うまでもなく、元気なのだぞ? また、あの先の尖った物を吾輩の体に刺す無礼者のもとへ行くのか? そんなもの、吾輩は許可してはおらんぞ。
出せ!
ここから出すのだ!
「そんなにウナウナ鳴かないの。大移動はしないし、病院にも行かないから安心して!」
足元がふわりと浮き、外の景色が横へ移動し始める。廊下を伝って、オナゴがもう一つ大きなかばんを引きずり始める。肩の力が少しずつ強くなってくる中、陽の光が顔全体に浴びた。
オナゴよ。聞いておるのか。あの場所へは行きたくないと申しておるのだ。
「またウナウナ鳴いて。大丈夫だってば」
その言葉を最後に、オナゴは何も話さなくなった。何度も何度もオナゴに語りかけているのに、ちっとも聞いてくれない。今までは『困ったオナゴ』だと思っていたが、次第に『どうしようもないオナゴ』へと吾輩の評価は変わりつつあった。
ただ、一つ幸いだったのは、あの無礼者の元へ向かっていないという事だけは、外の景色を見て感づくことができた。
次回公開は11日0時になります。