吾輩は『ねこ』なのである。 3
夜になっても、主はなかなか帰ってこない。
周りの電気も点けず、リビングの電気だけが寂しく光っている下で、オナゴは両肘を付けていた。
両手を絡ませ、大きく深呼吸しているようにも見える。
オナゴよ。何を考えておるのだ。
まさか、吾輩のご飯の事か?
まさか、明日はご飯が無いから我慢して、とでも言いたいのか?
それとも・・・主のことか?
周囲を見渡す。壁にかけられた、12個の数字が書かれた円盤を眺めると、そこから小さな鐘が鳴った。
今では聴き慣れた音だ。この形なら、おそらく音は8回くらい鳴るのだろう?
5回目、6回目、7回目、8回目―――
9回目、10回目、11回目―――
そこで止まった。
随分と数が多かったな。だが、オナゴはこの円盤に一度も触れていない。
吾輩は、円盤を真上に見上げながら小さく鳴いた。
「ただいま」
ようやく主の声が聞こえた。だが、オナゴはその声を聞いても動こうとしない。この時、吾輩の中で少しずつ黒いものが滾ってきていた。
リビングまでやってきた主の足元に近づくと、軽く頭をわしゃわしゃしてくれただけで、それからはどれだけおねだりしても応えてはくれない。
「電気ぐらい点けろよ」
暗いところでウジウジと、と主が怒りと呆れを混在させた声でオナゴに投げつけると、オナゴはゆっくりと立ち上がり、寝室の方へ姿を消した。
どうしたというのだ。
吾輩が、何か気に障ることをしただろうか。
オナゴには冷たくあしらう事はあったが、今日一日だけに関しては思い当たる節はない。
「・・・・・・」
主も主で・・・
今日もいつもの臭いがするな。
そうだ。
そういえば、そうだ。
主の体から、このような臭いがし始めてから、オナゴの気分はみるみる下降線を辿っていったのだ。たしか、昨晩もそうだった。その前も、その前の前も、その前の前の前の前も・・・
「ん?」
主のいる部屋には電気が灯っているからわかりやすい。
いつも以上に色が濃くなってはおらんか。
おまけに、今日は違う何かの臭いがする。臭いというより、甘い臭い。
「おかえり」
主の表情を伺っている横から、オナゴの声がした。
今度はオナゴの方に近づくと、光を失ったような瞳をしている。オナゴは、吾輩の顎を三本の指先でゆっくりと撫でてくれた。
ほんの少しだけ―――
「飯、いらねえから」
「知ってる」
「知ってる・・・?」
「ご飯いらないのくらい、知ってる」
二人のやり取りが始まったが、吾輩には何のことかサッパリだ。さっき吾輩の飯を喰らったばかりだが、ご飯という言葉を聞くと反応してしまった。
オナゴよ。吾輩にご飯をくれると言うのであらば、喜んで頬張ってやるぞ。
などと、普段ならそう思いながらも思い通りにならないのが日常なのだが、今の空気は吾輩の思いも余所余所しくなってしまうほどの空気感に胃が締まる。
「毎日毎日毎日毎日。ご飯いらないって言われたら、作る気も無くなる」
「・・・・・・」
オナゴの放つオーラが変わった。
「もう作らない。世話もしない。その証明書」
バン、とオナゴの手に持っていた一枚のヒラヒラしていたものを机に叩きつけた。主は、目を丸くしながら、白い服のボタンを外しつつ、その紙に目を向ける。
「離婚・・・届・・・?」
何の話をしているのか、何故吾輩にはわからないのか。
おい、主よ、オナゴよ。
吾輩はここにいるぞ。
何故、我輩を無視するように二人で睨みつけているのだ。
「おい、待てよ。離婚って、そんな大袈裟な」
「良いから書いて」
「いや、待て待て。ちょっと話し合おう。ちょうど明日行けば会社も休みだしさ」
「休み? 休みの日に家にいてた事何日あった? 仕事の日は今日くらいまで飲み潰れて、休みの日になったらパチンコパチンコ麻雀パチンコ・・・」
「飲み潰れてって、一回も飲み潰れたこと無いだろう」
「飲んで帰ってきてるのは一緒でしょ!?」
「飲んで帰ってきてるっていうのは認めるが、潰れた事は無いっつってんだ!!」
・・・
・・・・・・
・・・・・・・・・
たしか、昨日の夜もお互いにこれ程の声量でぶつけ合いをしていたな。
吾輩には、どちらが悪いかはわからない。
これが、人間と『ねこ』との違いなのだろう。
だんだんと吾輩が嫌いな、オナゴの甲高い声に変わってきた所で、いつもの塒のある部屋へ向かった。
いつもは、吾輩の尻尾は大きく上を向いているのに、今はどれだけ力を絞っても背中以上に先が上がることはなかった。
オナゴが買って来た吾輩の家にこもり、横腹をつける。
「いい加減にしてよ!」
「あぶね!」
ガシャーンッ―――
もう、吾輩の力ではどうする事も出来なさそうだ。
これから一体どうなるのだろうか。
吾輩は、自分の右腕に顎を乗せて、心が蝕まれていくのを必死に抗おうとしていた。
耳を塞げるのなら塞ぎたい。
それが出来ないなら、極力・・・
次回公開は9日0時になります。