吾輩は『ねこ』なのである。 16
あれからは、オナゴの声が元に戻った以外には大きな出来事は無かった。あのメス猫は姿を現さず、舎弟も自分の世界に没頭しており、そして吾輩も、特に何か行動を起こそうともせず時間だけが過ぎてていった。
そして、その日を終えた翌朝、オナゴの動きは妙にいそいそしかった。
普段通り、なのかもしれぬが。今までのオナゴに吾輩が見慣れてしまっていたからか、一歩また一歩と進む足の動きが、やけに軽快なのだ。
不思議だ。
オナゴの動く足の下をついていくように進む。オナゴの髪が大きく揺れている。
「今日、アイツの鼻っ柱、思いっきりへし折ってやるんだから」
ふふん、と鼻息を一度だけ荒くさせて続ける。
「今まで散々私がやられっ放しだったから。一度くらいは、土下座するアイツの後頭部踏みつけるくらいの仕返しはしたいし」
足音も聞こえてくる程の軽快さだ。オナゴよ。少々意気揚々が過ぎるのではないか。どんな嬉しい事があったのかはわからぬが、それを共有出来ない吾輩は、少し悔しいぞ。
そんな吾輩の思いを感じるような素振りも見せずに、ここに連れてきた時に持っていたであろうかばんを取り出してきた。
「楽しみだね」
オナゴの軽快さは変わらない。立てればオナゴの腰辺りまであろうかばんを前にしても、その明るさは健在だった、
オナゴよ、またどこかに行くのか?
吾輩は、どうすればよいのだ?
ここに残れば良いのか、オナゴについていくのか。
オナゴの姿が吾輩の視界から消えた後、舎弟がのそのそと近づいてきた。どうやら、今自分の周りで何が起こっているのか気になって近づいてきたらしい。
舎弟よ、案ずるな。
吾輩も、何もわからぬ。
だが、今までもそうだった。風の向くまま気の向くまま。主やオナゴが決めたのなら、吾輩は静かに付き従えば良いのだ。お前にも、いずれそれが分かる時がくる。
―――もっとも、嫌いなものは嫌いだがな。
吾輩に危害を及ぼすような場所に連れて行こう物なら、その時は、いくら主でもオナゴでも、全力で拒み続ける。
舎弟よ、付き従うのも大事だが、だからとは言え、己の考えを捨ててしまえば、そこでお前の余生は終了だぞ。
嫌なものは嫌と、ハッキリと申し立てよ。
それもまた、人間と共生する為に必要なことなのだ。
忘れるな。忘れるなよ。
しかし舎弟は、オナゴの持ってきたカバンに興味を持っており、しきりに臭いを嗅ぎながら何かを考えているようだった。
やれやれ、吾輩の話は聞いておるのだろうか。
まだまだ青い部分が大きいぞ。
これから、まだまだ吾輩が教育してやらなければなるまいか。オババだけでは些か不安が残るのでな。
しかし、当のオババの姿は見当たらない。
いつもの部屋で寛いでいるのだろうかと思っていたが、そこにも姿はなし。ならばと家中をくまなく探し回ったが、やはり影は見つからなかった。
「こんなとこにいた!」
後ろから聞こえてきた声に振り向くと、吾輩がいつもグルーミングを願う時に使っているブラシを持ったオナゴが吾輩の背中に触れながら声を弾ませていた。
「お風呂場、嫌いでしょ? いっつも引っ掻いてくるくらい嫌がってるじゃん」
ほら、と吾輩の両方の横腹を挟んでは連行されるように舎弟の傍へと運ばれた。舎弟は、小さなボールで一人遊びをしている。随分と楽しそうに転がすボールを追いかけているその姿は、実に青い。
吾輩は、ペロリと自分の鼻先を舐めてから、オナゴのグルーミングに身を任せるのだった。
オババも帰宅し、二回目の飯も食らった。
オナゴのグルーミングは心地良く、気づけば、しばらく目を瞑っていたようだ。
オナゴよ、また上達したな。そう思いながら、二度目の飯を食らった。
舎弟にも、吾輩の飯を4粒くれてやった。まだまだ成長途中の舎弟だ。思い切り喰らい、更に成長してもらわねば、吾輩と肩を並べるなんて夢のまた夢だぞ。
だが、舎弟の為に吾輩の皿から4粒残していたというのに、彼奴は食らわなかった。吾輩の好意を感じ取れなかったのか、それとも、吾輩の尊大さに恐縮してしまったのかはわからない。そのくせ、自分の飯はしっかりと完食していたのだ。舎弟に近づき、吾輩の皿の前まで案内もしたが、決して喰らうことはなかった。
舎弟よ。その行為、寛大さもあり、己の余裕を見せつけるためにやっているのやもしれぬが、上の者の好意を受け入れるのもまた、寛大だと言うのだぞ。
子供は、大人のすねをかじれば良いのだ。その方が、上に立つ者も嬉しい時もある。
本当に、本当に困った舎弟だ。
舎弟よ、この飯4粒。次の飯までに食らっておかねば、吾輩が処理してしまうぞ。これを逃すと、次にお前に渡すのは、いつになるかは分からぬぞ。
吾輩は、尊大で寛大ではあるが、腹はどうしても減るのでな。
この4粒も、今すぐ喰らえと云われれば、すぐに胃に送ることも出来るくらいにだ。
そう舎弟に伝えているのだが、当の舎弟はオババの側で体を丸くして眠りについていた。
・・・寝る子は育つということか。
しばらくは、そっとしておいてやろう。
ゆっくりとオナゴの姿を探す。だが、その姿は思っていた以上に早く見つかった。
「どうしたの?」
さっきオナゴが持ってきた大きなかばんの前で座り、何かをしている。見てみれば、色とりどりが敷き詰められているが、これは一体何なのだろうか。
「こら」
試しに一歩、上に乗ってみたが、ふわ、とも、もこ、とも言えぬ感触に一瞬混乱が生じた。
「服の上に乗ったらダメ」
またも脇腹を挟むように持ち上げられた。オナゴの声色も、わずかに覇気を感じた故、おそらくは侵入してはいけない領域なのだろう。
吾輩には、なんとなくわかる。
オナゴよ、これで・・・何をするというのだ?
「あ、忘れてた」
吾輩の質問に気づくよりも先に、オナゴは一言残しては部屋から飛び出していった。
ふと窓を見る。あのメス猫と出会った、あの窓。
メス猫は、今日も現れぬのだな。
この世界、思い通りにならぬことばかりではある。それは重々承知の上だが、そろそろ来ても良いのではないか。
困った者だらけだ。
主も、オナゴも、オババも、舎弟も、あのメス猫も―――
―――いや。もしかすると、こんな吾輩も、周囲から見れば困った輩と思われているやもしれぬな。
滑稽な話だ。
あまりにそれすぎて、しっぽも大きく動くほどにだ。
さて、オナゴがここに戻ってくるのを待ちながら、今日もあの窓を眺めるとしよう。そう思い、窓の方へ向かおうとした時、そのかばんの奥に隠すように置かれていたある物に吾輩の動きは一瞬で止まった。
これは・・・あのかばんではないか。
我輩を病院に連れて行く為に使っている、我輩を閉じ込めるかばんではないか。
何故こんなものがあるのだ。
まさか、またあの忌まわしき場所へ連れて行くというのか。今度は何だ。吾輩の体調は今日も万全だ。飯も食った。催しもした。不健康な所なぞ、塵一つありはせぬのだ。
それなのに、まさかまたオナゴは我輩をここに閉じ込めて連れて行く気か。
あの時、オナゴもわかっていると思っていたのだ。吾輩の怒りを少しでも汲み取ってくれていると思っておったのだ。
だが、まだ通じていなかったのか。
どこかで失意に似た感情が吾輩の中で渦巻き始める。
だが、それ以上に吾輩の中で大きな決意のような物も見え始めていた。
ここに連れてこられた時は、オナゴにあっさりと捕まってしまった。ならば、今度は捕まらぬように隠れ切れればいい。
善は急げと、吾輩は部屋を飛び出し、オナゴと鉢合わせになるよりも先に隠れる場所を探し始めた。
オババと舎弟のいる部屋は、おそらくオナゴにすぐにバレるだろう。オナゴもよくいる部屋だ。バレるまで時間の問題だ。ならば、と次の部屋を探そうと歩を速めた時、視界に入った部屋で吾輩の足は止まった。
ここは、あの部屋だ。我輩を水責めにする部屋だ。
ふと見上げれば、この家から脱出出来そうな隙間が空いている。
そうか。見つからないようにするには、何より、ここを脱すれば良いのだ。そうすれば、オナゴに見つからず、あの忌々しいかばんに閉じ込められるような事もされずに済むのだ。
すぐにその部屋に行くが、足元は幸にも濡れている気配はない。
吾輩は、その隙間に狙いを定め、思い切り飛び上がった。
そして、オナゴの声が聞こえてくるよりも先に、この家を脱することに成功したのだ。
次回公開は、5日0時になります。