吾輩は『ねこ』なのである。 15
空の色もだいぶ暗くなってきても、メス猫は姿を現さなかった。舎弟も、あの時は一緒だったのに、吾輩のグルーミングを終えると、なに食わぬ顔で離れていってしまった。
まったく。せっかく吾輩が少しは認めてやっているというのに、無礼な奴だ。
まぁ、それは明日にでも教育するとしよう。
吾輩のいる部屋も暗さを増してきたと思えば、目の前の街灯がチカチカと光りだした。
暗さのせいか、吾輩のまぶたも少しずつではあるが、重たくなってきた。
いかん。空の明るさが完全に失われたら、オナゴかオババから飯の時間と知らせに来るはずだ。それまでは、せめて意識を保っておかねば―――
「―――なんだって」
吾輩の視界には入らないどこかで誰かの声が聞こえてきた。
「あらぁ・・・それはかわいそうに・・・」
別の声も聞こえてきた。集中力を高め、耳を思い切り動かすと、距離はさほど遠くはない事はわかる。方向は、あっちか。
立ち上がり、声の方へ向かうと、もう何度目か。主が出て行った壁にぶつかる。しかし、さっきまで聞こえていた声は、あそこより更によく聞こえてくるような気もした。
「何時頃だったかしら。小さい男の子が喚くようにあの窓を指さしてたわよ」
「そう・・・」
声は聞こえてくるが、オババの声ではなさそうだ。いや、オババは既にこの家の中か。道行く人間の会話なのだろう。
吾輩は、人間の言葉は理解できぬのだ。
これも吾輩にとっては悩みの種ではあるのだが、これはもう仕方がないと割り切ってからは多少気楽に過ごすことができている。
さて、二人の声も聞こえてこなくなった。会話もさっきので終えたようだし、そろそろ舎弟の相手でもしてやるか。
ゆっくりゆっくり近づき、舎弟がいるだろうタワーのてっぺんを眺める。
二番目に高いところまで登り、その上に前足をかけると、ギョッとしたような目で寝転ぶ舎弟と目があった。
「うん。明日」
背後からオナゴの声が聞こえてくる中で、舎弟とにらめっこをする。それが少しの間続いたが、吾輩の方が先に折れた。あそこの先客は舎弟だったのだ。
吾輩がどくのが筋というものだろう。
舎弟も、不慣れなグルーミングに疲れているだろうしな。
「明日の、多分夕方くらいになると思う」
オナゴは、何かを耳に当てながら一人でブツブツ言っている。表情は、決して悪くはなさそうだ。
オババは・・・どこにおるのだ?
気になり、部屋中をくまなく探したが、見当たらない。さっきまで吾輩がいた場所にもオババの姿は見当たらなかった。
となると、残すはあの部屋か。
幸い、その部屋に通ずる為の最初の難関である壁は、大きく開かれていた。その中に、もう一つ部屋があるのだが、そこからオババかの足だけが視界に入ってくる。
・・・そうか。あの部屋か。
吾輩は、あの部屋が嫌いなのだ。主もオナゴも、あの部屋によく似た場所に一人で入っては、水を流すような音が聞こえてきていた。シルエットでしか確認できなかったが、腕や体をこするような動作をしたと思えば、また水を流すような音。
そして、我輩を水責めにする忌々しい場所だ。
わかるのだ。主と一緒の頃から、部屋の雰囲気が物語っておるのだ。
そんな悍ましい部屋に、人間は気持ちよさそうな時間を過ごし、オナゴに至っては、いつまで中に入っているのかと思える程に長時間過ごしている。
我輩にとっては、理解に苦しむ部屋なのだ。
だが・・・オババが何をしているのかも気になってしまう。そんなジレンマに駆られながら、恐る恐るオババの方を覗き込む。
ようやく全身が見えてきた所で、オババの大きなため息が聞こえてきた。
しっぽを一往復、ぶんと回すと、その気配に気づいたのか、ゆっくりとこちらを振り返り、腕をまくるオババ。
「どうしたの?」
白い歯を見せながらこちらを見つめてくるオババ。吾輩は、ただただオババの行動を凝視していた。
「ごはんはまだよ。お風呂も洗ってるし」
オババの行動に興味が惹かれてしまう。が、吾輩が今立っているのは、ちょうどオババと吾輩の間にある境界線。足元には小さな凹みと出っ張りが視界を横切っている。
「さて、シャワーかけるよ」
オババの声が聞こえてきたと思えば、ゆっくりと立ち上がり、次の作業に移ろうとしている。
そして―――
ジャーッ―――
その音に吾輩の心臓は思い切り跳ねた。飛び出てくるかと思った。そして、咄嗟にオババの下からオナゴの下へ走っていった。
「いいよ。鍵はまだ持ってるし」
オナゴは未だに一人でブツブツ言っている。
ふと後ろを振り返ったが、オババの姿は追っては来なかった。
「うん。大丈夫。それじゃあね」
オナゴが耳に当てていた物をゆっくりと離すと、一粒光るものを感じた。オナゴよ。どうした。だが、その表情は悲しみや怒りよりも、安心や柔和な雰囲気に近い。
まったく。どうしたというのだ。
いつものオナゴではないぞ。
最近は怒りや悲しみを滲ませ、その前は不安を隠すように吾輩の耳をつんざくような声を上げていたというのに。悪い印象は受けないのだが、本当にコロコロと変わるものだ。
して、オナゴよ。オババの様子を見に行くのだ。吾輩では、オババの行動を静止することはできぬ。
そうしながらオナゴの足元を一周したら、オナゴもようやく膝を曲げ、吾輩の背中をゆっくりと撫で始めた。
「明日帰るからね」
後頭部から背中を撫で、そして顎を撫でるオナゴの指先。いつもの流れだが、我輩にとっては、この流れが一番安心できる。
相変わらず、オナゴはあごのマッサージが上手いな。
さっきまでオババに翻弄されていた緊張が強かったのだが、もうその不安感は払拭されてきている。
目を細めつつ、うっすらとオナゴの顔が瞼の隙間から見てみたが、思った通りの表情だった。
「明日帰って、アイツの言い訳たくさん聞いて、明後日から楽しい一日がまた始まるよ」
よかったね。
そうオナゴが呟いていたが、吾輩にはよくわからない。
ただ、我輩にとって一番なのは、傍にいる相手が喜んでくれたら、それで良いのだ。
昔は主。今はオナゴ。そのオナゴの表情を見れば、今の吾輩の行動が間違っていないことの証明になるのだ。
オナゴよ。明日も良い一日になるはずだぞ。
何せ、吾輩が傍にいるのだからな。
吾輩がいて不幸になる事など、ありはせんのだ。
「ふぅ、終わった終わった」
オババの声が、あの部屋から聞こえたと思ったら、ぬるりと出てきた。
「お風呂場、今も窓開けてるから、お風呂入るときになったらちゃんと閉めてね」
「うん。お父さんが先かもしれないけど」
「お父さんは開けっ放しでも大して気にしないもの。気づいたら閉めるだろうし、気づかなかったら開けっ放しのまま入ると思うわ」
オナゴと吾輩の前を通り過ぎ、食物の匂いが漂う元で作業を始めるオババをじっと眺める。
オナゴの様子がオババにも伝染したのか、オババも非常に軽快な表情をしている。そうだ。この空気が良いのだ。吾輩が一番望んでいる雰囲気だ。
舎弟よ、お前もわかるだろう。
そう思いながらタワーのてっぺんを眺めると、しっぽを軽く叩きながらこちらをじっと見つめていた。
「お母さん。明日には帰るから」
「そう。良かったわね」
「・・・うん」
最後のオナゴの返事は、今までの不本意そうな返事とはまるで違った気がした。
次回公開は、3日0時になります。