吾輩は『ねこ』なのである。 14
オナゴの部屋で一晩を過ごした吾輩―――
もっとも、部屋を出て舎弟の側で寝てやろうと思っていたのだが、出入り口に出来そうな道をオナゴによって閉ざされてしまったのが正直な話だ。
オナゴの寝息もまだ聞こえてくる中、吾輩は部屋の中をくまなく眺めた。机の上に飛び乗り、一枚の紙を眺める。
二人いる。一人はオナゴなのだろう。もう一人は、主か。吾輩が主の下へ行くよりも前。おそらく、吾輩は生まれていないのではないか、という程の前の二人の姿が、そこにはあった。
随分と、派手な髪色をしておるな、主は。
今は真っ黒なのに、ここにいる主は真っ黄色ではないか。
何を食ったら、そんな色になるのか。そんな物を吾輩が食らわば、吾輩の毛も、このような色になるのだろうか。
自分の毛を眺める。黄色とは程遠い色に、少し安堵感のような物が出てきていた。
更に自分を高めるために顔を洗う。入念に洗う。
そうすれば、あのメス猫も吾輩のことを意識しだすに違いない。
舎弟も、驚きのあまり尻餅をついてしまうやもしれん。
それほどまでに顔を洗う。
オナゴが起きたら吾輩の、目を剥くほどに手入れをした我輩を見てもらおうではないか。
隅々まで手入れをしながら、オナゴが起きるのをただただ待っていた。
12個の円盤。
長い棒は『1』を。短い棒は『6』を指している。赤く細い棒は『10』と『11』の間で止まっていた。
オナゴよ。
早く起きるのだ。
でなければ。
でなければ・・・
そこまで考えてから、またふと思ってしまった。
主は、本当に吾輩の目の前に現れるのだろうか。
―――もう、何度目だろうか。
主とオナゴが喧嘩をし、我輩を連れてオナゴがあの家を出て行った。その後、主が一度ここに来た。あの時の顔は、悪霊が取りついているのかと思える程に暗く澱んだ雰囲気を漂わせていたが、もう一度ここに来たときは、そんな空気は一切無かった。その代わり、吾輩の事を諦めているようにも見えた。
あの時見た主の顔。
一度目と比べると、吹っ切れたと言えば聞こえは良いかもしれない。しかし、吾輩の未来は、余計に不安と畏怖が渦巻いていた。
朝飯を食らってすぐに吾輩は舎弟の相手をしてやった。
コイツは、本当に面白い。
しっぽだけでも十分高揚しているし、吾輩が片手を出せば思い切り離れる。そして、柱の陰に隠れては吾輩の様子を伺ってくる。隠れているつもりなのだろうが、しっかりと姿が映っているし、仮にそうでなくても気配だけはしっかりと残っているから余計に面白い。今も、吾輩の片手に怖気づいたのかサササと遠ざかり、体の左半分だけをしっかりと吾輩の視界に残しながら機を伺っているように見える。
やはり、舎弟は舎弟のままか。
吾輩は、ゆっくりと舎弟の方に近づくと、舎弟は大急ぎで奥の方へ行く。
吾輩が追い続ければ、いったいどうするのだろうか。試したくなった吾輩は、ズンズンと舎弟の後を追う。逃げ場を無くした舎弟を気にすることもなく、威厳を出しながら歩み寄ると『参った』の合図か。お腹を見せて吾輩の尊大さに恐れ入ったように見えた。
舎弟よ。まだまだ青いな。
最後に一つ、軽めにパンチを繰り出してから例の窓へ向かった。
舎弟も、その後をウキウキと弾みながら、我輩にまとわりつきながら同じ窓の方で一緒になって眺め始めた。
舎弟よ。この窓は、好きか?
吾輩は、いつの間にか、落ち着く場所になってしまった。
不思議なものだ。最初は主が帰ってくるかどうか確認するための覗き窓だったはずなのに、いつの間にか、あのメス猫が来るかどうかワクワクしているのだ。
昨晩のオナゴの微笑みに何故か安心感が出た。主がここに来ると決まったわけでもないのに。吾輩の目の前に現れるかどうか、もうわからないというのに。
しかし、それ以上に、あのメス猫が気になるのだ。
「あれぇ、にゃんにゃんいない」
「うんー、にゃんにゃんいないねぇ」
視線の向こう側で、小さい人間と大きい人間が、手をつないでいる姿が映った。
「ねぇ、にゃんにゃんいないのなんで?」
「家の中でゆっくりしてるのかな?」
「えぇー、にゃんにゃんみたいー」
小さい方の人間が、声を上げて地団駄し始めた。だんだんと、怒りが表に出てきている。
対して大きい方の人間は、吾輩の顔を指さしながら宥めようと必死になっている。
「ほら、あそこにもにゃんにゃんいるよ」
「ちがうー、あっちのが良いのー」
吾輩ではなく、舎弟でもなく、まるで隣の家の方を指差す姿に、何故かは知らぬが変な敗北感を感じた。
ダメだ。
あの程度の年頃じゃ、吾輩の凄さがわからぬのだろうな。
もしくは、吾輩が尊大すぎて、恐れ多いと見た。
舎弟よ。あの人間を見たか?
これが吾輩の凄さというものだ。
舎弟にも、いずれはそのようなオーラを得ることは出来るやも知れぬが、今のままではその凄みも大して偉大にもならぬぞ。
そう思いながら舎弟を見ると、吾輩と同じく外を眺めてはいたが、その視線の先は人間ではなく、上空を飛び回っている鳥の方へ行っていた。
やれやれ、本当に困った舎弟だな。
そう思いながら、舎弟の首の毛を整えてやる。首と腕、頬から背中と入念にグルーミングをしてやる。
舎弟からされたことは、ここに来てから一度も無いが、吾輩はしてやる。
そうだ、寛大だからな。
もはや、言うのも野暮というものであろう。
それ。背中も終わったぞ。今度は腹だ。寝転がり、我輩に腹を向けるのだ。
しかし、舎弟は寝転がる事もなく、吾輩の頬に舌を当ててきた。
その行動に思わず体が小さく跳ねたが、舎弟の行動は止まることも無く、次は自分の番と言いたげに懐に近づいてきた。
まさか、我輩を・・・
舎弟は何も言わず、再び頬に舌を当ててきた。
・・・そうか。
吾輩も、舎弟に認められたのやも知れぬな。
そこまで我輩をグルーミングさせたいのであれば、任せるとしよう。
だが、覚悟するのだぞ舎弟よ。
吾輩は、寛大ではあるが、決して甘くはないぞ。
優しいと甘いは、似て非なるものだからな。
次回公開は、5月1日0時になります。