吾輩は『ねこ』なのである。 12
「えー、そんなの聞いてない!」
いつもの部屋で、いつもの窓で、いつもの人の流れを見ていると、飯を食らう場所からオナゴの叫び声が聞こえてきた。
耳だけを動かし、ただただ外を眺める。主を探すことから始まったこの景色も、今ではあの時よりも主に対する思いが薄れている吾輩は、薄情なのだろうか。
舎弟もあっちで寝息を立てている事だ。のんびりと過ごすとしよう。
あのメス猫が来たら儲け物だ。
「だって、私はまだ決めてないんだから!」
にしても、今日のオナゴはよく叫ぶ。主と喧嘩していた時ほどではないが、何をそこまで叫ぶ理由があるのだろうか。舎弟も、あんな声が聞こえている中で、よく寝息を立てることが出来るな。
しっぽを一往復左右に動かし、外の景色を眺める。
今日の空は、灰色だ。陽の姿は全く確認できず、少し外の景色の注意を怠れば、ポツポツと降ってきそうだ。
しかし、その気候は我輩を襲う睡魔がなかなか顔を出さない利点はある。
「とにかく、夕方くらいまでには決断しておきなさいよ」
部屋の前を横切るようにオババが通り過ぎ、近くの扉の電気を灯す。確認しに見に行ったが、あの扉は、主が現れ、そして消えていった扉だ。今から出るのかと思ったが、オババの顔は出る時にいつもしている事をした形跡は無さそうだ。
となると、掃除か?
それとも、誰か来るのか?
あの男が帰ってくるには、まだ外は暗くなりきってはおらんぞ。
「どうしたの?」
オババが吾輩の顔を見ると、小さく微笑みながら床をせっせと拭いている。
おかしい。
オババのこんな動きを見るのは初めてだ。思わず近づき鼻先を拭いている布に近づけたが、決して不快とは言えない臭いに、ますます頭の中が混乱してきた。思わず上目遣いをするようにオババの顔を眺めると、背中をゆっくりと三度撫でてきてからは、我輩に尻を向けるようにして同じように拭き始めた。
「今日、あなたの飼い主さんが来るんだって」
鼻先についたさっきの臭いをリセットするようにペロリと舐めては、そこに座る。オババの行動が、なんとなく面白そうだったのだ。初見というのは、恐怖と興味が複雑に絡み合うから嫌いではない。
次は、どんな行動をするのだろうか。しっぽをゆっくりと揺らしながらオババの尻の動きを眺める。
「やり直したいみたいだし、また二人と一緒に暮らす時が来たらいいわね」
オババの言葉は理解できないが、とりあえず一声だけかけよう。
「あらあら、そんなに小さな声で鳴かなくても、もっと大声で喜んでも良いのよ?」
吾輩が一声かければ、オババは喜ぶ。声でわかるのだ。オナゴも、主も、吾輩が何かしたら笑顔になる。それが我輩にとって意識していない事であってもだ。その笑顔が、吾輩すらも幸福感を感じるのだ。
「何時頃来るのかしらねぇ・・・」
ゆっくりと膝を上げ、ゆっくりと立ち上がる。のんびりとした動きを見せながら頭上の明かりを消すと、おそらく元いた場所へと戻っていった。
「連絡くらい来るんじゃない?」
オババのその言葉を最後に、吾輩は元の場所へ戻り、再び外の景色を眺め続けるのだった。
今日は、メス猫はやってこなかった。
日も沈み、辺りも暗くなってきた。吾輩の目の前に立つ街灯も、背を向けてはいるがその左右から強い光を放ち続けている。
今日は舎弟もあまり吾輩の元に来なかった。メス猫が来ていれば、まだ多少はこの落ち込みもマシにはなっていたのだろうが。
まぁ、こういう日もたまにはあるだろうて。あまり深くは追及するのはよすとしよう。
もう、外の景色を見るどころか、目の前の透明な壁に映っている吾輩自身とにらめっこするのも飽きてきた。
あの男は、まだ帰宅はせぬだろうが、一度ここはオナゴ達の相手でもしてやるか。
部屋を出て、皆が集まる場所でゆっくりと腰を落とすと、家の中全体に大きな音が響いた。これは、主の家にいた時に聞いたソレに似ていた。
「ほら、来たんじゃない?」
オババが吾輩の前を足早に通り過ぎ、その後ろをオナゴが追う。オナゴは、どこかバツの悪そうな表情をしていたのを見逃しはしなかったが、オババの一声にオナゴが反応したということは、おそらくはオナゴの客人なのだろう。
オナゴよ、悪しき者であれば吾輩が撃退してやるぞ。
そう胸の内に秘めながら、既に明かりの点いた先へ向かうと、そこにいたのは、もう来ないと思い始めていた主の姿だった。
「こんばんは」
思わず立ち止まる。まさか、本当に主なのか。
服も靴も髪型も、背丈や声色まで主そのものだ。見まごうはずがない。主だ。
その主の姿が吾輩の視界に入った途端、ゆっくりと頭を下げていた。
「すみません、こんな時間に」
「良いのよ。気にしないで」
オババのその一声で、動かなくなっていた吾輩の足がようやく動き始めた。主の頭もゆっくりと上がり、その足元に吾輩の鼻先をつける。
うむ。臭いも間違いない。
我輩を迎えに来たのか、と視線を主に向けると、主はほんの僅かの間だけ吾輩の顔を見るや、口角をゆっくりと上げて返してくれた。
「話は主人から聞きました。結論が出たようで」
「ええ・・・その報告に・・・」
「ここだと何ですし、お上がりになりますか?」
こうして三匹並ぶと、人間というのは如何に面白い生物だ。一人は微笑み、一人は強張り、一人は不服そうな表情を浮かべている。人間というのは、ここまで感情が豊かになれるのか、と『ねこ』ながら感服してしまう。
「いいよ。お母さんは」
「え?」
「私とこの人の問題だし、お母さんは下がってて」
オナゴの口調がかなり険しい。オババも、オナゴの突然の言葉に狼狽えているようだ。そんなオババの視線すらも、まるで無視するかのようにオナゴは主を睨むように見つめている。
その重苦しい雰囲気に、吾輩の胃にも穴が空きそうになっていた。
「それじゃぁ、それで構わないかしら?」
「あ・・・ええ。僕からは強く言える立場ではないので」
「良いから。あっち行ってて」
だんだんとオナゴの語気も強くなってきた。この声は、主に向けてぶつけていた『叫び』とも取れるあの時が脳裏から蘇ってくるようだ。
オババよ。これ以上オナゴの言うことに背いていると、どうなっても知らぬぞ。
なに。吾輩がついておる。オババはあっちに行って、吾輩の飯の準備をしてくれたら良いのだ。
そんな吾輩の思いが通じたのか、オババは少々バツの悪そうな顔を浮かべてはいたが、ゆっくりと奥の方へと消えていった。
「なに?」
その直後にオナゴの口が開く。その声に反応するように、吾輩も主も次の行動をおこした。
吾輩は二人を見つめ、主は持っていた物を探っては、そこから白く四角い物がひらひらと取り出される。
「御託はやめる。これだけ渡しに来た」
そう言うや、主はそれをオナゴの手元に渡すと、再び口を開いた。
「あとは、任せるから。その決断以降に、コイツも引き取りに来る」
主の手が吾輩の頭をわしわしと撫でると、背を向けては、あの時と同じ様に吾輩の目の前から姿を消そうとする。
もう騙されぬぞ。
ここから消えて、今度こそ二度と帰ってくる事は無いのだろう?
もう騙されぬ。
主のつま先がこの家と外の境を作っている小さな段差の上に乗った刹那、吾輩の足が素早く動いた。
「こら」
主の足元に行った矢先、頭上から声が聞こえ、そしてすぐに両脇腹を抱き抱えられてはさっきまでいた位置に戻される。
それでも、吾輩は諦めずに主の下へ歩んだが、何度やっても結果は同じだった。
「ほら、おいで」
何度目か、主に抱き抱えられたあと、吾輩の体全てはオナゴの腕の中に収められてしまった。
「それじゃ。こんな時間にごめん」
主の覇気のない声を最後に、またも姿を消してしまった。
・・・
・・・・・・
・・・・・・・・・
何故だ。
何故、主は我輩を無視するように去っていくのだ。
もはや、反抗する気力も失ってしまった吾輩は、オナゴの腕の中で深く深く俯くことしかできなかった。
次回公開は、27日0時になります。