吾輩は『ねこ』なのである。 11
オナゴがいるのは、玄関を通り過ぎた、吾輩がよく外の景色を眺めていた部屋とは、玄関を挟んで反対側の部屋だった。
部屋の電気がゆっくりと光り、その奥にあった椅子にとすんと座る横で、吾輩もどっしりと座った。
オナゴが吾輩の気配に気づくのも、そう時間はかからなかった。
「私、どうしたらいいかな?」
オナゴよ。吾輩はわかっておるぞ。
何かで困っておるのだな。
オナゴはわかっていないようだが、オナゴが何か考え込んでいたり落ち込んでいたりするときは、眉毛が『ハ』の字になるのだ。そこにため息も混じってきたら、よもや疑う余地はありはせん。
さあ話せ。
吾輩は、オナゴの言っていることはよくわからぬがな。
「あなたは、元々あの人の子だものね」
そう言いつつ、オナゴは椅子からゆっくり立ち上がると、吾輩の前でゆっくりと膝をついた。
「あなたは、どっちにしてもあの人の元に返してあげるからね」
両頬を優しく撫でてから、顎を引っ掻くように撫でてくる。久しぶりの顎引っかきに思わず目を細めてしまう。
オナゴよ、そこをかいてくれるのは嬉しいが、あまりに長いと、聞ける話も聞けなくなるぞ。
「早かったら、次の休みにはあの人が来る・・・」
あぁ・・・そこだ・・・たまらんぞ。
「お母さんが言ってたこと、わかるようでわからないんだ・・・」
オナゴよ、もう少し口元の方だ。そこを頼むぞ。
「普通って、やっぱり必要だよ。暴力振るわないのが普通なんじゃないの?」
うむ・・・そこ、そこだ・・・
「暴力振るう人とか、ストーカー男とかは『最低な人』であって、振るわない人が『普通』、敬ったりとかしてくれる人を『いい人』とか『イケメン』って言うんじゃないの?」
あぁ・・・オナゴの指で、吾輩の考える力が完全に消えて無くなりそうだ。
オナゴよ、前よりも指さばきが良くなったのではないか?
「余計にわかんなくなった・・・」
オナゴは、今でも吾輩のあごを愛でるように撫でてくれている。
オナゴよ、今日はサービス精神が旺盛だな。
大いに結構。
「戻った方が、お父さんもお母さんも安心はしてくれるんだろうけど。両親を安心させる為に身も心もボロボロになるのも、なんか違う気がするし」
オナゴの声色がだんだんと暗く小さくなってきていた。
それでも吾輩のあごを撫でてはくれているが、吾輩の意識は、あごではなくオナゴの声の方に変わってきていた。
「もし別れることになったら、あなたともお別れなんだよね」
オナゴよ。撫でるのは気持ちが良いのだが、もはや意識はそこには行けていない。
やめるのだ。
「それも嫌なんだよね。ずっと一緒にいたいし、困った時に、いつもそばにいてくれることが多いから。精神的な柱みたいなさ」
オナゴの指先をあごから離し、指先に鼻を近づけると、オナゴは何かを悟ったのか、場所をあごから頭に変えてくれた。
「私の中では、あの人とヨリを戻すか否かというのもあるけど。あの人とヨリを戻すか、あなたと離れ離れになるかなんだよね」
オナゴの表情が、どこかいつもと違う柔らかさを、頭のてっぺんから感じる。
吾輩にも、オナゴの言葉が理解できればどれだけ楽だろうか。
そうすれば、オナゴも主もあんなに困らせることも無かっただろうに。
そう思っていると、部屋の向こうからオババの声がした。
「・・・ごはんだってさ」
すっくと立ち上がり、部屋をあとにするオナゴの背中をゆっくりと追いかける。舎弟も、吾輩の姿を探していたのか、傍まで近づいて来ると、ゆっくりと鼻先を近づけながら吾輩の横を跳ねるようについてきた。
「ごちそうさま」
「食ったのなら風呂に入って、さっさと寝ろ」
随分と静かな食事に違和感を感じながらも、オナゴの進む後を追いかける。
「お風呂場、窓開いてるから、ちゃんと閉めなさいね」
「わかってる」
吐き捨てるような口ぶりに、吾輩も追いかけるのをやめた。なんとなくだ。吾輩の直感というものだ。
後ろを向き、食べ終えた皿の香りを感じては、舌で残り香と共にゆっくりと味わう。
「何もあそこまで言わなくて良かったんじゃなくて?」
「言わねばわからないなら言うしかないだろう」
「けど・・・」
一通り皿を舐め追えた。まだもう少し欲しいところだが、どれだけ待っても一度も追加でくれたことはない。
人間は自分の飯をたらふく食べるというのに、何故制限させられねばならんのだ・・・
「帰りの電車で彼に会ったんだ」
「あら・・・」
「こっちも想定外だったが、声をかけたら豆鉄砲食ったような顔をしていた」
仕方なく食後の手入れをしていると、舎弟が遊びに誘ってきた。相変わらず、タイミングというのがわからぬ舎弟だな。
明日、あの猫が来るまでみっちりと教えてやらねばなるまい。
覚悟しておくのだぞ舎弟よ。
「だが、随分と反省していた。もう二度としないとも言っていたから、その言葉にかけてみようと思っている」
「あら、だからあんなに?」
「・・・自分の口でハッキリと言いたいと言っていたから、この事は口を堅くしていたが、どこまで通じているか」
「そうねえ・・・」
「明日には来るそうだ。おそらくは夕方か夜になるだろうな」
何か声が聞こえてくるが、吾輩は気にせず食後の手入れに集中していた。
舎弟の誘いも気にもとめず手入れに集中していた。
「まぁ、俺が帰ってくる頃にはアイツもあっちの家に戻ってくれれば良いのだがな」
手入れを終えると、待ってましたと、より激しめに舎弟の誘いが来た。
・・・舎弟よ。ほんの少しだけだぞ。
吾輩も、色々と思う所があるのだ。
あの猫も気になれば、主の事も気になれば、オナゴの事も気がかりなのだ。
吾輩は、明日に向けての前哨戦と言わんばかりの軽めのパンチを舎弟にお見舞いしてやった。
舎弟は、それでも。最後まで、困った舎弟のままだった―――
次回公開は、25日0時になります。