⑩博士と商店街と。
夕陽に彩られた団地を背に、俺はいつもの地味なスーツを身に付けて玄関を出た。先に立つ千乃が俺の手を握り締めると、もう一方の手に持った買い物袋をバランス良く振り回しながらズンズンと歩き始める。
「……さて、それじゃ行ってくる……」
【いってらっしゃ~い!】
「……気を付けてください……」
千乃に引き摺られるように出発する俺を、ご丁寧にハンカチを振ってお見送りする二人……いや、だから敬礼とかするな。特攻隊じゃないんだから。
「さあ、博士。商店街に行きましょう」
相変わらず無表情のまま、今日も千乃はどんどんと俺の手を引きながら歩いていく。団地の真ん中に在る給水塔を横目に、藤棚が脇に有る小さな公園を横切って自治会館の前を通り、アパートが軒を連ねる界隈を過ぎて行くと、成る程……昔は栄えていたのだろう。今は実に質素な店が疎らに並ぶ、朝日町商店街へと出た。
……商店街、と聞いて昨今の御時世である。もしかしたら、今でも商店街がキチンと有るならば、さぞや人々が行き交う賑わいもあるのかもと僅かに期待していたんだが……これはまた、実に厳しい状況だな。
殆どの店はシャッターを閉めて住宅化され、開いている店もクリーニング屋や理髪店といった【どこでも見掛ける】店ばかり。
前に千乃に聞いた豆腐屋とスーパーが隣り合わせで頑張っているようだが、どちらも果たしていつまで続けていられるのか……商売に疎い俺でも、明るい展望は見出だせないな。
既に買うものは決まっていたのか、千乃は豆腐屋に入ると店番のオバチャンと言葉を交わし、品物を受け取りながら買い物袋へと入れて俺の元に戻ってきた。
「油揚げと豆腐です。明日の朝はお味噌汁にしましょう」
「……ん? そうだね。それは良さそうだ」
俺に報告し、返す言葉に頷いてから千乃はまた手を握り締め、
「次はヤノハンでお買い物です。寄る所が有るので生鮮品は見送ります。宜しいですか」
「……銭湯だったっけ……まー、いいんじゃない?」
まるで会議の進行を確認するように尋ねて来るが、彼女の目的が買い物袋に忍ばせてある入浴道具に集結しているのはお見通しだ。
「千乃さん、石鹸は持って来てるから要らないぞ?」
「……はて、何の事やら判りませんが……」
おおっ? まさかシラを切るとは……この人工知能、只者ではないな! ……なんて、一人で脳内ボケ漫才しても楽しくはないが。
「因みに銭湯は混浴じゃないから、千乃は俺と一緒に入れないぞ?」
「な、何を仰有っているのでしょう。わ、私は別にそんなつもりは……」
千乃の何時になく面白い反応に生温かい眼差しを向けると、遂に柄にもなくプイと顔を背けて暫く黙ってから、
「……ちなみに、学校沿いに有る文具店と模型店、本屋は裏で繋がっているそうです」
「へ~、そりゃ凄い。本屋で買い物しながら鉛筆とプラモデルの在庫が確認出来そうだな……って、何で知ってるの?」
「……おねーちゃん権限で得た情報です。千海さんはその本屋さんで、初めてラノベを買ったそうです。身近な場所では表紙が恥ずかしくて買えなかった、と言っていました」
「ふむ……凄くニッチな情報を有り難う」
果たして何処で笑えばいいのか判り難い話題でうやむやにしながら、しかし彼女の足は確実に朝日湯の方角に向かって進み、次第に距離を詰めていく。それもかなりの速さだ。速い、速いよ千乃さん……運動不足な俺には、かなりキツいぞ?
「な、なぁ……もー少しゆっくり歩かないか?」
「……貴重なデータを収集するのです。我々は情け無用の砲弾を雨あられと降らせて明るい未来を勝ち取るのです」
何故か知らんがやたらと鼻息を荒げつつ、意味の判らない好戦的な事を言い始めた千乃に、少しだけ恐怖に似た感情を抱いてしまう……俺、どーなるんだ? まあ、ただの銭湯に危険は無いだろうけど。
……と、千乃の手で半ば引き摺られるように『朝日湯』の前に到着した俺は、きっちりかっちり降ろされたシャッターに張られた一枚の紙を見て、何となく胸を撫で下ろしていた。
【本日店休日】 朝日湯
「なっ、なんてことでしょう。この張り紙はきっと偽物です」
「いや、ちゃんと端っこに朝日湯って書いてあるぞ?」
誰が見ても間違いなく【お休み】を告知しているとしか思えない張り紙に、千乃は明らかに狼狽えながら意味もなく立ったりしゃがんだりしている。いやはや……高性能過ぎて実に人間臭い無駄な動きをするなぁ……。
「なぁ、風呂なら我が家にも有るんだし、また今度にしないか?」
「そうですね……仕方有りません。私はとても残念ですが、博士がそう仰有るなら納得しましょう。我が家のお風呂なら混浴も出来ますし」
……はい? 何を言ってんの?
「博士、こうなったら我が家のお風呂で混浴致しましょう。背中を流してスキンシップをするのです。そうと決まりましたら帰りましょう」
相変わらず無表情のまま、唐突に混浴を希望する千乃に俺は戸惑いを隠せなかった。つーか、なんでそこまで拘るんだろうか?
いや、言っている意味はだいたい判る。それはいい。それに客観的に見て、彼女は殆ど人間と言っても過言ではない。詳しく説明するのは省くが、情報処理能力と予測能力に於いては最早人間の域を遥かに凌駕しているのだ。オマケと言っては何だが、通常の人間にあって彼女に無いのは、寿命だけなんだが。
……そんな千乃が、何故そこまで混浴に拘るのか? ……俺は銭湯の入り口の階段に座って、ロダン作【考える人】のポーズで暫し熟考してみた。
……答えは出なかった。つーか、何の為にこんな場所で考え込んでるんだ、俺は?
……と、立ち上がって自問自答していたら、来た時と同じ位の勢いで千乃に手を引かれ、あっと言う間もなく来た道を再び戻り、気付けば我が家の居間へと戻っていた。
【あ、お帰りなさい! メール有ったからお風呂沸かしておいたよ!】
……うん、【ヒグマ怪人】よ……君が千乃チームの一員だったと今更ながら気付かせてもらったわ。
「……バスタオル、二枚出しておきました。ごゆっくり……」
……うん、【戦闘員A】こと郁郎君。君も実は千乃チーム側だと再認識させてもらったわ。
帰宅すると同時に、俺を風呂の前の洗濯機置き場(引き戸で区切られた場所でトイレと風呂場の間に在る)に押し込めた千乃は、そこで待てと命じると自分は奥の自室(襖で仕切られた彼女の部屋)に引きこもり、絶対に開けるなと釘を刺したのだが……鶴の恩返しじゃあるまいに、何をするつもりなんだ?
暫くその場で洗濯機の蓋を開け閉めしながら時間を潰しつつ、着ていたワイシャツを洗うべきか悩み始めたその時、ガラリと引き戸を開けて中へとやって来た千乃が、俺に声を掛けた。
「さあ、博士。入浴の準備が整いました」
「うん……それは判った。……で、その格好は何だい?」
……俺は、純白のビキニスタイルの水着を纏った千乃に向かって質問すると、彼女は何故か両手の人差し指と親指を交互に触れさせながら俯いて、暫く躊躇してから、
「……お隣の、といおばあ様から頂いた服の中に、この水着が御座いまして、もしや身に付けられるのではないか、と思いまして……試しに着てみました」
……そう告白された。うん、お隣のおばーちゃん、昭和の香り豊かなビキニスタイルの水着までキッチリ保管してたのね……しっかし、腰骨の下に脇の紐が回るようなレトロなデザインだが、長い黒髪で身体的なバランスの取れた千乃が着ると……正に最終兵器だな。
「……いや、とても似合っていて、その……凄く、素敵だね……(お風呂に入る格好じゃないが……)」
俺は正直に伝えると、彼女に丈の長いステテコみたいな水着を手渡されてから、
「博士……申し訳有りませんが、千乃はこれを身につけて欲しいのです。入浴と言いましたが、擬似的な海水浴を体験してみたいのですが、可笑しいですか」
俺に背中を向けながら、千乃はそう言った。
うむ……彼女の中でどのような自問自答があったのかは判らんが、海水浴ごっこがしたかったのか……ま、付き合ってやるか。
「可笑しくなんてないよ。じゃあ、着替えるから先に湯船に漬かっててくれないか?」
彼女から水着を受け取りながらそう伝えると、目蓋を閉じて暫し瞑目してから、千乃はしっかりと俺の目を見据えてから、
「畏まりました。千乃は先に湯船に漬かります。それでは失礼いたします」
そう言いながら軽く会釈して胸の谷間をちょいと俺に拝ませてから、間仕切りの引き戸をガララと開けて浴室へと入っていった。
「……うん、寒いな……流石に冬に水着を着るとは思って居なかったが……」
水着に着替えた俺は、誰に言うでもなく呟きながら湯気が立ち篭る浴室に入ると、湯船の中から首だけ出した千乃と視線が交じわった。
「寒いですから、早く湯船へ入ってください。私も余り長く漬かっていると、熱処理が上手く機能しなくなりますので」
……まぁ、そうだろうなぁ。いくら高性能な義体と言っても、排熱用の大型ラジエターを付けている訳じゃない。黒い髪に似せた放熱ユニットも湯船に浸かっている状態では効率的に機能しているとは言い難いだろうし。
そんな事を考えながら湯船に浸かる為に俺が掛け湯をしていると、千乃が湯船を譲る為に揚がったのだが……
普通の女性なら、湯船に浸かっていれば血の巡りが良くなって肌の色も変わるだろうが、白磁のように木目細かい艶やかな肌に色の変化は無い。真っ白なままだ。
「……博士、一つ伺って宜しいですか」
「あ、いいよ……何だい?」
彼女と入れ違いで湯船に入ると、千乃は手を隠すように胸の前で交差させながら組み、俯きながら聞いてきた。
「……私に羞恥の気持ちは有りません。こうして自らの身体を僅かな布のみで隠す事に、恥ずかしい気持ちを持つ事も御座いません。しかし……」
そこで言葉を区切ってから、千乃が再び声に出して訊ねてくる。
「……こうした姿を博士に見せると、思考の脈略に僅かな誤差が生じ、情報処理が捗らないのです。これは一体何なんでしょうか」
「う~ん、それは……非日常的な状態だから、記憶野に蓄積された情報のみでは論理的な解明に辿り着けず、パターン化に時間を取られているから……かな?」
そう答えてやると、やはり無表情のまま、ポンと拳の脇で掌を打ってから、
「……成る程。これは羞恥に近い感覚、と銘打って宜しいのですね」
そう言いながら床に置かれた桶の上にしゃがみこみ、ボディーソープを泡立てながら、
「成る程、成る程。これが羞恥……実に興味深いです。では、羞恥を更に知る為に、不肖、千乃が博士のお身体を肌を密着させながら自らの身体を使って洗わせて頂きます。宜しいですか」
「いや、それは流石に俺の方が恥ずかしいから止めてくれ……」
何処で覚えたのか知らんが、妙な洗浄法を提案してきたので丁重にお断りした。
「……残念です。それはまたの機会に致しましょう」
「えっ!? ま、またの機会が有るの!?」
「嫌ですか」
「……イヤとかじゃないが……ま、今は勘弁しておくれ……」
千乃にそう言うと、相変わらず無表情のままだったが……口の端を僅かに上げながら、
「宜しいです。私には寿命は有りませんから、いつまでも待てます」
……と、サラリと言ってのけた。それ、もしかして笑ったつもりなのか?
千乃の変化に気を取られていると、頭を洗いますので座ってください、と命じられ頭から湯をぶっかけられた。座る前に湯を掛けないで欲しい……そして、指先から高周波を生じさせて洗浄するのも勘弁して欲しい。俺はコンタクトレンズじゃないぞ?




