凶犬の塒
朝から降り続いた雨は日が沈む刻限になっても、未だ勢いを衰える様子を見せなかった。
ヘッドランプの頼りない光条が、闇に沈んだ廃墟の瓦礫を浮かび上がらせる。
レインコートを纏った二人組が、その中を足早に駆けていった。
ひび割れたアスファルトから生える雑草を掻き分け、路肩に放置されたままの廃車を乗り越え、人の営みの残骸の山を縫うように進む。
大男と小男の二人組はフードの隙間から、自分たちの周囲へ鋭い視線を向けている。
小男が先行し道の安全を確かめていた。後を続く大男は肩に大きな荷物を担いでいた。
二人は暗がりの中をひた走る。荷物を担いだ状態で悪路なのにも関わらず、大男の足取りに乱れは見えない。
この男たち。オノダ・ショウキとヨキ・サトシの二人は、巷では俗に探索者と呼ばれている者たちだ。
異界との接触を境に、地球の各地で出現した迷宮に潜ることで、探索者は生活の糧を得ている、
迷宮はその挑戦者へ危険に応じた富と力を与えてくれる。
そうして迷宮で得た力を地上で悪用することによって、彼ら二人は少なくない金銭を得ていた。
「ウッ……」
ショウキの担ぐ荷物から、くぐもった人の声が漏れた。
声に反応した二人は足を止め、フード越しに顔を見合わせた。
「ヴ――ッ、ヴ――ッ」
呻き声が続いた。肩の荷は人だった。
身動きが取れないよう後ろ手に紐で縛られ、猿ぐつわを噛まされ、頭の上から麻袋を被されている。
肩に担がれた人物が女性のものらしき声で唸りだすと、同時に激しく藻掻き始めた。
「チッ」
大きく舌打ちした大男は、何の躊躇もなく袋の上から頭部めがけ何発も拳を振るった。
耳にした者が顔をしかめたくなるような、鈍い打撃音がしばらく続く。
「…………」
再び沈黙する袋の中身。気を失ったのだろうか。
周囲に人の気配は一切なく、彼らの凶行を咎める者など此処には存在しない。
二人の男たちは再び夜の廃墟を駆け出した。
後に〈大破壊〉と呼ばれた、世界中の空を光帯が覆ったあの決定的な災厄から一〇〇年。
度重なる災害と、異界からの精気流入による生物の大量死により、地球文明は崩壊し、人類は大きな危機を迎えていた。
世界中の大都市と同じく、地震とそれに伴う火災の被害を受け続けた東京も、今や往年の面影は殆ど残っていない。
そんな百年を奇跡的に耐え切り、次の百年を待たずして崩れ落ちるだろう建物が、瓦礫の海の中にポツポツと離れ小島のように残っている。
二人の男が女を連れ込んだのも、そんな建物のうちの一つだった。
*****
幾重にも施錠された頑丈なドアを開ける。
その、元々は店舗として使われていた建物は、出入り口から入ったすぐそこが広間になっていた。
男たちは、攫ってきた人物を床へ放り出し、その上半身を覆っていた麻袋を乱暴に取り去った。
屋内を照らす電子ランタンの光が、被害者の顔を照らす。
袋の下から出てきたのは、猿ぐつわを噛まされた、顔中の痛ましく腫れあがった女性の顔だった。
男たちの標的で、〈闘争の神ウォニス〉の僧兵であるミヨサワ・マコは、それなりに腕の立つ人物ではあった。
しかし、入念に準備を整えた暴力のプロ二人がかりの襲撃には敵わなかった。
彼女は捕まる際にも捕まった後にも激しく抵抗をした為に、このような仕打ちを受けたのだ。
目を閉ざしたままの顔が苦痛に耐えるように歪んでいる。
「うっ……」
マコが、おとがいを反らすと、はだけた喉元に白い肌が露わになった。
肩甲骨のあたりまである茶髪が、身を捩る動きにつれて揺れ動く。
身に纏った異界様式の赤黒い僧服が、雨に濡れた肌へ張り付き、艶めかしい曲線を生み出している。
彼女を運んできた大男――ショウキが睨めつけるように、その視線を這わせる。
「ヒヒッ……」
ショウキの喉から、堪えきれないといった笑い声が漏れた。
「ったく、仕方ねェ奴だな」
もう一人の小男――サトシが、顔を隠すため身につけていた覆面を脱いだ。
冷笑を浮かべる狡猾そうな顔が覆面の下から現れた。
一見は冷静に見える男の、その瞳だけは、これから繰り広げられるだろう性と暴力への渇望にギラついていた。
ショウキはしゃがみ込むと、腰に差していた大ぶりのナイフを手にする。
そして、ロープで拘束されたマコの服だけを器用に切り裂いていった。
マコが僧服の下に着込んでいた防刃ベストが目に入り、ショウキが大きく舌打ちする。
防刃ベストを脱がせるために手足を拘束していたロープが切られても、彼女が意識を取り戻す様子はなかった。
男たちの吐く荒い息の音と、布を裂く音が、廃屋の部屋を虚ろに満たしていく。
途中、ショウキは自ら吐く息が邪魔だとでもいうように、顔を覆っていた覆面をむしり取る。
覆面の下からは、暴力の世界に長年身を置いてきたことを示す、傷痕が幾つも残る顔が現れた。
その顔がニタニタと笑みを浮かべる。唇の隙間からヤニで汚れた歯が覗いた。
「オレが先だぜ」
「何度もしつけぇな」
「寝てる女をってのは、まあ、趣味じゃあねえけどよォ」
「お前のをいきなりブチ込んだら、どんな女でも目ェひん剥いて飛び起きるだろうぜ」
突然、彼らの背後から何かの壊れる大きな音がした。
すぐさま二人は立ち上がり後ろ音のした方へ振り向く。各々が油断なく獲物も構えいる。
ショウキは服を切り裂いていた大ぶりのナイフをそのまま、サトシは腰から抜いたトマホークを両方の手に持っていた。
そこには先程までの浮ついた様子は微塵もない。
「五月蠅い」
暗がりの向こうから男たちへ向け、冷や水を浴びせるような声がした。
ショウキが咄嗟に、空いた側の手で電子ランタンを掴み、声のした方へと掲げる。
男たちは殺意のこもった目で声の主を睨みつけた。
視線の先、男たちが入ってきた出入り口とは部屋の反対側に、かつては従業員用バックヤードへ繋がる出入口だったろう場所に、ひとりの女が立っていた。
旧世紀の学生が着たような芋ジャージ姿で、ボサボサの髪のまま肩にタオルを掛けた女は、二〇歳を少し過ぎた辺りだろうか。
ダラリと下げた左手には、無骨な拵の黒い鞘に収まった日本刀を携えている。
右手の拳は部屋の壁にめり込んでいた。先ほどの異音は、腹立ち紛れに殴りつけた壁が彼女の一撃に耐えられなかった所為だ。
ジャージの女――シラヤマ・ノゾミが壁から拳を抜くと、パラパラと音を立て壁の破片が舞い落ちた。
「今晩は久々に、平和な夜だと思ってたのに……」
「ンだぁ手前ェ!?」
動揺を隠すようにショウキが怒声を上げる。
この廃屋は男たち二人が用意している隠れ家のひとつで、町と町を繋ぐ経路からは離れた場所に存在していた。
余計な出入り口を塞いだり、家具を運び込んだり、施錠できる出入り口を取り付けたりと手を加えている。
念のため襲撃の数日前にも見回りに来ている。その時点では勝手に誰かが住み着いた形跡はなかった。
この女は何者だ? 何処から入った? 何時から居た? どうして音がするまで気配に気づけなかった?
男たちの混乱を他所に、ノゾミは半眼になってショウキを一瞥すると、憂鬱な気配を滲ませ呟いた。
「勝手に使ってるのが見つかったら、素直に謝る気持ちは一応あったんだけれど……」
「あァン?」
「はぁ……大声を出せば怯える相手かどうか、なんとなくでも察せないもの?」
「ア゛ァ゛ッ!?」
いきり立つショウキをノゾミはまったく相手にしていない。
凶器を抜いた男二人を前にして、彼女はなんの緊張も見せない。
ノゾミは、男たちの背後で床に倒れている半裸状態の女――マコを鞘の先で指しつつ、平然と言い放った。
「そういうのは他所でやるか、明日、私が居なくなってからにしてくれる?」
ノゾミの言葉に同意するように、いつの間にか彼女の足元に来ていた白猫がニャアと声をあげた。
「あぁ……五月蠅くするから、この子まで起きてきた」
「フ、フザケやがって!」
ショウキの声が怒りに震える。
対するノゾミは、悪びれもせずに続けた。
「しばらく誰も使ってないみたいだったから、雨宿りに借りたんだけれど。こうなるのがわかっていたら、野宿でも良かったのに……」
「顔を見られちゃあ、仕方ねぇな」
それまで黙っていたサトシが、抑揚のない声で応じた。
「呪うなら、自分の不運を呪いな」
「別に邪魔するつもりは無いんだけど。事情もわからないし」
「…………」
「今ならまだ、なにも見なかったことにしても良いけれど?」
提案に返答はなく、男たちはノゾミを間に挟む位置へとゆっくり移動し始めた。
ノゾミは刀を抜く様子もなく、その場から一歩も動かずにいる。
ショウキのナイフが威嚇するように、鋭い呼気と共に二度、三度と宙を薙いだ。
「へっ、丁度良いぜ。女ひとりを二人でってのも悪くないけどよぉ」
「そいつも探索者だ、油断する馬鹿があるかっ」
サトシからショウキへ叱咤する声がかけられた、その時だった。
「逃げて――ッ!」
気を失っていたマコが目を覚まし、手近にいたサトシの足へしがみつきながら叫んだ。
ノゾミの目が驚きで僅かに見開かれた。
「この――ッ!?」
サトシは怒りに顔を歪め、マコへ向けてまったく容赦のない蹴りを浴びせる。
踏みつけるように頭を蹴られたマコは苦痛に呻き、再び気を失って床の上へ崩れ落ちた。
その間、サトシがノゾミから目を離したのは、ほんの一瞬に過ぎない。
しかし、耳に飛び込んできた異音にサトシが慌てて振り向くと、彼の相棒は敵を目の前にして、まるで今から懺悔でもするかのように両膝を床に着いていた。
「……ハ?」
いったい何が? サトシが混乱から立ち直るよりも先に、ショウキは両膝を床に着いた体勢からゆっくりと仰向けに倒れた。
苦悶の表情で白目を剥いているショウキは、それ以上ピクリとも動かない。
鎖骨と鎖骨の間、喉の根元が完全に潰されている。
サトシは、ゆっくりと視線をノゾミの方へ向けた。
彼女が手に持つ鞘の真っ赤に染まった先端から、ポツポツと血が垂れて床に模様を描いた。
真正面から、鞘に収められたままの刀で喉を一突き。それだけで事は済んでいた。
「殺ァ――ッ!」
考えるよりも先に身体は動いていた。
サトシは後方へ跳び距離を稼ぎながら、両手のトマホークを僅かな時間差で投擲する。
至近距離から二つの凶器が別々の急所めがけ宙を走る。一方を避ければ、もうひとつが当たる。そのように放った。
ノゾミは、飛来するトマホークの一方を右手で無造作につかみ取り、その獲物でもう一方を床に叩き落とした。
金属同士の激しい衝突音に続いて、鉄の塊が床を転がる耳障りな音が部屋にこだまする。
これまで幾多の敵を仕留めてきた必殺の一撃が、相手を仕留めるどころか手傷すら負わせられない。
その現実を前にしてサトシが呻いた。
「糞ったれ、化物がッ……!」
「それはちょっと自惚れすぎじゃない?」
サトシの怨嗟の声を、ノゾミが一蹴する。
自分が化物のように強いのではなく、お前らが大して強くないだけだと。
サトシの顔が屈辱に歪んだ。
新宿迷宮街の裏社会では、荒事の専門家として名の通った自分たちが、まったく相手にされない。
(なんだコイツは……?)
いったい何処の誰なのか。彼のような荒事を生業にする者にとって、強者の情報を得るのは必要なことだ。
なのに、こんな女が――いや、男を含めても、これ程の手練れが全くの無名だとは……。
ノゾミの左手には鞘に収まったままの刀が、右手にはサトシから奪ったトマホークが握られている。
彼女は自分から打って出るつもりは無いのか、漫然としてその場から動かない。
(どこで歯車が狂った?)
サトシの額からは瀧のような汗が流れていた。
一瞬でも目を離した瞬間に自分は死ぬのではないか? 悪い想像に悪寒が止まらない。
今回は標的の女、ミヨサワ・マコを殺して、それで終わりの仕事だった。
『ただ殺すだけじゃ気が済まねぇな、そう思わねェか?』
ショウキが余計なことを言い出さなければ……。
確かに因縁のある相手だった。
あの正義ぶった顔が苦痛と絶望で歪むところを見たかった。
あるいは、最後まで気丈に抵抗するならそれでも良い。
その暗い喜びに抗えなかった。
その所為で仕事に徹しきれず、役得にあずかろうと色気を出したのが失敗だ。
しかし――
(誰がこんな事態を想像できる!?)
サトシは苦悶の表情で歯を食いしばった。
自らの悪行を棚に上げて、彼は己の不運を呪った。
同時にかつてないほど頭をひねり、自分が生き残るために策を求めた。
「糞ッ!」
一か八か、破れかぶれだ。
サトシは床で気を失っているマコに飛びつくと、腰のベルトに差していたナイフを抜いて首に突きつける。
それを目にしたノゾミが、呆気にとられたような顔で問いかけた。
「……なにそれ?」
「武器を捨てろ。さもなきゃ、この女を殺す」
ノゾミは、これ見よがしに首を捻った。
「そもそも、そのひと誰なの?」
「…………」
「まさか、私が素手なら勝ち目があると思ってる?」
「…………」
サトシは答えない。
無言で突きつけたナイフを強く押し当てると、気を失っているマコの喉から血が流れ落ちた。
元から赤黒く染められている僧服の残骸が、それとは別の赤色に染まっていく。
しばらくの間、両者は無言で見つめ合った。
「……ハァ」
これ見よがしに溜息をついたノゾミは、トマホークを乱暴に投げ捨て、刀は静かに床へ置いた。
その場から数歩下がると、身体の前で腕を組んでみせた。
「これで満足?」
サトシが、それまで呼吸を忘れていたように大きな息を吐いた。
他所に行ってやれという物言いが本気で、赤の他人の生死に頓着しない人物だったなら。
あるいは一度でも敵対した相手は如何なる手段を用いても、どんな被害が出ても追い詰めて殺すような人物だったなら。
見知らぬ人間を人質に取っても意味はまったく無かっただろう。彼は賭けに勝った。
「両手を頭の後ろで組んで、背を向けて、その場で跪け」
サトシに声に、賭けに勝った喜びは無い。
ここで、調子に乗って背後から襲いかかるような真似をするつもりはない。
たとえ隙だらけだったとしても、ネコがトラに襲いかかったらどうなるか? 結果は火を見るより明らかだ。
相手の間合いに入った瞬間、自分の有利は全て吹き飛ぶ。
(けどよ、こっから無事に逃げ出せる目はまだ有るぜ……)
裏の稼業に失敗し、その途中で他人に顔を見られ、相棒も失った。
もう新宿には戻れない。それでも死ぬよりはマシだ。
気を失っているマコを引き摺りながら盾にして、サトシは出入り口の方へ後退っていった。
「ねぇ」
ノゾミが首だけで振り返って肩越しに声をかける。
「アッチを向いてろっ!」
「ところで、わたしにだけ気を取られてて大丈夫?」
「ぁン?」
湧き上がった疑念がサトシの精神に、隙とも呼べないような一瞬の空白を生んだ。
だが天性の狩人にとっては、その一瞬だけで十分すぎた。
己の盆の窪に何か尖ったものが差し込まれる感触。
それを最後に、ヨキ・サトシの意識は永遠に闇へ閉ざされた。