龍神と竜殺し
まだ朝靄の立ち込める時分だ。山道をひとり歩く人影があった。
その女は、分厚い樹々が空を覆う薄暗い森の中を、道と呼ぶのが躊躇われるような悪路をものともせず軽快に登っていく。
スカジャンにジーンズという、ここまで険しい山道を登ってきた者とは思えない軽装だ。
肩に提げたショルダーバッグのベルトには、剣呑なことに刀が二振り吊されていた。
女は二〇歳をそう過ぎてはいないだろう。地味な顔立ちに、そこだけは印象に残る眼が強い光を湛えている。
足をひとつ踏み出すごとに、彼女の後頭部でひとつに束ねられた黒髪が左右に揺れた。
森の中を行く女が、周囲の緑に半ば埋もれるように立つ石造りの鳥居をくぐり抜ける。
そのまま苔生した石段をしばらく登ってゆくと、唐突に目の前の視界が開けた。
陽射しを浴びて明るい草っ原の真ん中に、古びた小さな社が見える。その側には一本の桜が見事な満開の花を咲かせていた。
深い皺の刻まれた老木の幹からは、複雑に絡み合った枝が、まるで空を掴もうとするように宙へと伸びている。
息をすれば肺の奥まで濃い緑の香に満たされる森の中にあって、この社の周囲だけが薄紅色に染められていた。
薄紅色をした天蓋の下に、桜と並んで立つ人影があった。
少女だ。本人が中学生だと言ったら、そのまま誰も疑わず、それで通るだろう。
ここまで山を登ってきた刀女の格好とは対照的に、こちらは平安時代の水干にも似た時代錯誤な服を着ている。
深山を分け入った奥にある、こんな不思議な場所に佇む人物には似つかわしい服装かもしれない。
子供が山奥にひとりで、そんな時代がかった格好でいる不自然さを無視すればだが。
少女は、ただ桜を仰ぎ見るだけで、なにも言わず、なにもせず、其処に立っている。
一枚の絵画のような景色に目を奪われて、刀の女は思わず足を止めていた。
この場所は外界の喧噪からも、時代の流れからも切り離されている。
数百年も前の春にも、もしかしたら数百年先の春にも、桜はこの場所で変わらず咲き続けるだろう。
どこか森の奥からコマドリの囀る声がした。
我に返った刀の女は再び歩き出すと、ゆっくりとした足取りで桜と少女へ近づいていった。
「……ノゾミか。よう来たな」
桜の老木を見上げたまま少女が口を開いた。
外見だけでなく声も子供そのものだが、その口ぶりには老成した者の響きがあった。
「元気そうでなによりや」
「はい、マナさんもお変わりなく」
ノゾミと呼ばれた女の態度も、子供を相手にするものではない。むしろ、目上の者を相手にしているようだった。
マナと呼ばれた少女は視線を桜からノゾミに移した。
「五年や十年経ったところで変わるかいな。いや、あれは一昨年やったか、一昨々年やったか?」
「一昨年ですね。去年はちょっと、この時期は立て混んでいたもので……」
「そんなん気にすることないで。ウチがこない場所に住んどるんが悪いんや」
「いや、それは――」
「クニヒロのアホなんか何年振りに会うても、つい昨日会うたばっかりみたいな面しとったで」
「祖父は、まあ、なんと言うか……そういう人でしたから。でも、こういう気遣いは祖父に習いましたよ」
ノゾミは肩に提げているショルダーバッグの口を開け、中からなにかを掴み出す。
小さなショルダーバッグから、大人が両手で抱えきれないほど大きな酒樽が出てきた。
明らかに異常な光景だが、マナは驚く素振りも見せなかった。
しかし、酒樽に顔を近づけた途端、その目をかっと見開いた。
「おい、ウソやろっ!?」
「その"まさか"です」
次の瞬間、マナの子供のような手が、酒樽を包んでいる太い縄をあっさりと引き千切り、分厚い木製の蓋を一撃で叩き割った。そのままの勢いで中身を手のひらに掬い、すぐさま口に運ぶ。
透明の液体を口にしたマナは身を震わせると、感慨深げに小さく幾度も頷いた。
「……紛いモンやないっ、ホンマモンの日本酒やっ!」
「前世紀の分類だと純米大吟醸? とかなんとか言うそうですが」
「オ、オマエ、このご時世にそんな贅沢、バチ当たるで!」
中身の入った四斗樽(七二リットル)の重さは八五キログラムほどもある。
マナは、その明らかに自分よりも重い酒樽を軽々と抱え上げると、大きく開いた自らの口へ酒を流し込んだ。
ゴクゴクと喉を鳴らし中身を飲み干していく。
「カ――ッ!」
一分とかからず空にした樽を、叩きつけるように地面へ置いた。
この小さな身体のどこに酒が消えたのか皆目わからない。しこたま酒を聞こし召しておいて顔色ひとつ変わらない。
至極ご満悦の様子なマナに、ノゾミが遠慮がちに打ち明けた。
「喜んで頂けたみたいですけど、残念なお知らせがひとつ」
「うん?」
「それ、次はいつ手に入るか分かりません」
そのひと言で、マナの笑みがたちまち凍りついた。
「ウソやろ? ウソやと言うてくれ……」
「それ、地球じゃなく異界産の酒ですからね。輸送費だけでも幾らするんだか」
「……ハァ~」
マナは、腹の奥底から絞り出すように深々と溜息をついた。
「こんなん言うても仕方ないけど、ホンマええように地球のモンがパクられとるな」
「だからって誰が何処に訴えるんですか? もう〈大破壊〉から百年ですよ」
「ドライやなぁ」
「正直なところ他人事ですね」
ノゾミは特許や著作権はおろか、そもそも法律がまともに機能している社会を、国家というものを知識でしか知らない。
彼女だけではない。いま地球に住んでいる者にとって日々の営みとは、廃墟から使えるモノを拾って再利用することだ。
手に入れたモノを売りつける先が、地球人だろうが異世界人だろうが、ほとんどの者は気にしない。
「異界はサンギョーカクメーとかそういう感じで、なんやエライ景気ええことになっとるらしいな」
「実は行ってみたいと思ってまして」
不意を打たれたように、マナは目を瞬かせた。
「……地球生まれのモンは、今んところアッチには行けんのとちゃうかったか?」
「自分で試した限り、異世界人と同じ方法じゃ地球人は異界に行けませんでしたね」
「じゃあ、どうするん?」
「このまま大阪で燻ってても進展は無さそうなんで、とりあえず次は東京を目指そうかと」
「そうかぁ、寂しゅうなるなぁ……」
マナの言葉に、ノゾミは口元を微かに綻ばせた。
「マナさんぐらいですよ」
「なんが?」
「益体もない御託を並べないのは。止めとけだとか、時間と金の無駄だとか、そういう……」
「そら仕方ない」
ノゾミが首をかしげた。
マナは、彼女が本当に大丈夫なのか、疑わしげな面持ちで顔を覗きこんだ。
ノゾミのように優秀な探索者は、多くの者にとって金のなる木も同然の存在だ。
皆からすれば、道楽に現を抜かす暇があったら、迷宮に潜って一つでも多く戦利品を手に入れて欲しいのだ。
随分と勝手な言い草ではあるが。
「言うても自分、東京にアテなんかないやろ? 行ってどうすんねん」
「新宿か八重洲の迷宮に潜れば、あとはどうにでもなるんじゃないかと」
「行き当たりバッタリかい」
「物騒さじゃ西も東も、それほど変わらないでしょう」
「アホ、そんな心配はしとらんよ。むしろ心配なのは東京の連中や」
「……あの、私のことなんだと思ってます?」
「ん~」
マナは思わず目を泳がせて、シノブの問いかけを黙殺した。
沈黙する二人の間を山風が駆け抜ける。
降り積もった桜の花びらが地吹雪のように乱れ散った。
風が止むと花びらは、地面へゆっくりと舞い落ちていった。
ノゾミは、乱れた前髪を手で押さえながら、感慨深げな様子でその景色を眺めていた。
「此処の桜も、当分は見納めですね」
「達者でな」
「はい」
ノゾミは深々と一礼すると、踵を返し来た道を戻っていった。
再び森の中へと踏み込む前に、ふと後ろを振り返る。桜の老木の下に立って手を振る小さな人影が見えた。
一度大きく手を振り返すとノゾミは視線を前に戻し、ここまでやって来た獣道を戻って進み始める。
彼女は、麓に着くまで一度たりとも後ろを振り返らなかった。