2020年2月13日(木)
木曜日、いつものように家を出て学校に向かう。
朝から降り出した纏わりつくような生温い雨は、まるで昨日までの滑稽な自分の気持ちを代弁しているみたいで、少し笑えた。
昨晩バイトの先輩に泣きつかれて夜間までバイトに入ったというマキちゃんは今朝がたラインで『爆睡するから午前中学校行けない。すまぬ……』と、落ち武者が血文字を残して倒れたスタンプと共にメッセージを送ってきて、それにも笑う。
失恋してもちゃんと笑うことは出来るんだ、なんて冷静に分析している自分が何だか可笑しくてまた少し笑った。
午前中の授業を終えると私の携帯が鳴る。
画面には「須賀君」の表示があって、どうしようかと逡巡したが意を決して通話ボタンをタッチした。
「はい」
「もしもし、坂崎さん? どこにいるの?」
「どこって、学校だけど?」
「良かった。無事で。昨日の夜も今朝もラインの既読つかなかったから心配してたんだ」
「ライン……あぁ、ごめん。携帯、見てなかった」
「……何かあった?」
須賀君からラインがきていたことは知っていた。でも彼を諦めるためにも読む気にはなれなくて放っておいたのだ。
我ながら何て卑怯者なのかと思う。
私が白々しく嘘を吐いたことが解ったのか須賀君の声が少し低くなる。
それを誤魔化すように敢えて明るい声を出した。
「ううん、何も。疲れて寝ちゃっただけ。心配かけてごめんね。それじゃ」
「ま、待って! お昼! お昼ご飯一緒に食べよう?」
「ごめん、今日は学食行かないの」
「じゃあ俺が坂崎さんの所に行くから」
「あー、っと、ごめん。もう友達と約束しちゃってるから。じゃあ、ごめんね」
一方的に電話を切って自分の身勝手さに嫌悪する。
勝手に告って勝手に付き合ったと思い込んで勝手に振られたのは私だ。
須賀君は何も悪くない。
むしろ彼女でもない私を心配してくれる優しい人なのに。
でもその優しさは今の私には残酷だった。
昨日あれだけ泣いて諦めたはずなのに彼の言葉に不覚にもまだ胸がときめいて、また勘違いをしてしまいそうになる。
雨が上がりすっかり晴れた空を見上げて、午後の授業がある教室に移動してマキちゃんが来るのを待ちながら一人食べたおにぎりは、金欠のため手作りだからかやけにしょっぱい味がした。
「ちょっとリナ! その目! その顔! 何があったの!?」
「マキちゃん……」
私の顔を見たマキちゃんが開口一番、険しい表情で問いただしてくる。
昨晩泣きはらした私の顔は酷い顔だという自覚はあったし、同じ講義を受けた顔見知りの人にも二度見された後そっと視線を逸らされたので薄々気づいてはいたけれど、やっぱり相当酷いものらしかった。
「ちょっと、昨日泣きすぎちゃって」
「くっ! こんなことなら始業ギリギリに来るんじゃなかったわ。講義終わったら速攻カフェ行くわよ!」
「マキちゃん、私、金欠だからカフェは無理~」
「リナが金欠? 珍しいわね。んじゃ、ベンチ濡れてなきゃ青空カフェね」
私に向かって指を突き付けたマキちゃんに苦笑して頷くと、マキちゃんは少しだけ眉尻を下げた。
講義を終えた私達は『青空カフェ=大学内のベンチ』に荷物を置くと近くにある自販機に移動した。
朝の雨が嘘のように晴れ渡った空が広がり、気温も上昇したのかベンチはすっかり乾いていた。
迷わずブラックコーヒーを押したマキちゃんが私を振り返る。
「リナは? 何にする?」
「あ~、私は大丈夫」
「……金欠なんだっけ? ジュースの1本も買えないほどなの?」
「えっと……買えないことはないけど勿体ないから」
「リナの好きなミルクティー、人気だから今買わないと売り切れちゃうかもよ?」
「え!? ……でも、今日はいいや」
「はぁ~。リナが最後の1つを買わないなんて相当金欠なのね。ったく、一体何を買ったのよ!? その顔、まさか金欠が原因じゃないでしょうね!?」
そう言うとマキちゃんはミルクティーのボタンを押して、出てきたペットボトルを私に差し出す。
「とにかく水分は摂りなさい」
「え? お金払うよ!」
「私が勝手に買ったんだからいいの! 本当は私がカフェ代を奢ってあげたい所なんだけど、給料日前で私もあんまりお金なくてさ……ごめんね」
「そんな! マキちゃんが謝らないでよ!」
「謝るわよ! こんな状態のリナに自販機のジュースしか買ってあげられないなんて、自分が情けないわ! それでもリナを想う私の気持ちに偽りはないからね!」
「マキちゃん、科白がイケメン過ぎてときめきそう。でも悪いから、やっぱり払うよ」
「じゃ、来月倍にして返して」
「……うん、ありがとう」
差し出されたミルクティーを受け取ってベンチに戻ると、隣に腰掛けたマキちゃんの目が据わる。
「それで? まさかその顔の理由、本当に金欠なわけじゃないわよね? もしかして日曜日に買ったチョコのせい? ううん、いくら高級チョコでもリナが持っていたサイズならそんなに高くはないはず。それにバレンタインは明日だから玉砕したわけでもないだろうし……」
マキちゃんの言葉に良く見てるな~と素直に感心してしまう。
(でもねマキちゃん、貴女が言った最後の憶測が正解なんです。こんなことならフライングで告白なんてするんじゃなかった。きっとバレンタインに須賀君に告白しようと思ってた子はたくさんいるはずだ。自分だけフライングしたからバチが当たったんだ)
そう考えたら昨日で枯らしたはずの涙がまた浮かんできて、それを見たマキちゃんが優しく私の頭を撫でた。
「とにかく一から全部、私に話してみなさい!」
洗いざらい月曜日からの怒涛の日々を告白した私に、マキちゃんは大きく溜息を吐きこめかみを押さえた。
「はぁ~、月曜の告白のこととか何で今まで黙ってたの?」
「だって信じられなかったんだもん。 両思いになれるなんて夢みたいで。……実際、夢みたいなものだったんだけど……」
「それにしても許せん! 須賀啓介! リナから好かれるだけでも憎々しいのに振るなど言語道断! しかも思わせぶりな態度まで取りやがるなんて、簀巻きにして日本海溝に沈めてやる!」
拳を握っていきり立つマキちゃんに慌てて弁解する。
「須賀君は悪くないから!」
「勘違いさせて思わせぶりなこと言ってデートまでして、リナを傷つけたのはアイツでしょ!?」
「違うの! 私が勝手に思い込んでたのがいけないの!」
「リナ……アンタどんだけいい子ちゃんなのよ……」
「私のために怒ってくれて、ありがとマキちゃん。でも、もういいんだ! 私なんかが好きな人とデートができただけでも御の字だってね!」
「私なんかって言わない! リナは可愛いんだから!」
「そう言ってくれるの、マキちゃんだけだから説得力ないよぉ~。そもそも地味だからあんまり話しかけてくれる人いないし~」
「アンタ……本当に自覚ないわけ? それもう立派な罪よ? 罪! 高嶺の花過ぎて誰も話しかけられないだけだから……」
小声でブツブツ呟くマキちゃんに首を傾げる。
私を『可愛い』って言ってくれた人は本当はもう一人いたけれど、その人の可愛いは私だけに向けられたものじゃなかった。
彼にとってはきっと息を吸うように紡がれる可愛いは、それでも可愛いには違いないけれど、私が望んだ特別な可愛いではなかったのだ。
またしても決壊しそうになる涙を慌てて堪えて早口で捲し立てる。
「あーあ、チョコレートもマフラーも無駄になっちゃった! てゆーか2月なのにこんなに暖かくなるなら、もう今更マフラーなんかいらないよね? こんなことならそのお金で、もやしでも大量に買えばよかったよ~。あ、でもマフラー買わなかったら毎日もやし食べる必要なかったね。仕方ない! 高級チョコは自分で食べちゃおっと。1粒500円だよ!? もやし何個買えるだろう? マフラーはお父さんに……はデザイン的に無理がありそうだから、癪だけど可愛くない弟にでもあげるか~」
強がる私の言葉を静かに聞いてくれたマキちゃんが痛ましそうな瞳を向ける。それに気付かない振りをして時計を指さした。
「ところでマキちゃん、バイトの時間大丈夫?」
「げっ! もうこんな時間! ……リナ! 明日の夜7時に合コンやるから空けといてね!」
私の言葉に慌てて時計を確認したマキちゃんだったが、彼女の言葉に私も慌てる。
「明日!?」
「そうよ! 男を忘れるには新たな男よ!」
「でも明日ってバレンタインだよ? それに今日の明日で合コンなんてメンバーが……」
集まるわけないと言おうとした私の言葉はマキちゃんに遮られる。
「集めるわよ! 私を舐めてもらったら困るわ!」
「でもでも! 私、金欠だし!」
「大丈夫! 全額男に支払わせるから!」
「そ、それはさすがに相手の方に悪いのでは!?」
「バレンタインに可愛い女の子と食事ができるだけでも全額払う価値はあるわよ! そういう男を集めるから平気だって! それにうちのお母さんが合コンで女の子に金を支払わせる男はクズだって言ってたし!」
「マキちゃん! それたぶんバブルの頃の話だよ!?」
「細かいことは気にしない! じゃあ、リナ。また明日ね!」
私のツッコミなど意に介した風もなく脱兎のごとく駆け去ったマキちゃんを見送って、手にしたミルクティーを飲み干す。
マキちゃんが買ってくれたミルクティーは甘くてとても美味しかった。
ミルクティーを飲み終えた私が席を立つと、校舎の方から茶色の髪が周囲を見回しながら走ってくるのが見えた。
それが誰だかわかってしまって、ついベンチに隠れるように小さく縮こまってしまう。
まだ須賀君と正面きって会う自信は私にはなかった。会ったらきっと諦められなくなる。
幸いベンチの横には生垣があって私の姿は彼に見つからなかったようだ。
息をとめて彼が通り過ぎるのを待っていると須賀君に声が掛かる。
「あれ? 啓介? まだ学校にいたんだ? 授業終わったら速攻消えてたから、てっきり帰ったのかと思ってた」
「あ~、そのつもりだったんだけど……」
「何だ? 会えなかったのか? 坂崎さん」
名前を言われて更に縮こまる。
そんな私に気が付かずに須賀君とたぶん彼の友人は歩きながら会話を続ける。
遠ざかってゆく二人の会話が地獄耳の私には聞こえてしまっていた。
「ああ、午後の授業の教室に迎えに行ったけど、もう居なかった」
「そっかぁ、残念だったな。明日はバレンタインだしお泊りデートとかできたかもしれないのにな」
「お泊り……」
「彼女一人暮らしなんだろ? いいよな。やり放題じゃん」
「お前、下品」
「昨日も他の女に告られたんだろ? 坂崎さんといい、モテる男は羨ましいよ」
「別に……な……て興味ないし」
「別に」に続く言葉が上手く聞き取れなかったが、吐き出すように言った須賀君の言葉に私の心臓が凍り付く。
どうか見つかりませんようにという私の願いを神様はどうやら聞き届けてくれたようだったが、私の気持ちは配慮してくれなかったようで、渇いた笑いが浮かんできた。
「興味ない……か。わかってはいたけど、本人の口からきくとけっこうくるものがあるなぁ。それに私って所謂セフレってやつにされそうだった? 良かった! そうなる前に気付けて本当に良かった!」
自分に言い聞かせるように精一杯の強がりを言って勢いよく立ち上がる。
須賀君と一緒に歩いた道を通る気にはなれなくて、大学もわざわざ裏口へ回って校外へ出るとアパートへの道も遠回りしながら進むことにしてウロウロと街を彷徨った。
途中で携帯が何度か鳴ったけれど鞄の奥底にしまったそれを取り出す気にはなれず、通りがかったお店の前に並んだバレンタインのポップを冷めた目で見つめた。
また少し色々あったことを思い出して涙で信号機は歪んだけれど、昨日よりもほんの少しだけ痛まなくなった心に、きっとこうして涙は枯れて、私の恋心も萎れていくんだなと自嘲した。
明日の最終話は19時に投稿します。
ヤンデレ解禁しますが、最後までお付き合い頂ければ幸です。