ドア
道端の石に対して苛立ちながら、何度も蹴りつけている女の姿がある。夜でなければ太陽の光に透けるような金色の髪。顔の一つ一つのパーツも整っており、男性のみならず女性でさえも、すれ違いざまに一目見ようと振り返ってしまうだろう。今は、その面影も見られないが。
篠森綾華は非常にイライラが募っていた。今年も大学のミス・グランプリで優勝出来なかったからだ。綾華は自分でも、美人の部類に入ると認識している。周りもそれを理解しているとも考えている。
スタイルも抜かりなく、食事制限やトレーニングを毎日行っていた。だが、優勝出来なかった。どこの馬の骨とも分からない、自分よりも一つ下の学生に優勝の座を奪われた。
「ああもう!むかつく!」
グランプリの発表では、綾華は三位であった。表彰ももちろん受けたが、内心に湧き上がる憎しみにも似た衝動は抑えられない。
「そもそも、少し年齢が低いからって、男共はすぐに鞍替えして……歳取るのは仕方ないじゃない!イライラする!」
グランプリの表彰後、男性陣からの誘いはあったが全て断った。屈辱感がまだくすぶっていたからだ。
このイライラは買い物で発散するしかない。人目につかない場所で、石を小突いていた足を止め、繁華街のほうへと向かっていった。
繁華街に辿り着き、お気に入りのブランドショップで複数の服を手に取り、何度も吟味する。美しい自分に相応しい服がどれなのか。
それを考えるだけでも、苛立ちは薄れていった。何着か買う服を決め、店員を呼びつける。会計も終えた頃には、先ほどのもやもやした感情は無くなっていた。
日もすっかりと落ちた夜。外灯の少ない夜道を一人で歩く。ヒールの高い靴を履いている為、歩く度にカツカツと規則正しい音が人気の無い住宅街に響き渡る。
「来年こそは優勝よ。絶対に」
夜道で呟きながら、片手に下げたブランドのロゴ入りの袋を振り回す。ふと、背後を冷や汗がつたった。苛立ちとは異なる不快感。
胸の奥がざわめき、吐き気をもよおすほど。すぐに後ろを振り返る。
誰もいない。
外灯に照らされた歩道が続いているだけである。気のせいかと思い、また数メートル程歩く。
カツカツカツ……
ザッザッザッ……
「えっ!」
驚いてまたも振り向く。誰もいない。しかし、確かに今、自分の足音に合わせて、他の足音も聞こえた。気付けば両腕に鳥肌が立っている。襲い掛かる吐き気をこらえながら、懸命に前を向いて、早足で家路へと向かう。
足音は明確にこちらに合わせて耳に飛び込んでくる。顎の先を汗がつたう。拭いたい衝動をこらえ、今の事態を回避する方法を懸命に模索する。
(どうしよう。絶対に後つけられてる。警察?けど、この周辺に無いし。そうだ!)
綾華は閃き、とっさに普段とは違う道のほうへと体を向け、早足をやめてヒールでありながらも走り出した。
途中、何度も転びそうになるが、追い付かれる恐怖感からか踏ん張ることが出来た。綾華の選択した道は、遠回りになるが、途中から家路への道に合流する迂回路。全身が悲鳴をあげるほど、走り終えた後、後ろを振り返る。
もう気配は無くなっていた。
「良かった……さっさと家に帰ろ」
荒れた呼吸を整えた後、家路へと戻る。綾華は現在一人暮らし。彼氏や同居している友人等はいない。自分に見合う人物でないと、部屋にあげたくないと強く思っているからだ。十五分ほど歩き続けて、ようやくマンションが見えた。
「ここまで来れば大丈夫でしょ」
笑顔でそう言うと、共用玄関の鍵穴に自分の手持ちの鍵を差し込んで回す。聞き慣れた音を発しながら、ガラス製のドアが右側にスライドする。
ドアの向こうへと歩き、郵便物を確認。曲がり角にあるエレベーターへと向かう。手に取った郵便物のチラシをバッグに詰め込みながら、エレベーターのほうへと顔を上げると、黒ずくめの男が立っていた。
その姿を見た瞬間、綾華は直感した。この男が先ほどまで自分の後ろをつけていた男だと。
男は無言で綾華のほうへと歩いて向かってくる。口元に薄ら笑いを浮かべながら。
「いやああああああ!」
悲鳴をあげながら、震える両足に鞭打ち、すぐ側にあった非常階段への扉を開け、全力で階段をあがる。
(私の部屋は五階だけど……何とか大丈夫なはず!)
綾華は体力に自信を持っている為、男の足であろうと追い付かれる恐れは微塵も感じていなかった。ヒールではあるが、階段をあがるペースは衰えない。
五階の通路へと繋がる扉の前に着いた。呼吸を荒げ、両膝に手をつく。男が階段をのぼる音が聞こえる。息を整える暇は無い。
「一体なんなのよ。もう嫌」
両足の痛みに顔を歪めながらも、目の前の扉を開け、廊下に飛び出る。廊下も早足で歩く。両足の踵からはすでに血が滲み出している。自分の部屋のドアの前に着く。鍵穴に鍵を差し込む。
ガチャリ
鍵の開く音を確認すると同時に、ドアを両手で思いっきり引く。
ガチャンッ!
「は?」
綾華は目の前で信じられない光景を間の当たりにした。銀色ににぶく光るチェーンがドアの隙間から見える。
ドアチェーンがかけられていた。
にぶく光るチェーンを見つめながらも、困惑し両手はドアを引っ張り続ける。
ガチャンッ!
ガチャンッ!
ガチャンッ!
何度引いても、チェーンが外れる気配は無い。連動するように、綾華の表情から感情が抜け落ちてゆく。
「ああ。ああ。どうして。どうして」
ついには、廊下に座り込んでしまった綾華を見下ろす人影が、真後ろから伸びていた。