第120話 自分の話②
「そうか……」
ヘテルの告白に静かに返す。そこまで驚くことではないだろう。いくつか予測していたことの一つに、当てはまっただけなのだから。だから大人の俺は冷静さを保ってしかるべき、そういう心構えをしていたはずなのだが……思ったよりも動揺してしまった。
何か気の利いた一言も言えないで。
こちらのことを信用して、胸の内に秘めたことを言ってくれたのだから、安心させる何かを言わなければいけなかった。だけど言葉は何も出てこない。
こういうことは初めてではないのだが、それでも何も言えないのは、やはり経験が足りないからか。
悔いながら、それでも何もできなくて、時間だけが過ぎていく。
するとその内に、ヘテルがまた口を開いた。
「話したことならあるんだ。一度だけ」
「おぅ」
こちらが不甲斐ないからか、ヘテルに気を遣わせた。いや、きっとこいつのことだから、気を遣ったとも思っていないのだろう。多分まだ自分が話す番だと考えているのだ。
そう捉えさせてしまうことすら申し訳ないが、ならばここで、こちらが口を挟むことこそ、今となっては失策だ。相手の感覚が狂うから。
そう判断して、聞くことに徹した。
「その時、言われたんだ。その人、おばあちゃんに……」
その人と区切った。恐らくは誰に言われたのか、言いたくなかったのだろう。その淀みは恐らく自分のため。自分の秘密を打ち明けることすらできた祖母の存在は、ヘテルにとって貴重な人だったのは疑いようもない。
「『好きなことはすれば良い』。『でもそれは、きっと今だけのことだから、気にしなくていい』って」
「……そうか」
そんな大切な人から、それだけ言われたヘテルは、その時どれだけのことを考えたのだろう。少なくとも辛いや悲しいじゃ、言い表せないことは間違いない。
「僕は、その時だけ、例えば編み物をするのが好きだった訳じゃない。ずっと好きだったし、やりたかった。そういうのが」
服にシワができるほど、くしゃりと握り込む。大切な自分の思いを逃さぬように。
「他の子が好むことに僕は興味がなかった。僕の村では狩りをしていたんだ。だからなのかな? 男女で役割が明確に分けられてた。男の人は狩りで、女の人が家の中の衣食住」
昔のことを懐かしんで語る姿は儚くて。仮に今が死に際だと言われても、疑いすらしない。それほどの届かない願いを抱えていた。
「僕は狩りに興味がなかった。それより、お母さんに付いて行って、野草とか食べられる種子とかを採る方が好きだった。好きだったんだ……」
合間に呼吸があったと思わせないほどの語り。一息に喋ったんじゃないかと錯覚する。
抱えていた思いは、心の内で流した涙を吸って、ずっとずっと重くなっていた。そしてそれをようやく吐き出せたのだから、呼吸も荒くなるというもの。
はぁはぁと肩で息をするヘテルは、しばしの休息が必要だった。だからそれを見守って、その間、今聞いた内容を自分の中でまとめた。
そうしてまとめる内に一つ疑問が出てきた。これを訊くのもどうかと思うが、それでもこの点を間違えれば、それはそれでずっと傷が残ることになる。だから呼吸が整ってきた瞬間を待って尋ねた。
「お前は……そういうことをする女性に憧れたのか? それとも女性性の役割がやりたかったのか?」
予期できなかった質問かもしれない。だってこの分け方は、まだ十にも満たない子どもが理解するには難しい概念だろうから。というよりきっと多くの人が理解できない。視野の範囲外の質問だ。だけどこのことは明確に、はっきりさせておかなくてはならない。でなければ【望むものになった時、より苦しむ】ことになるから。
「あ、えっ。うん、と?」
ヘテルは困っていた。意味が理解できないなら、もう少し分かりやすく付け加えるべきだったが、どうもそういうことではなく。自分に疑いの目を向けているようだった。
本当に賢い子だ。
だから答えが出るまで、またしばらく黙った。
それからやはり少しだけ間が開いたあと、ヘテルは恐れるように、口を開いた。
「分かんない」
意味を理解できても、難しかったか。
なら、いいよ。大丈夫。そう言おうとしたが、ヘテルの口はまだ閉じてはおらず、どうにか続く言葉を探していた。歯噛みする音、目線が泳ぐ。
「でも、誰かの、誰かを支えたいって、思う……の……」
ヘテルは伏し目がちにこちらの表情を伺って、手は自分の服の裾をぎゅっと握っていた。自分のことを、考えを晒す気恥ずかしさからか、頰は上気したように、ほんのり赤らんでいた。
──その言葉が、その態度が全てだった。
「そうか……」
これだけ言えるのなら、きっと選択した後にも後悔はしないと思う。だから。
「分かった。分かったよヘテル」
目の端に涙が滲んでいたから、立ちあがり近寄って、懐から取り出した布で、それを拭ってやった。
✳︎
「ほら、これ」
「ありがとう……」
今まで溜めてきた思いの関を切ってしまったヘテルは、それからしばらくの間、泣き続けた。
今の状態のヘテルに動いてもらうことは酷だと思い、心を落ち着ける必要があると考えた。だから足早に宿屋に戻って、少し厨房を借りて、温かい飲み物を二人分持ってきた。
どこかで店が開いていたならそこで買った。しかし夜はすっかりふけたらしい。どこもかしこも閉まり切って、聞こえてくるのは、最早寝息だけ。
まぁだからこそヘテルを一人に出来たわけだが。
色々な思いを背に、二人揃って飲み物を飲む。飲み物は、乳鹿の乳を土壺に入れて温めたものだ。これで多少なりとも落ち着いてくれればいいが。
そんな心配をしていたが、ヘテルは自分が思ったよりも、ずっと強い子だったみたいで。一口すする毎に、どんどん活力を取り戻していった。この分なら、何事もなければ、あと数刻のうちには動けるようになるかもしれない。
ヘテルの様子が思ったよりも良かったから、気を落ち着けて、気分を楽にした。
「ねぇ、アルト。僕からも聞きたいことがあるんだけど。いい?」
ヘテルから声がかかった。なんだ? と返したら、強い灯を宿した目をこちらに向けて、「うんとね。どうしてアルトは驚かないの?」なんて訊いてきた。
それを聞いて、やっぱりまだ解消出来ていない部分があることを察した。だからきっと、今も自分に責任を感じていて、どうにか誰かに責めてほしくて、そんなことを言うのだろう。
否定の言葉なんかは、もちろん言う気は無かったから、口元を隠すようにコップを口に付け「それは、まぁ予想していたから……なぁ」なんて歯切れ悪く言った。そうしたらなおも、ヘテルは食い下がった。
「じゃあ、どうして否定しないの?」
「否定……」
つい繰り返してしまった。この言葉も予想できたものだった。根本的にこいつは優しい。そして責任感が強い。子どもにしては、随分と苦労する性格をしている。それは元来のものもあるだろうし、生い立ちのせいもあるだろうし、今の状況もあるのだろう。異業種っていう状況が。
もしかしたら、どこかでまだ捨てられてしまうことも危惧しているのかもしれない。その証拠にヘテルはこう続けた。
「だってアルトは、誰かを嫌いになれる人間だから」
確かに俺は、ヘテルを拾いたくて拾ったわけじゃない。セアが言うから仕方なくだ。なんだったら関わることだってしたくなかった。だって異業種だ。頭の足りない記憶喪失の翠髪はともかく、俺は異業種と共に行動する危険を知っている。
そういった考えが常にあったから、節々の態度でそういう風な印象を、潜在的に与えてきてしまったのかもしれない。例え、今の自分がヘテルを見捨てる気がないとしても。
だから一度口を閉じた後。こちらも意を決した。あまり言いたくないことだ。忘れたかったことだ。話のタネにするなんてもっての他の、自分にとっての禁忌。
だけどこのことを言わざるを得ない。ヘテルの信頼と安寧を保証しようとするなら。
ヘテルの言う通り、俺はあまり良い人間じゃない。他者を嫌いになれる人間だ。というより嫌いな奴がほとんどだ。そんな自分がそれでも今、セアやヘテルと関わる、その理由となっているヒト。
「昔、昔な。同じことを言う人が居たんだよ。その人の場合は、お前とは逆だったけれど」
きっとあの人は怒らない。誰かを助けるために、話題に出すのなら怒らない。自分の口から出すのは、怒られるかもしれないが、誰よりも優しいあの人だ。俺っていうゴミの口から、出されることを差し引いたとしても、きっとそちらを優先してくれるだろう。
「その人って、誰?」
ヘテルの言葉を聞く。それでようやく、ようやくあの人のことを口にするのだ。こいつが救われてほしいと思うから。
「俺の一番大切な人。その人……師匠の名前は」