第117話 君が隠したかった②
意味深にヘテル君のことを尋ねられてから、程なくして彼らは帰ってきた。
アルトさんが手に持つお盆の上には、銀製の陶器─注ぎ口から湯気が出ている─や、いくつか木製のコップがあった。
それでアルトさんは別段普通なのだが、ヘテル君がしょんぼりしているのが目についた。気になって話を聞いてみたら、熱くて危ないからと、お盆を持たせてもらえなかったそうなのだ。それが悲しくて落ち込んでいるとのこと。
武器が散乱する物騒な部屋にいたからか、大変ほっこりした気分になった。
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ヘテル君がたおやかな動作で、それぞれのコップに湯を注いでいく。コップに注がれた湯はほんのりと赤らんでいた。
こういう色合いになる訳は、陶器の開口部の辺りに平網があって、そこに植物の花の粉末だとかが、置かれているからだそうだ。
その主な目的は、香りを付けることらしいが、正直わたしは、どうしてそんなことをするのかよく分からない。
ぼんやり考えながら、アルトさん達がするように、わたしも茶を口に含んだ。うん、やっぱりよく分からない。
「うぇーー熱い。それに、わざわざ香りとかって付ける必要ある?」
なんか同じ価値観の人がいた。
ベロをうげーと出して、私は苦手と主張するギーイさん。だけども彼女は、アルトさんに窘められていたし、静かに座っていたヘテル君は、それを聞いてしょんぼりとしていた。だからわたしは余計なことは言わずに、ずずっと飲み干した。
「ぶーぶー。苦手なものって誰にでもあると思うんだけどな〜。アル君」
「お前は苦手なものがありすぎだ」
アルトさんが、じとーっとした言う。
「へぇ。そんなに多いんですか?」
気楽に訊いたことだったから、「うん。セアちゃんとか苦手だし」という言葉を耳にした時、思わず硬直した。アルトさんはぶふっと、隣で吹き出していた。
「まじかよ」
むせたアルトさんは、ヘテル君に口元を拭かれ、介抱されていた。
「あはははは。もちろん冗談の冗談の冗談の裏表だけどね〜」
冗談の冗談のじょうだんの、う……ら、お……。
ギーイさんの発言を追って考えてみたが、残念なことに理解できなかった。でも多分、いつもの悪ふざけだろう。真に受けることじゃない。
そのように考えて、仕方ないという態度でいたら、ギーイさんは愛らしくベロをちろっと出していた。やはり冗談だったらしい。だが、まぁ本音は本音と、ゆずる気はないらしい。彼女は続けた。
「うん、でもやっぱり、汚いから苦手だよぉ。セアちゃんの胸元の花とかも、心底反吐が出る思いだよぅ」
自分だけでなく、自分が下げている花にまで、嫌悪が向けられるとは思ってもみなかった。
それに花って言えば綺麗なものの代名詞─セアちゃんの価値観─で、汚い物とはかけ離れている気がするけれど。
まぁでも、人それぞれ色んな価値観があるよねと、受け入れて頷いた。ただアルトさんは、口元を尖らせていた。
「お前は捻くれてんな。ほんと」
呆れて言う。相当強い語気だったが、ギーイさんはそれを、こともなげに受け止めて、笑いながら返した。
「あはははは。けれどね。世の中っていうのはそんなものさ。捻くれてない人なんかいない」
およそ友達に向けるものではない視線で、わたし達全員を見渡した。見下しているという表現が適切だと思った。見下されるのはアルトさんで慣れているから、そこまで傷つかないかな〜? と思っていたが、存外ギーイさんの視線は、心に刺さった。
「だからね。アル君。ほぅら、口の中見せて〜」
部屋の中の雰囲気は下げるだけ下げたが、逆にギーイさんの気分は上がっているようで、床の上で茶をすすっていたアルトさんに、狩りを行う獣のごとく飛びかかった。
「うわ、お前。何するやめろ」
アルトさんはギーイさんの拘束を振りほどこうと、手や足を巧みに使うが、どれも先読みされるみたいに、的確に彼女によって無力化されていく。そしてついに完全に身動きが取れない状態となって、口元を無理矢理開けられた。
「これをこうして……」
あがあがとアルトさんが、苦しそうに下顎と上顎を動かす。でもギーイさんの前ではそんな抵抗は無駄で、歯に何かを取り付けられてしまった。
目的を達したギーイさんがアルトさんからどく。彼はごほっごほっとむせながら、自分の歯の裏を触っていた。何かカチッカチッとぶつかる部分があるみたいだ。
「何これ?」
訝しげに尋ねると、ギーイさんはほっぺに人差し指を押し当てて、甘えた声音で言った。
「火打石❤︎ カン! って噛み合わせると火花が出るよ。はい、これ。油玉」
アルトさんはいらんいらんと、身を引いて手で押し返そうとするが、やはりギーイさんの方が上手で。馬乗り状態になると、彼の上でにたにたといやらしく笑っていた。
「ええ〜受け取ってくれないんなら、このままエッチなことしちゃうけど〜〜いいの?」
何かいけない雰囲気を醸し出すギーイさん。わたしは子どもだから分からないが……。そのまま何かが始まるとするなら、わたしやヘテル君、それにソフィーちゃんも、部屋を出た方がいいのかもしれない。
「やめろ年増ァァ!!」
アルトさんが怒りに身を任せて叫ぶ。
「年増なんですか!?」
わたしが食いつくと、アルトさんは馬乗り状態のギーイさんと格闘しながら答えてくれた。
「こいつと出会ったのは、もう七年も八年も昔の話だが、こいつはその間ずっと姿が変わっていないんだ! 若作りも大概にしろ!!」
「なるほど……永遠娘ちゃんでしたか」
「何その呼び方!?」
咎めることに意識を向けたからか、その隙をギーイさんにつかれてしまった。彼女はずいっと顔を近づけた。だがアルトさんは、歯を噛み合わし火花を飛ばすことで撃退した。……もう使いこなしてる。
災難続きのアルトさんは、やっとの思いで半身起き上がらせると、ギロリと睨みをきかせた。
「えへへへぇ。私は化粧が上手だからねぇ」
アルトさんに反抗されてもムキになることはなく、むしろ成長を喜ぶみたいに、クスクス笑っていた。
だがそのやり取りには違和感がある。ギーイさんは割と自分勝手な人で、アルトさんを絶対的に見下している、そんなことは今日のやりとりを見るだけでも分かる。だというのに、『年増!』だなんて言われても、怒ったりしないのは、おかしいじゃないか。
なんでですか? みたいな視線を送ると、ギーイさんは意図を読んでくれた。
「いや、そんなことしないけど」
「えっ、どうして……」
なんでアルトさんのことを殴らないんですか? そう続ける間もなく話してくれた。
「うーん。だってここで暴力を振るっちゃったら、それは道理でしょ。殴られるようなことを言って、実際に殴られる。それは予想できちゃうことだよぅ。私はね、そんな暴力を振るいたくないんだぁ」
何か悪役の美学を聞かされているみたいだ。多少の価値観の違いは面白いものだと思うが、ここまで考え方が違うと、戸惑いの方が強くなる。けれどギーイさんの考えが、どういうものか気になってしまう。
「じゃあ、どういう暴力を?」
ギーイさんに尋ねると、彼女はその言葉を待ってましたと言わんばかりに、屈託のない笑みを浮かべた。
「決まってるよね。理不尽な暴力だぁ。殴るべき場面じゃない時に殴る。自分が悪かった時に、相手をめっためたにする。それが正しい暴力のあり方だよ」
回答はわたしが期待する通りの、いやそれ以上の代物で……。半ば笑いながら、アルトさんに助けを求めた。
「やべえよ。この人!! どうしてこの物語、こんな奴しかいないんですか!?」
「俺が知るか」
アルトさんには軽く流されて、ギーイさんには「えへへへへぇ」と笑われた。ヘテル君だけが、心配そうに見つめていた。
「でもでも、やっぱり傷つくものは傷ついちゃうよぉ。私はアル君の師匠だっていうのに……」
「誰が師匠だ。俺は一度もお前のことを師匠だなんて思ったことはねぇぞ!」
アルトさんがもう我慢ならんと、癇癪を起こして言う。でもその発言は流石に見過ごせない。物語の矛盾という意味で。
「えっ、それは嘘ですよ」
「いいや、こいつを指して師匠なんて言ったことはねぇな!」
アルトさんは認めないと首を振る。こうなったアルトさんは割と強情なので、自分の間違いを認めさせるには、証拠を突きつける他ない。
「えええ。じゃあ、ちょっと待ってて下さい。一話から一気読みしてくるんで」
「お前は何を言ってるんだ」
アルトさんの言葉は無視して、目の前の何もない空間で指をすっすと動かす。実際何もない空間だが、それでも何かを幻視するように。そしてしばしの時間の後、驚きと共に納得する。
えっ、本当だ。ギーイさんのことを師匠って一度も言ってない。
そうこうしてる間に、言い争いに飽きたのか。ギーイさんがこちらへ近づいてきた。そして後ろ手に持っていたものを見せてくれる。
「忘れてた。後これね。あげる」
そう言ったギーイさんの手の上には、黒い手袋のようなものがあった。ただしそれはそれなりの長さがあって、単純に手袋とするには違う気がした。
頭にはてなを浮かべて、表情で問いかけると、ギーイさんはほっぺたに人差し指を当てた。
「これはね。不定形の粘液みたいになった部位を、固定するための物なんだ。簡単に言えば、異業化した部分を、それっぽく見せることができるんだよ」
「へぇ、そうなんですか……」
異業化した部分をそれっぽく見せる、それが本当だとするなら、わたし達にとってはありがたいなんて話どころじゃない。実は今までにも何度か、ヘテル君の腕をどうにかできないものかと、手袋的な物を試してみたりしたのだ。しかし結果はどれも同じで、ヘテル君の腕に触れた物質は、しばらくしたら彼の腕の中に沈殿していって、最終的には形をなくしていった。
その度にヘテル君が悲しそうな顔をするから、いつからか実験はしなくなったけど、ここに来て、そういう希望が出るなら本当に嬉しい。
と、そこまで考えた所でようやくギーイさんの発言の意味に気づいた。
「あれ、え、何で、異業種って……?」
ギーイさんに対面してから、わたし達はまだ誰も、ヘテル君が異業種だと言うことを言及していない。だというのに何故この人が知っているのだろうか。呑気にうんうん頷いていた自分を恥じた。
わたしはどんなかも分からないが、自分が思う臨戦体制をついつい取っていた。といっても、いざそういうことになったら、逃げの一手なんだけど。
緊張した一瞬。どくんと誰かの鼓動が聞こえるくらいの静寂。糸が張り詰めるような緊迫した時だったが、アルトさんの一言でかき消えた。
「いや、ギーイには俺達の事情を伝えてあるから、心配しなくて平気だぞ」
ギーイさんから新しくもらった武器を、難しい顔つきで眺めるアルトさんが、ついでのように言う。
「はぁぁぁぁあああ????」
だからちょっとイラッときて、声を荒げる。
「いや、それはふざけてません?」
「すまん。考え事が多くて、伝え忘れてた」
人の失敗にはつけこむくせして、自分の失敗は棚に上げる姿勢は良くないと思います。
「あははは。それは言ってなかった私にも非はあるかもだから。ごめんよぉ、言わなかったら面白そうなことになるかなって思っちゃったから。ついね」
悪気なく言うギーイさんは、まさにギーイさんという人格を表しているようだ。
「人が悪りぃ!!」
わたしがそう言うも、ギーイさんはうんうん♪と楽しげに、罵倒されたことをむしろ喜んでいた。
「あはははは。うん、そういう訳だから、アル君達の事情は色々と知ってるよ。例えば森の精霊に会いに行くために、ウェンの大森林に行かなきゃならないこととか」
楽しげなギーイさんは、興が乗ったらしく、普段から軽い口をさらに軽くして、からから笑う。
「──それから」
そう前置きした時に、口元がいやらしくつり上がったのをわたしは見逃さなかった。だから、また何か余計なことを言って、アルトさんを怒らせるんじゃないかと危惧した。
結果的に言えば、その予想は当たっていたのだが、言われた言葉は斜め上をいくものだった。
「その子が男の子だってこととか」
ギーイさんは目を据わらせて、珍しく真面目なーー冷めた表情をした。さっきまでからから笑っていた人が、急に身にまとう雰囲気を、そんな風に変えたものだから、柔軟に対応できず「ぇあ」と何とも言えない相槌をしてしまった。
そのことを恥じて、すぐに冗談まじりに言った
「ああ、だから間違えなかったんですね。結構初対面の人は割と間違えるんですよ。失礼しちゃうんですよね〜」
さっきの失敗はあったが、まぁでもまだ空気読めてない訳ではないだろう。きっと他の皆も同意しながら、笑ってくれるものだと、そう思っていた。しかし意外なことに予想は外れて。細めた目を開いたら誰も笑っていなかった。
それを見て、あれ、また何かやっちゃったのかな? と思ったが、どうやらそういうことではないみたい。ただ、ある一人の人物が、わたしの冗談を笑えないものにしてしまっているみたいなのだ。
ギーイさんは笑わない目で、口をにんまりと横に広げて言う。
「本当に失礼なのかな?」
にたにたとした口で言う。これから憎悪を撒き散らすから、そんなことを言いたげな楽しそうな笑みで。
「どういう意味ですか?」
その一言はもしかしたら言ってはいけなかったのかもしれない。でも誰かが訊かなければ、もっと酷いことが起きるような予感もした。だからしょうがない、そう自分を納得させたが、それでもやっぱり訊くべきではなかったかもしれない。ギーイさんから返される言葉を聞いて、わたしはそう思った。
「人はね。自分が与えたい印象を選んで与えることが出来るんだよぉ。例えば私みたいに、変わった話し方をすれば、変な人って認識をしてもらえる。例えばアル君みたいに、しょっちゅう格好をつけていれば、気位の高い人なんだって思わせられたり……。まぁ、アル君は意図的じゃないかもしれないけど」
記憶が霞んだおぼろげな記憶。だが確かに、いつか教会で見た悪しき人物のように、狂ったように笑いながら、彼女は語る。語る語る語る。
「ギーイ黙っとけ」
先程の比ではない。アルトさんの声は怒気に満ちていた。血管が浮き上がり、指の先まで強張った掌は明らかに力がはいっていた。そんな目に見える警告を、すぐ近くでされているにも関わらず、ギーイさんは決して口を閉じない。
「まぁ意図的、意図的じゃないは問題じゃないよ。自分がそう見られたいって意志がなければ、そう見られることはないからね。可愛い人が可愛く見えるのは、可愛く振る舞うからだ。本当に可愛いって言われるのが嫌なら、整形でも何でもすればいい。そうしないのは望んでいるから。そう見られることを」
ギーイさんの語りはー適切な表現ではないのだろうがー、何というか魅力的で、ついつい彼女の仕草や表情に視線を持っていかれていた。が、ばきりと大きな音が響いたことで、わたしの意識はそちらへと向けられた。
「ギーイ!!」
怒声が響く。アルトさんの方を見れば、木製のコップの取手は外れ、どころか粉々になっていた。無残に壊れた残骸が、彼の今の心情を如実に語っていた。しかし……それでも続くのだ。
「お茶を振る舞うんだ献身的だね。喧嘩を仲裁するんだ優しいね。座り方に雑音がない、おしとやかだね。怖い物から逃げて、人に助けを求めるんだ感情的で従順だね。そして振る舞いが野暮ったくない綺麗だね」
アルトさんは何度も制止の声をかけたが、ギーイさんの言葉は止まらなかった。そして言葉を向けられた当の本人であるヘテル君は、陸に魚が打ち上げられたよう、そんなことを思わせるほど狼狽していた。そんな状態の彼は、さらに続けられた彼女の言葉によって、何か……何かトドメを刺されたみたいだ。
「でもなんだかそれってさ。【女の子がすること】みたいだね」
「…………ッ」
ヘテル君は絶句する。でもまだギーイさんの言葉は終わらなくて。むしろここからが本番だと言うように、今までよりも楽しそうな声で、無垢な笑みを浮かべた。
「いやだって、そうじゃないか。君と会ったのは今日が初対面だけど。男と思わせる要素を君はちっとも出さなかった。君は可愛いね。君のことを男と知らなければ、誰だって女の子と間違えるよ。でも、君は男の子だ。男の子がそんな振る舞いをするなんて、それはなんていうか……」
少しためを作ると、さらに笑みを強くした。それでたった一言だけ言うのだ。
「気持ち悪いね」
言葉を選んでいる。人を傷つけようという明確な悪意が、そこにはあった。
そして言われたヘテル君はと言えば、浅い呼吸で、焦点の合わない目で、つま先や掌を軽く痙攣させていた。
いつもと様子が違う。
ギーイさんからもたらされた言葉が、ヘテル君にとってどれだけの意味を持っていたのか、推測するには十分だった。いまの彼の姿は痛々しい。だって彼は──。
考えるよりも先に、滴が床にぽとりと落ちた。