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八、終焉

八、終焉


 年が改まり天保十四年の春を迎えた、ここ四谷外壕堤の桜は例年にも増し満開桜となり連日多くの花見客が訪れていた。


この日 兵史郎も琴絵と下女のヨネを伴い弁当持参でこの賑やかなる堤に訪れた。

だがこの四谷壕は屋敷から目と鼻の先にあり弁当を持参するほどの距離ではない…というのも昨夜 琴絵が珍しく「御父様…花見に行きませんか」と言い出し「どうせ行くなら弁当を持って愛宕山まで足を伸ばしたい」と思い詰めたような顔で言ったのだ。


「弁当持参とは…ほぅこれは豪勢な、兵一郎も行くのかえ」


「旦那様は休めませぬ、代わりにおヨネを連れて行きましょう」


「そうか…今月は殿様の月番であったな、御駕籠警護の御用とあれば致し方なし、じゃが儂も足は治ったゆえそろそろ兵一郎と替わってやらねばのぅ」


「御父様、これを機会に警護の御用は兵一郎様に任せ、後はゆるりと好きな骨董や囲碁に親しまれては如何でしょう」


「何を言う 儂はまだほんの五十七よ、隠居したとはいえ殿様も儂がおらねば寂しいと仰せじゃ、それに用人の御扶持もたんと戴いておるゆえのぅ、まだまだ精進しようぞ」と胸を張った。


朝から台所では料理上手な琴絵とヨネが賑やかに弁当を作り始めた、それも重詰で豪華なものだ。


一の重には玉子焼き・綿蒲鉾・若鮎色付焼・若筍旨煮・打銀杏等々、二の重は蒸魚・鯛の焼物・干大根等々、三の重には昆布締めの刺身に白髪独活の若布添えなど まるで料亭の板前が造ったようにも見え、そのほか甘味の生菓子や酒なども用意された。


弁当造りに手間取り屋敷を出たのが朝四ッ半(10:30)、屋敷を出るとおよそ一里先の愛宕山へ向かう、この時刻であれば女の足でゆるりと歩いても昼には着くであろう。


三人は四谷御門前に架かる橋の袂まで歩き そこを右に折れようとした、そのとき左手の掘割りが開け 外濠堤の桜が目端に映った。


「わっ、綺麗ぃ!」ヨネが感嘆の声を上げた、その声に釣られるように兵史郎と琴絵も外濠堤に目を向けた。


「まぁ、ほんに綺麗だこと、ここの桜がこんなに綺麗だなんて…」と琴絵も目を輝かせ暫し見とれた。


堤には十本ほどの桜が咲き乱れ、樹齢がいっているのかその幹や枝ぶりも大きく、ほぼ満開であろう花群は陽に照らされ鮮やかな桃色に燃えていた。


「御父様…この時刻から愛宕山に行っても混でいるでしょうから…ここで宜しいのでは」


「儂はよいが…お前 愛宕山に行きたかったのじゃろう、昨夜は思い詰めたような顔で言うよって何か事情でもあるのかと…」


「ううん違うの、御隣の多田様の奥方が…屋敷に閉じこもってばかりじゃ御子も出来ませんよって言うから、悔しくて…」


「何だ、そういうことか」


「だって嫁いでもう四年も経つというのに…」


「なあに、まだ二十二ではないか、儂が嫁のお遙が兵一郎を産んだのは嫁いで八年も後のこと、焦ることはないわさ」


「でも…」


このころ花見と言えば上野寛永寺か飛鳥山、あるいは大川堤や御殿山、愛宕山、小金井の玉川上水が有名で四谷外濠など名所には上がっていない、だが今年に限って堤周辺には見物客が溢れ出店さえ出ていた。


「名所でも無いこんな所にこれほどの人出とあれば…愛宕山なんぞ近づくことさえかなわぬかもしれぬ、致し方ない花見はここでするか」そう言うと三人は踵を返し四谷外濠へと歩き出した。


そのとき兵史郎は奇妙な感覚を覚えた、それは余りにも小さな殺気であった。

この気は余程の修練を積み幾多の生き死にの修羅場を潜った者にしか感じ得ぬ研ぎ澄まされた知覚であろうか。


ここ数日の間この感覚は続いていた、それは何者かが兵史郎を何処かから見つめている…そういった気で それも複数と感じていた。


同様の感覚は昨年の晩秋辺りから始まっていたが、年の瀬近く老中首座・水野越前守の命で目付衆が動き、九段坂の襲撃と小田宗達暗殺の容疑者八人が捕らえられたころよりその気は消えた。


捕らえられたのは老中土井利位の姻戚に繋がる吉田家の関係者八人で、評定所で証拠を元に厳しく詮議されると十二月二十日には以下の如く結審し評定所の獄に繋がれた。


旗本二千石先手組頭の吉田市之丞は監督不行き届きとして御先手組頭を罷免、その身は大久保家にお預けとなった。


首謀者とされる家老・本田匡勝とその次男・横内頼母、三男・本田金之助の三人は切腹、また小田宗達暗殺に直接荷担したその家の郎党三人も斬首と決まり、年が明けた一月二十日に刑は早々と執行された。


だが蜥蜴の尻尾切りで、家老の長子である土井家の御納戸頭・本田一之助は各家の連絡役と分かってはいたが証拠不十分としてお構いなし、ましてや老中土井利位が真の首魁と誰しもが分かっていたが…とても届くものではなかった。


刑が執行された翌月、跡部能登守は併職であった大目付を解かれ公事方勘定奉行専任となり、また鳥居耀蔵もこのたびの功労で五百石が加増され勘定奉行勝手方兼任となった。


こうして九段坂の襲撃事件と小田宗達暗殺の件は落着し、目付衆や奉行所配下も捜査班を解散した、これは水野越前守の命によるものらしく この成り行きは老中・土井利位には「上知令には手を出すな」との睨みは充分にきかせたとの判断に依るものであろう、


だが兵史郎にすれば「間ノ原道銃撃事件」は未だ糸口さえ見つけられず暗中のまま、この状況で捜査班を解散するは早計に過ぎ、やりきれない想いに憤りさえ感じていた。


「御老体、このたびの件が土井に及ぶことを上様は憂慮されておる、もし土井が連座すれば幕府の面目は丸つぶれ、まぁ御三家や大奥も喧しくてのぅ…分かってくれぃ」

水野越前守もやりきれぬのかその顔は苦渋に満ちていた。


上様が憂慮されていると言われたならこれ以上の抗弁は出来ぬ、兵史郎は沈黙するしかなかった、だが「奴ら再びおぬしに手を出す様なことがあれば上様が何を言われようと儂は許さぬつもりよ!」と越前守は口元を歪ませ憤りを見せた。


 三人が堤下に着くと場違いなほどに人が溢れていた、

「これほどの人出とは…いやはや驚いたわ」と兵史郎は目を丸くし空いた所は無いかと付近に目を配った。


「来るのが遅かったようじゃ、良き場所はもう無いのぅ、仕方ない桜の正面から外れてしまうがもう少し上手に行くか」

三人は残念そうに桜を見つつ壕上手へと歩き、辛うじて桜が見える空の場所を見つけ陣取った。


「ここで我慢するか」と持ってきた茣蓙を広げ その上に赤の毛氈を敷いた。

「ふむぅ…座ると桜並木の端しか見えぬ、これなら屋敷の屋根に上った方が余程見えるというもの」と苦笑するしかなかった。


そのとき「青山様ではございませぬか」と後ろから声が掛かった。

振り返れば四谷辻を挟んだ斜向かいで呉服屋を営む上州屋の隠居である。


「おやおや幸右衛門殿も来るのが遅かったとみゆる、それにしても御元気そうで祝着に御座る」と挨拶し、その横に連れ添う見目麗しい若い女子に目を奪われた。


「おっと、折角のお楽しみのところ…間近に陣取りこれは申し訳ない」と慌てて目を逸らし向き直った。


「青山様、何を勘違いされて…この娘は孫のお糸でございますよ」


「なに!あのお糸ちゃんか、ほぅこんなに大きくなったのか、ふむぅしかし美しく育ったものよ、一体誰に似たのじゃ」と目を綻ばせ見惚れてしまう。


「青山様、昨年は大変なことが続き儂ら町衆も案じておりましたが、そのように元気になられ良うございました。


でもご注意下されませ…最近この四谷界隈に見慣れぬ男らが度々訪れ青山様の屋敷をしきりに覗っている様子、昨夜も手代の弥助が店を閉めようと外に出たとき二人の怪しげな男らが青山様の御屋敷門から中を覗いていたそうな、今日にでもお知らせしなければと丁度思うておったところです」


「怪しいとは…どのような風体の者らでしょう」


「それが武士か町人か分からぬような格好と手代は言っておりましての、寸足らずの脇差しを腰に帯び陽が落ちたというに深編み笠を被っておったそうな、その後 手代が戸口を閉めようと一瞬目を逸らした隙にその者らは霧のように消えてしまったと言うとりましたが」


「ほぅ霧のように消えたとな…」


「御父様…その者らは屋敷にでも打ち込むつもりでしょうか」

琴絵は心配そうに兵史郎を見詰めた。


「まさか、屋敷内に踏み込んでくる度胸など無いわさ、奴ら火縄を使う卑怯な輩よ、儂が出てくるのを待って再び火縄で撃ち倒そうとの魂胆じゃろう」


「まぁ怖い…」とヨネが怯えた。


「御父様、弥九郎様や千葉様をお呼びになったら如何でしょう」


「そうよのぅ、そいつをらを捕まえるべく屋敷外に潜ませてみるか、幸右衛門殿ご忠告有難く拝聴した、礼を申すぞ」そう言って頭を下げた。


「さて、重詰めを馳走になったらその足で練兵館に行ってみるか…弥九郎がおれば良いのだが」


「御父様一人では危のう御座います…」


「なあにこの人出、昼日中から襲ってくることもあるまい、陽のある内に帰ってくるよって安心せい、しかしこの群衆の中に儂を付け狙う連中が潜んでいると思えば気色の悪いことよ」



 こうしてその日のうちに辻を挟んだ斜向かい 上州屋の二階を間借りし、練兵館の斉藤弥九郎とその高弟二人を見張り役に就けた、また青山家手練れの家臣二人も門の内側に潜ませた。


そして三日目の暮六ツ半(20:00)、屋敷前の辻でけたたましい叫び声が上がると付近に怒号が湧いた、それを聞いた兵史郎は刀を掴むや庭に飛び降り門へと走った。


門に駆け寄ったとき扉は開け放たれ 家臣二人は既に辻へと走ったらしい、兵史郎は(賊らめ網に掛かりおったか!)そう合点し意気込んで辻へと走り出した、


辻には叫び声を聞いたのか既に町民らが出ばり 人垣さえ出来ていた。

兵史郎はその人垣の輪を潜って中へと入った。


輪の中央では四人掛かりで賊らしき二人の男を馬乗りに押さえ、その傍らでは弥九郎が賊らが握る短刀尺の脇差しを強引に毟り取っていた。


「きさまら放せ!放さぬかぁ、我等は通りすがりの者、何でこんな無体な真似をするのだ!」


「ほざくな!こんな夜更けに人の屋敷内を覗くは盗人であろう!」


「やかましい!我らが何処を覗こうとうぬらの知ったことか!」とわめく。


「うるさい奴らめ!」言うや弥九郎は立ち上がりざまに喚き散らす男の側頭部を、首ごと引きちぎれよとばかりに蹴り上げた。


そのとき兵史郎の真向こうの人垣が揺れた、と見るや三人の男らが上段に刀を振りかざし怒声を上げ突っ込んできた、兵史郎は反射的に前に出ながら刀の鞘を掴み腰を低く落とした。


振りかざした男らの刃は賊らを押さえる背にあわや振り下ろされようとしている、その刹那 兵四郎は押さえ込む四人の頭上を高々と飛び越え、着地と同時に抜刀した太刀が音を立ててうなった、その恐るべき一閃は振りかざした男らの腕ごと斬り裂いたのだ。


腕と首廻りを深々と抉られた男らは血飛沫を上げ突出の勢いのまま突っ伏した、遅れて弥九郎に斬りかかった賊一人も弥九郎の目にも止まらぬ立ち居合いの妙技に胴を薙ぎ払われていた。


首から血飛沫を噴き上げ二人の男は悶えるように一際大きく震えると次第に弛緩していった、それを見た町人らは降り注ぐ血に気付き悲鳴を上げ転げる様に逃げ散った。


「弥九郎、怪我は無かったか」


「他に賊が潜んでいようとは迂闊でござった、先生がいなければ三人同時にかかる敵にはとても敵わず…いや危ないところでござった」


「弥九郎よ戦場での油断は禁物よ、もっそと場数を踏まねばの、じゃが儂のように命を賭け諸国を武者行脚する時代でもなし、おぬしは人斬りなんぞ覚えぬ方がよいのかもしれぬ、でっ…生身を斬ったは初めてか」


「はっ、まだ腕が震えておりまする」そう言いながら斬った男を見た。

その男は死にきれず腸をはみ出させのたうち廻っていた。


「ほれ痛がっておる、じきに絶命するであろうが…とどめを刺し楽にしてやれ」


それを聞いた弥九郎は「えっ」と驚き兵史郎を見つめ、暫時息を整えると意を決したように刀を逆手に持ち換え強く握った。


そしてのたうち回る男に「許せ」と小さく呟き その胸を踏みつけ動きを制すると切っ先を左胸に当てた、と同時に「ふむっ」と呻りその胸板に刃を突き通した。


男は一瞬飛び跳ねたがすぐに弛緩していった、その光景を傍らで見ていた賊と高弟らは「ひぃっ」とうめき顔を伏せた、彼らは人が目の前で殺されるなど見たことも無いのであろう、あれほどわめいていた賊二人は喚くことも忘れ、二人を押さえ込んでいた者らも怯えた眼差しで弥九郎と兵史郎を交互に見つめていた。


「おいおい、おぬしらいつまで呆然としておるのじゃ、往来のど真ん中では邪魔になる、我が屋敷にその二人を引き立ててはくれ」

兵史郎は懐紙で刀身を拭い鞘に収めると辺りを見渡した、あれほど犇めいていた町人らは…気付けば一人もおらず 血の臭いだけが辺りに漂っていた。


兵史郎は踵を返し屋敷に向かって歩き出した。

(さて五人は片付けたが…あの銃撃の際 茂みから飛び出してきた賊は確か五・六人と思うたが、咄嗟のことゆえ定かではない、その賊の中に先ほど弥九郎が蹴り飛ばした男が最初に飛び出してきた者と記憶するが…あの夜は暗かったゆえ確信は持てず。


しかし男らの荒い言動や風体など…とても武士とも思えぬが。

だが百姓や町人にあのような慣れや度胸などはあるまい、また先ほど斬りかかった三人の刀法は道場で学んだものではなし…そう戦国の昔、戦場での殺人のみに特化した刀法とはあのようなものではなかったろうか、やはり土井家の裏衆か。


待てよ…あの夜 賊らの動きには躊躇が見られ統率を欠いていたように感じた、ということは賊らを束ねる頭目は別に控えていたということか…。


儂の前に現れた賊らは銃などは持っていなかった、やはり銃を撃った者が頭目で儂の意識がある内は隠れていたか 或いは遅れて出てきたと思うが自然。

ではあの夜と同様、今宵も頭目が銃を携え儂に照準を付けているというのか…)


兵史郎はゾクッと背筋を凍らしその場に立ち止まった。

そして注意深く辺りに目を配ると何かを嗅ぎ取ろうと薄目の思索じみた顔つきになった。


(…気は無い、ふむぅ端からいなかったか…それとも逃げおおせたのか)

兵史郎は後ろを振り返り、賊二人が引き立てられるを見て再び歩き出した。



 その夜の内、知らせを受けた評定所と町奉行所から目付や与力同心ら二十人ほども兵四郎の屋敷に殺到した、捜査班は解散したが彼らとて一連の事件が未解決のまま解散するは納得がいくはずもなかろう、ここぞとばかりに意気込んで殺到したらしい。


町奉行の与力はあの小男の立花であった。

「青山様、今宵はお手柄の様子 祝着にございまする、しかし見事なものですなぁ、門前に網でも張られていたのでしょうか」


「左様、見張所なんぞ設けての」


「これは畏れ入りました、でっ此奴らは例の銃撃事件の者どもでござろうか」


「ふむぅ…左の男の面体には見覚えがある、じゃがあの夜は暗かったゆえ確信は持てぬ」


「わかりもうした、あとは我らが責めて吐かせましょう、それにしても木片を口に噛ませるとは如何なる仕儀でござろう」


「いやなに舌を噛んで自決でもされたら元も子もないからのぅ」


「こんな奴らにそんな度胸など有りますまいよ」


「それは分からぬぞ、先日跡部能登守が言っておった土井家の裏衆であれば…幕府の御庭番と同様に捕らえられたら自決するよう申しつけられておるやもしれぬ」


「土井家の裏衆…はて初めて聞きまするが、それは土井家の忍びの者と言うことでござるか」


「儂も少しばかり聞いたことよって詳しくは知らぬが、なんでも土井様は三河刈谷藩の生まれで本家古河藩に養子に迎えられたおり、三河裏衆の幾人かを密かに連れてきたとの風聞があるそうじゃ」


「三河裏衆…」


「此奴らがまこと忍びの者であれば、どのように責められようが絶対に吐かぬであろう」


「これは面倒な、しかし絶対などはありますまい、我らどのような手を使ってでも吐かせてみせまする、まっ…殺すつもりで当たれば何とかなりましょう」


「おぬしの何とかなるはこれまで幾度も聞いたが実現したためしは無いようじゃが」


「これは痛いことを、しかし此奴らが土井様に繋がるとなれば…割れ物にでも触れるような想い、吐けば吐いたでその口書きの取り扱いが難しゅうござるが、はて御老中水野様がどのように差配されるやら」


「殿様には儂から言うておくゆえ遠慮せず厳しくやれぃ、殺してもかまわぬが儂のこの足を撃った男がまだ見つかってはおらぬ、其奴がたぶん頭目と思うが そいつを叩き斬らねば儂の気は収まらぬゆえ殺すなら其奴が誰か吐かせた後にしてくれ」


「その実 水野様とて土井様の連座などお望みではないでしょう、まっ頭目止まりでけりを付け、此奴ら共々責め殺して一連の事件を落着させるが妥当でしょうな」


「おぬし小賢しいことを言うものではない、そのようなことおぬしの知ったことか!、さぁ早よう此奴らを連れて行け!」兵四郎は憮然とした顔で言い放った。



 次の朝、水野越前守が登城する前に水野屋敷に赴いた。

「殿様、昨夜賊の五人のうち三人を斬り二人は捕縛致しましたが、この二人どう処置されるおつもりでござりましょう」


「その件は先ほど目付より聞いた、おぬしに怪我がのうて何よりじゃ、それにしてもよくよくおぬしには敵が多いようじゃ、それでは命がいくつあっても足らぬぞ」


「まっ敵の多さは殿様には負けまするが」


「此奴言いおって、しかし二人を生かしたのはまずかった、其奴らの口から土井の名が出れば儂とて奴を処罰せねばなるまいよ、しかしそれを行えば改革の総まとめとも言うべき上知令は確実に頓挫する、そうなれば儂とて引責辞任は免れまい」


「殿、それがしとて殿の改革に邪魔さす気など毛頭御座いませぬ、ただそれがしの足を撃った奴だけは許せず、其奴さえ炙り出していただければけりをつける所存にござる」


「じゃが其奴に兵史郎を殺せと命じたは土井利位であっても…おぬしは土井を許せるのか」


「・・・・・・・・・・・」


「儂とて土井は憎い、彼奴はこの度の諸改革において儂に協力する風を装ってはいるが、その裏では陰険なる策を弄し改革潰しに奔走、また隙あらば政権奪取に地道を上げる輩よ、彼奴さえいなければどれほど楽だったか…しかし裏を返せば彼奴がいたからこそこれまでの改革が上図に運んだやもしれぬがの。


御老体、後は儂にまかせてはくれぬか、この度の改革さえうまく運べば土井などいつでも罷免できようし、頭目も捕らえることは出来る、そういうわけであの五人の存在は土井の動きを封じる生け贄としたい…生き残りの二人は吐かせるだけ吐かした後は始末するつもりよ、それで取り敢えずのケリはつけようぞ」


「………わかりもうした、あとの御処置は殿様にお預けもうす」



 兵史郎はこの日を境に一連の事件から手を引いた、そして再び殿の御駕籠警護に復帰し あの用人部屋でのたわいない日常に戻ったのであるが…。


その後 賊二人が吐いたかどうかは知らない、だが評定所の詮議の途中 御牢内で首を括ったと人伝に聞いた、それは詮議が始まって半月後のことであったという。


桜が散り梅雨の先駆け雨が続くそんなある日…越前守が渋面を造ると「耀蔵はもう駄目じゃ、もう捨てようと思うておる、じゃがこれまでの功労を思えば儂とて忍びない、面倒とは思うが そちは彼奴と親しいゆえ奴の存念を一度聞いてきてはくれぬか、それで判断しようと思うが」


「殿様、耀蔵めが何か粗相でもしでかしたのでござるか」


「いや役向きのことゆえ詳しくは申せぬが、春の終わりの頃じゃったか与えた御役が果たせぬゆえきつく叱ったことがあったが…。


それ以降 奴はことごとく楯を突くようになった、まっそんなことは過去にも何度かあったがこの度は少々度が過ぎる、先日もこの六月に発布する上知令に対し批判がましい建白書なんぞ送りつけよって…彼奴何で心変わりをしたのか」


そう言えばこの春先より耀蔵には一度も会っていないことを思い出した。


「殿様、耀蔵めをきつく叱ったのでござるか…彼は繊細な気質ゆえ思い詰めることが多々有り難しゅうござる、それがしも彼をよく叱りつけまするが…その時の鬱屈は酷く、以降は逃げどころを設けてから叱るようにしておりまするが」


「ふむぅ、じゃがねるにもほどがある、子供でもあるまいに」


「いえいえ彼は今でも子供と同じ、それゆえ彼の好奇心や鋭敏さは衰えませぬ」


「そんなものかのぅ」


「殿、それがし二ヶ月近くも会ってはおりませぬゆえ、今日にでも御駕籠警護の後 彼を訪ね誤解を解いて参りましょう」


「すまぬ、そうしてくれるか」



 その日の午後、兵史郎は二ヶ月ぶりに南町奉行所を訪ねた、だが生憎耀蔵は品川の方に出向いており留守であった。


仕方なく筆頭与力となった立花を呼び耀蔵の帰着時刻を問い合わせた。

「これは青山様、お久しゅう御座いまする 事件以来にもなりましょうか、しかしあの賊二人も哀れなもので御牢内で自害したと評定所から知らせてきましたが…怪しい話です、結局 頭目は分からずじまいで、ましてや首魁などは雲の上…いやな結末となった事件でござります」


「おいおいもう過去の事件にしてしもうたか」


「いえいえ、御上より事件一切から南町は手を引くようにと申し渡しが御座いましてね…我ら与力同心らも中途半端な沙汰に納得いかず憤慨していたのでござる」


「そうか、まっ当事者の儂さえもこの度の事件は一切忘れることにしたゆえ…というか忘れさせられたが正しいかの、つまりは長いものには巻かれろということよの」


「はぁぁ寂しい話ですなぁ」


「まぁよいわさ、そんなことより耀蔵はいつ帰ってくるのじゃ」


「品川付近に居を構える大名家を三つばかり廻ると申されて…今宵の内に帰れるかどうか…」


「さようか…耀蔵が印旛沼古堀普請御用の兼帯になっての絡みよのぅ」


「何でも印旛沼開拓の事業費は膨大で、各藩の財政負担も大きく思うように資金が集まりませぬ、そんなとき追い打ちをかけるように上知令発布でしょう、当該藩の財布の紐が絞られるのも当然のこと…はぁ、御奉行はさぞ水野様をお恨みのことでしょう」


「そうか印旛沼開拓普請を申しつけ資金集めを命じておきながら それを阻害する上知令を施行するは…耀蔵にしてみれば裏切られた想いにもなろうというもの」


「これまで水野様の御役にたとうと血の滲む想いで悪役に徹した御奉行でござったが…最近はもう疲れたと申され塞ぎ込む日も続き、我ら与力も御奉行の身を案じておりまする」


(あの耀蔵でも部下に弱音を吐くことがあるのか…)


兵史郎は待っていても耀蔵が帰らぬ事を知り、仕方なく奉行所を後にした。

いつ止むかしれぬ雨の中 傘を差して西ノ丸へと向かう、そのときまるで雨に融け込むように耀蔵の寂しげな貌が現れ流れて消えた。


耀蔵に会えなかったこと、また印旛沼開拓で耀蔵が腐心していることなどを越前守に報告し控之間へと下がった。

控之間に入ると遠山金四郎が部屋の隅で老中土井利位と何やら声を潜め語り合っていた。


またいやな面々に出会でくわしたものよと兵四郎は座る間もなく部屋を出ようとした、そのとき青山殿お久しゅうござると声が掛かった、振り返れば土井利位がにこやかなる笑顔で差し招いていた。


兵史郎は仕方なく土井の前に進み正座して平伏した。

「御老体、昨年はえろう難儀されたとか、見舞いにも行けず失礼致したが足の具合はもうよろしいようで安堵しましたぞ、その方もこうして御役に復帰し、ここに控える遠山もこの度は大目付に就任致した、ほんに目出度い事よ」


顔は笑ってはいたが土井や遠山らの目は笑ってはいない、最後まで慇懃なる態度で通した二人は「ではまたの」と言って部屋から去った。


後味の悪い想いに煙草を三服ほども続けて吸ったとき越前守が控之間に入ってきた。

「あやつら何かいやなことでも申したか」


「いえ、慇懃無礼そのものでしたわ、そう狐と狸の化かし合いとでも申しましょか」


「ふん、あの二人笑っておられるのも今の内よ、見ておれただでは済まさぬから…」


後日談であるが、この日の三ヶ月後 事件は起こった、それは上知令撤回と水野忠邦の罷免に向け、機は熟したとばかりに土井利位一派と御三家紀州藩が動き出したのだ。


また水野忠邦の腹心の部下だった鳥居耀蔵・榊原忠職らも土井派に寝返り、耀蔵は何の恨みか水野越前守の機密資料さえも土井一派に流すという非道振りであったという。


これが元で閏九月七日、水野越前守欠席のまま土井利位から上知令撤回の幕命が出され、同十三日水野越前守は罷免、上知令ともども天保の改革は終焉した。

なおその後に老中首座に座ったは土井利位であることは言うまでもない。



 夕刻、越前守を西御丸下の屋敷まで警護すると屋敷を下がり家路へと就いた、途中雨が豪雨となり仕方なく赤坂御門で雨宿りし小雨に変わったのは昼八ツ半(17:00)頃であった。


赤坂御門を出ると紀伊家屋敷塀が続く、そして喰違門に到りその左手に忌まわしい間ノ原道が見えてきた。


(今宵は真っ直ぐ外濠沿いに四谷に向かうか)

そう思い傘のひさしを少し上げ前方を見つめた、雨の薄暗がりのなか外濠沿いの人通りは絶え、遠くに四谷御門の薄明かりだけがぼんやり浮かんで見えた。


暫く歩くと左手に松平佐渡守の長い屋敷塀が続く、そのとき去年の暮れから春まで続いたあの弱い殺気が感じられ兵四郎は足を止めた。


傘のひさしを上げると半町ほど先に浪人風体の男がこちらに向かって歩いていた。

(ようやく現れよったか、今宵は雨ゆえ銃などは持ってはいないようじゃ)


兵史郎も歩き出す、その殺気は次第に増しそして一間をおいて二人は立ち止まった。


「青山兵史郎か!」


「左様、おぬしは頭目よのぅ」


「弟の仇、ここにて決着致す」


「弟の仇…はて其奴は一体だれぞ」


「おぬしに殺された飯山乙次郎よ」


「おぉ、九段坂で襲っておきながら尻尾を巻いて逃げた奴か、弟が卑怯ならば貴様は夜陰に紛れ火縄を撃つ大卑怯、揃いも揃って土井の馬鹿殿はようも屑ばかり集めたものよ!」


「こ、此奴言わせておけば!」

怒りまかせ兵史郎に向かって傘を投げつけるや横薙ぎに斬りかかってきた。


その一閃を傘で受け流し右に飛んだ。

「たわけ!銃ならいざ知らず、そのような腕で儂に挑むは百年早いわ!」

言うやまるで滑るように突出し男の打間に敢然と入いった、その素早さは相手の構えが整うほんの合間である、瞬間その男の胴は深々と斬り裂かれ腹圧で腸が噴き出した。


兵史郎はそのまま走り抜け返り血がかからぬ三間ほども遠ざかったとき後方で倒れる音がした。

兵史郎は徐に振り返り男の元へと歩いた、濡れた地面に赤黒い血は広がっていく、だがすぐ雨に希釈され腸の白さだけが気色悪げに浮かび上がった。


(この男…土井に捨てられたのか 可哀想な奴よ、そう言えば耀蔵も捨てられようか…為政者の奢りとはいつの時代も無残なものよのぅ)

兵史郎は屈んで手を合わせた、暫し念仏を唱え破れた傘を拾うと再び四谷門を見た。


(これでおわったな…しかし何か生き甲斐がのうなったような奇妙な感覚じゃ、ふぅっそろそろ儂も引き時かもしれぬのぅ…)

兵史郎は傘をさすと再び四谷に向かってゆっくり歩き出した。


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