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七、秋雨

 今日は久々の遠出である 距離にして二里ほども歩いたろうか、昼近くには両国橋を渡っていた。

この橋を渡るのは五ヶ月ぶりにもなる、季節は移ろい両国橋を渡る風は今は冷たかった、兵史郎は夏この川で上がる花火を見損なったことを思いつつ足を止め水面に目を転じた。


(そう云えば…あの日 奥坊主頭の宗達には近々会いに来ると言ったままであった、彼奴さぞ儂のことを心配しているであろう、明日にでも会いに行くか…)水面に宗達の寂しげな貌が浮かび すぐに流れて消えた。


その時 背後に殺気を感じた、それは水面を見つめる兵史郎の背を僅かに震わせる程度であったが徒人ただびとではない…そう思わせる感覚に兵史郎は(フッ、弥九郎め試したな…)と顔を綻ばせた。


気付けば無意識に脇差しに手が掛かり鯉口さえ切っていた、兵史郎は己の反射が戻っていることに独りごち軽く後方を振り返った。


やはり弥九郎だ、彼は知らぬ顔で兵史郎の後を素通りしていく、師匠に隙あらば打ち掛かろうとでも思ったのか、それとも兵史郎の油断を試そうとしたのか…。

(可愛い奴よ…)と弟子の心根を思いながら再び深川に足を向け歩き出した。


両国橋を渡り回向院の前まで来ると佇んだ。

(あの賊を駕籠に乗せた場所は…たしか業平橋袂の森川肥後守の屋敷前と聞いたが、そこに行ってみるか…)


回向院前を左に曲がり大川端沿いを東橋(吾妻橋)に向かって歩き出した、川端を流れる風は幾分穏やかになったが、それでも十月初めというに風は初冬を思わせる冷たさだ。


(箱根も早うに秋が来たが…今年の冬は早いようだ)そう思い襟を深く合わせると手を袂に入れ そぞろ歩きに川向こうを見た、そこには浅草御蔵が大きく迫って見えた。


この御蔵の総面積は二万八千坪もあるという、またそこに建つ蔵の数も膨大である。

(よくもまぁこのような底知れぬものを造ったものよ…しかしこの寒さでは冷害は深刻であったろう、さてさてこの御蔵を満たすだけの米が採れればよいが)


行く手上流に東橋が見えてきた、この橋は兵史郎が生まれる少し前に出来た橋で、それ以降この大川(隅田川)に新たに架けられた橋はない。


橋の景色は子供の頃を思い出させる、それは六・七つのころだったか浅草縁日でのこと母親にねだって吾妻橋袂の竹町之渡しをせがみ、その渡し船から見た吾妻橋の威風堂々とした景色がいま脳裏をよぎった、次いで母の面影が朧に浮かんで消えた。


気付けば父母よりも長く生きている。

(このような剣術商売をしておって父母よりも命を長らえるとは…)


(いやはや三途の川を覗いたせいか近頃はどうも鬱くそうなっていかぬ)

やがて吾妻橋の袂に細川若狭守の広大な屋敷塀が見えてきた、その手前を右に曲がれば業平橋に行き着くはず。


(それにしても腹が減った、思えば朝から水野邸と南町、そして両国まで…ふむぅよう歩いたものよ、さて時刻は昼を過ぎたあたりか、たしか昔この先の元町入口に出汁をよう効かせた旨い饂飩を食わせる店があったが…そこのきつね饂飩は絶品じゃったな)


その油揚げからしみ出る甘辛い旨味を思い出し脚は自然と早くなっていく。

だが元町に着いたときその店は小間物屋になっていた、考えてみれば三十年も昔の話、そのとき店で饂飩を捏ねていた主人は爺様だった…。


少し考えれば分かりそうなものをと肩を落とした、しかし兵史郎が急に足を速めたことで「何事!」と兵史郎を何処かで見守る弥九郎やその門人らは慌てて動いたはず…それを思うと申し訳なく(食い意地で目が眩むとはこのことよ)と苦笑いが洩れた。


その後近くの蕎麦屋で腹を満たすと業平橋界隈を歩き、日暮里の女子おなごが手伝っていたという三笠町の呉服商・辰巳屋の前を通り過ぎてはみたが…特に変わった様子も無く、本所界隈は午後の緩い陽光が注ぐばかりであった。


 

 翌日は昼餉を済まし西ノ丸御殿へと向かった、出しなに琴絵が「昨日もお出かけされたのに今日もですか」と少し咎める口調で聞いてきた。


「いやなに足慣らしよ、少し御城に出向き挨拶してくるだけゆえ心配致すな、明るい内に返ってくるわさ」


「御父様、本当に遅くなってはいやですよ」そう念をおし門の外まで見送ってくれた。


(さて、今日の警護は周作か…しかし申し訳なき限りよ、そういつまでも彼らに甘えてばかりはおられぬ、早々に引き取るよう言わねばのぅ)


そんな事を考えつつ御城に向かった、四谷御門を抜けると麹町の広めの辻が十四丁ほども続き半蔵御門へと至る、この辻の左側には寺社仏閣が続き、その境内の樹齢二百ともいわれる銀杏の葉が北風にあおられ辻に降り注いでいた、その黄色一色に染められた辻の景色を愛でながら半蔵門に向う。


西ノ丸玄関に到着し大廊下の前に立つと…この春うまい碾茶を運んでくれた奥坊主が兵史郎を見つけ走ってきた。


「青山様お久し振りで御座いまする、この度は大変な目にあわれたとか…小田様の嘆き様はそれはもう…」奥坊主はそこまで言うと。

「青山様、少々宜しいでしょうか」と兵史郎を玄関口から押し出し左手生垣脇へと連れだした。


「おいおい何をする、儂はその宗達に会いに来たのじゃ」


「分かっておりまする、実はその小田様の事で…」と声をひそめ周囲を注意深く見渡した。


「青山様、驚かれないでくださいまし」と念を押し。

「実は青山様が無事御退院なされた二日後の夜のこと…小田様はこの奥の枯井戸に身を投じてお亡くなりに…」


「何!宗達が死んだと、そんな馬鹿な…それは本当か!」


「誠に御座いまする、大奥の御女中が朝 枯井戸近くに揃えられた草履を見つけ井戸の底を覗いたところ小田様が…すぐさま同朋頭の横内頼母様が出張られ奥女中らに箝口令を敷くとその日の内に遺骸は何処ぞに持ち去られた由。


その後、西ノ丸大奥内での自害は忌まわしいとて、事は隠密裏に処理された由…このこと奥坊主でも小田様の身の回りをお世話していたそれがしを含めほんの数人が知るのみ、横内様からはこのこと他言無用ときつく申し渡されておりまする」


「なんと宗達が自害したとは…あぁぁそれは自害などではない、殺されたのじゃ」


「……そ、それがしもそう思いまする、あれほど青山様の御退院を喜び、いつ元気な御顔が見えるのかと千秋の想いで待っておりましたに…自害するなど到底考えられませぬ」


「そうであろう、彼奴が自害などするものか、しかし同朋頭の何と言うた…そう横内頼母だったか、そやつ手回しがよすぎやしないか、それに同朋頭の分際で目付にも届けぬとは不審な奴!」融和だった貌は俄に憤怒を帯びてきた。


「青山様…このこと それがしから聞いたとは…」

奥坊主は兵史郎の貌を見て、他言無用ときつく申し渡されたことを思いだした。

(えらいことを喋ってしまった)と後悔し、怯えに震えた。


「わかっておる、おぬしまで殺されたら宗達に合わせる顔がないわさ、しかしこの事…儂がこれより会う者にも語ってくれぃ、よいな!」

それを聞いた奥坊主はますます怯えに暮れていく。


(フゥ、会うといっても…殿というわけには…少々頼りないが能登守にするか…)


「おぬし、これより儂を芙蓉間の跡部能登守の所へ案内せよ」

奥坊主の返事を聞かぬまま、さぁ行けと云わぬばかりにその背中を押した。


奥坊主は今日まで胸に秘めてきた理不尽なる上司のなされ様を誰かに聞いて貰いたいと思っていた…そんなとき宗達をよく知る温和な老人が訪れた、だがこれが油断である、熟慮すれば一番まずい御人に洩らしたと今になって気付いたのだ。


奥坊主は廊下を先導しながら怯えた目でしきりに兵史郎を振り返った、しかし兵史郎は怖ろしげな顔でその後ろをついてくるのみ、その無言が怖かった。


そして遂に大目付の詰間手前にある控之間へと入った。

「こ、ここで御待ち下さい」そう懇願顔で言うと坊主は詰間へと入った。


暫く待つうち詰間の襖が開き跡部能登守が破顔で出てきた。

「これはこれは先生、わざわざそれがしを御尋ね下さるとは嬉しい限り、本復されたなら早ように来いと伝えて下さればすぐにも飛んでいきますものを…」


「能登守よ嬉しいことを言ってくれる、そう言えば灘西郷の一品より旨い酒を呑ますと言いおったが…まだ残っておるか」


「それはもう、先生が本復されたなら祝いに封を切ろうと未だ手も付けず残しておりますわい」


「左様か、じゃが本日おぬしを訪ねたは別の話よ、おぬし…奥坊主組頭の小田宗達が自害していたこと…知っておったのか」と詰問口調で聞いた。


「えっ、宗達が死んだ…あの傾奇者の宗達が」


「やはりおぬしも知らなかったか…ええい くそっ!どうしてくれよう」


「これ!お前はここにおれ、大事な証人じゃて」

詰間をそっと出ようとする奥坊主の襟首をむんずと掴んだ。


「知らぬならおしえてやろう」

能登守に向かい憤怒も露わに喰違門で夜襲に遭ったその昼、宗達と談合間で喋ったこと、また宗達が密かに調べていた事など全てを能登守の前にぶちまけた。


「そのようなことが…」と跡部能登守は唖然とした顔で聞き、兵史郎の憤怒に気圧され相槌を打つのがやっとの体である。


「宗達め儂が襲撃されたと聞き仇討ちのつもりか敵陣深くに踏み込みすぎたのであろう、あれほどこの件には関わるなと釘を刺しておいたに…」


「むかし先生への宗達の傍惚れは端から見ていてもいじらしいほど、その傍惚れ相手の唐変木殿が闇討ちに倒れたと聞いたなら…それはもう仇討ちほどの想いを抱くは当然のこと、宗達の胸の内は如何ばかりか…」


「これ!、黙って聞いておれば儂を唐変木扱いとは…そんなことよりこの坊主の異聞を聞け!」と横に控えた奥坊主に促した。


奥坊主にしてみれば目の前の能登守は畏れ多い雲上人である、先ほど兵史郎に吐露したときとは大違いで しどろもどろの喋りとなった。


それを黙って聞き終えた能登守は奥坊主に向かい「よう分かった、だが儂等に洩らしたことは誰にも言うな!おぬしの為じゃ、さぁもう行ってもよいぞ」そう言うと兵史郎に向きなおった。


「先生よう分かりもうした、横内頼母とやらを調べよと云うことですな」


「そうじゃ、敵はようやくボロを出しおった、そやつの後始末の速さは尋常にあらず、どう考えても計画の上での始末と見た、敵はまさか一介の坊主風情が大目付に吐露するなど努々(ゆめゆめ)思わぬであろうよ、ところでおぬし…その横内頼母という同朋頭は知っておるのか」


「いえ、そのような軽輩者は知りませぬ、ですが同朋頭といえば二・三百石ほどの旗本がつく御役で若年寄の管轄になるはず、すぐにも調べてみましょう」


「ふむぅ…敵はまだ奥坊主が洩らしたは知らぬはず、そこが付け目よ一気に片を付けようぞ!」


「分かりもうした、これにて一気に核心に迫れるやしねませぬ、これより目付どもを総動員させまするゆえ見ていて下され。


でっ…話は変わりまするが今宵は我が拙宅におこし願えませぬか、予てより先生の快気祝いを是非にもやりたいと思うておったところで御座る」


「いや嬉しいが あれ以来息子の嫁がうるそうての…夜歩きは当分無理じゃ、まっほとぼりが冷めるまで待つことにしようか、それまでその旨い酒とやらは呑むなよ」


「酒は取っておきますが…仕方ありませぬ今宵は我慢しましょう、では御帰りの警護役をすぐにあつらえまするよってここで暫しお待ち下され」


「いやよいよい、今日は千葉周作と玄武館の門人らが警護役に出張ってきておるゆえのぅ」


「左様でござるか、それは頼もしい限り、では横内頼母とその裏で動く輩が知れましたら先生宅にすぐにも知らせまするゆえ待っていて下され」

そう言うと跡部能登守は兵史郎を廊下まで出て見送った。



 それから三日が経ったがまだ跡部能登守からの便りは無い、兵史郎は苛立つように離れの障子を開け庭を見た、庭の草々は昨夜から降り続く雨に打ち萎れていた、その雨は氷雨である。


この三日の間…宗達の貌が頭から離れなかった、優しく見つめる瞳…まるで化粧でもしたかのような白い頬、そして白魚の如く嫋やかな指で柔らかに触れられた感触。


兵史郎には男色の気など毛頭無いが、長きにわたって何くれとなく妻のように世話を焼いてくれた宗達が憎いはずはない。


歳のせいだろうか、その宗達が自分の為に殺された…そう思うだけで涙が零れた、俺を銃で倒し生死の狭間を彷徨うその隙に…手向かいも出来ぬ弱き宗達を闇に消した。


怖かったであろう…さぞ痛かっただろう、お前は怯え泣きながらあの世に行ったのか、そればかりが脳裏をよぎり、胸は張り裂けそうに痛んだ。


(お前を殺した奴ら…その痛み百倍にもして返してやるから宗達よ成仏してくれぃ)

兵史郎が手を合わせたその向こうはには いつ止むともそれぬ冷たい秋雨が降っていた。



 兵史郎は屋敷の外に早朝より三つの陰が動くのを感じていた、その気配は弥九郎と門人らであろう…昨日屋敷外で警護に立つ千葉周作を屋敷に呼び入れ「当分は外に出ぬゆえ警護は休んでくれぃ」と言ったが…弥九郎にはこの事が伝わらなかったのかと思った。


暫くして下女のヨネが「昼餉で御座います」といって部屋に入ってきた。

ヨネが持つ盆の上には熱そうな饂飩が湯気を立てていた。


饂飩はたぶん下男の与助が打ったのであろう、与助の生まれは讃岐丸亀で彼が打つ饂飩は腰が強く兵史郎の好物であった。


兵史郎はその饂飩を一口啜ると「いつもの事ながら与助が打つ饂飩は旨いのぅ…ヨネや、この饂飩はたんと打ったのかえ」と聞いた。


「それはもう、先日購ったうどん粉十二斤全部を打ってしまったものですから御新造様に叱られてました」


「そうか…では余っておるな、すまぬが外におる弥九郎らにも食べさせてはくれぬか」


「そのようなこと大旦那様が心配されなくとも御新造様がとうに練兵館の皆様らにはお出ししていますよ、大旦那様はご存じないようですが…あの方達がこの屋敷の警護に就かれた日から御新造様は朝昼晩と心づくしの御食事を用意されておりますのよ」


「…そうであったか」兵史郎は自分の知らないところで皆が協力し合い自分のことを心配してくれていることに改めて感じ入った。


「嬉しいのぅ」と聞き取れぬ声で言い「練兵館の者らが一服終えたら弥九郎をこの部屋に呼んでくれぬか」とヨネに言った。


饂飩を食べ終え暫くするとヨネに案内された弥九郎が部屋に入ってきた。

「おお御苦労に御座る、まぁ立っておらずそこに座れ」そう言って煙草盆を座布団の前に置いた。


弥九郎は座布団を横に押しやると畳に座り「それがしは煙草は止めました、最近煙草を吸うと稽古の際 息が切れるようになりまして…もう歳でしょうか」


「何を言うか若造が、それより当分外出せぬよって警護無用と周作から聞かなかったのか」


「昨夜それは聞きもうしたが…千葉殿が聞かぬ振りをしておればいいのさと申され、またそれがしも先生のことが心配で堪らず、聞くところによれば襲った賊らは忍び衆ではなかろうかとのこと、尋常な相手ではなきゆえ…」


「いくら忍び衆とはいえ屋敷内まで踏み込んで来ることはあるまい、もし踏み込んだとて我が屋敷には手練れた家来三人と兵一郎もおる、また嫁の琴絵も小太刀の名手よ、そう易々とは討たれはしまいよ」


「左様で御座ろうが…まっ千葉殿ともう一度相談してみまするが…」


「そうしてくれ、出掛ける際は連絡を入れるよっての、それと部屋に来たついでじゃ少々囲碁に付き合ってはくれぬか、暇で死にそうなんじゃよ」


 その次の朝、雨が上がった屋敷外には人の動く気配はもう無かった、弥九郎は周作と相談し屋敷の警護は断念したのであろう。


兵史郎は肩の荷が下り清々しい想いで伸びをすると障子を開け朝日を拝んだ。

(さて今日は何をするか、しかし能登守め仕事が遅い、あれから何の便りも寄こさぬとは、それとも横内頼母という輩が賊には結びつかなかったのであろうか…)


そんな悶々とした日々を三日も過ぎた昼前、南町奉行所から耀蔵の使いが来た、あの小男の与力である。


与力の立花は琴絵の案内で部屋に入るなり「青山様、例の弓張り月に蝙蝠紋の男の素性が知れましたぞ!」と息せき切って吠えた。


「これこれ、そう急がずともまずは座れ、それでその男は何処ぞの者よ」


「これが深川本所辺りの者と思うておりましたら、何とこの近くの赤坂氷川明神近くに屋敷を構える二千石の旗本で先手組頭の吉田市之丞様が家来と知れもうした」


「ほう…吉田市之丞の家来かよ、氷川明神というたなら儂が襲われた間ノ原通りから十五町ほど南と近いのぅ…してその男の名は」


「本田金之助と申し吉田家の家老・本田匡勝が三男で二十五歳になりまする、そして主人の旗本・吉田市之丞とは何と三河刈谷藩主土井利徳が側室の子で老中土井利位様の腹違いの弟になりまする」


「なに!土井様の腹違い弟とな、これは驚いた…。


待てよその吉田氏とは以前矢部殿から宴席で紹介を受けたことがあるのぅ、その時は先手弓頭が兼任の火付盗賊改の長官であったが…たしか粗相をし矢部殿と変わったと記憶するが…。


しかしこれで繋がったか…ふむぅ、これにて九段坂で儂が投げた小柄で倒れたは吉田家の家臣と云うことよのぅ」


「左様、奉行の命で氷川明神一帯をあの男の人相書きを手に虱潰しに聞き回ったところ町民三人より吉田家の家来・飯山乙次郎に間違いなしとの証言が得られもうした。


この飯山という男 何でも今年の春先に土井家から剣術指南役として吉田家に移籍した者で柳生心陰流の使い手と聞きまする、ですが移籍してすぐに悪さをしでかし御家を出奔したとの裏も取れました」


「飯山という男…悪さで片付けられよったか可哀想な奴よ、じゃがこれで深川の蘭方医院で死んだ男は吉田家家臣と知れた、つまり死んだ男は老中土井様の息が掛かった男と思うても間違いは無かろう」


「ですが九段坂の首謀者はこれで分かりもうしたが…間ノ原道で青山様を火縄で撃ち倒した卑怯なる者共らは依然闇の中…探そうにもその手掛かりすらございませぬ」


「その蝙蝠紋の男…本田金之助と言うたかの、そやつを捕らえ少し痛い目に遭わせれば ひょっとして間ノ原道の件も喋るやもしれず、一度叩いたらどうじゃ」


「いやそればかりは町奉行ではどうにもなりませぬ、ましてや御老中の土井様に繋がるとあってはとてもとても、下手すればそれがしどころか御奉行の首も飛んでしまいまする」


「そうよのぅ、ここまで分かっていながら手が出ぬとは悔しい限り、何とかならぬのか」


「青山様、この吉田家には土井様家中だった御家来衆がたんとおりまして、本田金之助の父親・本田匡勝も元は土井家の用人であったとか、また長男は今もって土井家の御納戸頭を勤め、次男で旗本の横内家に入婿に入った頼母という倅は土井様の引きで同朋頭に昇進したとか…」


「おい!まて、いま次男の名を頼母と申したな、では婿入りして横内頼母ということか」


「左様…旗本三百二十石取り横内家の主になりまするが、それが何か…」


「奉行所には大目付から最近何ぞかの捜査協力など申し出は無かったか」


「聞いておりませぬが…跡部様と奉行の仲は犬猿の間柄…余程のことでなければ捜査協力を申し出るなど有り得ぬ話、ですが横内家と跡部様に何かこの件に関わりが…」


「そうじゃ、実はの…」と兵史郎は先日跡部能登守にぶちまけた津田宗達が死の状況をこの与力にも話した。


「これは由々しき大事、吉田家は今回の事件に相当深く関わっていることになりますな」


「そうじゃ、叩けば埃どころか事件の全貌すら現れるやもしれぬ、ふむぅ何としても吉田家家来の本田の倅らを捕らえ洗いざらい吐かせてみたいもの…何とかならぬものかよ」と与力の立花を睨め付けた。


「そ、それは…」

その後立花は捜査の状況と目付衆の動向など、役にも立たぬ話をするとそそくさ奉行所に返っていった。


その日の午後、今度は御城から目付が来て跡部能登守がお召しに付きそれがしと同道下されと言ってきた。


吉報の舞い込みは集中するものよと兵史郎は久々に身を裃姿に整え、これも久々になろうか厩から痩せ馬を引き出すと目付と馬を並べ喜々として城へ向かった。


 西ノ丸に着くと表坊主の案内で芙蓉の間に向かった。

(能登守め儂を呼ぶとは核心に近づいたと云うことか、ならば嬉しい限りじゃが…彼奴昔から少々抜けたところがあるよって期待は禁物やもしれぬのぅ)


芙蓉控之間に入り暫く待つ内 能登守が顔を綻ばせ現れた。

「先生!横内頼母の素性が分かりもうした、なんと其奴 老中土井殿の肝煎りで同朋頭の御役に着いたと知れもうした」


「能登守よ、その事はもう知っておる、でっそやつが津田宗達を始末したのか!」


「いえそこまでは…」


「何だ、そんな情報など二番煎じよ、その程度の事なら耀蔵からの知らせでとっくに分かっておるわさ、何なら言って聞かせようか、その頼母の弟の金治郎とやらが九段坂の首謀者を本所で駕籠に乗せた男の一人よ」


「えっ、蝙蝠紋の男の事ですな…左様でござったか。

ということは頼母の父親が本田匡勝で、元は土井家の用人と言うことも」


「そうさ、その本田匡勝が仕える主人の吉田市之丞は土井様の腹違いの弟ということもな」


「先生には敵いませぬ、そこまで御存知とあらば呼ぶには及びませんでした…御足労をおかけし誠に申し訳なき限り、それにしても耀蔵め調べているなら一言儂にあってもよいものを、彼奴未だに遺恨が有るのか…」


「何をぼそぼそと独り言を言うておるのじゃ、それより横内頼母と本田金之助の両名を捕らえ吐かせることは出来ぬのか、耀蔵めは土井様が怖くて出来ぬと申しておるようだが、大目付のおぬしであれば出来るじゃろうが」


「しかしそれがしは大目付と言っても暫しの兼任、本職は勘定奉行になりますよって、大手を振っての断行は差し控えねばなりませぬ、確たる証拠でもあれば話は別ですが…」


「何を言うか、証拠があれば水野の殿様に直に言うわさ、なんやかんや言いおって其方も土井様が怖いのであろう」


「そんなこと…身分は土井様が上なれど、それがしとて大名衆を取締監督する御役、やれぬ事など御座いませぬ…が、兄者が何と言うか」


「すまぬ、つい苛立って口が滑ってしもうたわい、よう調べたと褒めておこう、してそれ以外に何か分かったことでもあるのかの」


「左様、旗本の吉田市之丞はこの度の上知令に自身の旗本領およそ六百石ばかりが対象になっておりまする」


「やはりのぅ、実の弟ならいざ知らず…腹違いの弟では損得絡まねば危ない橋など渡らぬもの、これで土井様と吉田氏の協力関係の根は上知令に有りと知れたのぅ。


後は水野忠邦失脚の謀に邪魔な存在となった儂や小田宗達の暗殺に…実際のところ土井様も直接関与したかという事よ、それさえ分かれば当面は土井様ら反水野派を抑えることができよう…」


結局 新たに分かったことは、吉田市之丞が領する旗本領の一部が上知令の対象になっていたと知れただけ、五日前は一気に核心に迫ると言っていた能登守であったが…蓋を開ければこの為体ていたらくである。


期待はしていなかったが…かしらがあれでは指示に従う目付衆が可哀想というもの、能登守を早々にも勘定奉行に御役替えをした殿様の心情が分かったような気がした。


兵史郎は来るときとは裏腹に痩せ馬の背が股間に痛く、夕焼けに吹きすさぶ風はより一層冷たく感じられた。


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