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六、箱根塔之沢

 季節は春夏秋と移ろい山々は赤や黄色に色づき始めた。

ここ箱根の勝驪山(塔之沢)も「ここらあたりは山家(やまが)ゆえ、紅葉(もみじ)のあるに雪が降る」と浄瑠璃や歌舞伎の「箱根霊験躄仇討(はこねれいげんいざりのあだうち)」に出てくる名台詞の如く、紅葉は真っ赤に色づき木々を揺らす風は初冬を想わせる冷たさだった。


塔之沢の繁華から北へ五町ばかりの阿弥陀寺へと上り、本堂からさらに裏山へ四町ほども登れば弾誓上人が六年間修行したという洞窟(奥の院)がある、兵史郎は足慣らしのため下女ヨネを連れその奥の院に向かっていた。


「大旦那様、道がいよいよ険しくなって参りました…どうかこの手をお取り下さい」

ヨネは額に汗しながら甲斐甲斐しく兵史郎の手を取ろうとした。


「いや、よいよい ほれ足の運びもこの通りじゃ、もう一人で充分よ」


「ほんによう御座いました、江戸を出るときは正直 大旦那様はもう歩けぬとばかりに案じておりましたのに…やはり霊験灼然れいげんいやちこと謳われし塔之沢の水が傷に効いたのでしょう」嬉しげなるヨネの表情は、この娘の心象をそのまま顕しているようで兵史郎の心は和んだ。


「そうかもしれぬのぅ ほんにありがたき霊験よ、この脚具合であれば…あと五日ほども慣らせば江戸に出立できよう、さぞ皆が驚くじゃろうて」


 兵史郎が失意の内に江戸を出立したのは夏も盛りの七月の終わり、ここ箱根の塔之沢に駕籠に揺られ着いてから既に一月半の月日が経とうとしていた。


箱根に来た当初は歩くことさえかなわず、恥ずかしながら下女ヨネが引くイザり車に曳かれ、人目を忍んで湯巡りをしたものである。


 天保の頃、病治療を目的とした湯治の日数は一廻り七日間を一単位とし、三廻り(二一日間)するのが目安でもあった、だが兵史郎の場合 三廻りすれど麻痺した脚は動く気配は無く、失意の内にこれ以上の湯治は無駄であろうと宿の者を呼び江戸までの駕籠を頼んだ。


そのときこの屋の主人が「旦那様、騙されたと思って霊験あらたかなる塔之沢の滝に打たれ、もう三廻りも湯に浸かれば必ずや本復出来ましょう」そう言われ半信半疑ながらも もしやとばかりに長逗留を決めたのだった。



 さて、話は江戸城 外堀沿い喰違門外の変事に戻る。


背に一刀をあびせられ兵史郎は地に倒れた、そしてそのすぐ傍らには手首を切断された男がのたうち回っている。


今宵の月は暗く、朧なる静寂を乱すうめき声だけが闇間に漂っていた。

それを取り囲む一団は一様に肩を喘がせ、動転の極みなのか固まったように地に倒れし二人の姿を血走った目で見つめている。


その時、火縄銃を携えた頭巾の男が茂みから這い出てきた。

「お前達、討ち取ったのか!」

その声に一同 我に返り、一人が気付いたように転げる男に馬乗りに座ると傍らの二人が慌てて鞘から下緒を外し、血を噴き出す両の手首を縛り始めた。


「やられた者は塩崎だけか…でっ水野の用人は仕留めたのか!」


「……はっ、肩口を深々と斬り付けもうした…」


「たわけ!とどめは刺したのかと聞いておるのだ」


「さ、されどピクリとも動きませぬ…」


「馬鹿者!肩を斬ったぐらいで死ぬるか、そこをどけ俺がやる」


そのときすぐ近くの紀伊家の北門が大きな音を立てて開け放たれた、と同時に数人の武士が龕灯がんとうを手にこちらに向かい一斉に走り寄るのが見えた。


「いかん人が来る 引くぞ、お前たちは塩崎を担げ!」頭巾の男はそう命じると倒れた兵史郎の足下に駆け寄った。


「おのれ弟の仇!」そう叫び刀を抜きにかかった、しかし鯉口が切れず鞘ごと付いてくる、慌てて左手の火縄を放り出し、鞘をしかと掴んだとき すぐ間近に怒号が湧いた。


間近に迫った武士らの怒号に賊らは浮き足だった「大野様!間に合いませぬ」そう叫ぶや頭巾の男の腕を無理矢理引っ張り 曳きずるように後退しだした。


頭巾の男は「引っ張るな!」と怒声を上げ、悔しげに兵史郎を一瞥すると紀伊家の門とは逆の鮫ケ橋坂方向に向かって走り出した。


このとき堀外の夜空に殷々と響き渡った火縄の轟音で武家屋敷や町屋からも「すわ何事!」と男らが押っ取り刀で辻に飛び出して来ていた。


「邪魔する奴らにかまうな!、よいか この先はちりぢりに逃げ延びる、捕まるでないぞ!」頭巾の男はそう叫ぶと抜刀し、行く手を阻む人々に向かい奇声を上げた。


黒い一団が抜刀し奇声を上げて突っ込んでくる、これを見た人々は恐怖に駆られ再び出てきた家へと逃げ込んだ。


そのころ紀伊家の門より飛び出した武士らが間ノ原通りに横たわる兵史郎の元に走り寄っていた、このとき賊らは既に塀角を左に消えかかるところだ。


「追うな!もう間に合わぬ、それより…おお、このような老人に何と無体な真似を…。

火縄で撃ち倒した上で斬り殺すとは何たる無慈悲な…」


武士の中でも上役であろうか兵史郎ほどの年嵩の男が歩みでると膝を突いて兵史郎の首元を押さえた。


「やっ、この老体 生きておるぞ、誰ぞすぐに戸板を持って参れ!、まだ間に合うやも知れぬ、仲殿丁の今岡清山先生の所へ運べ」



 兵史郎が仲殿丁の蘭方医・今岡医院に担ぎ込まれたのは宵五ツ半のころ、脚の銃創はともかく賊が上段より振り下ろした刀の創傷は左僧帽筋の六割を切断し肩甲骨上角及び肩甲棘を深く傷付けていた。


幸い賊の腕が未熟だったのであろう、刃は兵史郎の頑強なる肩甲骨にめり込み止まったようで、もし賊が腕達者であったなら鎖骨・肩甲骨はむろん、鎖骨下動脈をも切断し、刃は肺腑にも届いていよう。


だが脈はあるとて出血量は夥しく、このまま放置すれば失血死は免れない、蘭方医・今岡清山は医院の助手らを集めると「これより静脈結紮と筋縫合の緊急手術を開始する、皆の者すぐにも準備に取りかかれ」と告げた。



 夜四ツ、最初に仲殿丁の今岡医院に飛び込んで来たのは大目付・跡部能登守であった、彼は兵史郎を門外まで見送った後、庭を照らした灯籠の火を消そうと庭端に寄ったとき夜陰に轟く銃声を聞いたのだ。


(今のは銃声か!…こんな夜更けに何事ぞ、方角はたしか外堀喰違門の方…)

そう思った刹那 跡部はいいしれぬ胸騒ぎを覚えた。


それは銃声が四谷に帰る師匠・青山兵史郎を見送った方角であったからだ、彼は部屋に転げ込むや刀を掴み長着のまま門を飛び出した、そして喰違門の方へとひた走った。


門先に着いたとき、こんな夜更けに左手間ノ原通りには多くの人々が出ていた。

やはり何事か異変があったと合点、その人々らがたむろするところへ走った


すると屯付近の地べたが提灯の明かりで照らされ赤黒く濡れていた、跡部は付近の者に「この血は一体どうしたことか」と問いただすと「どうやら御老人が火縄で撃たれ、さらに数人の賊に斬られたらしい」と言う。


「老人とな…その老人は死んだのか!」と喰い付くように叫んだ。


「そんなぁ…儂ら見たわけでもなし、銃声を聞いてここに来たときは紀州様の御武家様らがもう運んだ後で、生死のほどまでは…」


跡部は紀州様と聞いて一瞬目が光った。

(そう言えばここは紀伊家の門前…まさか紀伊殿が師匠を)と一瞬思うも、そんな馬鹿なと即座に打ち消し、大声で「怪我人が何処に運ばれたか知るものはいないか!」と叫んだ。


すると後方より「仲殿丁の今岡清山先生の所に運ばれたらしい」と返ってきた。

それを聞いた跡部は走り出した、跡部には討たれた老人とは何故か十中八九師匠に相違なしと思えたからだ。


息急き切って医院に走り込んだ、そして手術中の患者を見た瞬間 己の想像が当たったことに愕然とし、血の気が引いてその場に崩れた。


「先生…」跡部は絶句し慟哭にむせた、その手術台の下には夥しい血溜まりができ…それは人体にどれほどの血があるのかと思わせるほど大量で、この光景を見ればとても助かるとは思えなかったのだ。


跡部はまんじりともせずその手術を夜通し見守っていた、そして明け方ようやく手術は終わり、執刀医の今岡清山は緊張から解き放たれたのか がっくりと肩を落とし床に崩れるように座った。


「ふぅっ、何とかうまくいった…おぬしら患者を病室に運んだらまずは休め、疲れたであろう」と労い、跡部能登守に気づき「夜通し見守られていたようですが…この患者のお身内の方でしょうか」と聞いた。


跡部は憔悴しきった顔で「それがし大目付の跡部良弼にござる、この御老体は助かりましょうか…」と祈る思いで清山に聞いた。


「大目付様でござりましたか、これは挨拶が遅れ畏れ多いことにございまする、して…もう御調べでございましょうか」


「そのようなこと聞いてはおらぬ!儂は助かるのかと聞いておるのじゃ!」と跡部は生来の癇癪の虫が出ていた。


「これは御無礼を、この患者の手術を終えたとき心の臓の音を聞きましたが…その気丈さに舌を巻きました、あれほど出血したと言うに心音はしっかりとしたものでござった、いやはやどれほど鍛練を積んだらこれほど頑強な体になりますやら…。


それがし出来うる限りのことはやりもうした、後は患者の体力次第でござります…ですがこの頑強さであればまずは助かりましょう、されど…」とここで清山は言いよどんだ。


「されど何じゃ!」


「これだけの手術、腕に関しては少々麻痺が残り…これまでのような膂力を取り戻すはまず無理かと、また脚の方は腓骨頭にめり込んだ弾丸は摘出致しましたが腓骨は粉砕骨折と酷く、何とか継ぎはいたしましたが上部腓腹筋は断裂、些か欠損もあり縫合手術は完璧とは申せませぬ…。


なお腓腹筋やヒラメ筋など下腿三頭筋の損傷は…完治は難しく麻痺が残るは必至、そのため歩行は難しいと思われまする」


「な、何んと歩けぬと言うのか…」


「大目付様、これほどの銃創であれば切断するが適切、されど切断するには忍びなきゆえ無理にも繋ぎもうした、歩けぬくらいは我慢していただかねば…」


「なに!我慢しろだと、何たる言いぐさ この御方は江戸随一の剣客ぞ、脚がのうてこの先どうするのじゃ…」跡部はここまで言って絶句した。


手術中は命だけでも助かればと神仏に祈っていたに…いざ助かるとわかれば欲を出す、そんな己の浅ましさに気付いて恥じ入ったのだ。


「済まぬ、つい激高し いらぬ事を口走った許してくれい、師匠の命を救っていただきこの通り礼を申す」と頭を深々と下げた。



 長い夜が明け、喰違門外での発砲事件は赤坂四谷界隈を震撼とさせ、その報は江戸城西の丸御殿や南北両奉行所と辰ノ口の評定所にもとんだ。


その報を耳にしたのか、午後には医院には入りきれぬ程の人々が見舞いに押し寄せた、それは老中首座・水野越前守を筆頭に、兵史郎と親しかった老中若年寄の面々、それに大名家の名代として家老や側用人らも引きも切らず訪れたのだ。


特に早朝 馬で駆けつけた南町奉行・鳥居甲斐守の嘆きは狂ったようにも見え、周囲の者を唖然とさせた。


だが手術は成功したものの依然兵史郎の昏睡状態は続き、医師の清山は長時間に渡る手術で大量に失血した血液量を慮った。


それは大量出血による低血圧化は脳には深刻であり、静脈血と言えど三分の一も流出すれば 意識は混濁、脳血流が早期に戻れば意識は回復するが…時間が経てば脳虚血は不可逆的となり意識が戻らぬまま死に至る危険性は高い。


だが三日目の朝 病床に付き添っていた琴絵から兵史郎の頭が微かに動いたと清山に知らされた。


そして一時後、皆が病床に詰めかけ今覚めるかと見つめるなか、夢から覚めたような眼差しで兵史郎の目が開いた、その第一声は嗄れた声で「おお…まだ生きておったのか」であり、その声で病室は歓声に湧いた。


その後、一月ほども入院した後 退院し自邸に戻ると養生に専念した。

そして七月に入り床上げが済むと衰えた筋肉を取戻すべく機能回復訓練に日夜集中した。


だが清山が推量した通り…いくら鍛錬しようが兵史郎の腕には麻痺が残り、筋肉は戻ったものの木刀は思い通りに振れず、また右足の感覚も依然戻らず何かに掴まって歩くのがようやくの体で、剣術の立ち稽古など論外であった。


兵史郎は次第にやる気をなくし…回復訓練も放りだした。

そして日がな一日縁側に一人座り漫然と庭を眺めて過ごすようになっていった。


そんな失意の中、たまに訪れる見舞いの客さえ会おうとはせず、遂には屋敷の離れに意固地にも閉じこもってしまったのだ。


これには息子兵一郎や嫁の琴絵も嘆いた、あれほど快活だった兵史郎は人変わりし、その目は虚ろに沈み このまま老けていくのかと思うとたまらなかった。


そんな七月の終わり、青山家の下男与助が興味ある話を琴絵に話した、それは浅草猿若町の市村座で先頃より演し物となった「箱根霊験躄仇討」という歌舞伎演目である。


何でもこの演目は京・大坂ではやり、今年の夏頃から江戸でも興行されることになった貞女鏡を主題とした仇討ちもので、今やお江戸で一番の評判という。


それは天正の頃の実話を元に歌舞伎化された演目らしく、飯沼勝五郎(いざり勝五郎)という人物が兄・三平を闇討ちされたことで仇討ちの旅に出て、事成就するまでの苦難に満ちた道程を描いたものという。


その粗筋は、飯沼勝五郎の兄(浄瑠璃では父)が同じ家中の佐藤剛三の妬みをかい闇討に果てた。


勝五郎は仇である佐藤剛三を追って江戸に出る、そして東北にも脚を伸ばしたがその行方は杳として知れなかった。


手詰まりとなった勝五郎は仙台藩の九十九新左衛門が剣術道場に入門しここで剣の腕を磨きつつ佐藤剛三を探すこととなる。


その道場には美しい娘がいた、それは仙台小町と名高い美女・初花である、二人はいつしか恋に落ち、過ぐるのち目出度く夫婦となった。


やがて仇の佐藤剛三が風の便りで西にいることが知れ夫婦で仇討の旅に出ることになる、だが旅の途中 勝五郎は風疾を頬い足腰の立たないいざりとなってしまう。


貞節なる妻・初花は勝五郎をイザリり車に乗せ、それを押して西へ向かう、その途中 初花は夫の治癒を願い、霊験あらたかという箱根勝驪山に向った、だが阿弥陀寺までくると待ち伏せしていた佐藤剛三に初花は連れ去られてしまう。


連れ去られた初花は剛三を討とうと立ち向かったが哀れにも返り討ちに果てる。

討たれた初花は夫恋しやと亡霊になり、塔之沢の滝にうたれ水垢離をとり、夫の治癒を願って一心不乱に祈りを捧げた。


初花の信心が箱根権現に届いたのか夫・勝五郎は無事快癒し、そのち首尾よく仇の佐藤剛三を討つという筋書きである。


与助は「御新造さま、歌舞伎話ではございまするが古来より箱根の湯は筋肉・関節の痛みやこわばりにはよく効くと申しまする、どうでございましょう一度箱根湯に大旦那様をお連れしては」と助言した。


この話を聞いた琴絵は荒唐無稽の作り話として最初は取り合わなかったが、その後 兵史郎の塞ぎ様を見るにつけ脚の治癒は別としても気分転換に旅に出るのは良いのかもしれぬと兵一郎に相談、七月も終わるころ むずかる兵史郎を無理矢理にも駕籠に乗せ、下女ヨネを同伴させると箱根路へ送り出したのである。



 九月の終わり兵史郎は江戸に帰ってきた、早晩快気祝いが催され多くの人々が四谷の屋敷に集まった、特に伊豆の韮山から知らせを聞き駆けつけてくれた江川英龍の見舞いは嬉しかった。


江川は兵史郎の無事なる姿を見て泣き崩れた「それがしの所為でこんなことになり誠に申し訳なく、どうお詫びしてよいのやら…」


「いえ、それがしこそ先生に江川のことで無理なお願いをしなければこんなことに…」と鳥居耀蔵も項垂れた。


「二人ともよいよい、儂がもそっと注意しておったならこの度の闇討ちなんぞの無様には至らぬかったであろう、儂も敵を少々あなどっておったと悔いておるのよ」


「師匠、我らも加勢を頼まれたに…何の御役にもたてず情けないことで、この通りお詫び致しまする」と斉藤弥九郎と千葉周作が頭を下げた。


「しかし…口惜しい限りよのぅ、敵は刀では勝てぬと火縄なんぞ持ち出しおって、それも美酒に酔いしれ気持ちよう歩いているところを闇討ちしくさるとは、どうしてくれようか」と兵史郎は久々に憤怒の表情を露わにした。


江川英龍は三日ほども兵史郎の屋敷に泊まると韮山に帰っていった、その後 兵史郎は十月の中頃まで練兵館に通い、剣の勘所を取り戻すべく弥九郎を相手に稽古を重ねた。


そして十月二十早朝、何事もなかったように水野家に出仕した。


「おお兵史郎よう戻ってきた、でっ足や腕は快癒したと聞いたが…誠か」

水野越前守は兵史郎の手を取ると心配げに足元を見た。


「長ごう留守をして申し訳ござりませぬ、おかげをもちまして手足はこの通り以前にも増してよう動きまする」と兵史郎は越前守の前で手を回しながら屈伸して見せた。


「おお良かったのぅ、さすが箱根の湯…よう効くとは聞いておったが これほどとは」


「さてそれはどうでしよう、塔之沢には腕達者の徳之一という按摩がおりましてな、この者に按摩療治を二十日ほども受けもうしたが…そのおかげやもしれませぬ」


「まっどちらにせよ治ったことに変わりなし 実に目出度い、しかし無理して出仕するには及ばぬぞ、もそっとゆっくりしておればよいものを…」


「いえ、もう屋敷内でじっとするは飽きもうした、それより卑怯にも火縄で撃ち倒した輩を見つけ八つ裂きにしてくれようとこうして出て参りました、殿 その後賊らの動静は如何な事になっておりましょうや」


「んん…無念じゃが あれ以降何ら進展は無いようじゃ、賊は当面の間 鳴りをひそめ当方の出方を窺っておるのやもしねぬ。


敵は手練れのおぬしゆえ徒党を組んで闇討ちに出た…それも江戸城の玄関先で火縄なんぞぶっ放しての荒技よ、このような無謀極まる所行はたいてい襤褸が出るもの、されど敵の引きは見事なもので何の手掛かりも残さず闇に消えたわ…。


というのは唯一現場に残された鉄炮は戦国期の粗製品での、何の手掛かりにもならんかった、そう考えれば指揮する頭目が余程の切れ者か…或いはその手足が優れているのか、いずれにせよこういった闇の仕置きに熟れておる連中であろう、侮れぬ奴儕よ。


それに比べ我が弟も鳥居も不甲斐ないことよ、師匠が闇討ちにかけられたというに手も足も出ぬとはのぅ…。


そう言えば本所界隈で春から探しておった女子おなごの消息がようやく知れたと鳥居が申しておったが…あれから数日経とうというに捜査進展の報告がない」


「ほぅ、あの女子が見つかりましたか…しかし見つかったとて これまでの敵の手並みを思えば…得られるものなどおよそしれておりましょうに」


「ふむぅ、そうであろうのぅ…」


「殿、それがしこうして復帰したからには捜査の行方を傍観しているわけにはまいりませぬ、当分の間 耀蔵めをけてやりとうござるが、お許しいただけますでしょうか」


「それはよいが…敵はおぬしが無事とわかれば再び襲ってこよう、さすがのおぬしも火縄には勝てまいぞ」


「この度の件で…いかに鍛錬しようが火縄を撃ちかけられたら如何ともしがたいことはようわかりもうした、されどこのまま放置すれば敵は殿の失脚を画し次の手を打ってくるやもしれず、その芽を早期に摘まねば面倒なことになりまする。

そんなわけで…それがし囮となりて市中を徘徊し、敵を誘き寄せようと思いましての」


「たわけ、そんな危険極まることを儂が許すとでも思うたか」


「殿、聞いて下され、幸い弟子の斉藤弥九郎や友の千葉周作が助力したいと申し出ておりましての、本日も斉藤弥九郎が門人三名を引き連れそれがしを近くで見守っておりまする。


これは事成就するまでの間 弥九郎と周作が交代に、門人ら数名を引き連れそれがしを警護するということにござる、当面この二人の申し出を受け事に当たろうと思うておりまするが…是非ともお許しをいただきたく」


「ほぅ江戸の剣豪三人が揃うのか…これは頼もしい限りよのぅ、よしわかった そういうことならおぬしらの便宜を計らうよう南北両奉行所と目付を束ねる若年寄・松平玄蕃頭にも申し伝えておく。


まっ すきなようにやってみよ、ただしくれぐれも言っておくが無理はするな、危険と思えば引くが肝要、それと頭目が大名・老中と知れたなら必ず儂に相談せよ…勝手に動くでないぞ、そのあとは儂の役目ゆえの」


「承知致しました、ではこれより鳥居に会って参りまする、それとこの事件が解決するまでは出仕は控えまするよって警護役は引き続き息子の兵一郎が務めまする、今後ともよしなに息子を御引き立て願いまする」

兵史郎は平伏の後、用人部屋で復帰の挨拶を終えると五ヶ月半ぶりの水野家屋敷を後にした。


(さて賊らめ…どうしてくれよう、八つ裂きにしてもあの苦痛は晴れぬわ、ただでは済まさぬ…)兵史郎の脚は以前にも増し軽やかなる足取りで南町奉行所に向かい歩き出した、そしてその周囲で兵史郎を見守る四つの陰も同時に動き出した。



 「これは先生ようこそ、もう歩き回って宜しいので…ご無理なさらないで下さい」


「たわけ、おぬしらの捜査が進まぬゆえこうして出張ってきたのよ、殿から聞いたが…あれから五ヶ月も経とうと言うに何らの手掛かりも掴んでおらぬというではないか」


「これは痛いことを…先生には苦痛ばかり味あわせ誠に申し訳なく、それがし躍起に捜査しておりまするが…敵も然る者、鳴りをひそめあれからというもの何の動きも見せませぬ…。


されど吉報がございまする、例の女子が日暮里の方にいることが知れ同心らが四日ほども出ばりようやく見つけ申した」


「ほぅ…日暮里とな、また遠くで見つけたものよのぅ、しかし本所界隈じゃのうて日暮里なんぞにいるとどうして知れたのじゃ」


「駕籠かきの芳造と伊助が千住大橋の近くまで客を乗せ、その帰りしな日暮里に差し掛かったところ、伊助が偶然にも川向こうを歩く手配中の女子を見つけ、驚いて呼び止めようと声を張り上げたが相手はそれに気付かず土手向こうに消えたとか、伊助は半信半疑ながらも親方・徳兵衛に相談し、徳兵衛の勧めに従い奉行所に届けた由」


「でっ、日暮里界隈を探したというわけじゃな」


「左様、その女子を奉行所に連行し細かく調書を取りました、それによれば女子は日暮里の染物屋の一人娘でお十代といい今年十五になる娘で、そのお十代が父の弟で本所三笠町で呉服商を営む辰巳屋にこの春十日ほど手伝いに来ていたとのこと。


その日は仕立て上がりの呉服を業平橋向こうの西尾隠岐守が屋敷に届けた返り、松倉町の角で二人の武士に呼び止められ駕籠屋に使いを頼まれたと言いまする。


頼まれたとき、お十代は駕籠屋に寄れば相当の遠回りとなるため断りを入れよようとしたが…その二人の武士の内一人が去年の秋口にも手伝いに来ていたおり店で一度見かけたことがあり御得意様やも知れずと仕方なく使いを引き受けたと申しまする」


「ほぅ 男の片割れを見たというのじゃな、それで」


「お十代が申しますに、店奥よりその男を見ていたため相手は知らぬはずと言うておりまして、それを聞き我ら愁眉を開きて早々に辰巳屋主人にその男に記憶は無いかと聞きもうしたが…一年も前になりまするよって記憶は曖昧で、番頭や手代 店の者らも一切覚えが無いということから…たぶん通りすがりの客ではないかと云うことになりもうした」


「なんだ…期待させおって、つまりは解らぬと云うことか」


「はぁ左様で…ただその女子が何故その男を覚えていたかは、その男なかなかの美男子で、また着ていた羽織の紋が初めて見る珍しき紋であったためとか」


「珍しい紋とは如何な紋をいうのじゃ」


「それが弓張り月の中に蝙蝠こうもりが描かれていたそうな」


「蝙蝠…ほぅそれは珍しき紋よのぅ」


「現状この紋が唯一の手掛かりで、この数日 南北両奉行所の総力をあげこの紋の探索に当たっておりまする」


「ふむぅ、珍しき紋ゆえそう何人もいるとは思えぬ、江戸中虱潰しに調べれば…ひょっとして行き当たるやもしれぬのぅ」


兵史郎はその紋に行き当たることを期待し南町奉行所を後にした。

(さてまだ昼前か…屋敷に帰るには早すぎるし、さりとて行くあても無し。


待てよ…賊らのこれまでの動きからすれば本所界隈が怪しげではある、一度本所辺りを歩いてみるか、ひょっとして賊が現れるやもしれぬ…ククッそれはないか)

と兵史郎は独りごち、その脚を両国橋の方向へ向けた。

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