五、弓張り月
兵史郎がまだ若かりしころ、小田宗達のこの艶っぽい眼差しで見つめられると背筋が冷たく凍ったものである…しかしどういうわけか齢五十も過ぎればこの艶っぽい眼差しも何故か可愛いげに見えてくるは不思議である。
この宗達という男、生まれつきなのか体躯は女性の如く華奢で その肌は雪のように白かった、それはまるで鈴木春信が描く色香漂う若衆そのものであり、出立ちなどは女物の鮮やかな柄反物を長着に仕立て、その上に漆黒の十徳を粋に着流すといった装いで衆目を集めた。
そんな出立ちゆえか若衆とか陰間とか陰口もたたかれたが本人は全く気にするそぶりも見せず、城中でその風体を咎められようとも聞く耳持たぬ傾奇者でもあった。
しかしそれも化政文化が栄えた大御所時代までで、家斉の後を継いだ家慶の時代とあっっては綱紀粛正と奢侈禁止は厳しく、この宗達でさえも今では十徳の下は地味な長袴の装いとなっていた…しかし滲み出る色香だけは今なお隠せなかった。
二人が対峙する座卓に茶を置いた奥坊主は一礼して下がった、それを見届けた宗達は茶を兵史郎の前に置き直し、声をひそめると「これは昵懇の茶道頭から頂いた最高級の碾茶で…将軍家でさえ滅多に口に入らぬ代物なの、ねっいい香りでしょ」
その湯気たつ茶碗からは何とも香ばしい匂いが漂っていた、その香気は玉露同様独特のかぶせ香があり一嗅ぎで相当な上物と知れた。
「おぬし、こんな上物を毎日呑んでおるのか…贅沢なやつめ」
「とんでもない、ほんの一握り戴いただけの碾茶ゆえ私めも一口だけ相伴にあずかっただけなの、青山様が御茶好きと聞いて是非にも飲んでいただきたく大事に取っておいたものなの」
「此奴…嬉しいことをさらっと言い抜けおって」
兵史郎は両手で茶碗を挟み、暫し口元で香りを楽しんでから おもむろに一口啜った。
「おおっ!これはええ、これほどの茶は何年ぶりじゃろう」
兵史郎は嬉しげな視線を宗達に送った。
すると宗達は「秋の彼岸頃、宇治採茶使が江戸に着いたなら今度は初昔か後昔を内緒で少しだけ戴けることになっておりますの、そのときは二人で楽しみましょ」と満足げな表情をつくると兵史郎の手をそっと握ってきた。
「おいおい人目があろう、手を握るのはよさぬか」と小声で制し、人に見られていないか辺りを見渡し「本題は如何致したのじゃ、早う言わぬか」と苦笑した。
「フフッ、そうでしたね」宗達も廻りを注意深げに眺め、急に声をひそめて語り出した。
「青山様、現在水野様が御計画中の上知令(上地令)は御存知?」と何の脈絡もない言葉を口にした。
「上知令とな…また藪から棒に何を言い出すやら、儂が殿の改革案を知らぬ訳は無かろうが、そんなことより九段坂の件ではなかったのか」
「そう先を急がれますな、どうせ謹慎とあっては暇を持て余し毎日が無聊を託つ日々でございましょ」と再び艶っぽい眼差しで見つめてくる。
「ふん、暇で悪かったのぅ、じゃが昨夜は無骨な南町の与力と一緒に寝たが鼾がうるそうてよう眠れんかった、よってこれより屋敷に戻りゆっくり眠りたいんじゃ、早うに申せ」
「まぁ憎らしいこと、奉行所の与力風情を可愛がるなんて…フン私があれほど好いていたのを袖にしたくせに…」
「たわけ、勘違いするのも好い加減にせい、昨夜は探索で遅うなったゆえ仕方なく奉行所に泊まっただけよ、儂に依然その気は無いわさ」
「探索って…あぁ九段坂で逃げた賊が両国の医院で見つかった件ね、たしか今朝方に息をひきとったと聞きましたが…」
「な!何でおぬしがそんなことまで知っておるのじゃ、ほんに油断ならぬ奴、ということはおぬしあの件で他にも知っておることがあるな、さぁ有り体に申せ」
「まっイヤだ、マムシの耀蔵のような言いよう、青山様のことが心配ゆえ調べておりましたのに…そんな態度ならもう申しませぬ」と怒った顔でそっぽを向いてしまった。
「おいおい…そう怒るな、儂が悪かった許してくれい」そう言うと座卓に置かれた宗達の手を柔らかに握り「んん…上知令がどうかいたしたのか」と機嫌を取るようにその手を優しげに撫でた。
すると宗達は笑みを戻し、兵史郎を見つめて「ねっ、聞きたいでしょ」と意地悪げに口元を歪ませ手をつよく握り返してきた。
そのとき「先生、ここにおいででしたか」と後ろから声が掛かった。
二人は驚いて手を放し声のする方を仰ぎ見た、そこにはいつの間に近づいたのか鳥居耀蔵が立っていた。
「こやつ気配を消しおって、儂の後でも付けて来たのか」
「とんでもございませぬ、先生が出掛けられたあと跡部能登守様からのお召しがあり至急参上したわけで…」
「なに、跡部がおぬしを呼んだのか…ほぅ何の用じゃろう」
「さて…大目付がそれがしを直接呼び付けるは初めてで…たぶん九段坂の件で知りたいことでもあるのでしょう、そんなことより先生は何の御用で西ノ丸へ」
「いやなに…この御仁と世間話でもしようかと屋敷に帰るついでに寄ったまでよ」と宗達の方を見た。
「左様ですか…」と言いつつ耀蔵は兵史郎と宗達を交互に見比べ、口元に僅かながら含み笑いを浮かべた。
「それでは先生もう行きますよって、それと例の女子の件 判明次第先生にお知らせ致しまする、ではこれにて」そう言うと一礼し急ぎ大廊下に去って行った。
「本当にいやな奴、青山様見ました…あのしたり顔、おぉいやだ」
「まっそう言うな、彼奴とて根はいい奴なんじゃ、それにしても跡部が耀蔵を呼ぶとはのぅ、あの二人は二十年以上も犬猿の仲…それを呼び付けるとは余程のことであろう、例の事件で何か進展でもあったのじゃろうか、ふむぅ気がかりじゃ」
「ふん!あんな二人に何がわかるものですか、青山様 あのような気色の悪い連中とのお付き合いはほどほどになさりませ、そのうち何か怖ろしげな陰謀に巻き込まれるような気がして心配でなりませぬ…」
「フフッ、彼奴ら…おぬしには気色悪う映っておるようじゃが、まっ儂のことを気遣ってくれるのは嬉しい限りよ、儂とて出過ぎの危うさは判っておるつもりじゃ、この先は引き際を間違えぬようにせんとのぅ、それより話の続きは如何致したのじゃ」
「あっ そうでしたね、気色悪い妖怪なんぞが藪から棒に現れたものですから…」
「上知令のことでしたよね、青山様も御存知でしょうが あの政策案件は水野様が昨年末の老中会議に掛けられたもの、今年になりまずは御老中・若年寄様らには検地調査に関しては御賛同が得られた由…。
ですがこの賛同も水野様の今の威勢の手前 やむなく従ったまでという噂もあり…これがいざ発布ともなれば一昨年の川越藩・庄内藩・長岡藩に下しおかれた三方領知替えなど比べものにならないほどの騒動が持ち上がるでしょうね…」
上知令(上地令)とは、その当時 江戸・大坂周辺は幕府領(天領)や大名領また旗本領が複雑に入り組んでいた、幕府はその入組みの弊害を取り除こうと江戸・大坂の都心十里四方を幕府が「一元的」に管理するという名目のもと、大名や旗本らに対し「保有する都心十里四方の該当領地を幕府に返上せよというもので、その代わりとして本領付近に同等以上の替え地を用意支給する」という政策である、水野忠邦がこれまで推進してきた天保改革の「総仕上げ」とも言うべき政策であろうか。
だがこの上知令の本意は、まずは窮迫する幕府財政を補強すべく江戸大阪都心近くの豊穣かつ整備された大名・旗本領を天領化(収奪)することにあり、また懸案であった天領・私領の年貢収公率の平均化の促進、及びアヘン戦争で大清国が英国に敗れ日本にもいずれ西洋列強が攻めてくることを鑑み、その備えとして大名・旗本から上げ知した都心臨海地帯を海防の拠点とすべく幕府の防衛綱領に沿って企図されたものであった。
「宗達よ おぬしこの度の改革には詳しいようじゃが…一体だれぞに聞いたのかえ」
「フフッ、日がな一日御城で皆様を御世話し、御大名や旗本衆の繰り言を聞いたり大奥での噂話など三十年もの長きのあいだ耳にしておればいやでも耳聡うなるもの。
でっ青山様…ここからが本題で御座いますよ」
と宗達は不意に笑みを消すと…その白い貌を兵史郎の傍近くに寄せた。
「この度の上知令のこと…御老中の土井様や堀田様などは表面的には水野様の改革に協力的ですが…その実 裏では改革潰しに躍起のようですよ…。
何でも土井様は下総国古河に八万石を領するそうですが、その八万石のうち二万石が河内と摂津の飛び地領でね…どうもこの二万石が上げ地になりそうなの…。
土井様のご家来衆が嘆いていらっしゃいましたが、何でも河内と摂津の石高は公称二万石でしょうがその実利は倍以上もあるんだって、それでね…その代わりとなる替え地は本領古河近隣の土地らしく、公称三万石と言っても実際は一万石にも満たない荒れた痩地とか…土井様が改革潰しに裏で奔走するのも無理は無いわよねぇ…。
それにねフフッ追討ち話もあるのよ。
実は土井家には河内と摂津の領民に多額の借金があるらしく、領民らは上知が施行されればその借金が踏み倒されるのではと恐れを抱き、土井家には毎日のように上知反対の強訴がなされているらしいの、青山様…御大名とか御老中と威張っているけど、その実 台所は火の車なんですね…土井様の今の胸中は如何ばかりか…。
こうして皆様方の繰り言を聞くに付け…上知令布告までの道程の途方も無いこと…。
簡単に領地替えと言うけれどそれには莫大な経費もかかり、これが御加増を伴う栄転領地替えならよいのでしょうが、この度の上知令なんぞほぼ懲罰的な領地替えとかわらないでしょう、大名旗本にとってそんな収奪まがいの政策なんぞとても承服できるとは…。
それに付け加えれば…昨今の大名旗本衆の殆どは領国の豪農・豪商から多額の借金をしているのはあたりまえ、これが領地替えともなれば貸し手はその貸金が踏み倒される危惧を抱くは当然、加えて江戸大坂周辺を領する藩や旗本衆は藩札・旗本札の多くを発行していらっしゃいますよね。
この藩札・旗本札も実質的には領民からの借金でしょ、また財政的に余裕がある大名旗本であっても近隣他領で藩札旗本札が発行されれば自領からの正貨流出を食い止めるため対抗して藩札旗本札を発行していると聞きまする。
こんなとき もし国替にでもなったらどうなります。
これら藩札旗本札なんぞ一瞬で紙屑に化けましょ、そうなる前に藩や旗本は正貨をもって発行札を回収せざるをえませぬが ただでさえ領地替えで莫大な金がかかるというにそんな余裕などあるものですか…そりゃもう各地で踏み倒しが横行するでしょう。
青山様、いくら幕府の台所事情が苦しいからって…このたびの政策はあまりにも下手に過ぎると思いません、茶坊主の私でさえこんな傲慢政策が罷り通るなんておかしいと思ってるくらいだもの。
どうせ来年の実施までの間、各地で強訴や反対運動が頻繁化するでしょうが、それに乗じて大名旗本衆はどう動くのか…この政策の傲慢さはいずれ水野様失脚に繋がるような気がしてしょうがないのよ…」
「フゥッ、おぬし今日はようしゃべるのぅ、でっこれまでの話からあの九段坂の事件とどう繋がるのじゃ、そこの所がよう見えてこぬが」
「青山さま私の噺 フフッ興味深いでしょ、でもここからは私の憶測を交えますよって余り真剣には聞かないで下さいましね。
実は御三家の紀州様もこの度の上知令に引っかかったのよ、紀州様といえば領地は紀伊一国三十七万一千石と伊勢松阪の十八万石ですが、何と松阪の十八万石がこの「上知令」に引っかかったみたい。
だから紀州様は年始めより猛反発でね「紀州の領地は権現様より賜りし聖地、これを召し上げるとは幕臣の振る舞いに非ず」と抗議したんだって、でも水野様は「御三家と言えど紀州一国を許せば他藩に示しが付かず」とこれを無視。
成り上がり老中が何たる無礼と、水戸様を巻き込んで猛反発するも水野様は聞く耳持たずといった体、これには紀州様もなすすべもなく一旦は引いたらしいの…。
青山様、ここだけの話ですよ…今年二月月初めに紀州様は「上知令」を潰すは水野様を老中の座より引きずり落とす以外に策は無しと決したようで、どうやら利害が一致する御老中の土井様と堀田様を味方に引き入れたとか、これを聞いて私もすぐに調べたけれどほぼ間違いないところ…水野様失脚の謀は今着々と進んでいるみたいなの、ねっ由々しき一大事でしょ」
「なんとまぁ…そのような話 何処ぞから聞き込んだのじゃ、ふむぅ宗達よこの件に余り首を突っ込むと危ないぞ、もうそのくらいにしておけ」
「何をおっしゃいます!まだ始めたばかりというに、あの上知令がいくら悪法だからって水野潰しの最初の血祭りが私の大事な青山様だなんて、これを黙って見過しに出来ますか、私が必ず暴いて犯人を白日の下に晒してやりますから!。
って…青山様、そんな驚いた顔をしないの、話を先に進めますよ。
九段坂の事件は幸い返り討ちとなり青山様らには被害は無かったものの、もしあのとき江川様が斬殺されていたなら【江川―遠山―半香―崋山】の線が浮かび上がり、強いては蛮社の獄の非道さが明るみに出て再吟味ということにもなるでしょう、そうなれば鳥居様を裏で操った水野様の所行が浮上し、水野様失脚に繋がる因子も露呈しようもの、これが敵の狙いでしょ。
では敵は誰なのか…水野様は大御所・家斉様薨去を契機に家斉様の旧側近らを厳しく粛清・罷免され、代わりに腹心の遠山景元、矢部定謙、鳥居耀蔵、渋川敬直、江川英龍様らを登用し天保の改革を半ば強引に進めてきたでしょ、だから水野様を恨みに思う人々は政権交代時の恨み人と、この度の上知令該当者らが加わり…その数なんぞ数え上げたらきりがないくらい。
こんな敵だらけというに情けなくも遠山様と矢部様は水野様に反抗して相次いで御失脚、残る腹心は鳥居耀蔵、渋川敬直、江川英龍様ら乏しき人材…。
まっ、将軍・家慶様の信任が厚い内は水野様も御無事でしょうけれど…御三家や御奥の今後の出方次第で将軍家の御心などどう変わるやら、下手をすれば水野様の今の御威勢を畏れ仕方なく従う老中・若年寄・御側衆などは簡単に敵にまわるでしょう。
水野様も己の陣営をもそっと強化して御改革に着手されても遅うはないはず、ねぇ青山様…お殿様にそう言いなさいよ。
って、言えるわけ無いか…ふぅぅ 水野様が一番に信任を置いていらっしゃる御人は青山様だろうけど、はぁぁこの御人は剣はお強いが政治・権謀術数ともなればまるで稚戯、そうそう色事もねククッ。
あっ、ごめんなさい冗談ばっかりで、本題に戻りますね。
現在、水野様は鳥居様と江川様の御二方を随分可愛がっていらっしゃいますが…もしこの御二人が重大な過失を犯し失脚すれば水野様の側近はほぼ壊滅状態、さすれば水野様の政権存続は難しゅうなりましょ。
と言うことは水野様を失脚させるは 鳥居耀蔵様と江川英龍様を如何にうまく【葬り去る】か、にかかっているのでは…。
先日の九段坂の襲撃を画策したは水野様失脚を狙う者らでしょうが…いまいち腑に落ちぬ点が多々あり、わたくしこの数日間考えあぐねておりますの。
というのは反水野派の密会場所に江川様を巧みに誘い込み、その密会が南町奉行所にわかるよう画策、鳥居様はそれにまんまと引っかかり料亭香月を急襲、一網打尽に全員を捕縛。
これでは江川様一人だけが失脚…もし私であれば江川様に鳥居様を引っ掛け共倒れに導く陰険な策をとるでしょうに。
たとえば香月で捕縛のおり 鳥居が江川様だけを密かに逃がす、逃げた江川様を刺客が追って斬殺する…その後の捜査で逃亡幇助したは鳥居様と知れ鳥居甲斐守は失脚、と私ならそう画策しましょう…、ですがあの二人は公然たる犬猿の仲、鳥居様は喜んで江川様を捕縛しようも間違っても逃亡させるなどあり得ぬ話、であれば敵は何のために刺客まで周到に用意したのか…そこが解りませぬ」
「なんとまぁ…おぬしには畏れ入ったわ、よくもそこまで考えたものよ、しかしおぬしが料亭香月のことまで知っておったとは…いやはやその探索能力は茶坊主にしておくのはもったいないのぅ。
まっそこまで考えたなら教えてやろう、鳥居が江川を逃亡させたは合っておるぞ、おぬしは知らぬであろうが あの二人は奇妙な間柄でのぅ、あの日江川を香月から救い出して欲しいと儂の屋敷に頼みに来たのは耀蔵よ」
「何とまぁ…」と宗達は絶句し、その目を大きく見開き兵史郎をまじまじと見つめた。
「しかしじゃ、あの二人が互いにかばい合うほどの間柄と知るものは…儂以外にはおらぬと思うておったが…他にもそれを知る者がおったということかのぅ…」
「いえいえ青山様、あなた様は御二方とは三十年近い師匠と弟子の間柄、これ以上あのお二方を知る御仁など居ようはずもございません。
やはり水野様を失脚させようと陰謀を巡らす輩は一個でなく複数ありと考えた方が腑に落ちるようです。
料亭香月での捕縛を画策した者、九段坂襲撃を画策した者、この者らは全く別もので互いに連携していない、そう考えれば腑に落ちまする」
「そうじゃろうか、これを複数の敵と断じるは早計と思うがのぅ、今一度 鳥居と江川の奇妙な間柄を調べ、儂以上に彼らの関係を知るものがおるやもしれぬ、儂もかねてからあの二人の関係は【奇妙】と思っておったのよ」
「まっ、私と青山様の関係みたいね」
「たわけ、何度も言うが儂にはその気は露程にも無いわさ、さて話もこれ以上の進展はなさそうじゃから…そろそろ帰るとするか、ふぅっまた眠むとうなってきた」
兵史郎は欠伸を噛み殺し立ち上がろうと膝を立てた。
「青山様もう帰るの」と宗達は少し甘えた声で兵史郎の手を握り「この度は筋書きに無いあなた様の登場で敵の謀は脆くも潰えました、けれど謀を潰され私兵を五人も斬り殺されたとあっては面目は立たず…その恨みは如何ばかりか。
これまで敵は青山様のこと眼中には無かったと思うの、でもこの度の事件で青山様が越前守様の懐刀と知れ、あなたの存在が今後大きな障害になろうことを敵は気付いたでしょう、それと昨今あなたが奉行所に入り浸り、この事件を嗅ぎ廻っていることは既に敵も承知しているはず…。
もし私が敵であったならまずは青山様から先に抹殺しようと考えましょうね…。
あらいやだ、私ったら何て怖ろしいことを想像したのかしら」
宗達は喋るほどにくだけ、今では完全に女言葉に変わっていた。
「敵はまず儂から殺すというのじゃな、そう言えば殿様もそんな様なことを申されていたが…、おっと 儂のことよりおぬしの方こそ気をつけよ、先程来よりのおぬしの考察根拠などは相当奥深うに聞き込まなければ知れぬ事、敵にもし感ずかれたらひとたまりも無いぞよ、城中とはいえこれからは寂しきところを一人で歩くでない」
「あら、私のことを気にして下さるの、まぁ嬉しいますます青山様に惚れてしまいそう…」
「はいはい話はもう仕舞いじゃ、ほら 帰るからその手を放さぬか」
兵史郎は絡みつく指を解きながら立ち上がった。
「数日後に西ノ丸に来る用事が有るよって何か判ったらそのときに教えてくれ、それから何度も言うが出過ぎた真似はするなよ」
兵史郎はそう釘差すと宗達に見送られ談合間より玄関口に向かって歩き出した。
暮六ツ頃、兵史郎は四谷から十五町ほど南に下った赤坂御門近くの跡部能登守の屋敷を訪ねていた。
この屋敷は元々は日本橋呉服商の寮であったらしい、それを能登守が買い取り現在は見目麗しき女性を住まわせているとか、なんでも柳橋の芸者に惚込み足繁く通ったあげく大枚の金子をはたいて根曳きしたらしい…まっ早く言えば妾宅である。
「先生、この酒は江戸では滅多に手に入らぬ灘西郷の一品、苦労して手に入れた銘酒で先生にも飲んでいただこうと取っておいたもの、さぁ飲んで下され」そう言うと兵史郎が持つ大きな杯になみなみと注いだ。
「先生、今宵はこのような拙宅にお呼びし申し訳ござりませぬ、四谷からだとそれがしの本宅よりずっと近いためこちらに足を運んでいただきましたが…どうです 静かな佇まいでしょう」言うと能登守は開け放された障子向こうに見える庭明かりに視線を移した。
「ふむぅ…たしかに見事な造作じゃ、我が屋敷の庭とは大違いよ、したが武辺者のおぬしには似つかわしゅうないこの佇まい…何ぞ心変わりでもしたのかえ。
ククッ 跡部よ隠すでない、最近はもっぱらこの別邸に入り浸りというではないか、なんでもおぬしより二回りも下の女子を曳いたらしいのぅ、どうせその女の趣味じゃろう。
おぬし…若いじぶんからこればかりは止まらぬようじゃ、してその女子はそんなに美しいのか」
「それはもう…いえいえとんでも御座いませぬ、今宵は我が本宅では話しづらいこともあろうかとここにお呼びした次第で…しかし先生には敵いませぬ」
「もうよいわさ、その趣味の良い女子とやらをたんと可愛がってやれぃ。
さて先の話の続きじゃが、先日水野の殿様が土井様の調査を貴公に命じたが報告が遅いと苛立っておられたが…何ぞ捜査に問題でもあり行き詰まっておるのかの」
兵史郎はさりげなく鎌をかけてみた。
「えっ 兄者が苛立っておられる、そう言えば十日も兄者には会っていないか…はぁさぞ怒っておられるだろうなぁ…。
しかしそれがしとて遊んでいるわけではありませぬ、まっ先生聞いて下され、それがし今年の初め勘定奉行に就任致し、当面空席となる大目付職と兼任になりもうしたが…この三月の間は奉行引き継ぎに忙殺され調査の余裕などとてもとても、それゆえ調査は部下にまかせきりで…。
それでも日々の調査・探索の進捗は聞いておりまするが…未だ核心には至っておらず兄者への報告は苦しい限り、参っている というのが本音でござります…」
「でっ、おぬしの部下の調べでは土井様は黒であったのか」
「いえ黒と言うより灰色と言った方がよいのかも…九段坂で先生らを襲わせた者は土井家の者と大凡見当を付け調査させてはおりますが…なかなか尻尾は見せませぬ。
ですが一方の料亭香月で反水野派の密会を画したのは前の老中・太田備後守の仕業とだけは知れました、備後守は兄者を幕閣より追放せんとして水戸の斉昭様を操り天保の改革を潰そうと動いたのですが兄者にこの動きが漏れ逆に太田備後守(資始)のほうが昨年六月に罷免され隠居されましたが…相当兄者に遺恨がある様子、現在反水野派の糾合に躍起になっているとか。
「ふむぅ、前老中の太田様と半香との結び付きは以前耀蔵より聞いたが…太田資始様が料亭香月の密会を画したと解ったは、一体どの筋から探り当てたのじゃ」
「それは…遠山殿の筋を少々揺さぶってとだけ申しておきましょうか」
「まさか遠山金四郎が言うわけあるまい、家来筋でも痛めつけたのか」
「それは…まっ遠山殿を目付衆に詮議させている間 その隙に少々…」
「左様か…でっもう一方の儂等を襲わせた黒幕が土井家の者と目星を付けた理由は何でじゃ」
「先生、それだけは申せませぬ、兄者にきつく箝口せよと申しつかっておりまするゆえ」
「そうか…では土井様と太田様の結託などはあったのか」
「あったと言うより…もはや土井様は太田様を呑み込んでいる様子、当方の調べでは土井様の裏衆が太田様家中の動きを完全に見切っているようにも感じられまする…」
「裏衆とな、土井様は未だそのような怪しげな者らを使っておるのか」
「土井様は三河刈谷藩の生まれ、本家古河藩の実子が早世したためその養子に迎えられたおり、三河裏衆を密かに連れてきたとの風聞があるようで…」
「三河裏衆と言うと徳川縁に繋がろう…となれば伊賀か甲賀くずれよのぅ、儂らを九段坂で襲った賊の頭はその裏衆の一人ということかのぅ」
「今朝方深川で息を引き取った者ですな…死人に口なしで今のところは分かりませぬが昼前に鳥居甲斐守を呼び捜査の進み具合を聴取致しましたが…未だその男の正体は知れぬとか、よって昼過ぎ当方の担当目付に死体を検分をさせ、その際に似顔絵を幾枚も複製させましたゆえ、現在これを携え土井家縁に繋がる者かを総力挙げて探らせておりまする」
「ふむぅ…もしその者が土井家の縁に繋がれば一気に核心に迫れるのぅ…」
「先生、その者がもし裏衆であったならその面体を知るものは土井様本人か家老・側用人くらいのもの、裏衆であれば絶望的でございます」
「ふむぅ、あの者は裏衆だったのか…しかし実際手合わせした儂の感想じゃが、あれはまっとうに剣術を学んだもの、たしか構えからすると柳生心陰流…。
そういえば下総古川藩の土井家に そのむかし萩原猶左衛門なる江戸柳生の達人が指南役に召し抱えられたと聞いたことがあったが…」
「裏衆とて柳生心陰流を使うこともありましょう、まっ四・五日も探索すれば土井家縁の者か否かは判りましょう、しかし裏衆の仕業であれば迷宮入りでしょうな、そうなれば土井様が次に動くまで手出しは出来ませぬ、ふぅ…兄者にどう報告してよいのやら…」
その後は、跡部能登守から耳を欹てるほどの話は聞けず、六日後にまたこの屋敷に訪れると約し宵五ツころ赤坂の別邸を後にした。
別邸を出ると月は下つ弓張り月と暗く、提灯を借りほろ酔いの足で堀端道へ上がった。
(たしか灘西郷の銘酒と言っておったが…ふむぅ確かに旨い酒じゃった、しかし跡部は今度来たときはもっと旨い酒を呑ますと豪語しておったが、あれ以上に旨い酒が有るというのか…何処の酒じゃろう楽しみなことよ)
右手に赤坂御門が見え、次いで左手に紀伊家を囲む長大な築地塀が続く、暫く歩き喰違門に至った辺りが四つ角になっていた、兵史郎は正面の道を堀端沿いに四谷御門に向かうか…それとも左に折れ間ノ原道から仲殿丁通りを抜け屋敷に向かった方が近道かを暫し考えた。
(まっ 少し遠回りじゃが酔い覚ましに間ノ原を通って帰ってみるか)そう思い足を左に向けた、しかしこの遠回りが運命の分かれ道になるとは…。
この間ノ原通りは喰違門より真っ直ぐに延びた広い通りで、通り中央には外堀から引かれた淀み川が穿たれ、その水辺に群生する草木は鬱蒼というより森に近い深さである、それゆえ茂みが目隠しとなり路傍からは淀み辺りは全く望めなかった。
(ここの草木も伸び放題じゃのぅ、だれも手入れはしないのか…)
兵史郎は提灯を目の高さまで持ち上げ その草木の伸び具合を仰ぎ見た、その時であるけたたましい轟音と共に蹴られるほどの衝撃を右脚に受け 兵史郎は横薙ぎに叩き倒された。
その轟音は右手の深い茂みから聞こえたような…兵史郎は猛烈な痛みで朦朧と翳む意識の中…地べたにしたたか叩き付けられた耳には微かに迫り来る複数の足音が伝わっていた。
(卑怯にも鉄炮で仕掛けてきよったか…しかしこのままでは討たれてしまう、早う立ち上がらねば…)
そう焦るも脚に全く力が入らない、それでも両手を地に突いて何とか上体のみを起こすと疼痛で震える脚を何とか前に投げ出し、苦しく息継ぎ脇差しを抜きはらった。
その時 賊と思しき数人が右手の茂みから湧き上がるように躍り出た、それを見た瞬間 兵史郎は無意識に鋭い奇声を放った、その奇声は一瞬賊を踏み止まらせるに足る魂魄の咆哮であった。
賊は突出の勢いのまま 構え整わぬ兵史郎に殺到し総掛かりで突き入れれば確実に仕留めれたはず…だが兵史郎の恐るべき咆哮はその勢いを相殺し且つ賊らを数歩後退させるに足る威力があったのだ。
この一瞬の躊躇が兵史郎に味方した、地に両足を揃え無様に構える兵史郎であっても賊からすれば四人の浪人を一瞬で倒した江戸随一の剣客と映っている、迂闊に踏み込めば脚を薙ぎ払われる恐れから遠巻きに囲むしかなかった。
その賊らが急ぎ囲みを結んだとき、後方で構えていた賊の一人が摺り足と共に風を切り渾身の突きを入れてきた、兵史郎はその切っ先を側方に倒れつつ躱すと勢い余って突出する賊の両腕を起き上がりざまに叩き切った。
とすぐ横に構えた賊は兵史郎の背ががら空きになったのを見て得たりとばかりに上段から鋭い剣を振り下ろした、兵史郎はその攻撃は予測しつつも座しての動きはすこぶる遅く、体を開いて躱すのが僅かに遅れた。
「ドスン!」という重い衝撃を左肩に感じた兵史郎…(まずい!斬られてしもうた…)と感じつつ、無念にも意識はそこでプツンと途切れた。




