三、九段坂練兵館
明けて朝五ツ、兵史郎はいつものように老中・水野越前守の屋敷に出仕した。
老中屋敷の門前には市をなすというが、ここ水野屋敷も例にもれず早朝より玄関先は面会客で溢れていた。
水野家では忠邦に面会できる日を御対客日または御逢日と呼び、月に七日ほども開かれ、大名・旗本、御用商人、職人など誰でもが直接陳情や挨拶に出向くことが許されていた。
兵史郎は面会客の隙間を縫うように玄関に行き、用人部屋へ向かった。
水野屋敷には用人が兵史郎を含め四人いた、筆頭は側用人の大久保利長、続いて公用人兼務の井上作右衛門、御城使兼務の伊藤助左衛門、そして警護役兼務の青山兵四郎の四人である。
中でも兵史郎は三十年もの永き奉公ともなり、四人の内では最古参として御役こそ低いが皆から一目おかれていた。
だが今朝はいつもと様子が違う、普段であればこの時間は茶を啜り世間話に興じている時刻で、兵史郎を見れば皆こぞって挨拶してくるが…今朝に限っては 座卓の前で書き物に没頭するふりを見せ兵史郎の方を見ようともしない。
「皆様お早うにござる…」とは言ったものの皆の余所余所しい態度に首をかしげる。
すると奥に座る側用人・大久保利長が兵史郎を見つけるや慌てて立ち上がり兵史郎の元へと駆け寄った。
「そなた一体何をした?、今朝方より殿様がえろう御立腹の様子…」
「はて…それがしの事で殿がご立腹?…」
「左様、先ほど珍しく部屋に訪れ、兵史郎はまだ来ておらぬのか!とえらい剣幕じゃった、おぬしが出仕したならすぐにも対客部屋に来るようにと申されておったが…そなた 何ぞしでかしたのか?」と耳元で囁いた。
「いえそれがしは…昨夜は殿とご御一緒に酒をくみ交わし……んん特に何もございませんでしたが、ふむぅ御呼びとあらばこれは行くしかありませぬな…」
そう言うと座る間もなく心配顔の同僚に見送られ兵史郎は用人部屋を後にした。
水野家の対客部屋は玄関近くに設えられ いつものように取次役の若侍が慌ただしく行き交っていた、兵史郎は対客部屋の襖前に立つと耳を澄ませ中の様子を覗った。
中からは微かに会話が洩れ、未だ面会客と話しているようだ、兵史郎はどうしたものかと思案しながら隣の十畳ほどの控之間を覗いた。
控之間には面会客四人ばかりが順番を待っている、であれば外で待つ客をあわせれば終わるのは登城時刻にもなろう。
(これは待ってはおれぬ…)
兵史郎は控之間に入り、奥に座している取次役の前に行き耳打ちした。
「殿に急ぎの用じゃ、中の客が終わりしだい儂を先に入れよ」
そう耳打ちするとそのまま取次役の隣に座った、この取次役は石橋栄之進といい 息子の兵一郎とは幼なじみで少年の頃より水野道場で息子とは区別無く剣術を叩き込んだ剛の者だ。
やがて対客部屋からの会話が途絶え 客が控之間へ出てきた、それを見た取次役は次の順番客に小声で断りを入れると兵史郎に目配せを送った。
兵史郎は素早く立ち上がり、控える客らに一礼し対客部屋へ入った。
対客部屋は質素倹約をむねとする越前守らしく いたって簡素で調度品は殆ど無く、その殺風景な部屋中央にいつもの仏頂面で越前守は一人ぽつんと座っていた。
「殿、お呼びにより参上致しました」と兵史郎は無理にも笑顔を作った
「おぅ御老体、怪我はなかったようじゃのぅ、それにしてもおぬし歳を考えぬか!夜更けにいくら賊とは言え四人も斬り殺すとは赤穂浪士討ち入り以来の出来事ぞ、今日の昼過ぎには江戸雀がさぞ喧しい事よ」
「昨夜のこと殿のお耳にもう届いておりまするか…これはお早い」と嘯いた。
「何が早いじゃ!いらぬ心配させおって、でっ賊の素性はわかっておるのか」
「それがどうにも分かりませぬ、何せ後方より一斉に打ち掛かられ 防戦一方で相手の素性を探るなどとてもとても、そうそう一人だけは討ち洩らしましたが」
「では何も分からぬと言うことか…ふむぅそれでは話が続かぬわ…。
しかしおかしいではないか、昨夜は耀蔵が来るとて早々に帰ったおぬしが…どうして宵五ツ半の遅い時刻に御用地辺りの寂しきところをうろついておるのよ」
「そこまで御存知で…これは隠せませぬな、たしかに耀蔵は我が屋敷に来訪し四半時も経たぬうち湯島に所用ありとて帰ると申し、それがし彼を送りつつ三番町のなじみの店に行き一杯、その帰りしな月が美しゅうてついふらふら御用地辺りまで…」
「月が美しゅうてついふらふらとな…フン適当なことをぬかしおって、まぁよい 早朝目付から報告を聞き心配でならんかったが…こうしておぬしの無事な姿を見て安堵いたした、子細は今宵聞くよってもう下がれ、だがそれまでにもう少しましな嘘でも考えておけ、さぁ次の客が待っておろう すぐに通せ」
(んん…殿は既に見抜いておられるのか…)
そんな想いを抱きつつ兵史郎は対客部屋を下がった。
一刻ののち登城の刻となり、兵史郎は御駕籠横に付き従い江戸城下馬先門まで警護した、そして二ノ丸御廊下より茶坊主の先導で老中御用部屋まで同道、朝四ツ過ぎに控之間へと下がった。
控之間に入ると今朝ばかりは在室する者らが一斉に会話をやめ兵史郎を仰ぎ見た。
その眼差しはいつもと違い興味深げに満ちあふれ、奥に座っていた真田信濃守が用人・土屋徳兵衛などは兵史郎を見つけるやすかさず手を摺り合わせて近寄ってきた。
「青山殿、聞きましたぞ!何とまぁ数多の刺客を一瞬で斬り伏せたというではないか、これは荒木又右衛門の【鍵屋辻の決闘】を凌ぐほどであろうと今しがた皆様と噂しておったところよ」
「土屋殿、もうそんな話が耳に届いておりまするか…」
「そうともよ、我が殿様なんぞ戦国の気風残る寛永の頃ならいざ知らず、それより二百年も下るこ時世にそんな豪傑がおるとは…凄い凄いと感激しきりであった、のう青山殿 その時の様子を少しばかり聞かせてはくれまいか、なにせ殿がその真偽を下城までに調べておけと仰せでのぅ…」
「土屋どの相済まぬ、今朝はその件でこれより南町奉行所に出頭せねばなりませぬ、またの機会にしてくだされ」
「と言うことは…本当に決闘は有ったということじゃな、これは凄い是非にも聞かねば、でっ貴公何時に戻ってくるのじゃ」
「それは奉行所に行ってみなければ分かりませぬ、ではこれにて失礼」
言うと兵史郎の腕をしきりにさわる土屋徳兵衛の手を邪険に払いのけ控之間を出た。
(これは参った、一日も経っていないというに一体何処から洩れたのか…まっいずれは知れること、それにしてもこういう噂は早いものよ。
さて奉行所に参るとするか…しかし本来は先に評定所に行くべきであろうが…未だ評定所からの呼び出しは無し、耀蔵に聞いてみるか…)
兵史郎は二ノ丸を出ると大手方向に足を向けた。
大手の口から二御丸下へと歩き馬場先御門に向かう。
その途中ふと思い出し、先月 殿が拝領したという二御丸下の上屋敷予定地はどの辺りかと探りながら歩いた、だが老中首座となった殿が今頃になって二御丸下に屋敷地を拝領するは余りにも遅きに過ぎ、あの殿ゆえに遅延したのだろうかと想いを巡らせた。
馬場先門に架かる橋を渡るとまっすぐ歩き大名小路へ入いる、小路の街並みには桜の花びらが春の柔らかな光を浴び美しく舞っていた。
小路を右に曲がり暫く歩く、およそ四町も歩けば南町奉行所だ、兵史郎は奉行所の門前に至ると門番に奉行に会う約束が有ると告げ奉行所内への案内を請うた。
中庭に面した部屋に通されると熱い茶がふるまわれた、兵史郎は目端に映る中庭の造作を見ながら茶を啜って耀蔵を待つ。
四半時も待たされたとき「先生お待たせいたし誠に申し訳ござりませぬ、今日は評定所で内座寄合がありましての…」と耀蔵は渋面を造り兵史郎の前に座った。
「しかし寄合当番の遠山殿が昨夜の事件で今は評定所で詮議の身、評定所では目付衆が朝からてんやわんやの大騒ぎで…はぁ まいりました」
「なに!遠山を捕縛したのか」
「目付衆が疑い有りとて現在評定所奥で吟味中にござる」
「でっ福田半香は如何したのじゃ」
「はっ、昨夜遠山がいた宴会場の二つ隣の小部屋で供の者らと潜んでいるところを捕縛、今この奉行所内で尋問中にござる」
「おぬしのこと…さぞ酷い拷問でもかけておるのじゃろう、たしか蛮社の獄では山口屋金次郎以下数名がおぬしの拷問で死んだと聞いたが…」
「まっそれなりに厳しく尋問を行っておりまするが…未だ遠山との関わりは口を割らず また背後の人物や渡辺崋山の密命など知らぬ存ぜぬの一点張りで、あの強情者の様子では…たぶん死しても口は割らぬでしょう」
「そうか…、口を割らぬのも困るが…厳しき拷問で太郎左衛門のことを喋られても困るのぉ、その点はどうなのじゃ」
「福田半香が江川を呼び出したにはそれなりに裏がある筈、現在その点を徹底的に調べておりまするが尋問に当たっている役人はそれがしの腹心のみ、万が一江川のことを喋ったとて江川の名が外に漏れる心配は御無用にござる、また厳しい詮議の後に半香が生き残るは難しゅうござるよっての。
なお遠山に至っては福田半香や江川のことなど絶対に口を割らんでしょうから後はそれがしがうまく取り計らいまする」
「左様か、では安心していいのだな」
「はっ、江川に詮議が及ぶことは絶対ありませぬ 安心して下され、それより昨夜はあれから江川と一緒だったのでしょうか」
「んん、心配ゆえ我が屋敷に泊めようと四谷に向かって歩いておったのよ、そこを襲われたのじゃが…昨夜は言いそびれたが賊の狙いは儂じゃのうて江川の方よ、
しかし江川が言うには昨夜香月に呼ばれたは崋山を偲ぶ会に呼ばれたのであり、遠山がいることさえ知らなかったそうじゃ、また命を狙われる事も全く思い至らぬとのことよ」
「ええっ、先生でなく江川が狙われたのですか…」
「ふむぅ、江川がボソっと言っとったが…江川が斬殺されたなら詮議は料亭香月に及ぶ、その香月を調べれば江川を事前に逃亡させた者が浮上し儂の名が上がる、更に調べればおぬしやその背後の水野越前守様が浮かび上がろう、つまりは老中首座追い落としを目論んだ輩の仕業ではなろうかとな」
「先生!それが事実とあらば由々しき大事、江川が言うことが当たっているとも思えませぬが…その筋は調べる価値は充分にありましょう、しかし殿には敵が多過ぎ 調査は難儀いたしましょう…また旗本・大名家の仕業とあらば奉行所でなく大目付か目付の業務、それがしが付け入る隙はございませぬ…」と耀蔵は曇った顔で兵史郎を見た。
「そうよのぉ…韮山代官を暗殺しようというからには小物ということはあるまいよ、まっ遺恨であれば別じゃがの」
「先生、今朝方 殿は何か言うておられませんでしたか、早朝に水野屋敷に目付が走ったと聞いておりまするが」
「それよ、朝っぱらから殿に呼び出され年寄りの冷や水もええかげんにせいと叱られ、昨夜はおぬしを送りがてらあの辺りで一杯やったと言い抜けたが…もう少しましな嘘がつけぬかと暗に言われわ。
本日の下城までにもそっとましな嘘でも考えておけと言われたが…んん耀蔵どうしたものかよ」
「先生、殿を誤魔化そうなど到底無理な話、他の老中ならいざ知らず実力のみで最高位まで上り詰めた御方、権謀術数にかけてはそれがしなど遠く及びませぬ、この際は嘘でなく事実を申された方が宜しかろう」
「そうじゃが…それを言うたならおぬしが洩らしたことがバレよう、さすればおぬしに咎が及ぶことになろうが」
「それがしのことで先生の御心を痛みまいらせては心苦しゅうござる。
殿は昨夜江川が狙われた事は知りませぬが、それがしが湯島に向かったと聞いた時点で先生も湯島に同道したぐらいは見当をつけておりましょう、また江川のことを知られたとて殿は大の江川贔屓、遠山を排除しようとも江川だけには けして悪い様にはいたしませぬ」
「そんなものかのぅ、じゃがおぬしは無事には済むまい」
「いいえ殿はまだまだそれがしが必要の筈、そのようなことでそれがしを排除するなどあり得ませぬ、それに洩らした相手が先生ならばなおさらのこと…クククッ」
「此奴言いおって、全て分かった上で儂を利用したのだな」
「とんでもございませぬ、ただの成り行きにござる。
それと先生の裁きでございまするが、本日の評定所の裁決で先生には咎め無しと決まりもうした、どうやら殿が目付に命じ…この件はこれ以上騒ぐなと申されたそうで。
それと遠山はこの度の件でたぶん奉行職は御役御免となりましょう、後はどこぞの閑職にでも追いやるのでしょう」
「ふん、もうよいわ!とんだ猿芝居よ、一連の騒動は遠山左衛門少尉の排除にあったのだな」と言いつつも、兵史郎は遠山の出過ぎた諫言を憂いていたが…やはり図に当たったようだ…しかし邪魔者排除における殿の冷徹なる粛清は…いつもの如く過剰に過ぎるとて兵史郎は憂いた。
「じゃが江川暗殺の件だけはこの度の戯作にはなかったようじゃが…おぬしはこれをどう見るよ」
「先生に今し方聞くまで江川の暗殺など思いもよらぬ事、先生の暗殺とあれば事は混沌となり調べは難しゅうござるが…江川となれば些か調べようもございまする、首謀者を捕らえることは敵いませぬが…目星ほどは付けられもうそう、先生 十日ほどもお待ち下され」
「耀蔵よそう無理せずともよい、ゆるりと間違えぬようにの、そうでなくともおぬしのやりようは江戸市中で嫌われておるゆえのぅ、この度の遠山の一件もおぬしはたぶん悪者扱いになるじゃろう、不憫な奴よ」
「それがしのことはどうかお気遣いなしに願いまする、先生も御存知のように子供の頃より慣れておりますよって」と耀蔵は快活に笑い飛ばした。
その後、昼餉を馳走になり、殿の下城時刻である昼八ツ丁度に二ノ丸の控之間へと戻ってきた。
控之間に入ると他の老中は既に帰ったのか殆どの用人もいなかった、また老中・真田信濃守が用人・土屋徳兵衛もおらず兵史郎はほっとして寛いだ、その寛ぎついでに部屋隅に煙草盆を見つけ、殿の下城には暫し時間があるとて座り込むと懐から煙管を取り出した。
矢継ぎ早に三服ほど吸ったとき取次衆が「水野越前守様御下城」との声が掛かった。
兵史郎は吸いかけの煙管を盆に叩くと直ぐさま御用部屋の廊下へと進み部屋から出てくる殿を待つ。
暫くしていつもの仏頂面で越前守が御用部屋から出てきた。
そして兵史郎の顔を見るや「おぬし昼過ぎまで何処に行っておった」と聞いてきた。
「おや、私めが外出したことまで御存知で、それがし二御丸下まで些か所用で…」
「フン、その落ち着きようは耀蔵と口裏を合わせてきおったな、その顔は良き嘘を二人で思いついた顔よ、屋敷に着いたらじっくりと聞かせてもらおうか、クククッこれは面白き余興じゃて」と下司っぽく笑った。
(はぁ、全部見抜かれておるわ、やはり耀蔵が申したように事実を吐露するしかないようじゃな…)
結局、屋敷に着くとすぐに酒が振る舞われ、さんざん呑まされたあげく気づけば昨夜のことを洗いざらい吐露していた。
「剣の腕は達人の域を超えていようが…クククッ権謀術数ともなればまるで稚戯よ、まっそこがおぬしの良いとところじゃ」とからかわれ兵史郎は苦笑するしかなかった。
「じゃがおぬしの吐露で襲った者の大方の見当はついたぞ 礼をいう。
しかし襲った奴ら 江川におぬしのほどの剣客が付いていたとあらば…さぞ驚いたことじゃろう、はぁ儂もその場に居合わせておったらさぞ面白き見物が出来たものを実に惜しいことをしたわ」
「殿、殺しが面白きものとは悪しき了見ですぞ、それがしこれまでに幾十人も殺しましたが…こればかりは後味すこぶる悪きもの、一生見ずにおくがよろしかろう。
殿そんなことよりその首謀者が誰なのかそろそろ教えて下さりませ」
と少々呂律が回らぬ言葉を返した。
「ふむぅ…こればかりはおぬしの頼みとて口に出せぬわ、このこと皆が知ったなら幕府は混乱極みよ、まっそれほどに大物と言うことじゃ、そのうちそやつの枝葉辺りが切り落とされてこようから…それらで想像がつこうがな。
じゃが最終的にその首謀者の首を取ることは叶わぬ…さてさてどうしてくれようか。
まっこの件が収束に至るには多くの血も流れよう、そちには存分に働いてもらわにゃならぬのぅ。
またこの事件の発端者として そちは今後ともつけ狙われよう、刀は良く切れるよう研いでおくことが肝要じゃ」
越前守が喋る言葉が次第に遠のいていく、昨夜は人を斬った興奮で眠りも浅く またしたたか呑まされた酔いも手伝ったのか兵史郎の気は次第に睡魔の方が勝っていった。
「殿、それがしが殺されると仰せか…」と言いつつ無念にも微睡んでしまった。
結局は水野屋敷に泊まることになり、朝方見知らぬ部屋で寝ていることに気付き狼狽えた、早々に身繕いを済ませ部屋を出ようとしたとき見知った腰元が朝餉を持って部屋に入ってきた。
「青山様には昨夜 御酒がすすまれた由、粥などつくりましたゆえどうぞお召し上がり下さりませ」と湯気が立った脚付き膳を畳に置き、意味ありげに兵史郎を見つめた。
兵史郎はその眼差しを訝しがりながら膳から漂う鰹出汁の匂いを嗅いだ、その途端一気に吐き気がこみ上げてきた、「ううっ、済まぬが朝飯は遠慮する」と言うや口元を押さえ厠へと走った。
朝五ツ、何食わぬ顔で用人部屋に入り、いつものように挨拶しながら座卓前に座った。
いまだ胃の腑辺りが苦しく時折こみ上げるぜん動に口を結んで耐えた、一体どれほど呑んだらこんなことになるのか、どうにも洗いざらい喋りきるまで呑まされた感は否めず、己の酒好きには今朝ばかりは嫌気がさした。
「青山殿、部屋中が酒臭うてたまらぬが一体どれほど呑めばこんな臭いになるのじゃ」
振り返ると側用人の大久保利長が鼻を摘まみ苦渋顔で立っていた。
「これは大久保様、それほど臭いまするか…これは御無礼」
「そんなことより聞いたぞ【九段坂の決闘】の話、今朝は屋敷中でその話でもちっきりよ、何でも襲い来る刺客を八人ほども斬り伏せ、それも一瞬の内に全員を即死させたというではないか、そんな恐るべき剣客が我が家中に居ること自体何と誇らしい事よとな」
その話に他の二人の用人も興味深げに兵史郎の座卓前に寄ってきた。
「青山殿、儂等は同役とて果報者よ、こんな話一生のうちまず聞けぬこと、それを本人から直に聞けるとは嬉しき限りじゃ、さぁ話して聞かせよ」
まるで芝居小屋の観客気取りである、用人らは座卓に肘を突くと目を輝かせ兵史郎が喋り出すのを今や遅しと待っている。
「皆さん待って下され、そのような講談噺ではなく、ただ襲い来る浪人者四人を斬ったに過ぎず、なんで決闘とか誇大にも八人に増えるのか…うぅぅそれがし吐き気がしてまいった、少々厠に…」
そう言うと口を押さえ逃げるように用人部屋から走り出た。
(ふぅっ、朝方より家中の者らや御女中までもが儂を意味ありげに見つめていた訳がこれで頷けたわい、さてどうするか…こうも家中が騒がしいとあれば当分は隠遁するしかあるまいよ)
兵史郎は屋敷裏の青山道場に向かった、すでに息子の兵一郎も出仕しているはず、今朝から当分の間は御駕籠警護は兵一郎に代わってもらおうと歩き出した。
道場は早朝稽古が終わったのか今は深閑としていた、兵史郎は磨き上げられた板の間を滑るように進むと奥の詰所へ向かった。
詰所に入ると兵一郎が何やら書き物に没頭していた。
「兵一郎、朝っぱらから何を忙しそうに書きよるか」
「あっ、父上お出ででしたか」兵一郎は筆を置くと兵史郎を仰ぎ見た。
そして思い出したように「父上!無断外泊は御慎み下され、昨夜は琴絵が心配顔で夜遅そうまで父上の帰りを待っておったのですぞ、なにせ前の晩に八人も斬ったのですからな」
「何、琴絵さんはもうあの件を知ったのか、これはまずいのぅ…」
「琴絵どころか四谷界隈で知らぬ者などおりませぬ、今朝方には瓦版まで出る始末、これでは殿に面目が立ちませぬ」と怒り顔で兵史郎を睨み付けた。
「そう怖い顔をするな、儂とて降りかかる火の粉は払わねばならぬ、それと斬ったのは八人じゃのうてたったの四人よ」
「数の問題ではございませぬ!、父上お歳を考えて下され、もう五十六にもなろうと言うに…今宵屋敷の方で私と琴絵の前でこの件の顛末をきちんと喋ってもらいますからそのおつもりで」
「まぁそう怒るな、それより儂はほとぼりが冷めるまで四谷の屋敷に逼塞するよって、済まぬがその間の殿駕籠警護は代わってくれい、殿には儂から伝えておくよって」
「それが宜しいでしょう、当分は屋敷で謹慎して下さい!」
散々息子に叱られ詰所を出ると屋敷奥で登城の準備を整える越前守の所へ行き、当分の間自邸で謹慎する旨を伝え、息子が警護の代役にあたることを言上し許された。
(さてと用人部屋へ戻れば三人が煩かろう…このまま屋敷に帰るとするか、しかし琴絵さんはさぞ怒っているじゃろうし…はぁ身の置き所がないのぅ…。
そうじゃ弥九郎の練兵館にでも行ってみるか、ひょっとして太郎左衛門が来ておるやもしれぬ…)
兵史郎は水野屋敷を辞すると自邸の帰り道にあたる九段坂上の練兵館に足を向けた、この道場は以前は九段下俎橋近くに有ったが四年前の天保九年三月十日、この付近一帯に広がった大火で類焼し今は九段坂上に道場は移築されていた。
この練兵館館長である斉藤弥九郎は神道無念流の撃剣館に学び、師範代にまで上り詰めた剣の達人で、文政九年二十九歳の若さで独立すると九段坂俎橋近くに練兵館を創設した経営能力にも優れる剣客である。
兵史郎が撃剣館の後見を務めていたころはこの若き斉藤弥九郎や江川英龍を特に可愛がり、新道無念流の奥義である立居合の殆どを伝授してきたのだが、特に弥九郎はその手並みは優れ、兵史郎の愛弟子で撃剣館の館長でもある岡田吉貞に五本も打ち込み二本も勝ちを収めたというからその天才ぶりは言うも疎かであろう。
また斉藤は撃剣館のころより江川とは特に仲がよく、以降 親交を深く結び、練兵館創設や現在地に移築のおりも江川が多くの資金を援助をしたと聞いている。
そんな仲ゆえか斉藤は江川に仕えることになり、天保六年 江川が伊豆国韮山の代官になると江戸詰書役として仕え、例の耀蔵と確執があった備場見分実施のときも江川は測量技師の推薦を渡辺崋山に依頼すべく斉藤弥九郎にその仲介を頼んでいた、実際に備場見分の際にも斉藤弥九郎を手代(警護役)として参加させているのだ。
兵史郎は俎橋を渡り九段下から三番町に向けて歩いた、この坂は一昨日太郎左衛門と上った緩い坂道だ、やがて右に鬱蒼とした御用地が広がり例の殺陣現場へと差し掛かった。
兵史郎は足を止め辺りに見入る、そのとき掌に肉を切るあの厭な感触が蘇った。
(あのとき賊四人殺す必要があったのか…)と思った、羽織袴の男があれほど無礼な態度を取らなければたぶん賊らの急所を外して斬ったはず、あのときはそんな余裕さえあったはずなのに。
(憤怒にまかせ殺生をしてしまったな…)
兵史郎は未だ黒々と血跡が残る地面を見つめ 暫し手を合わせた。
殺陣現場から三町も歩くと左手に堀田摂津守の広大な屋敷が見えてくる、そして道を挟んだ右側が斉藤弥九郎の練兵館だ、気付けば殺陣現場と目と鼻先の距離にあった。
当時江戸の三大道場として、千葉周作の技の玄武館、桃井春蔵の品位の士学館と並び、斉藤弥九郎の力の練兵館と言われるだけにその門構えは厳めしく、兵史郎はその門の造りに感心しながら道場の入口へと廻った。
道場入口で大声を掛け奥への案内を請う。
その声が余程大きかったのかそれまで館内に鳴り響いていた竹刀音はぴたりとやんだ、やがて防具を着けたままの若者が汗を拭きながら入口に現れた。
若者は兵史郎を見るや「これは青山様!」と叫んだまま絶句した。
「これこれ何を睨んでおるのじゃ、早う弥九郎の所に案内せぬか」と兵史郎は呆れ顔で顔見知りの若者に促した。
するとようやく「一昨日は我らが死骸を番屋に運んだのでござる」と得意げに眼を輝かせ、今度は畏敬の眼差しで見つめてきた。
「おぬしらが運んでくれたのか、これは礼を申す」
「礼だなんてとんでも御座いませぬ、死骸の斬り口を見て門人ら一同驚きもうした、どう斬ったらこんな鮮やかな斬り口になるのかと…館長は見た瞬間に青山様じゃ!と言い当てもうしたが…そんなことが斬り口のみで分かるものでしょうか」
「これこれ無駄話は良いから早うに弥九郎の所に案内せぬか」と兵史郎は苦笑交じりに再び促した。
「これは失礼致しました、今朝方より韮山の江川様が参っておられます、さっどうぞこちらに」と言われようやく敷居を跨いだ。
道場横の廊下を歩く中、兵史郎を見つけた塾生らは口々に「青山様だ!」と叫び、廊下際に走り畏敬の眼差しで見つめてくる、その光景を横目で見ながらこそばゆい想いで奥へと進んだ。
奥座敷に繋がる廊下を歩くと兵史郎の来訪を知ってか弥九郎と太郎左衛門は座敷の廊下まで出て迎え入れてくれた。
「これは先生、お怪我も無かったようで祝着にござります」と弥九郎が挨拶し、「あのときは先生のおかげで命拾いしました、御礼申し上げまする」と太郎左衛門が礼を言う。
「まっ互いに無事で良かったわい」
三人は座りながら笑顔で会釈し「死骸はおぬしの所の門人が番屋に運んでくれたそうな」と兵史郎は弥九郎を見た。
「はっ、あの夜は泊まりの塾生らと久々に奥で酒を呑んでおりまして、そのとき堀田摂津守の用人が震えながら道場に飛び込んで来ましての、浪人四人が近くで斬殺され斬った者が屋敷付近を彷徨いておるやもしれず、主人が練兵館の皆様に助成願いたいともうされておるよし。
我らすぐに外に飛び出し探索に及びもうしたが賊の姿は既に見当たらず、死骸の鮮やかな斬り口を見て、それがしすぐに先生と分かりもうしたが、子細分からずとて番屋では一切口をつぐんでおりました…先ほど太郎左衛門殿に子細を聞き、やはり先生の手筋と分かり合点致したわけで」
「左様か、それは済まぬ事をいたした」
「先生にはお任せしっぱなして心苦しく、韮山に帰るとて気がかりで決心が付かず こうして相談すべく弥九郎殿の道場に罷り越した訳で…先生、その後何か分かりましたでしょうか」と太郎左衛門は心細そうに兵史郎を見た。
「一昨日の今日よ、まだ何も分からぬ、じゃが我が殿は感の良き御仁…フフッ儂等のことだけはすでに何もかも見抜かれてしもうたわ」と兵史郎は頭を掻いた。
「えっ、ではそれがしが料亭・光月で福田半香や遠山殿と密会した件、また耀蔵が逃がしてくれたことなども…」
「左様、じゃが安心せい殿はおぬしをいたく贔屓でのぅ、おぬしを咎めることは一切致さぬと申されておったわ」
「左様でござりましたか、これで安心して韮山に帰れまする、先生にはこの通り礼を申し上げまする」と安心顔で兵史郎に向かって平伏した。
「これこれ太郎左衛門よ、まだ安心するのは早い、未だ賊の正体も分からぬからのぅ、何故そちを暗殺しようとしたか依然謎のままよ、再び賊らが襲い来るやもしれず当分の間は身辺に気をつけよ」
「先生、現状のところ賊の目星は全くつきませぬか」と今度は弥九郎が兵史郎を見た。
「ふむぅ、殿はおおよその見当はついたと申されておった…どうやら老中首座・水野越前守の失脚を狙った犯行らしいと申されておられたが、その首魁は余程の大物…これは儂の推測じゃがの、たとえば老中の誰か、或いは御三家のいずれか、また大奥も疑わずばなるまいよ。
とにかく殿が進める天保の改革の中で この秋口より発布されるという【上知令】は各大名家にとどまらず旗本らにも大きく利害が及ぶゆえ…その相関たるや儂等の想像の埒外であろうのぅ」
「それがしの暗殺が幕府を揺るがす一大事の始まりになるとは…」太郎左衛門は絶句し兵史郎と弥九郎の顔を交互に見て大きく溜息をついた。
「まぁ何もかもが儂の想像よ、そう気にするでない、耀蔵は十日のうちにも目星は付こう言っておったが…捕らえてみれば案外小物かもしれぬ。
そうでなければ耀蔵の手には負えぬよって殿や大目付の跡部能登守が動かれるであろう、そうともなれば動きは儂にもおよそ伝わるよって時折韮山にも報告を入れようぞ」と太郎左衛門を見た。
「それと殿が儂に刀を研いでおけと申されたが…相手が大物とあれば刺客の数は想像も付かぬ、それゆえ儂一人では手に余るやもしれず、弥九郎よ その時はそちに助成を頼みたいが協力してくれるか」
「それがしごときに助成を申し入れられるとは…ほんに勿体ない限りでござる、早々にも千葉周作殿と相談致し、いざともなれば練兵館・玄武館の総力をもって御加勢もうしあげまする」
「そうか、それは有難い、おぬしと周作が手助けしてくれるなら百人力よ、よしなに頼む」
「先生、事の発端はそれがしにあり、弥九郎や千葉殿に頼む前にそれがしに助成せよと何で言ってはくれませぬ、兵の三十や五十すぐにも韮山から呼びまするに…」と太郎左衛門は不服顔で兵史郎を見つめた。
「まさか戦でもあるまいに、そう言ってくれるは嬉しいが…おぬしは剣客商売でもなし、剣の腕は弥九郎や周作には遠く及ばぬ、もし怪我でもさせたなら殿から大目玉よ、それよりおぬしは政治や洋学が本業、その筋で儂に加勢してはくれぬか」
「腕の程を言われたなら…返す言葉もございませぬ、しかし…」
「太郎左衛門よ、そう拗ねるでない、おぬしは早うに韮山に帰ることじゃ、在所の仕置きをほったらかしに四谷辺りに入り浸りはしないかと殿が憂いておられたぞ。
それと本日殿より聞いたが正式な幕命として高島秋帆への弟子入りが認められ、また韮山では江川塾の仕置き宜しく、佐久間象山をはじめ全国の多くの藩より韮山へ入門者が訪れているそうな、そのような多忙の身であればなおさらのこと、早う帰らねばの。
弥九郎よ、すまぬが此奴一人で韮山に返すのは心許のうゆえ、道中おぬしのところの腕のたつ門人を二・三人ほども付けてはくれまいか」
「はっ、それがし韮山で大砲(青銅製)や小銃製造が本格化したと聞き及び、以前より是非にも訪れたいと太郎左衛門殿にお願いしておりました、この度は折角の機会ゆえ門人じゃのうてそれがしがお供し韮山に行きとうござる」
「そうか、それは有難い おぬしが伴うてくれれば心強い限りじゃ、太郎左衛門よ今宵はゆるりとして、明日より江戸での用事を早々に済ませ早いとこ江戸を発て、分かったな。
よし!そうと決まれば今宵は別れの酒盛りじゃ、弥九郎よ用意せい」
そう言うと未だ納得していない太郎左衛門の肩を強く叩いた。
これで今宵は煩い息子とその嫁の小言を聞かずに済むかと思うと少し嬉しくなった、しかし胃の腑辺りを押さえ些か不安を覚える兵史郎でもあった。




