二、九段坂の殺陣
兵史郎は屋敷を飛び出すと城に向けて走り出した、途中 四谷御門を抜けるとすぐに左に折れ九段坂方向に進路を変える。
湯島までは距離にして一里と五町、走れば四半時で走破できよう。
今宵は月も明るく外堀には月陰が揺らいでいた、兵史郎はその月夜の中を全速で九段坂を走り抜け俎橋を渡った、そして突き当たりを左に折れたとき「せ…先生、この速さでは湯島までとてももちませぬ…」
その嗄れた声に兵史郎は速度を落とし後ろを振り返った、すると耀蔵が十間ほど後方を足を縺れさせながらやっとの体で追い縋ってくる。
「おぬし…何とだらしのない、日頃鍛錬を怠けておるからそういうことになるのじゃ」
「ふぅっ…先生の方が異常でございます、この距離を全速で走破するなどあり得ぬ事、それがしはもう限界でござります」
耀蔵はようやく兵史郎に追いつくや膝に手を当てはぁはぁと喉を鳴らし ついには尻餅をつき座りこんでしまった。
「やれやれこまった奴よ…そうとなれば致し方なし、おぬしはゆるりと参れ 儂は一足先に湯島へ走るよって、密会場所は料亭【香月】じゃったな!」
「そうですが…先生!くれぐれも手荒なまねは慎んで下され、町奉行所の者は何とでも致しまするが目付衆だけはそれがしの力及ばざるところ、何卒隠密裏に御処置を」
兵史郎は耀蔵の言葉を最後まで聞かず既に走り出していた。
(はぁ…なんという韋駄天、まるで天狗のようじゃ、達人とはあのような凄まじい体力に裏打ちされているのか…)
耀蔵は舌を巻き、兵史郎が右辻に消えるまで胸を喘がせつつ呆然と見送っていた。
兵史郎は外堀に架かる昌平橋を息を整え静かに渡っていた。
正面には湯島横町が広がり左手奥には湯島聖堂が見える、少年の頃この湯島の学問所で学友の五兵衛についていけず、荒れたことをふと思い出し苦々しく笑った。
堀外通りを何食わぬ顔で横切ると湯島横町の辻奥へ歩を進める、案の定 役人らしき者 数人が通行人を装い目を光らせているのが見て取れた。
(料亭【香月】はあそこじゃな、さて姑息に入るより客を装って正面から堂々と入ってやるか…)
そのとき不意に二人の武士が物陰から躍り出た、明らかに検問の構えである。
二人の武士の内 一人は兵史郎の後方を塞ぐべく背後へ廻り、もう一人は正面に立ちはだかった。
「御老体、このような夜更けにどこへ参られる」
正面に立つ男の目は町屋の明かり照らされ怪しく光った、しかしその男の背丈は兵史郎の胸ほどにもなく、まるで威張った子供が大人を仰ぎ見て凄んでいるようにも見え兵史郎は笑いを噛み殺すに苦労した。
「どことな、そのようなこと…おぬしらの知ったことではないわさ」
「おのれ!横着な物言い」言うや男は一歩後退し腰に差した十手を抜きにかかった。
「おっと奉行所の方々であったか、これは御無礼いたした それがし老中水野越前守が用人・青山兵史郎と申す者、所用があってそこな料亭【香月】に参るのだが」
男は水野越前守が用人と聞き明らかに目が泳ぎだした。
「御老中・水野様の御用人とは…こ、これは失礼致しました、ささっ通られよ」
言うと小男は飛び退くように道を空けた。
兵史郎は軽く会釈し何食わぬ顔で通りすぎた、しかし内心は己の身元を明かしたことはまずかったかと悔いてもいた。
それでも(なるようになるわさ)と思いつつ、料亭玄関に続く趣ある小径を歩き香月と染め抜かれた暖簾をくぐった。
中に入ると草履番が「いらっしゃいませ」と愛想のいい笑顔で迎える、次いで仲居が奥より出で「いらっしゃいませ、御客様 今宵はお待ち合わせで御座いましょうか」と聞いてきた。
「それがし青山兵史郎と申す者、今宵ここに北町の遠山様が来ているはずじゃが…」
「承りました、暫らくここでお待ち下さいまし、すぐ奥に聞いて参ります」
言うと上がり框の左奥に六畳のほどの畳が敷かれた待合場へと案内された。
兵史郎は腰の刀を抜くと座布団の上に胡座を組んだ、そして料亭の内装に見入る。
(さすが江戸でも高級料亭と名が知れた香月、なかなかの造りじゃわい、それにしてもすぐに部屋へ通さず相手客の意向を確認に及ぶとは…儂がなじみの料亭とはえろう違うものよ)と苦笑いを浮かべ しみじみと瀟洒な造作に見入っていった。
茶が出されそれを啜りながら兵史郎は耀蔵のことを想う。
(あやつどうして太郎左衛門(江川英龍)のことをわざわざ儂に知らせに来たのか…)
それは三年ほども前になろうか、耀蔵がまだ目付のころ江戸湾測量の件で韮山代官の太郎左衛門と対立している。
事の発端は老中水野越前守が江戸湾防備のため備場新設用地の調査・測量を韮山代官の江川英龍と目付の鳥居耀蔵に命じたのが始まりだ。
この江戸湾調査・測量は耀蔵が本丸目付になって最初の大仕事でもあり相当に気負いがあった様で、測量を担当する江川に相談もなく当初予定であった相州一国の調査以外にも安房、上総、伊豆下田も調査対象に加えたいと御上に上奏し勝手に内諾を得てしまったのだ。
これを知った江川は早々に勘定所に出向き「鳥居耀蔵の勝手なる申請はそれがし与り知らぬ所、それがしは相州御備場測量のみ仰せ付けられたによって同国のみを測量いたしまする、この段重ねて申し上げておきまする」と開き直った。
この遺恨が手伝ったのか今度は江川も耀蔵に相談もせず自分なりの測量隊を編成すべく渡辺崋山と相談し高野長英の門人と言われる内田弥太郎、奥村喜三郎を測量技師として選抜してしまったのだ。
これを知った耀蔵は大いに憤慨し、耀蔵も自らの測量隊を編成、小笠原貢蔵を測量頭に据えると天保十年一月九日、鳥居ら一行は江川に先んじ江戸を出発した。
幕府は耀蔵と英龍二人に対し 互いに協力し合って備場新設用地の調査・測量を行えと命じたのだが…この反目により結果としては各々単独での調査となってしまった。
これは江川洋学派と鳥居儒学派の対立の構図がその根底に流れていたことは否めない。
そして備場新設用地の調査を終え耀蔵が将軍に拝謁し測量図記と要地調査報告書を提出したのは三月下旬のころ、また江川が提出したのはその一ヶ月後、この両者の測量図記と要地調査報告書は明らかに優劣が有ったという。
それは鳥居派の小笠原貢蔵らが作図した測量図記は昔ながらの絵図面であり、江川派の内田弥太郎が描いた測量図記は洋式図法による精密なる測量図記であったという、この図の出来栄えの差に耀蔵と小笠原貢蔵が赤恥をかいたと言われているが憶測の域は出ない。
だがこの備場新設用地の調査以降、耀蔵は配下の小人目付らに渡辺崋山・高野長英らの調査命令を出し、そして「蕃社の獄」に繋がっていくことを考えれば…耀蔵のこのときの遺恨は相当なるものと勘ぐるは仕方の無いところであろう。
しかしこの耀蔵と江川の仲は他人には分からぬ奇妙な間柄で、互いに憎み合っていたかと言えばそうでもない、もともと耀蔵と江川は昔から昵懇の間柄で二人の親交は江戸湾巡視中や蛮社の獄以降も続いており世に噂される犬猿の仲は誤りであろうことは兵史郎だけは知っていた。
そのとき先ほどの仲居から声が掛かった。
「遠山様がお待ちでございます、どうぞこちらへ」
そう言うと上がり框の奥にある二階に上がる階段を指し示し先導していった。
二階に上がり奥に進むなか、兵史郎は思いついたように前を歩く仲居に「急で済まぬが小部屋でもかまわぬゆえ一部屋用意してくれぬか」と声を掛けた。
「かしこまりました」仲居はそう言うと、とある部屋の襖の前に立ち膝を床につけると「失礼致します、御客様をお連れ致しました」と声をかけた。
すると中より「お通し下され」と即座に返答があり、仲居は静かに襖を開けた。
兵史郎は仲居の「どうぞお入り下さいませ」の声で部屋へと入る。
中には遠山金四郎と江川英龍、それと見知らぬ顔六名ほどが座卓を囲んでおり、全員が一斉に兵史郎を注視した。
「これは先生、今宵は先約があるとて一献傾けるはご無理ではなかったのですか…それと我らがこの料亭にいることがどうして分かったのでござろう」と金四郎は訝しげな眼差しで兵史郎を見上げた。
兵史郎はそれには応えず 笑顔を作ると静かに江川(太郎左衛門)の横へ進んだ。
「太郎左衛門 久しいのぅ、これより黙って儂についてまいれ」そう耳打ちすると遠山に向き直り「外は奉行所の者と目付衆が犇めいておる、それと失礼じゃが福田半香殿はどなたかのぅ」
この声にそれと思しき男が兵史郎を仰ぎ見た。
「その方か、懇談中相済まぬが別の部屋を用意致したゆえ、そこもとと供の者はすぐにも移動してもらいたい、なお遠山殿らはこの部屋でそのまま宴会をお続け下され。
方々突然訪問し勝手なる振る舞いどうか御容赦を、外には鳥居甲斐守及び目付衆ら捕方数十人が踏み込む構えで待機しておりまする…そう申せば各々方およその察しはつきもうそうか」
そう言うと兵史郎は江川の肩を叩き目配せした。
後の客らの貌といえば「鳥居」と聞いた瞬間より顔面蒼白で狼狽えだし、遠山のみは観念したのか自嘲めいた薄笑いを口元に浮かべ兵史郎の顔を意味ありげに見つめていた。
そんなざわつきを尻目に兵史郎は江川の肩口を取ると立ち上がらせ「行くぞ!」と言うや部屋を出た。
階段を下り玄関に行くと草履番に「儂等の履き物を出してくれ、それと今は何時かえ」と聞いた。
草履番は二人の履き物を奥より持ってくると上がり框に揃えて置き「丁度宵五ツ半になりまする」と応えた。
「丁度か…太郎左衛門、狼狽えるでないぞ ごく自然にな」
「先生、一体何があったというのです、教えて下され」
江川は一方的に部屋から連れ出され 狼狽えるなと言われても困惑するばかりである。
「よいから黙ってついて参れ」兵史郎は江川の二の句を押さえると暖簾を跳ね上げ玄関先に造られた趣ある小径を先導した。
薄明かりに照らされた小径から表辻に出ると…案の定 すでに捕り方らが料亭入口に犇めいていた。
二人は何食わぬ顔でその群衆の間をすり抜けていく、すると先ほど詰問に及んだ奉行所配下の小男が二人の行く手を塞ぐように立ちはだかった。
「これは御用人様、お早いお帰りで…」と言いながら江川の顔を無遠慮に見つめ
「御用人様、役目に付き申し訳ござりませぬが…こちら様の御名もお聞かせ下さい」
幸いこの小男 江川の顔を知らぬようだ、となれば適当に誤魔化せると兵史郎は
「これはお役目ご苦労にござる、連れの者は水野家留守居添役の太田良弼にござる」
「はて…水野家の留守居添役といえば…たしか井上三郎様と記憶しておりまするが…」
(こ、こやつ知っておったのか…)
兵史郎はまさか奉行所の小役人が水野家の留守居添役など知るよしもないと 適当に思いついた役名を口にしたのだが…もそっと下役身分にすればよかったと悔いた。
そのとき目の前にヌッと鳥居耀蔵が現れた。
「与力の立花か、きさま人様の玄関先で何を騒いでおるのじゃ!」
「こ…これは御奉行、この御二人が今し方 料亭より出て参りましたゆえ…例の関係者ではなかろうかと確認すべく…」
「もうよい!この御二方は儂の存じ寄りの者、そんなことより今より踏み込む 早よう持ち場につかぬか、それときさまらも道を空けぃ!」と玄関先に無秩序に群れる捕り方らに怒鳴った。
「これはこれは青山様お久しゅうございまする、今宵はちょっとした捕り物がございますゆえ物騒につき早々にもこの場を離れて下され」
「おお甲斐守殿、ここは何やら物騒なようですな、しからば太田殿参るとするか」
兵史郎は耀蔵に軽く目配せすると江川の背中を押して歩き出した。
その間、耀蔵は何故か江川の方には一瞥もくれなかった、この二人…一体どういう仲なのかと兵史郎は首をかしげたが、目付衆が出てくれば面倒になるとて湯島横町の辻を足早に通り抜けた。
二人は昌平橋を渡ると西に歩いた。
「太郎左衛門よ、これより本所深川の江戸屋敷まで帰るのはちと辛かろう、今宵は儂の家に泊まるがよい」
「いえ今宵はこの道とは反対の日本橋に宿を手配しておりまするが…」
「左様か…しかし今宵は我が家に泊まれぃ、話したいことがたんとあるでな」
「承知致しました、では御言葉に甘え今宵はご厄介になりまする」
「しかしおぬしほどの者が何という不用心じゃ、耀蔵が知らせてこなければ今頃は南町と目付衆に捕らわれておるところよ、間一髪じゃったわ」
「先生、一体何のことやらそれがしとんと合点がいきませぬ、今宵の耀蔵らの捕り物はそれがしが目当てでござったのか…」
「まさかおぬし何も知らずに料亭から出てきたのか、これは目出度い奴よクククッ」
「先生、何が面白いのです、それがし先生が急に部屋に現れ肩を掴むものですから…ただ驚き入ってつられるままに」
「仕方の無い奴よ、しからば言って聞かせよう、実は本日の昼頃の話よ…」
兵史郎は昼からの耀蔵の挙動、また耀蔵が屋敷に来て喋った事柄を子細に話し始めた。
「そんなことがあったのですか…それがしは今宵亡き渡辺崋山殿を偲ぶ会が湯島の料亭で催されるという知らせに、明後日 御老中に面会する用もあったゆえ早めに江戸に出てきたのです、しかるに偲ぶ会にしては参加者が余りにも少ないため訝しんでおり…、それにしても密会だったとは…しかしそれがしが何故そんな会に呼ばれたのか合点がいきませぬ」
「福田半香とやらは何も喋らなかったのか」
「はぁ、所用があり先生が踏み込まれる少し前に着きましたゆえ紹介ばかりで本題は何も聞いてはおりませぬ」
「そうか…では密会の趣旨や内容は何も聞いておらぬというのじゃな」
「左様にござる」
そのとき後方よりバタバタと駆け寄る足音が聞こえた。
兵史郎はまさか追っ手がかかったかと緊張したが、耀蔵が出張った限りそれはあり得ないと刹那に打ち消した。
現在地は九段坂を西に田安御門を過ぎ、右手に鬱蒼と灌木や雑草が生い茂る御用地辺りで、この時刻ともなれば人通りも絶え、物の怪でも出そうなほどに寂しいところであった。
だが幸い月明かりはまぶしいほどで遠目にも走り寄る者らの姿形は判別できた、数は六人 腰に刀を差していることから武士の一団と知れた。
「儂等を追ってきた者ではなかろう、じゃが太郎左衛門 気をつけよ!」
そう言うと兵史郎は江川の背中を押し辻中央から御用地側に身を寄せその一団に道を空けようと動いた。
しかし駆けつけた一団は兵史郎らの前を通りすぎると思ったが、何と二人の前でぴたりと止まり険悪な雰囲気の中 ぐるりと廻りを取り囲まれてしまった。
近めで見ればその一団は風体から五人は浪人で一人だけは主持ちであろうか身成は羽織袴であった。
その羽織袴の男が一歩前に出ると「江川英龍殿でござるな」と凄んだ声音で静寂を破った。
「我らおぬしに遺恨は無し、だが主命にておぬしを葬り去らねばならず、御覚悟めされい!」言うや男は腰の刀に手を添えた。
それを見た兵史郎は何の躊躇も見せず一歩その男に近づいた。
「このような夜更けに歌舞伎じみた口上、おぬしひょっとして市川團十郎のつもりかよ」と口元を押さえ失笑を堪えた。。
「なにぃ!儂はそこな江川に言っておる、何処ぞのじ爺ぃか知らぬが足下が明るい内にとっとと消ねぃ!」と男は兵史郎に向かい苛立ちを露わに怒鳴った。
「ほぅ…芝居で無くお前達本気かよ、ならば芝居じみた台詞など言わずさっさと斬ってくればよいものを」とまたもや苦笑紛れに兵史郎は横に立つ江川の脇を肘で小突く。
それを見た一団は失笑さえ交える相手の余裕に、それまで傍観の体で取り囲んだ浪人達も一瞬で気色ばんだ。
この一団に取り囲まれたとき、兵史郎は六人の身のこなしから剣が多少使えるのは目の前で芝居じみた台詞を吐く羽織袴の男ただ一人と見切っており、後の浪人者らは剣術にはほど遠く、痩せ犬と同様に数を頼んだ烏合の衆と見切っていた。
それゆえ兵史郎は苦笑さえ零れるほどの余裕を持って六人に対峙できたのだが…それがどうやら賊らを本気にさせたようだ。
「致し方なし、では存分に参れ」
兵史郎は言うや更に一歩前進し、腰を少し落として腰の兼光の鞘を握ると帯より三寸ほども刀を引き出した、そして目の前で怒り狂う男の目の内へ鋭い眼光を放った。
兵史郎が放ったその眼光は尋常ではない、まるで今にも襲い来る凶暴な野獣にも似たり、男は言いしれぬ恐怖に一瞬で身の毛が弥立ち視線を外した。
(この爺…ただ者ではない)
家中では剣客と自負するこの男、兵史郎が放った眼光だけで目の前の老人が恐るべき剣客と見破ったのだ。
(老剣客…まさか江戸随一の剣客と怖れられる青山兵史郎か!)
そう思った刹那 体に震えが走り、弾かれるように後退した。
男は逡巡した、江川は神道無念流の免許皆伝と聞いた、ゆえに腕のたちそうな浪人を五人も募ったが…いま目の前に立ちはだかる老人がもし青山兵史郎であれば江川など比べようもないほどの達人、この六人ではとても太刀打ちなど敵わぬ。
(どうする…口惜しいが今宵は引き上げるが無難か)
そう思ったとき、隣に立つ若い浪人が緊張に耐えられなかったのか…狂ったような奇妙な気合いを発し、抜打ち気味に老人めがけ胴払いに打って出た。
(し、しまった!)羽織袴の男は驚愕するも若者の暴挙を止める遑は無かった。
瞬間、老人はその胴払いの切っ先を一寸ほどの際で躱すと目にもとまらぬ速さで腕が動いた、と見るや空振りし前のめりに上半身が泳いだ若者の眉間辺りに凄まじい速度で光りが走った。
それは一瞬のこと…若い浪人は何も言わず 朽ち木が倒れるように地面に頭から突っ込んだ、それは新道無念流「立居合」眉間打ちの上位極意である。
それは相手の「起こり」を充分に見切り、繰り出された切っ先を上半身の僅かな後退のみで躱し、相手が打間に入った刹那 その眉間前頭骨を深々と切り裂く技で、新道無念流の一派内でもこの捨て身の技が使えるのは今や兵史郎しかいなかった。
その恐るべき反射で繰り出された太刀筋を見て五人の賊は驚愕した。
そして恐怖に駆られ全員および腰で刀を抜くも下段に構える兵史郎に打ち掛かる者はいない。
「太郎左衛門、おぬしは手を出すな」兵史郎は静かに言うとじわじわ辻中央へ五人を押し出していく。
彼らの後方には堀があり あと一間も後退させれば彼らは堪らず打って出ようと兵史郎は読んでいた。
羽織袴の男はこの時点で目の前の老人は青山兵史郎と確信した、そうであれば味方の数など頼みにならず一瞬で全員血祭りに上げられよう、男は逃げ時を失ったことに狼狽え蒼白となった。
兵史郎は下段より緩やかに青眼に構えを変えると顔を少し右に向け際右の浪人に鋭い視線を送る、これは兵史郎が得意の掛け技だ。
案の定 反対側左の浪人がこれに誘われた、浪人は隙を見つけたとばかりに凄まじい気合いで上段より斬り込みにかかった。
(かかった!)と丁度正面に立ちつくす浪人の視線が左から打突する男を捉えた刹那、兵史郎は左からの切っ先を前進して躱しつつ一瞬で正面の浪人の打間に入った、
正面の浪人は瞬時に目の前に迫った兵史郎を避けようと後退にかかる、だが一瞬でその頭部はザクロの如く二つに分断された、そして引き付ける刀を体を捻って刀速を上げ空振りした左の浪人の左脇を深々と抉った。
この動きで兵史郎の体は後方を向いた、それを好機と また一人の浪人が兵史郎の背に一刀を浴びせてくる、しかしこれもわざと背を晒し誘いこんだに過ぎない。
既に兵史郎は後方に迫る切っ先の間合いは掴んでいた、その切っ先が背の皮一寸先で躱すと同時に恐るべき速度で体を捻り後方から切って出た浪人の喉を深々と斬り裂いた。
その深さ三寸余り、首皮一枚残し血圧で浪人の頭部が後方に跳ねると同時に血潮が一間ほどの高さに噴き上がり、浪人は前のめりに音を立てて倒れた。
瞬時にして形勢逆転である、残るは羽織袴の男と年嵩のいった浪人の二人のみ。
二人は狼狽えた、特に羽織袴の男はこれまで己を剣客と自負してきたが…目の前の老人は桁が外れていた、その躊躇なき人斬り技は余りにも流麗で、どれほど人を斬ったらこんな動きになるのか。
現に老人は殆ど返り血など浴びてはいない、人を斬ったときどの方向に血が飛ぶのか熟知の上で身を処しているのだ、それに比べ己は人を斬ったことなど一度も無く、人と試合うのは竹刀でしか経験が無かった。
既に二人の心の内には闘争心など微塵も無く、逃げたくとも体が竦んで動けないだけの状態となっていた。
刀だけを前に突きだし怯えた表情で無様に構える二人、それを見た兵史郎は苦笑しながら江川に目配せを送った。
それを合図に兵史郎と太郎左衛門は徐々に賊の前後へと移動し道を塞いでいく。
「おぬしらの腕では儂等を斬ることは到底無理じゃ、命惜しくば刀を捨てよ、さもなくばその素っ首 斬り落とすぞ!」と兵史郎が一喝した。
その一喝に二人の闘争心は完全に瓦解した。
浪人は刀を落としその場にへたり込んだ、しかし羽織袴の男は刀を放り出すも何を思ったのか刹那に顔を引き攣らせた、そして瞬時辺りを窺うと脱兎の如く御用地の鬱蒼とした茂みに向かって走り出した。
「逃げるか!」兵史郎は反射的に鞘の櫃内から小柄を親指で引き抜き 遁走する男の背に向け投げ撃った、小柄はその背に吸い込まれるように飛び 穂先は背中央に的中した、しかしその男は転げるように一瞬で茂みにかき消えた。
兵史郎は茂みへと走り鬱蒼と茂る灌木の枝を手で払い除け暗闇に眼を凝らす、しかし遠くでガサガサと枝を揺らす音は聞こえどその姿はもう見えなかった。
「何と我武者羅な奴…背に一寸半ほども刺さっていように、敵も死にものぐるいよのぅ、まっ死にはしないが息するのは苦しかろう」
兵史郎は独り言でも言うように辻中央へと戻ってきた。
一人残された浪人は路上に座り込んで震えていた。
「さてどうするか…それにしても六人がかりとはとはのぅ、此奴らおぬしを確実に殺そうと徒党を組んだのじゃろうが…太郎左衛門よ おぬし殺されるような覚えはあるのか」
「とんでも御座いませぬ、それがし蛮社の獄以降はおとなしゅう伊豆の韮山に逼塞している身、あり得ぬ話でござりましょう」
「そうよのぅ…では今宵の密会が原因か」と兵史郎は座り込む浪人の顔を見つめた。
「此奴に聞いてもまず何も出てこんじゃろうが、おい御前さんよ誰に雇われたのか素直に言うてみぃ」と浪人の前に片膝突いて対峙した。
「…………」
「御前さん誰かに義理立てして黙秘しておるようじゃが、首魁は卑怯にも逃げたではないか、もう義理立ては入らぬゆえ洗いざらい喋ってみよ」
「…………」
「ふむぅ強情な奴、言わねばこの場で串刺しにしするぞ!」と兵史郎は血濡れた切っ先を浪人の胸に当てがった。
「待て!喋ろうにもそれがし何も知らんのよ、今宵 人を殺すなどとは聞いてもおらず、ただ横着が目に余る者がおり そやつを片端者にするだけと聞いて…」
「でっ、何処の誰に頼まれたのじゃ、そして今逃げた男はどこぞの者じゃ!」
「それも分からぬ、一昨日連れの男が儲け話があると言い、聞けば横着者一人を痛めつけるだけで一両もくれると言うから飛びついたのだ、それが殺しとなれば一両では安すぎる、儂等も騙されたのよ」
「たった一人を痛めつけるに六人でかかるは多すぎるじゃろう、嘘をつくでない!正直言わぬか」と兵史郎は浪人の胸ぐらを掴むや肺を傷つけぬよう切っ先を五分ほど胸に突き刺した。
「きぇいぃぃ」と浪人は奇妙な声を張り上げ、胸に広がる血の滲みを見てガタガタ震えだした。
「嘘など言うてはおりませぬ、儂も約束の宵五ツ半に集合場所である佐久間町の堀端に行ったら 何と五人もおるゆえ痛めつける相手は余程の手練れと思い…」
「ならば卑怯に逃げた羽織袴の名ぐらいは覚えておろう」
「田代栄之信と言うとりましたが…それが本名かどうかは分かりませぬ、また何処の家中の者かも聞いてはおりませぬ…」
「つまりは何も知らぬと言う事じゃな、んん…太郎左衛門よ敵は身元の発覚を怖れ、市中の浪人を金で雇い隠密裏におぬしを消そうとしたのじゃ、先の男の逃げ様が尋常ではなかったのもこれで頷ける、なんと卑怯な奴らよ!」
「先生、その浪人者は奉行所に突き出すおつもりで…」
「ふむぅ…今宵おぬしと儂が一緒だったことを証言されたらまずいわなぁ」
「左様、ではそれがしがとどめをさしましょう、先生血が飛びますよってもそっと離れて下さい」そう言うと江川は太刀を上段に振りかぶった。
「ま…待って下され、それがし今宵のことは誰にも喋りません、命ばかりはどうぞご勘弁下され…どうか」言うや浪人は情けなくも失禁した、地面に染みが広がるのを恥ともせず二人に臆面もなく手を摺り合わせ拝みだした。
「何とだらしない奴 おのれはそれでも武士か!」江川の上段に振りかぶった太刀は自然と逡巡に揺らぎだす。
「フゥッ…先生、刀も持たず手を摺合わせて命乞いする者はどうにも斬れませぬ…」
「そうであろう、儂とて手向かいすれば斬るじゃろうが…こうも拝まれてはのぅ」
「仕方ない おぬし逃げよ、もし捕まれば命はないゆえ出来るだけ遠くへな、さぁ行けぃ!」
男はそれを聞くや立ち上がり、「かたじけない…」と蚊の泣くような声を発し項垂れたまま走り出した。
「おいおい刀を忘れとるぞ!」
しかし走り出した男はその声に振り返ろうともせず横辻へと走り去った。
「刀を拾うのも忘れ一目散かよ…情けない、しかし死体をこのままにはしておけぬのぅ」兵史郎はあらためて死体の側によりその斬り口を検分した。
死体は路端に一体、中央に三体、いずれも急所のみ的確に斬り付けたため即死であったろう。
未だ死体から流れ出る血は夥しく路上は広範囲に黒い染みが広がり、今宵は風もないためか辺りは既に血の臭いで充満していた、このままでは朝方には死臭は耐えがたいものになろうか。
「ここを通る者が知らずにこの惨状を見れば腰を抜かすであろう、やはりこのままにはしておけぬ、たしかこの先の三番町通りに番屋があったはず、そこに知らせるか」
「先生、出来れば死体はこのままにしておきましょう、せっかく耀蔵の計らいで今宵の密会から助け出されたというに…奉行所が出動すれば水の泡となりましょう。
この件で我らの行動を調べれば料亭での捕り物に至り、耀蔵の面目がつぶれるどころか下手をすれば耀蔵も加担者ということになり、先生にも害が及びまする…さらに言えば老中首座・水野越前守様にも累が及ぶやもしれず…まさか!敵は端からそれが狙いだったのでは…」
「ふむぅ…おぬしの言うとおりかもしれぬのぅ、じゃが儂等が逃げたてこの四人の斬り口を腕達者が検分すればすぐにも儂がやったと目星はつこう、下手に逃げれば後が面倒よ…、そうじゃおぬしはいますぐ宿へ帰れ、おぬしさえいなければ言い訳は立つ」
「しかしそれでは先生が…」
「よいよい、後は儂にまかせよ、それにしても久々の人斬り、先ほどまで腰が痛かったが…知らぬ間にほれ治っておるわクククッ」
渋る太郎左衛門を何とか説得すると兵史郎は三番町の番屋へと向かった。
南町の鳥居甲斐守が番屋に飛び込んできたのはそれから一時ほども経った頃だった、「先生!御無事でござりましたか、先生が襲われたと聞き慌てて飛んできました、子細はまだ聞いておりませぬが…一体どんなわけで襲われたのでしょう」
「ふむぅ、耀蔵よ…こうも人が多ては話せぬわ、実は江川が絡んどるのよ」と耀蔵の耳元で囁いた。
「江川が…」
「そうじゃ、ゆえに明朝御老中を城まで警護したら儂の方から奉行所に行くよって、それまで待ておれ」
「わかりもうした、それにしても浪人とはいえ四人を相手に返り血も浴びず全員を即死させるとはいやはや先生は全く…」と驚きを隠せず耀蔵は兵史郎の姿に見入った。
「しかし先生、御老中の警護用人が暗殺未遂にあったとなれば目付が目の色を変えおっつけ駆けつけるでしょう、目付に調べられたら厄介です、ここはそれがしにまかせ早々にお帰り下され」
「わかったそうするか、おぬしには散々迷惑を掛けた 恩に着るぞ」
「先生何をおっしゃいます、先生の御役に立てるだけでそれがしは嬉しゅうございます、どうぞ足下にお気をつけてお帰り下され」そう言うと耀蔵は番屋の戸を開け兵史郎を路上へと送りだした、そして兵史郎が見えなくなるまでその後ろ姿を見送っていた。




