いつか全てが崩れてしまう、そんな気がして。
好きとか嫌いとか、いつしかそんな事がどうでも良くなってしまったようだ。
持田香穂子は隣で寝ている男の顔を見て、ふとそう思った。
「かほ……?」
その男は滅多に私の名前を呼ばない。
「ごめん……起こしちゃった?」
「……大丈夫」
白でも黒でもないような、そんな関係。
少し前までは、はっきりさせてしまいたかったようなことも、
今では曖昧な……そんな状態がなぜだか心地よいと思ってしまう。
――好きや嫌いを並べたって、いつか簡単に崩れてしまうから。
「持田さんは、彼氏とかいるの?」
「……え?」
「彼氏、いるの?」
「彼氏、ですか?」
「……随分上の空だなあ、と思って声かけてみたんだけど」
それは会社の飲み会の席の事で、声をかけてきたのは一つ先輩の笹沼という男だった。
「いないと思います、彼氏は」
「……なんだか意味ありげな言い方するんだね」
「なんの意味もありませんが……」
私は氷で薄まった梅酒を口にふくみ、思い出したように口を開く。
「ああ、笹沼さんこそ、お美しい彼女さんがいらっしゃるって、よく噂聞きますけれど」
「それ、いつの噂かなあ……。
とっくに別れてるんだけどな」
そう言って、なんだか寂しそうな顔をする。
「笹沼さんすごく人気だし……。
こういう席でも退屈しなさそうなのに」
「え?」
とても驚いたような顔をするので、私は彼の手元にある、泡の消えたビールを指差した。
「よく気がつくよね、持田さん。
そういうところ、もっと評価されるべきだと思う」
「ありがとうございます……」
「彼氏、なんでつくらないの?」
「……好きな人は、います」
「……不倫とかじゃないよね?」
「違いますよ。
ただ、振り向いてもらえないだけ」
笹沼さんは一瞬困ったような顔をして、
「持田さんは落ち着いている」
と勝手に納得をして、つまみの皿に手を伸ばす。
私と笹沼さんはその席を機によく話すようになり、たまに飲みに行く関係になる。
「俺は持田さんが好きなんだ、」
なんて、酔った勢いでそんなことを口にするようにまで。
「俺じゃ、ダメかな?」
「ダメとか、ダメじゃないとか、そういうんじゃないんですよ」
「俺、知ってるんだ……」
「え……?」
「持田さんに付き合っている男がいること」
私は耳を疑いました。
「嘘。
私、付き合ってる人なんていない」
そうは言ったものの、
「ただの上司と部下とは言わせない。
相手は西井さんだろう?」
笹沼さんがこれでもか、というような真剣な顔で次にそう言うものだから、私は口をつぐむことしかできない。
西井さんはおよそ一回り歳上の、同じ部署の上司だった。
「良いようにつかわれてるんだろう、とか。
そう言いたいんでしょう?
でも、今の状態がなぜだか心地いいの。
……捨てられても、痛くないから」
「それは嘘だ、」
「嘘じゃない。
積み上げるものがなければ、崩れるものなんてない。
崩れるものがなければ、無傷でいられる」
「持田さん、時間は巻き戻らないんだよ?」
笹沼さんは何度もそうやって、私の目を覚まさせようとする。
言われていることがわからないわけではない。
どうしたって、最終的には自分が傷つく絵がすでに見えているから。
それでもその瞬間に、自分が傷つくことから目を背けたかったのだと思う。
「好きでいてくれる人と一緒に過ごせたら、幸せだと思うよ。
笹沼さんとずっと居られたら……確かに幸せだと思うよ」
「なら……」
私は首を横に降る。
「それでもね……。
私には崩れてしまうかもしれないものは積めないなって。
そう思うの」
笹沼さんと話したのは、それが最後だったかもしれない。
「かほ……?」
「ごめん、また起こしちゃった」
「……」
なにも言わずに私を抱き締める男。
抱き締められるのが、“都合のいい女”だとしても。
今はここに居たいと、そう思う。
だからそっとしておいて。
私の知らないところで、
何かが崩れ落ちてしまっていたとしても。