【FINISH】
あの奇妙な体験から今日でもう4日が経った。
こう言ったんだから想像はつくと思うけど、話は4日前に遡る。
後になって聞いたところによると、俺は風に飛ばされて川に落ちたと思ったその日の暮れに、何故か橋のたもとで倒れてるのを近所の人に発見されて即、救急車で近くの病院へ緊急搬送されたそうだ。
救急隊の到着時点で自発呼吸無し。心拍もほぼ無し。血中酸素濃度67%。
問答無用でICU(集中治療室)さ。まあこの説明を聞かされたら、そりゃそうだろなとしか言えねえよ。
初日は器官挿管されて人工呼吸器のお世話になったようで、夜中までには家族と、連絡のつく身内が全員、正月以来に顔合わせしたらしい。
この時点で医者のほうからは「覚悟だけはしておいてください」って話がされて、親は随分と泣いたみたいだ。
いや、軽く言ってるけど有難くは感じてるぜ?
実の親子でも情の薄い昨今、我が子のために親が泣いてくれたってのは、それだけで素直にうれしいさ。
で、そんなことで2日目だ。
意識が回復して……俺自身としてはここからが地獄だったんだけど……自発呼吸可能になったんで管を外されたんだが、これが苦しいなんてもんじゃなくて死ぬかと思ったよ。
心拍も安定したんで、とりあえず酸素マスクと山ほどの点滴(すげえんだ。なんかマルチタップみたいなのでまとめられた何本ものチューブが腕やら首元やらにザクザク刺さってやんの。傍目からしたらAV機器フル装備のテレビの裏みたいな状態だわ)されながら、様子見にもう1日、ICUで過ごす羽目になった。
それにしても、あれだわ。
経験しないと分からないことって多いけど、ICUもそのひとつだったね。
当たり前っちゃ、当たり前なんだけどさ。動いちゃいけない状態で体中、管だらけ。そのうえずっと耳……というか、頭になんかキンキン響いてくるんだよ。音なのか何なのか分かんないのが。
多分、そこいらに置かれてる医療機器の動く音とかなんだろうけど、これが神経にくるんだ。
1日中これ聞かされながら寝てろとか、完全に拷問だろ。
しかも周りは人のこと言えないものの、半死半生の人たちばっかなわけ。
体が云々以前に、頭がどうにかなりそうだったぜ。今だから言えることだけどな。
さて、
そうして今日が4日目。早いもんさ。過ごしてる最中は気が狂いそうに長く感じたがね。
6人詰めの一般病室に晴れて移れたことは、そんな事情のせいでうれしさ以上に助かったって気持ちが強かったよ。
朝一番でICUを脱出。朝と昼の飯も済ませて、今はベッドでのんびりしてるって事実だけで不思議なくらい幸せ感じるわ。
そんで、だ。
その俺が今は何してるかっていうと、テレビを見てるわけでもない。ラジオを聞いてるわけでもない。電子辞書なんぞを調べてる。
つまらないことかもしれないけどさ、どうしても気になって仕方が無いんだよ。
こっちへ戻るとき、最後にイェンが俺に向かって言った言葉の意味が。
暇つぶしにもちょうどいいかとも思ったし。
ただ、初手からつまづいちまったけどな。
何せ耳で聞いただけだ。調べるっていってもほとんどしらみつぶしみたいな探し方しかない。
冷静に思い出せば、響きからして恐らく中国語っぽいなとまでは分かった。
けど、そこまで。
字が分からないから、当てずっぽうでひとつひとつ単語を調べてくしかないわけさね。
聞こえた音からして頭文字はGで決まりだと思うんで、さほど苦労せずに見つかるかと油断してたんだけど、
いやいや、やっぱ世の中は甘くないわ。
予想してた以上に手間のかかることかかること。
30分くらいでほぼ音を上げそうになって、頭を掻きながらひとりでブツブツつぶやきだしちまったのも、あんまり手がかりが少なすぎることと、字も分からない中国語を探すのがどれだけ大変かを嫌ってぐらい体験させられたせいだ。別に俺の根気が足りないからじゃない。
絶対に、だ。
点滴の種類が多すぎて、タブレットでネットの使える場所まで移動するのもおっくうだったとかも、別に俺のせいじゃない。じゃない……よな?
ところが、
幸運ってのは、そんな時に限って降ってくるもんなんだな。
何の気無しの時に限ってさ。
とはいえ、
これは幸運だったんじゃなくて、必然だったってことを後々になって俺は気づくことになるんだが、それは文字通り後々のこと。
その時点での俺は、それを幸運だとしか考えてなかった。
「くそっ……せめて音声認識してくれるタイプの電子辞書なら……改天見……たったひと言、言葉を調べんのに、なんでこんな手間……」
何度も苛立ち紛れの溜め息つきながらそうつぶやいた時だったよ。
「……改天見……?」
不意にだ。隣のベッドから声が聞こえてきたのは。
ベッド周りのカーテンは閉め切ってて姿は見えなかったけど、構わず声の主は、
「それ……多分、北京語だと思いますよ。ニュアンスは再見と似ていますが、微妙に意味合いが違います。再見は少し他人行儀な感じですけど、改天見はより親しい仲で使うことが多いです。そうですね……無理に訳すなら『いつかまた、必ず会いましょう』とか、そんなつもりで使う言葉かと……」
そういきなり知らない相手に話しかけられたのと、その説明が知りたかったこととドンピシャだったせいで、俺は何だか変に圧倒されちまって黙りこんじまった。
そのまましばらく、
俺が他意も無く声を出さずにいたら、
「あ、ごめんなさい……顔も出さないで失礼でしたね……」
「え……? や、いや、違うよ! 俺はただ、なんかボーッとしただけで何も……」
勘違いさせたんだろうな。俺が返事をよこさなかったから。
俺も俺で慌てたよ。
そんな気も無いのに、悪く思ったと感じられたんじゃあ、こっちも困る。
なんとか誤解を解こうとして、咄嗟に口を動かしたけど、それより早くカーテンは開いた。
途端だ。
また間も空けず、絶句しそうになったのは。
カーテンが開かれ、ベッドに座った隣人の姿を目にして。
まさかと思ってさ。
いるはずの無い、見るはずの無い、そういうのが急に視界に入ってきたんだ。
驚くだけで済ませられたのは自分でも大したもんだと思うぜ?
普通だったら間違い無く絶句するのに。
つっても、
驚くのはどうしようもなかった。こればかりはほとんど生理反応だよ。
だってそうだろ?
思いもしてなかったんだから。
カーテンの開いた隣のベッドの上。そこに、
イェンがいるなんて。
ただし、
先回りして言っとく。
これは完全な俺の勘違いだ。
いくらここ数日、有り得ないことの連続だったといって、ここまで何でもアリなわけがないことくらいは俺にも分かる。
それでも数秒は迷ったけどな。
けど、冷静に考えればHFの彼女が入院してるとかシュールすぎるわ。
格好も全然違うし。
あっちのイェンがしてたようなバンダナもマフラーも無く、身に着けてるのは病衣だけ。
そのせいか、顔立ちも微妙に違うようにも見える。
正しくは単に俺が最後までイェンの素顔を見てなかっただけのことなんで、比べるにも比べようがないってことなんだが、だからこそ別人かどうかの判断に時間を食ったのは確かかもしれない。
「……どうかしました?」
「……は……?」
「いえ、何だかすごく驚いた顔してるんで……」
「あー……なんていうか……個人的なことなんだけど、君とよく似た……人を知ってたから、まさか知らないうちに入院してたのかとかバカなこと考えちゃって……」
こう答えた時の俺の顔、どうやら相当に間抜けな顔だったんだろうな。
彼女、面白そうに微笑んでた。
「その驚きようだと、よほど似てるんですね私とその……お知り合いの人って」
「正直、今でもまだ心のどっかで疑ってるくらい似てるよ。声以外はそっくりなんだ。ボサボサの髪の毛まで……」
言った瞬間、しくじったと思ったわ。
絶対に言っちゃダメな話題だろこれ。男にならともかく、女の子には。
でも助かったよ。これは運良く。
彼女は平均的な女子に比べて、どうもそういったことには無頓着らしかったおかげで。
少し照れながらの、少しばかりきつい厭味ひとつで済ませてくれた。
「どうも生まれつき洒落っ気が無くって……ごめんなさいね。隣のベッドの住人がハズレで」
「い……や、こっちこそごめん……俺は俺で生まれつきデリカシーが無くてさ……」
「今の受け答えだけで十分に分かりましたよ」
「えっと……話題変えようか……君はどうしてここへ入院を? 見たとこ、元気そうだけど」
これも親切心というか、優しさからだな。
彼女はすぐに話題を切り替えてくれた。
マジで助かったよ。
この失言でズルズルと話をされたら、俺の胃が持たない。
「病気とかではないんで、健康ではあるんです。ここ以外は」
言いつつ、彼女は膝に掛けてた布団を横へめくる。
見えたのは、ギプスで固められた右足。
「数日前の暴風でハンドルを取られた車にぶつけられて……本当は通院でも構わないらしいんですが、親が心配して色々と精密検査を頼んだものですから、入院が長引いているんです」
「なるほどねえ……けど、親御さんの心配は当然だろね。どこにどんなダメージが来てるか、はっきり分かるまでは安心できないだろうからな」
「確かに……でも、えーと……失礼ですが、お名前は……?」
「西向駆。駆でいいよ」
「私は隣円です。隣だからこんな名前なわけじゃないですよ?」
そう言って彼女……円はまた笑った。
「にしても、なんで円さんは俺の言ってた言葉が分かったんだ?」
「中国語に限らず、私の趣味なんです。各国の言語を調べるの。といって、もっぱら専門はロマンス諸語ですから、他の言語はそれほど詳しくは……」
「……ごめん。俺はまずそのロマンス……なんちゃらってのの時点でギブだわ」
「むしろそれが普通ですよ。だけどこれなら如何です?」
問いながら、円は膝に置いた手の指でその下にあるものをトントンと叩いてみせる。
気にもしていなかったので目に入っていなかったが、彼女の膝には一冊の本が置いてあった。
そして、
すぐにその本のタイトルが目に入ってきたよ。
あんまりに、そう、
あんまりに、俺の中で印象的になっちまった作品だったからさ。
本と映画の差こそあれ、元は同じだ。
ハムレット。
「原書版のシェイクスピアです。彼の作品は古期英語から初期近代英語への移り変わりを知るうえで、作品としてだけでなく言語学的資料としても非常に興味深い……」
楽しそうに話す円の声を聞きつつも、俺は無意識に口を開いてた。
まるで、
「……人間とは、なんと素晴らしくも驚くべき造物の傑作だろうか。なのに……」
自分がつい数日前まで未来にいたこと。500年以上もの未来にいたこと。
その事実を思い出すように、
「……私にはその人間というものが、ひどくつまらぬ塵芥の極みとしか思えぬのだ……」
頭の中で再生される映画館のジンが発した声をなぞる。
すると、
今度は円が唖然として俺を見てた。
「あ、ご……ごめん。つい、なんか知ってるフレーズだったもんで……」
慌てて言い繕おうとしたけど、考えたらこれ、繕わなきゃいけない話でもないよな。
だってさ、
目を丸くしながら問うてきた円に答えつつ思ったけど、
「……ハムレット……お好きなんですか?」
「あー……や、好きというか……印象に残っちまってて……」
「でも、そんな和訳の版は聞いたことが無いですよ? 原書を見て自分で訳したとしか……」
「そう……まあ、オリジナルの訳なのは確かかな……訳したのは俺じゃないけど」
事実ってのは、そう、
「じゃあ、誰かお知り合いの訳……ですか?」
「だね。うん、知り合いだ」
小説よりも、
「俺の……『いつか』の……知り合いさ」
奇なり。だろ?




