【AND NOW】
そこからだよ。何もかもが訳の分からないことになったのはさ。
あの時、俺は確かに橋から落ちた。落ちながら川面を目にしつつね。
ああ、川に落ちた瞬間だって覚えてるさ。足から真下の川へ目掛けて、顔と視線だけ下を向いた状態でヒューンだ。どんどん近づいてくる水面の映像が今でも頭ん中で鮮明に再生できる。
たださ、ここが変なんだが……。
水に落ちた感覚が無かったんだよ。間違い無く川へ落ちたのに。
水面に当たった感触は無し。ましてや水に濡れた感触も。
記憶している最後の部分はといえば、川面に触れたか触れないかのところで、ふと意識が暗くなったことだけ。
その後のことは説明しなくても分かるだろ?
この状況だよ。
着水する心積もりでいたのに、何故だか硬い地面に足が触れたもんで、意表を突かれた俺はその硬い地面に尻もちさ。
幸い、足をくじいたりはしなかったけど、どうも凸凹したコンクリの地面は尻から着地するには向かないな。一瞬、声が出そうになるくらい痛かったぜ。
でもそんなのは今となってはどうでもいいことさ。
何せ、そんなことよりもっとシャレにならない事態が現在進行中なんだから。
「ふざけたことをぬかすなっ!」
「何を言ってやがる!」
「やっぱりお前、人間じゃないな!」
「やっちまえっ!」
四方八方から怒号の嵐だよ。それもものすごくヤバい感じの。
次の瞬間にもまとめて襲い掛かってきそうな勢いさ。なんたって、みんな悪い意味で顔がマジなんだ。鬼の形相ってのはこういうのを言うのかってくらいね。
ただまあ、俺としてはこうなっちまったら腹をくくるしかない。
あ、別に納得なんて微塵もしてないぜ?
学校帰りに橋から飛ばされて、川に落ちたと思ったら知らない場所。そして怖い顔で物騒なものを持った連中に囲まれてた。
加えて今からその連中にぶちのめされて殺されるんだろうって流れ。
流れとしては理解してる。とはいえ単に理解してるだけ。納得なんて無理さね。だって何ひとつ分からないで殺されるわけだからな。
これならいっそ、落ちてきた隕石が直撃して死んだほうがまだ納得がいく。
理由がはっきりしてるからさ。
隕石が落ちてきました。それが俺にぶつかりました。俺は死にました。分かりやすい。
ところが今の俺ときたらどうだ?
学校帰りに橋の上から落ちました。何故か知らない場所に着きました。知らない人たちに殺されました。なんだそりゃ?
悪夢だったら寝覚めが悪いって程度で済む話だが、これが現実となるとバカバカしくてやってられない。
やってられないが、
だとしてもそうなんだったら仕方がないのも事実なんだよな。悲しいことに。
だからしたくもない覚悟をしたよ。恐ろしくシュールな、俺の短くも虚しい人生ってやつの幕引きをさ。
で、そろそろ周りの連中も興奮が最高潮に達した様子になった。
叫んでる言葉が単調になってきたのが合図だ。合唱みたいに「殺せ!」「殺せ!」ってね。
怖くないわきゃない。メチャクチャ怖いさ。でも諦めて目を閉じたよ。
せめて自分で自分が殺される様子を見ないように。今の俺に出来る最大限の現実逃避だ。
瞬間、俺が目を閉じたのと同じくらいのタイミングで怒声が一気に近づく。乱暴な足音と一緒に。ああ、一斉に飛びかかってきたなと、音だけで分かった。
さて、そうなると残された俺の仕事は祈ること。
出来れば一撃で楽になれますようにってね。
そのぐらいは祈ったってバチは当たらないだろ?
何も助けてくれとか、そこまで大きなお願いじゃないんだからさ。
と、せめて助からないのが分かってるなら、みっともなく命乞いして死ぬよりはと、潔いふりだけして、俺は振り下ろされるだろう殺意を待った。
待った、が、
まさしくその一瞬だったね。
「静かにっ!」
高い……すうっと通る声。それもとびきりでかい声。
何たって、今まで俺の周りで騒ぎ立ててた連中の声を押しのけ……違うな、貫き通して聞こえてきたんだから。
俺自身、耳が少しばかりキーンとなるほどの声だったって言えば分かりやすいかな?
ともかく途端、気持ち悪いくらいの静けさだ。
もちろん俺はすぐ目を開けたよ。一体、何が起きたのかを知るために。
だってそうだろ?
いくら死ぬ覚悟をしてたって、こういった好奇心までは消えねえよ。
そんで、開いた目ん玉に入ってきたのは、
今まで決して良い理由ではなく俺を見据えていた大勢が、まるきり俺とは反対方向……つまりは背後へ振り返り、何かを見つめてる様子だった。
すると、これもほぼ一連の動きだったんだが、後ろを向いた男どもが少しずつ左右へと別れていったのさ。
ちょうど円を描くように俺を取り囲んでいた形から、一ヵ所が開いた形へ。
視力検査表の途切れた円をイメージしてもらえば簡単だろうか。
なんてことを思いつつも、俺は単純な疑問を抱いてたよ。
つい今さっきまで俺を殺さんばかりの勢い……いや、完全に殺す気だったろうな……って状態だった奴らが、何でいきなりこんな静かになっちまったのかって。
しかも部分的だとはいえ、俺に対する包囲を解いたのはどういうことか。
ま、とうに頭の中は売るほどのハテナマークで埋まっちまってる今の俺からしたら、正直これもそれほどは驚くようなことじゃなかったけどな。
もう何が起きてもおかしくないってのは味わい終わってる。だから二度目があっても驚きやしない。それこそ、二度あることは三度あるなんてことになろうと、ね。
てな感じで、俺は宙ぶらりんになった死への覚悟をしたまま、どうしたもんかと悩みながらもひとまずは事の成り行きを見守ることにした。
だが、そう大した時間がかかったわけじゃない。ほんと、ほんのすぐだったよ。状況の変化がどのようにして、そしてどういった方向へ始まったのかを知ったのは。
「その少年については、私が身柄を引き取ります」
正直、あんまり気持ちの良くない言われようで、さっきの高い声が今度は落ち着いた調子でそういったのを聞いたから。
重ねて、
「……な、お、お前、一体こんなところへ何しに……?」
「理性的でない、野蛮な行為を止めるためですよ」
囲みの中にいる男のひとりと、そんな会話をしつつ、開いた人垣から現れたその姿。
聞こえていた声で想像はしていたが、やはり女性。
いや、女性は少し語弊があるな。少女とか、若い娘ってほうが合ってる。
人のことを少年なんて呼びやがったくせに、自分もえらく若いじゃねえかと心の中でツッコミを入れながらも、俺はその少女とそれへ話しかける連中の様子を観察した。
身長は大体、150ちょっとってとこかな?
他の奴らと同じくオンボロな服を着てたが、何故かそこはかとなく小奇麗に見えたのは可愛い娘の特権ってやつだろうか。
サイズの合ってないデカすぎるジャケットとカーゴパンツ。どっちも泥かと思う色したね。
それにリボンみたいな結び方したバンダナ。口元までグルグルと覆ってる長いマフラー。衣裳はこんな感じだ。
薄茶色で艶の無い髪は伸ばせば背中辺りまであるかもだが、ボサボサなうえにアッチコッチへ毛先がはねてやがるから正確な長さを知るのは見ただけじゃ難しい。
わずかに見える顔はといえば……まあ、うん……可愛いわな。
顔立ちだけで考えれば俺と同い年くらいか、下手すると少し下かも。
眉は太いが形が良く、それに負けじと黒目がちで大きな両目が長く伸びたまつ毛と一緒に自己主張してる。
対して鼻と口は小振りで主張が弱い。が、そこが逆にいい。
目以外のパーツがあまり目立たないと、全体の印象が小動物っぽくなるんだよ。褒め言葉には聞こえないだろうけど、俺としては褒め言葉のつもりだぜ?
んでもって、その女の子は向き合った男と話をこう続けたね。
「確か皆さんには以前、きちんと説明したはずですね。もしも町の中へ突然人間が現れたら、それもその現れた人間の特徴が以前した説明の内容と合致する場合、無条件で保護するようにと。まさかこれだけの人数がいて、全員が忘れていたなんて仰るつもりですか?」
「えっ……いや、忘れちゃいない。忘れちゃいなかったが……俺たちは……」
「黒い髪に黒い瞳。加えて彫りの浅い顔立ちと、一般的なコーカソイドよりも濃い肌色。まずモンゴロイドと疑って然るべき容姿。説明内容と完全に一致します。これだけ分かりやすく条件が揃っているというのに、皆さんはこの少年をどうする気だったんです?」
「……」
「この場の雰囲気からして、間違い無く殺すつもりだったんでしょう。愚かしい……その手に持った武器で、この少年の頭を割った瞬間、噴き出す血飛沫を見てようやく自分たちの過ちに気がつく……いつだって過ちを犯し、過ちと知り、後悔する。私たち人間がもう何度となく繰り返してきた失敗を、ここまで絶望的な状況を生んでしまった失敗を、皆さんはまだ繰り返そうとしていたんですか?」
芝居の長台詞みたいな文句を一気にその娘が静かに、だが強い口調で言い終えると、辺りは信じられないくらいの静寂に包まれちまった。
周りの連中は、この娘の言ったことの意味が分かるんだろう。だから死んだ貝みたいにギッチリと口を閉ざした。ひとりの例外も無くね。
おっと、ひとりいた。俺だ。
いや、下手に口を挟んで場の空気をまた険悪にしたくなかったから、合わせるように口は閉じてたけどさ。
ただし、その女の子が言ったことの意味なんて爪の先ほども分かりゃしなかったよ。
でも現時点ではそんなこたあ、どうだっていい。何より命拾いしたって事実以外は。
なんて、どういった事情にせよ延命できた現実に少し、ほっとした瞬間だったかな。
「……立てますか?」
気がそぞろになってると、こんなことにも気がつかない。緊張の糸が緩むってのは怖いね。
知らぬ間に、さっきまで周りの奴らへ演説してた女の子が、はたと見れば俺の真横で膝と腰を屈め、手を伸ばしてきてたよ。
「はっ?」
素っ頓狂な声が上がったのを聞いたのは、そんな女の子の様子を見たのと同時だった。
そしてその素っ頓狂な声を上げたのが俺自身だったってことへ気付くのに今少し時間がかかっちまったのは、我ながら相当に気が散漫になってたんだろうな。
とはいえ、散らばった気を掻き集めるのにそう時間をかけるほど、俺もヤワじゃない。
「あ、ああ……大丈夫。手助けはいらないよ。自分で立てる」
そう言って、すっと立ち上がったもんさ。
ところが、
立ち上がった俺の手を、ふっと自然にその女の子は握ってきたから驚いたよ。本音を言うなら驚き半分、恥ずかしさ半分って感じで。
「えっ、なっ……だから手助けはいらないって……」
「そうでなく、ご案内をするのに便利なようにとの配慮です。別に貴方を馬鹿にしているわけではありませんが、見知らぬ土地で迷子にでもなっては難儀ですので、万が一にもはぐれることが無いよう、こうしたほうが都合が良いだろうと思い、手を繋がせていただきました」
理路整然。こう言われちまうともう反論の余地も無い。反論する気も無かったけど。言ってることは至極真っ当だったからな。
また、本音を言えば別に嫌じゃなかったしさ。
だって考えてもみろよ。自分の基準に照らして、確実に可愛い女子と手を繋げるチャンスなんてそうそうあるか?
しかも幸か不幸か、周りには小うるさい学校の連中もいない。
はやし立てられたり、からかわれたりする心配無しに、可愛い女子と手を繋げる。
こんな幸運なシチュエーションを自分からふいにするほど、俺も無欲な人間じゃないんでね。存分に堪能させてもらうことにしたよ。この状況を。
想像通り……いや、もっとだな。柔らかい手ぇしてんだ。握る力の加減に困るくらい。
ほんのりとあったかくって、吸い付くみたいな感触で……ああ、白状するよ。軽く興奮した。
だけど健康な少年ならむしろ自然な反応だろ?
でも顔はニヤケないように気をつけたけどな。それはいくらなんでもアウトだって俺でも分かるからさ。
とまあ、そうこう色々と感じたり、考えたり、思ったりと忙しい数秒の間を置いたところだ。
「では、参りましょうか」
彼女がそう言ったのは。
言われてみれば「身柄を引き取る」だの、「ご案内する」だの、どっかへ俺を連れてく意味合いのことは話してたなと思いつつ、そのことについて問おうとしたその途端だったね。
「おい!」
まただよ……無粋な男の、小汚え声。
こっちは日常じゃあ味わったことの無い女子とのスキンシップを堪能して気分が良かったところに水を差された気分さね。
けど、腹立たしいことに男が続けて言った質問は、俺が口にしようとした質問そのものだったんだよ。
「一体……そいつをどこへ連れてく気だ……?」
だね。それは俺も思う。どこへ連れてく気なんだかってさ。
そしたらだ。彼女、ふっと顔を横へ向けて、声かけてきた男のほうを見て言ったね。
俺の手を握ったまま。どこか呆れたような口調で一言、
「(ボス)のところ以外、どこへ連れて行くと言うんです?」
最後に溜め息でも足すんじゃないかって感じに。
そしたら今度は連中、ざわつき始めた。
理由なんて知るかよ。というより、何にも知らねえよ。
彼女が言った(ボス)とやらのところってのが何なのか。(ボス)ってのが何なのか。
どっちも分かりゃしない。となりゃ、男どもの騒ぐ理由なんて分かる道理が無いだろ?
だから素直に身を任せたよ。生じてくるすべての感覚に。分からないことには対処の仕様が無いからな。考えたって無駄なら、下手に悩まず従っちまったほうが楽だ。流れってやつに。
そうとも、流れに委ねたよ。逆らわず……逆らわず。
頭ん中へ次から次と大量発生する疑問と、
彼女の柔らかで温かな手の感触に、さ。