【runners high transcend】
私はマスターHF。
16体いる手駒のHFに指令を下して動かす。
簡単に言えば戦略、戦術思考にほぼ特化された頭脳労働を主とするHFだ。
だから当然ながら、センサー周りは大したことはない。
それでも視覚センサーは軽く10キロ先程度なら捉えられる。
だけに、
私はこの目で見たものを、にわかに信じられなかった。
いや、正直に言うなら(信じたくなかった)というべきだろうか。
先に聞いていたルーク1の報告通り、人間の失速しようはひどいものだったよ。
そのくらいはよく見れば私でも自分で確認出来た。
だからこそだ。
そんな死に体の、しかも無意味にクイーンらしき破損したHFを担いでいるせいで絶望的に体力を浪費し、もはやルーク1に走りながら追いつかれるか、それとも倒れ込んだところを追いつかれるかの二択しか無いと思っていた人間が、急に加速を始めた時の私の驚きは誇張でなく最大級のものだった。
少なくとも、現場で実際に人間を追っていたルーク1に次いで二番目くらいにはね。
そしてこれも当然だが、
すぐに再度の連絡が入ってきたよ。
無論、ルーク1から。
『……マスター、こちらルーク1。応答を願う……』
「聞こえてるよルーク1。それに……通信してきた理由も、なんとなくだが察している」
『……』
ルーク1……自分から通信してきて黙るのは止めてくれないか?
自分のことではないからという意味ではないが、私はそちらの状況を決して正確に理解しているわけじゃあない。
分かっているのは人間の急加速。
あくまでそれだけだ。
現場にいるお前の情報無しで明確な判断を出せるほど、私は万能じゃないんだぞ?
頼むからお前もしっかりしてくれ。
「そちらから通信を繋いでおいてだんまりか? ルーク1、冷静になれ。私は察しがつくとはいったが、何も聞かずにすべてが分かるとは言っていないぞ」
『あ……ああ、すまないマスター。俺も俺で気が動転して……その……あんまりにも信じられないことが起きたもんで……』
「信じられないこと……人間の急加速か? 確かに不思議だとは感じるが、その程度でお前が動転するのは理由として弱い気もするが……」
『……人間が急加速しただけならな……けど、その速度が時速約40キロだと言ったら?』
「!」
これはさすがに私も露の間、気が動転したよ。
何せあまりにも、非現実的数字だったからな。
時速40キロといったら、人間の中でも特に才能と訓練が重なった一部のアスリートにしか出せない速度だ。
それも短距離に限られる。
当たり前すぎることだが、距離が延びればそれだけ身体に掛かる負担は増加するため、自然、速度は落ちるもの。
仮に1キロ走るとしたら、いくらトップアスリートでも時速30キロが限界。
だとすると、
私が次にルーク1へ質問することはひとつ。
「……悪いがルーク1。忙しいのは分かっているが聞きたいことがある。お前の確認した情報を正確に教えてもらいたい」
『もちろん答えるさ。ありのまま正確に……』
「ではひとつ。人間が約40キロまで加速してから経過した時間は?」
『……もう、かれこれ5分近い……速度にある程度のムラがあるからそう正確な数字を出すのは難しいな。だが急加速後の5分で奴が一気に3キロ以上を走り抜けたのは事実だ。搭まではもうすぐ……残り2キロを切る……』
「……」
思わず軽く絶句してしまった。
時速約40キロを、ばらつきは有りながらも維持して3キロ走破。
しかも奴は破損したクイーンと思しきHFを抱えている。
一応、このHFをクイーンと仮定すれば、この人間は30キロ超の加重状態で走っていることになるわけだ。
約30キロを加重されて3キロを走る間、時速約40キロをキープ。
とてもじゃあないが、理解出来ない。
ただ、
仮説ぐらいなら立てられるが。
『なあ、マスター……俺も人間の身体能力にはそれほど詳しいわけじゃないが、それにしたってこの人間は異常だろ……3キロもの間、時速40キロで走れる人間なんてそういるはずはないし、そうでなくてもあの人間はクイーンらしきHFを抱えてる……マスター、自分でもバカな質問だと思うが、あれはほんとに人間か……?』
気持ちは分かるさルーク1。
極端を言って、この状況は相手が人間じゃないと仮定したほうが筋が通る。
それほど、この人間は異常だよ。
しかし、
何事も大抵のことは説明がつくように出来ている。
まあ、多少強引な仮説に過ぎないがね。
「お前の気持ちもよく分かる……確かにその人間の身体機能は異常としか言いようが無い。人間であるという前提すら疑いたくなるのも仕方の無い話だろう。が、絶対に人間では無理なことかと言われれば、可能……かもしれないとまでは言える。無論、可能性の話であって、単なる仮説の域を出ないが……」
『……仮説?』
「ルーク1、セカンド・ウィンドというのを知っているだろう?」
『ああ……人間が長時間、走り続けると起きる生理現象だったか……?』
「そう。通常、長時間の苦痛によるストレスから身を守るために脳がベータ・エンドルフィンを分泌する現象のことだ。個人差や体の状態によって誤差はあるが、正しく走ればおおむね走り始めて10分ほどでこの状態になる。さらに、ここからより長距離を走ることで突入するのがランナーズ・ハイ。こちらは早くても30分程度の時間を要するが、分泌されるベータ・エンドルフィンの量はセカンド・ウィンドをはるかに上回る」
『ベータ・エンドルフィン……脳内麻薬ってやつだな。けど、それは並みの人間でも到達できるものだろ? その程度のものであの人間の状態を説明するのは難しい気もするが……』
分かってるねルーク1。その通り。
確かにセカンド・ウィンド……時間的に早すぎる点を無視してランナーズ・ハイにまで達していたとしても、所詮は並みの人間が到達できるレベルだ。
ここまで平均的な人間のスペックを越えた力を出せる理由としては少々弱い。
だが、
それゆえさ。
それゆえの仮説なんだよ。
「お前の言う通りさ。たかが……というのは過小評価とも言えなくはないが、セカンド・ウィンドやランナーズ・ハイ程度の作用であそこまでのオーバースペックを示すのは普通に考えると難しい。というより、これだけでは無理と言って良いかもしれない。いくら鎮痛作用が高いとはいえ、多少ベータ・エンドルフィンが分泌されたくらいではね。しかし、仮にそれより上の状態にあの人間が達していたなら……どうだ?」
『より……上?』
「回りくどい説明は抜きにするとしよう。いいか? 所詮はセカンド・ウィンドもランナーズ・ハイも、一時の苦しさから……それもそう凄まじい苦痛から逃れるための現象じゃない。もし仮に……仮に、あの人間がそんなものとは及びもつかない苦痛から逃れようとして到達した状態を想像した場合、ここでひとつの仮説が出来る」
『……?』
「死だよ」
『……!』
その吃驚した喉の音だけでもう分かるよ。お前も理解したって。
けど説明は最後までしておこう。
もう、それ自体に意味は無いが。
「人間にとって死の間際は言語を絶する肉体的、精神的苦痛を味わうらしい。そしてそこから逃れるため、人間は自らの最期を悟ると完全に肉体のリミッターを外す。当然、脳もな。後先など考えず、限界……本当に物理的限界まで力を出し切る。脳内物質についてもベータ・エンドルフィンだけじゃない。ドーパミンやセロトニンなどを後に重大な障害が出る危険性を無視して際限無く放出する。万が一、あの人間がその状態に至っているなら、今の状況は仮説という前提ではあるが説明はつく……」
言い終えながら、私はひどく複雑な気分に陥った。
つまりは心中だ。
ルーク1と、あの人間の。
どちらも先は無い。
どちらも確実な死に向かって進んでいるだけ。
虚しいなんてものじゃないな。
人間とHFの違いはありこそすれ、
詰まる所、これは自殺志願者同士の追いかけっこ。
一体、私たちは何をしているのか。
油断をすると気でも狂いそうだよ。




