【TO ERR IS HUMAN】
個人差はあるが、人は死期を悟ると身辺の整理をする。
立つ鳥、跡を濁さず……とでも言うのかな?
不思議なものだよ。死ねばすべては終わるのに、もう気に掛ける必要も無い自分の死後を考えて準備をするなんて。
だが私も、そう思いつつ身辺の整理をしている。
とはいっても、意味合いが少しばかり違うがね。
自分がいなくなった後も、残された信頼に足る友人たちの役に立つため。僭越ながら彼らの労苦を少しでも減らすため。それなりの工夫をしているだけだ。
おや?
よくよく考えると結局は根本的な考えは同じことか。
どうにも……随分と長くこの生活を送ってきたというのに、まだ自分は違うんだという無意識の反応は消えないらしい。
何とも悲しい性だな。
しかしそんなことに思い煩うことももうすぐ終わる。
私の予想が当たっていればね。
彼らのほうは色々と準備や心構えで大変だろうが、私は楽なものだ。
見慣れた広く、暗いホールでハムレットを見る。決まった特等席で。
埃の匂い。カビの匂い。古く脆くなったコンクリートの匂い。
どれもが何故か懐かしく感じる。
今この瞬間、それらを体験しているというのに。
今までも長い間、それを感じてきたというのに。
思って、少し笑ってしまった。
もしかすると、これが感傷という感覚なのかもしれない。
普通は楽しむ感情ではないはずだが、今の私には楽しくすら感じるよ。
まだ物事を新鮮に感じる感覚が私に残されていたということへ。
心の準備はとうに終えていたつもりだったが、これで本当に区切りができた。
もうすぐ私のすべてが終わることに対して、もはや未練や後悔、思い残しは無い。
面白いな。こうまで達観すると、逆に最期が待ち遠しくなる。
どこまでも心とか気持ちというものは複雑怪奇だな。
おっと、
そんなことを思っていたら、ようやく来たみたいだね。
招かざる客。それも団体さんだ。
私の大切な映画館へ乱暴に入ってくるのは感心しないが、まあ今となってはそれも趣向のひとつと思える。
最期を飾るには出来るだけ賑やかなほうが良い。
寂しい最期なんて楽しくも無い。
だから歓迎するよ。招かざる人々。
客人へのもてなしは十分に用意してある。
早く来い。早く……。
願ったのが通じたのか、もしくはタイミングがちょうど重なったのか、そんなことを考えているところへ予想通り、ホールの扉を手荒く開け、ぞろぞろと人々が入ってきたよ。
左右に三つずつある扉と、スクリーン正面……座っている私からすれば背後か……にふたつある扉、全部が同時に開き、私を取り囲むように彼らは近づいてくる。
手に手に原始的な武器を持って。
どうにも物騒だが、だといっても別に驚きはしないがね。
ホール外の廊下で踏み慣らされていた足音から、彼らの動きは容易に察せた。
万が一にも私を逃がさないためなんだろうが、それにしても大仰だな。
そしてその集団のうちの一団はスクリーン前に素早く陣取ったよ。
スクリーン奥のエレベーターで私が逃げるとでも思ったのか?
だとしたら本当に救いようも無く愚かだ。
逃げる気があるなら、とっくの昔に逃げている。もし私が逃げる気だったとしたら、対応が後手後手もいいところさ。
でも、
まずスクリーンへの道を塞いでくれたのは有り難くもあるな。
私の予想が、やはり間違っていなかったということの証明になる。
スクリーンの後ろにエレベーターがあるのを知っているのは私を除けばカケルとイェン、それともうひとりだけ。
つまりはそういうことだろう?
「よう、ジンさんよ。相変わらず飽きもせず同じ映画を朝から見っ放しか?」
嘲笑するようなカオの声が後ろから聞こえた時、思わず私も釣られて笑うところだったよ。
あまりにも私の予想が当たりすぎていたのもあるが、それも知らずに浮かれているカオの幼稚さが、堪らなく笑いを誘う。
けど、笑いはしない。我慢するさ。
カオからすれば一生懸命だったんだろう。
人の努力を笑うのは礼を失する行為だからね。
「ほお、今までの他人行儀なボスという呼び名は止めてくれたか。距離を縮めてくれてうれしく思うよ。ただ……大勢で訪ねてくるのは構わないが、スクリーン前に何人も立つのは遠慮してもらいたいものだな。影が邪魔で映画が見づらくて仕方がない」
「心配するなよジン。あんたはもうのんびり映画を見ることなんて出来なくなる。見飽きた映画の心配より、自分の心配をしたらどうだ?」
ここで気の利いた人間なら、この三文芝居に付き合って「それはどういう意味だ?」とか聞いたりもするんだろうが、あいにくと私はそれほど回り道は好きじゃない。
というわけで、カオには悪いが彼の話は無視して私が一気に全容を語るとしよう。
憶測でしかないが、まあほぼ合っているだろう精度の極めて高い憶測を。
「……私がキヌミチ博士の息子だとでも皆に吹聴したか……それと、新しい水源でも見つけたから、もう私は用無しだとか、そんなところかね。それでみんなを扇動したと。私の出生についてや水源の情報については大方、ずっとねんごろにしているHFから教えてもらったってところかな?」
「!」
分かりやすいなカオ。声も出してないのに動揺してるのが丸分かりだぞ?
といって、君だけというわけでもないらしい。
この程度の話で明らかに他の連中も戸惑っている。
まったく、これだから自分の考えが無いやつは脆くて困るよ。
「て、てめぇっ! 自分が助かりたいからって、いい加減なこと言って誤魔化そうとしてんじゃねえよっ!」
「おかしなことを言うね。この期に及んで助かりたいなんて思うほど、私は自己保存の欲求は高くないよ。それに、もし仮に助かりたいと思っていたなら間違っても自分がキヌミチ博士の息子だと言われたなんてことは改めて言わない。虚偽にせよ事実にせよ、そんな言い方をしたら余計に疑わしく思われるのは火を見るより明らかだろう?」
「……」
「けどカオ、君が面白くないのは最後に言った話か。HFと裏で繋がってたなんて、疑われでもしたらまさしく命取りだ。しかし心配の必要は無いよ。今この状況で、私と君、どちらの言葉により信憑性を感じるかといったら、誰しも君だと言うはずさ。大体、ここに集まっているのは君の言葉に踊らされたとはいえ、少なくとも私のことを気に食わないと考えている連中なのは確かだ。真実ではあるが、信じる者はいないから安心するといい。君が定期的にHFとコンタクトを取り、その見返りとして君は命の保証。HFには人が集まる予定の場所を事前に知らせ、狩りの手伝いをしていたなんて……」
言い掛けた途端だった。
カオが私の頭へ向かい、力いっぱいに鉄パイプを振り下ろしたのは。
よほど不安だったのかな?
これ以上、私が話し続けることで、もしも……もしも自分が疑われたりしたら、八つ裂きにされるのは自分だからね。無理も無いといえば無理も無いか。
でも疑いという表現は不適切だった。
間違い無くカオはHFと繋がっている。
自分が利用されているだけとも知らずに。
その点だけを思えば彼にも同情すべき部分はあるのかもしれないが、それも度を越してしまったら駄目さ。
カオは一線を越えてしまった。もはや彼に見出すべきものは何も無い。
などと、考えている間に鉄パイプは私の頭を直撃した。
威力は十分だったよ。鉄パイプ自体の強度も重さも、カオの加えた勢いと力も。
だけど、それだけのことだよ。
そう、それだけのこと。
私の頭を殴りつけた瞬間だったね。カオが握っていた鉄パイプを落としたのは。
私は振り向きもしなかったが、相当に手が痺れたんだろう。小さく苦鳴さえ聞こえた。
当り前だな。人間の頭蓋骨でさえ鉄パイプで殴ればその振動で手は痺れたりもする。
それを特殊合金製の頭に振り下ろせば、自分のほうが苦痛に身悶えるのが自然だ。
といって、そんなこと知るはずの無いカオにそれを言ったところで始まらないな。
「……てっ……てめ……何が、何で……」
ふむ、質問として文章が成立していないが、聞きたいことは分かるよ。
大丈夫。その程度の質問になら答えてあげよう。
もう、終わりも近いことだしね。
「残念……だったかは別として、殴ったのが人間の頭でなかったのは不運だったなカオ。今の威力なら、人間の頭だったら上手くすれば砕けていたかもしれない。けど現実にはそうではなかった。簡単な話さ」
「じ、じゃあ……ジン、てめぇ……まさか……」
「おいおい、誤解をしちゃいけない。ジンはキヌミチ博士の息子。紛う事無き人間だ。カオ、君の今の話し方からして、恐らくジンが実はHFだったんじゃないかと思ったんだろうが、それは論理的な考え方とは言えない。もっと道理をわきまえて思考すればすぐ分かるだろうに」
「……て、それは……じゃあ……」
「なんだい?」
「てめぇ……ジンじゃねえのか……?」
恐る恐る訪ねたカオに、私は静かにうなずいた。
この時のカオの表情ときたら……それはもう驚きとか愕然とか単純に表せる表情じゃ無かったよ。人間の顔の肉が、これほどまでに歪むものだとは、私も驚いたぐらいさ。
「そ……れじゃ……てめぇは……一体……?」
「悪いが、その質問には答えるつもりはない。答えたところで何かあるわけではないが、私の最後の意地悪だ。せいぜい悩みながら死ぬといい。ただ、ささやかな感謝は伝えておこう。君のおかげで自分の考えが無い馬鹿どもをここに集められた。私の最後の仕事……ブランクのゴミ掃除がスムーズに進んだのは、利用しているつもりで実は私に利用されていた君の功績だよカオ。ありがとう」
「死……え……?」
「お、ちょうどいい。ここの場面の台詞は私の中でも屈指でね。終幕まではまだ間があるが、それはカケルたちに見届けてもらおう。私たちは退場の時間だ。準備はいいかい?」
言いながら、私はあらかじめ持っていた右手の有線スイッチを掲げてみせる。
まだ状況が飲み込めていないカオと、彼に先導された間抜けたちは不思議そうな顔で私の手の中のスイッチを眺めていたが、これはこれで良いのかもしれない。
無駄な恐怖を感じずに最期を迎えられるのだから。
思い、私はスクリーンに流れる場面と、スピーカーの音響に同調するよう、その台詞をつぶやくように口ずさんだ。
「……我らは如何にあるかを知るも、我らが如何になるかを知らず……」
同時、
私はスイッチを押す。
刹那、ホールの四方が轟音とともに吹き飛ぶ。
人間たちの叫びや悲鳴をことごとく打ち消すように。
壁が崩れる。
床が崩れる。
天井が崩れる。
凄まじい爆風と轟音に包まれながらも、それでも私は穏やかだった。
やるべき仕事はすべて終えた。
あとはカケルとイェンにすべてを任せよう。
そう、
ジンが私にそうしたのと同じく。
降り注ぐ瓦礫に、ふと頭上を見れば、天井全体がひとかたまりの岩かと見紛う形をして落下してきている。
ああ……これが私が最期、目に移す光景かと、そう思うと、
そのあまりにも武骨な最期の光景に、無意識のうち私は声も無く笑っていた。




