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こんな明日はいかが?

こんな明日はいかが?11~13

作者: ケット

11

「ヒーローなんて──なろうとしないで、バカ! なんでそんなに、似てるのよ──だいっきらい!」

 夢か、ただ思い出しただけか? 寝た気がしない、体中が痛い。

 一応台風を乗り切って、総員起こしからそのまま当直、それも強風と大雨が残って視界がきかない中、大型船航路と中小メガフロート群の見張りで──張りつめていた気力が尽き、手すりにすがって寝棚に向かう途中、甲板に出ていた岡野にぶつかり、そこでいきなり──あいつ、泣いてなかったっけ。

 くそ、オレは夢中で、なんとなく船の危険がわかって、必死でなんとかしただけだ。ヒーローも何も、死にたくないだけだ。ジョンソンさんがオレの言葉を信じてそこをチェックしてくれて、みんながいて──。全員の技量といつもの整備がなかったら、オレ一人がいくら頑張っても船は沈んでいた。

 思い出して全身が震え、手のひらがじっとりと汗ばむ。台風の名残りでいきなり制御を失ってぶつかってきそうになった船があった。見張っていたオレが怒鳴って、一等航海士がうまく帆を活かしてかわし、それっきり姿を見ていない──あの船は大丈夫だろうか?

 そういえば似てるって、向こうでの彼氏かな? それもなんとなく気になるけど、それより──うわ、ずっと寝てたんだ──しまった、当直、急がないと。だれも起こしてくれなかったのか──?

 体を洗って着替え、船員食堂に行く。途中で窓から外を見た。うねりは大きいけれど感じは悪くない。灰色の空、複雑な色の海、海鳥。

 むしろ船尾斜め後ろからの風で、ちょうどいい進み方だ。

 相模湾メガフロート群、富士山、それに東京湾と相模湾に刺さる光の柱が見える。

 もう野島崎が見える──ここからがいちばん危ない。

「ぎりぎりだぞ、十分前には持ち場につくように」

「申しわけありません、サー。おはようございます」

「おはよう」 

 嵐のあとは、みんながオレを見る目が少し違う。そして、そんなときは残念ながら、誇ることもできないほど疲れている。

「まったく、五回は助けられたな」船長が笑っている。「入港が思ったより遅くなるから、今夜は船で泊まって明朝退船後、直接学校に向かいなさい」

「はい、ありがとうございます」

「みなさんも最後まで油断せず、しっかりと船内を片づけて準備をしておくように」

「はい!」

 当直の実習生が声をそろえた。みんな台風との戦いで疲れきっていたが、でもこうなると元気になる。やっと本土上陸、楽しい夏休みが待っている。オレはわざわざ勉強しに来たんだが──。

 東京湾に近づくと、ふだんテレビで見る、渋滞した道路のように船がひしめく。

 相模湾沖の畜舎メガフロートに大量の穀物や飼料を降ろし、少し楽になってそのそばにある下水処理人工干潟メガフロートをかすめる。穀物は船を転覆させる、爆発物より怖い積み荷だからほっとする──と「ほっとするな、ここからが危険だ」と怒鳴られる。くそ。

 少しのんびり、蒸し暑い台風の余波に汗だくになってあちこち片づけ、荷揚げの準備。

 見張りも一瞬も油断できない。まるで鯨のように、大きなタンカーが突然すぐ横にあらわれる。特に潜水タンカーはたちが悪い。

 いくら電子機器、管制システムがあっても最後は見張りだ。視界があまりに悪い今こそ。

 混み合う野島崎を通ったときには、もう日が沈むところだった。さて、夜間の入港と荷下ろしで今夜は徹夜か──台風のあとで死ぬほど蒸し暑く、きつい夜になりそうだ。

 夜といっても、東京湾中央部を宇宙から照らす日光の柱で、せいぜい夕方ぐらいの明るさだ。まず東京湾面積の三割は埋める入り組んだメガフロートと他船をよけ、横浜に入港する──危険な操船が続く。去年は何も知らずに気負い立っていたが、今年はやることが多くて押しつぶされそうだ。実習生、下っ端以下のオレでもこうなんだから、上級船員やまして船長なんてよく生きてるよ。


 朝、台風の影響もあって荷役が長引き、退船手続きが遅れて講座に遅刻しそうだ。

 挨拶もそこそこにふらふらでタラップを駆け下り、高さの違いがわからずに思いきり転んだ。最後の最後でみんなに笑われたな。

 岡野が手をさしのべてくれた。待っていてくれたのか。

「どうしたの? 遅刻するわよ」

 暖かく柔らかな手を握った瞬間、なぜか電気のような感覚が走り、起きそこねそうになった。

 バカな、何度かキスしてるじゃないか──陸酔いだ、過労だ──

「お世話になりました、よい航海を!」

「船ではどんなに揺れても、酔っても転ばなかったのに」

潮汐しおに慣れてないんだ」

 それ以上の説明はしたくない、船員としては恥だから。今後メガフロート生まれの船員が増えたら、それでバカにされるだろうな。

 まあ、今だけはなんだか仲良く出かけた。寮に荷物は届いているはずだけど──

「そうだ、あなたの家で暮らしてたとか、だれにもいわないでね」

「当たり前だろ。案内頼むよ」

 路線はケーコに案内してもらってもいいけれど、やはり岡野についていったほうが確実だな、去年も似たような特進講座を受講したらしいし。なにしろ、大人なしで本土で行動するのは初めてだ。駅の乗り換えすらなにもわからない。

 しかしひどい混雑もあったもんだ、人間が体力の限界まで詰めこまれている。

「ちょっと、なんだよこの混雑」

「ここじゃ当たり前よ」

「二十世紀の映像じゃおなじみだけど、人口減ってるんじゃ」

「燃料税で車が減って、電車に集中したから同じことよ。それに」駐輪車両をあごで指す拍子に、キスしそうになる。「電車に自転車とかを乗せる人も多いし」

「確か駅に降りたらすぐ自転車や」

「それ、人気ないの」

 そう、話しながらもものすごい圧力で体が押しつけられる。岡野の熱さにドキドキする──何かが脳を煮る。

 オレは必死で、ドアに手を突っ張って彼女が楽に息ができるスペースを作った。

「余計なことしないで」

 親切にしたり助けたりすると、泣きそうな、怒ってるような──

「うるせ……降りるぞ」

「え? 駅ちがうわよ?」

 なんか、変な気がした。雨はやんだけど、風は強い──外海はまだ荒れているはずだ。

 かなりすいてるホームに何人か降りると、いっしょに降りた酒臭いおっさんが、おおいかぶさるような千鳥足で岡野につかまろうとした。

 何となく、危険を感じてかばうと、もう一人オレたちと共に降りた同僚? に連れられておっさんは去った。このへんも港並みにがらが悪いのか?

「もっと近い電車ないの?」

「地下鉄までちょっと歩くけど、いい?」

 急ぐ道で、ちょっとコーヒー──もちろん掌紋電子マネーのデポジットで、カップを専用のリサイクル箱に入れれば半分戻る──を飲む。徹夜の肉体労働で頭も全身も重い。そしてめちゃくちゃに蒸し暑い。

 台風のあととはいえ、亜熱帯の海上よりひどい──居住区全体を完全空調しているメガフロートがいかにいい環境か。

 第二次関東大震災後整備されたとは思えない、雑然とした道を歩く。古い感じの土塀や建物に、何とも言えない気分になる。

 ふと雨がもう乾いた路面を見ると、変な、ネズミ花火の腐ったようなのが転がっていた。

「なんだ? これ」

「ミミズよ、見たことないの?」

「いっつもいじってるよ、土の中のミミズは。バカだよな、土の中にいればいいのに。こんな熱いアスファルトで、陽に焼かれてのたうちまわって干からびて死んでいくなんて」

 なんとなく、気持ち悪い言葉を並べたくなる──嫌がれよ、という気になる。小さい頃葉波に、ミミズでさんざん泣かされたっけ。あのころのあいつは男の子みたいで、どうにもかなわない──

「バカ? バカはそっちよ」

 岡野の、軽蔑のまなざしにびっくりする。

「え?」

「あなたたち人間より、このミミズのほうがよっぽど賢い、っていってるのよ」

 あなたたち?

「どういうことだ?」

「この道路は確かに、今回はアスファルトだったからこのミミズは死んだわ。でも、大航海時代の犠牲と同じ英雄よ。

 半年後、この子の甥が旅立つときここは土かもしれない。そうだったら、新大陸を発見するのと同じよ」

 おいおい、アスファルトがころころ土になったりするのか? 第一、大航海時代って侵略と虐殺、生態系と文化の破壊じゃないか。

「ちょっと、そんな簡単に土なんて」

「ああ──ごめん、それ自体わかってないんだ。ここも」と、ミミズが死んでいるすぐ脇をつま先でつつき、「少し掘れば土よ。ここはどこだって、少し掘れば土なの、発泡コンクリートの厚板で、その下は海のメガフロートと違って!」

 なんか──足元が崩れるようなショックで、なぜか座りこんでしまった。

「バカ。だからあなたたち人間より利口なのよ、リスクがあっても生息域を広げようとしてるんじゃない! 今住んでいる所だっていつ埋められたり毒を流されたりするかわからないんだから。もちろん一匹一匹は考えてない、雨が降ったら穴が詰まるから出る、って単純なプログラムに従ってるだけだけど、全体としては人間より賢明なの。

 人間だってそうすべきなのよ。いくらコンピュータの化け物が助けてくれるといっても、それが本当に文明を維持するに十分賢いかはわからないのよ。もちろんいくら端末を配って人間を教育しても、民主主義でも。唯一の安全策はR戦略、多産多死なの。一つのバスケットに全部の卵を入れるな。人類だけが宇宙にいけるんだから、遺伝子と文明の種を宇宙中にまくべきなのよ! じゃなきゃ、何でこんな破壊的な種が生まれたのよ」

「多産多死、ってそのせいで人口が爆発して、下手すりゃ」

「少なくとも、人類の初期は“産めよ増やせよ地に満ちよ”って戦略で間違ってなかったのよ、種を維持するためには。たとえアフリカが砂漠化してもヨーロッパで生き延び、ヨーロッパが氷漬けになってもアメリカには仲間が、ってできるんだから。でもこれだけ文明が発達し、人口が増えすぎたら生物として、個体を増やす戦略は間違い──文明自体の子供を、別の星に送るべきなの! 個々の文明を制御するのは当然だけど、それが失敗することを前提にして」

「そうはいうけど、ロケットだってそんな速いのはできないしワープなんて」

 岡野の、強烈にのめりこむ表情は怒ってるのより魅力的かもしれない。

「必要ないの、遺伝子と情報だけでいいのよ! これ、受信して」

 ケーコに、通販のサイトのURLが送られてくる。開くとおもちゃのガラス球──閉じていて水が満たされ、中には水草や魚など。光合成と呼吸、食い食われ腐って循環、か。

「いろんな生物の代表選手を入れて、凍らせたこれをあっちこっちの星に打ち上げる。水のある惑星を探して中身を解凍してまくようプログラムし、ついでにその近くの安定した衛星にあらゆる情報を置いておけばいいの。そうすれば生命は勝手に進化して、知的生命が進化したらその情報を拾って好きにするし」

 ちょっと待て。

「逆に、もしそんなの送りこまれたら地球の生物全部、とんでもない怪物と伝染病に襲われるってことじゃないか! 人にされたら嫌なことはやるな、って」

「合格ね。もちろん、向こうに文明があれば攻撃とみなされて反撃されるリスクがあるから着水前に探査し、生命があるようなら着水はしない。知的文明の先住者がいたら連絡し、遺伝子も文明データも情報源として活用してもらう──隔離された実験室でも、地球型生命のスペアがあるならありがたいわ」

 あれ? この口調──ちょっと検索してみるか──あれ?

「おい、なんかそれ、ホントの計画みたいに話してるけど─ネットにも見当たらないぞ?」

「まだ実行されるかはっきりしないもの。百億にマクドナルドだけで精一杯なの、まだ」

 言い捨てて、さっさと先に行ってしまう。

 何でそんな情報を知っているんだ? どれだけの力があるんだ、あの体内ケーコ。

 ひょっとして、もう異星文明を探査してるんじゃないか? 円卓自体、その協力で──いろいろあらぬ事を考えてしまう。

 そういえば、ケーコをいじったの自体がひさびさだ──メールチェック、いやもう学校に着いてしまう。放課後でいいか。


 講座が行われるのは、都心のお茶の水だった。半公営化されている予備校を利用するらしい。

 かつては受験でみんないやというほど勉強した。二十一世紀初頭は二極化で、一部だけが勉強する社会になりかけた。学制改革の後には誰もが、まず世界最低水準と国で定められた学力を身につけるのはしっかりやらされる。

 また公立、私立、予備校などの区別もあまりない。どこでも単位は得られるし、特に理系は国際的に定められたテストをクリアすれば単位になる。

 もちろん優れた学校は高い競争率と授業料があるが、受験は弊害を防ぐためテスト内容を厳しく監視され、階層社会化を防ぐため、公的奨学金が予備校の類も含めて充実している。また一人一人、コンピュータ上に指導プログラムがあるから独学もできる。

 オレたちはメガフロートに巨大な学校があるから、そこでどのクラスになるかが中心──だったけど、そろそろ考えなければ──国費上級学校を目指すやつもいるし、オレや葉波もちょっと背伸びすれば──

「おか──」

「岡野、よ。ひさしぶりね、木田」

 いきなり、入口で出くわしたデブの男子が岡野に声をかけようとして、彼女ににらまれた。知り合いか?

「岡野、そうでし──だったな。で、こいつは?」

 もう一人のチビが、オレを上から下までじろじろ見る。二人とも着崩した感じで、なんだか軽い。こんな服じゃマストに上れないぞ?

 ああ、おかものか。そうだな、ここはみんなおかものなんだ。

「よろしく、オレは長谷川由」

 差しだした手を、二人は無視して岡野に話しかけた。いきなりオレに軽蔑の視線が向く。

「だれこいつ?」

「関係ないわ。野村くんも元気だった?」

「そりゃもう」

 悪かったな。なんか嫌な感じだ。オレ、何かしたのか?

 

 教室にはいると、大人がまったくいないことに驚いた。

 日本の新学校制度では生涯学習の大人も多い。欧米では元々生涯学習が盛んだったからその影響もあるけど、二〇〇〇年代に爆発した歴史認識問題とやらで、アジア諸国との軋轢をなんとかするために、もう学校を卒業した大人も含めてもう一度ちゃんと近現代史を教える、と国策で始まったのだ。

 それまでの義務教育では、いろいろあって近現代史はやっていなかったらしい。そこを責められたから、逆に歴史をもう一度教えた──いろいろな立場から。

 オレたちには歴史は見方によっていろいろな面があることは常識だが、当時の大人や老人はどの立場の人も大きなショックを受けたらしい。が、再教育が浸透すると、被害を受けたアジア諸国の政治的な誇張と事実、アメリカの罪、そして日本のいい面悪い面を全部受け止めて、悪いこと、誤っていたことはきちんと認め、反論すべきところは堂々と反論できるようになっていった。

 円卓騎士団事件以降、原則としてすべての情報を公開して自分で考えるようになったし。

 ついでに第二の義務教育は日本の生存公役制度、新学校制度の重要な核になったのだ。民主主義を維持し、かつ文明を制御するには、基礎的な環境学などを全員に、半ば強制的に学ばせる必要があったこともある。

 そういうわけで、オレにとって大人と子供が一緒に勉強するほうが当たり前だった。

 でも、ここには大人がいない。みんなオレと同い年ぐらいだ。そういう講座なんだな。


 ガイダンスはぎりぎりだった。あいつらは岡野を待っていたのか?

 まずわかってたとはいえびっくりしたのが、講師陣の豪華さだ。ノーベル賞・フィールズ賞受賞者がいる。どういう講座なんだろう、と改めて首をひねる。

「この講座は、“1足す1は2”“ゼロで割っちゃいけない”“分数のかけ算はひっくり返してかける”などの“なぜ”にちゃんと答える。それに納得できない者が集まったはずだ。だが簡単なことじゃない、“1足す1は2”の証明はこの教科書の後半にやっと出てくる」と、分厚い洋書を叩く。「まずみんな、自分が何も知らない、わかってないことを学ぶんだ。そして一番根本から、一つ一つ本当に理解していけ。講座が終わるときには、自分が何をわかっていて何をわかっていないかは知ることができるだろう」

 オレも納得できない組だったから、それは嬉しいんだが。

 昼休みに誰かを誘おうとしたが、なぜか無視された。岡野は木田たちといるし、こっちからは声を掛け辛い。ここの連中って知り合いが多いのか?

 一人だけの知り合いとは話せないし、しかもみんなおかものだ。こうして一人で食べるなんて、たぶん初めてだ──

 昼からの、科学基礎はケーコ可か──ありがたい。

 座ろうとしたら椅子を引かれた。そいつの机を蹴りつけて座った──まあ海でもその手の歓迎はよくある。

 そして、

「地動説を疑え」

 いきなりの先生の言葉にびっくりした。

「そこの君?」

 さっき岡野と話した木田が当たる。

「でも地動説は科学的真理、常識ですよ」

「証明してみろ」

 みんな呆然。何人かはピンと来たような表情をする。

「はい、地球を一周すればわかります」

 オレにとってはそれが当たり前だ。現に村上たちは、船で地球を一周したんだ。

「どこかの悪魔に騙されているのかもしれない、単に次元がねじまがっているのかもしれない」

「オッカムの剃刀」

「それだけじゃ証明にはならない」

「宇宙からの写真」

「国家の陰謀かもしれない」

「そういう考え方は非科学的で、非生産的」

「非科学的という言葉を使うときは、気をつけなきゃいけないんだ。逆にそれを盾にして突拍子もないことをいえばいい、という罠にも気をつけろ」

 ふと、帆船が水平線から見えるのを思いだした。

 ケーコに図を表示し、いくつか計算してみる。

「はい、これを回覧します」

 と、その図を送信する。平らな海と、球形──円弧を描く海では遠くから船が見えるとき、微妙に違う。

 そうか、本当に平らなら少しでも高いところなら、どんなに遠くても小さくなるだけで船は見えるんだ。

「ほう、確かにそうも思える。が──」

 と、こんな感じで根こそぎ常識をひっくり返された。いかにオレたちが、自分で考えずに教えられたことをうのみにしていたか──。科学っていったい何なんだろう?

 葉波と砂漠で過ごすより、家でぶらぶら遊ぶよりこっちのほうが楽しいかもしれない。いつもの授業、そして暗記と要領中心の試験勉強とは次元が違う。

 ついでに宿題も。複素数という計算法も初めてだ。三角関数は知っているけど、具体的な数値を出そうとするとものすごい計算量になるんだよな──。

 ただ、どうせならクラスのみんなとも仲良くやっていきたいけど。


 放課後──といってももう六時、寮生活についてのガイダンスが始まった。近くの大学──このへんはものすごく大学が多い──の学生宿舎を借りるらしい。

 とにかく宿題が多いから、寄り道の余裕はない。寮についてすぐ食事──やっぱりみんな話しかけても無視するし、岡野はさっきの二人と話していてなんか近づけない。

 部屋は六人部屋。繭じゃなくて二段ベッドか、はじめて見たぞ? こんなボロがよく第二次関東大震災をもちこたえたもんだ。

 風呂は狭いし大人数だから大変だけど、清水せいすい|(注:真水のこと)使い放題は半年ぶりだ。

 久々にケーコが使えるから、葉波と──いや、なんかそんな気にならない。同室の連中も宿題やってるし、オレも気合い入れてやるか──ネットラジオのゲームサントラチャンネルを聴きながら。

 よし、〈波高し〉が入った。この三日まともに寝ていないから、頭は疲れ切っているけど、この曲は結構きくんだ。

12

 もやいを解くオレを見つめる、泣くことができず思いつめた目。

 古くろくな屋根もないボート。雲一つない空、三百六十度ひたすらな水平線。風さえない。

 葉波が海水を飲もうとするのを、取っ組み合って止める。オレの首を絞める赤く焼けすぎた手、悪魔の形相。


 体をがくがくさせて、古い二段ベッドで目覚める。深く、短い眠りだった。

 あまりにも宿題が多く、予習復習もしなければならない──いつもの授業はぼんやり波任せで漂ってるようなもの、この講座は全力で長距離漕ぐようなもんだ。

 それに、どうもみんなに溶けこめない。どうにも、悪意ばかり感じる──特に岡野に話しかけると。

 だれに話しかけても無視されるし、からかうようにオレの歩き方をまねて大げさにふらふらしたり、オレたちはとっくに卒業したレーザーガン──おもちゃの銃で、遠くからでも狙い撃てば命中判定がケーコに出る──を至近距離から撃ってきたり。

 でもそれ自体は一カ月もない話だし、講座がきつすぎてそれどころじゃない。

 それこそケーコ自体いじっていない。音楽だけで、メールもネットもオフにしている。葉波からはたぶん何もないだろう──オレたちはあまりにもお互い知りすぎている。

 いや、勉強しないと──葉波のことを考える余裕はない。まったく、なんなんだこの宿題は。

 ああ、みんな頭が悪いわけじゃない。めちゃくちゃいい。

 みんなガンガン、すごく鋭い質問をする。教授陣がまたものすごい──どんな突拍子もない質問も、真面目に受け取ってその深さを褒め、それを理解するために学ばなければならない分野を段階を追って示し、各段階の標準教科書を紹介してくれる。

 特に岡野にはびっくりさせられた。ただ先に進んでいるだけじゃない──質問の深さが違う。


 野村たちの話で、ちょっと岡村という名前が出てきた。

「そんな子いたっけ?」

 と、つい首を突っこんでしまった。

「知らなかったのか?」

「一月も同じ屋根の下で暮らしたんじゃ」

 木田がバカにした声を出す。

「同じ屋根?」

 ぴんと来ない。オレたちにとって、屋根は居住メガフロート全体を覆う太陽電池幕だ。

 あれ、オレはだれにも、岡野と暮らしてたなんていってないはずだぞ?

「ふん、たらい生まれの根無し草じゃわからないか」

 明らかにバカにしている。あっちのほうが住み心地はいいぞ、このクソ暑い本土より。石炭火力発電は排気を海やビニールハウス農場に出してるからもうCO2フリーだし、温暖化は一時喧伝されていたほどひどくはなかったけど、農業から出るメタンはどうしようもない。

 しかし、岡野は別の名字? あ、離婚か何かかな? じゃあ余計なこと言っちゃいけないか。

 実際、つい「岡村」と言ったら案の定めちゃくちゃに怒って、だれがその名をオレの前で言ったのか問いただし、その日一日野村は皆に無視された。

 オレにももちろんしわ寄せが着たが、まあこれ以上悪くはならない。

 と、帰って久々にケーコでメールでもと思ったら、ケーコが壊されていた。徹底的に。

 他の荷物も荒らされていた。

 少なくともケーコを壊すなんて──オレたち海の人間はやらない、七つ道具は命に関わるのだから。ここでは、してはならないことなどないのか。

「おい、誰がやったんだ。決闘なら応じるぞ!」

「それより、なんだこれは」

 MPTとロープカッターなどが突きつけられた。あ──そういえば日本本土には持ち込み禁止だから港湾事務局に預けること、だっけ。

「それ? 道具だよ」

「道具? ナイフじゃないか! 誰を狙ってきたんだ?」

 おいおい──

「海じゃ全部必要なんだよ、いつでも。荷物関係の仕事だってあるし、いつ海に放り出されるか」

「ここは海じゃない! ここじゃ、こんなものを持ってちゃいけないんだ」

「何かあったら」

 おいおい、大震災で懲りたはずだろ? どうするんだよ。

「いいわけになるか、やっちまえ!」

「船乗りめ!」

「彼女を狙う刺客か?」

「刺客だ!」

 それから先はいきなり、押さえこまれ、殴り倒され──ルールも何もない、めちゃくちゃだった。恐怖で狂ってる、って感じだった。

 気がついたときはどこかのクローゼットに閉じこめられていた。

 七つ道具がないから明かりもない──参ったな。それにあちこちかなり痛めつけられた──野村と木田は明らかにみんなやってる護身術だけじゃなかった──

 闇の中、どれだけの時間が経ってからか──岡野の声、「言ってあげる義理なんてないけど、陸上のルールは一つだけ、『空気読め』よ。『和をもって尊しとなせ』ともいうわ」

 十七条憲法──そんな意味だったのか、ちくしょう! もちろん船でも“和”は必要だが、何かが違う。船では誰かを徹底的に追いつめることはしない──自殺ついでに船に火をつけられたらみんな死ぬから。

 オレはどこの船でもやっていける自信はあるが、陸上ではなにもわからない。

 ぐっと怒りが荒れ狂うが、同時に恐ろしく冷たいものを心臓に当てられたような感じもある。

 それで、ふと分かった。そうか、岡野にとって海は──オレにとってのここと同様、外国同然──それで海もここも客観的に理解したのか、一人で、誰もそばにいないのに!

 まして女だ、同い年の男と暮らすなんて何をされるか、という恐怖も──くそっ!

 葉波──峰──オヤジ、オフクロ──春おじさん、百合姉──帰りたい、声を聞きたい──ケーコが、端末がほしい──海──涙がとめどなくあふれてくる。去年ハワイへの船上実習でもケーコは取り上げられたが、あの時は──みんなもいた──白状すると、ちょっと泣いたけど。

 だが、泣き出すと思い出す。五年も前か、激しい船酔いで船乗りになんかなれるはずがなかった小さいオレ──苦しいよ、怖いよと泣きじゃくっていたオレを見て、みんな舵だけ自動にして船室に引っ込んだ。

 助けて助けて、と悲鳴を上げた──オレは必死で甲板口を叩き、激しい横揺れに翻弄されたが、開かないという嘘に騙された。オレが縮帆しなければ船が沈む、みんな死んでしまう、と──

 もう吐くものもなく痛いだけ、震える足、大小ともちびったズボンが波しぶきに濡れ、くさい液が脚を伝う──それでまた泣き出すけど、泣きながらでも吐きながらでもやるしかなかった。笑う人も、抱いてくれる人も、叱る人もいなかった。

 必死で、大きいみんながやっていることを真似て帆脚索を引き、何度も落ちながら──本当は一メートルもない、子供用の安全な帆桁だが──帆をまとめて縛った。

 そしていろいろ帆をいじって、それに船が反応するのを知って夢中になり、いつか船酔いもおもらしも涙も忘れていた。

 そうだ、あの時に“げぼゆー”“泣き虫ゆーぼー”はどこかに行って、“嵐の長谷川”が生まれたんだ。

 そういえば、峰もあの手の荒療治で高所恐怖症を克服したんだったな──葉波は──

 泣いても何も変わらない、ここは嵐の船だ──逆らうな、風を体で感じて波に任せろ。いかに理不尽でも海に文句を言うな──『空気読め』が唯一のルールなら、勉強に支障が出ないようそれにあわせればいい。

 オレはここに勉強しに来たんだ。おかものとなかよくしに来たのでも戦いに来たのでも、革命を起こしにきたのでもない。

 そう思うと、別の焦燥感も感じる。もしかして、葉波も──ここは言葉は通じるが、中国の奥地はまだニュインも通じていない。頼りになるのはオヤジだけだが、そのオヤジだって忙しい。

 昔の、自分が役立たずなのに気づいたときの痛みも思い出す──葉波がそんな目に、と思うと心配でならない。

 声を聞きたい、画像でも顔が見たい。やはり端末が欲しい──

 でもないものはない。海ではいくら泣いてもわめいても、清水も食料もタバコも酒も燃料も、なくなればないものはないんだ。

 食べものや水がなくても、あの時は葉波もいた──それもないものはない。あいつも今頃、表には出さないけどいろいろ辛い思いをしているだろう。

 とにかく、今やることは──課題だ。

 あいつらに、学校の力関係では勝てなくても、宿題は負けない。

 課題は覚えている──公式も──忘れていたら作ればいい──ケーコはなくても、閉じこめられていても紙と鉛筆でやればいい。

 何度もやったじゃないか、難破を前提に細索と天測、紙と鉛筆だけで現在位置を計算し、地図海図を作るのは。

 落ちついて手探りで捜すと、小さな手回し懐中電灯、半分も使ってないノートがいくつか、コピー用紙と鉛筆があった。ナイフはない──くそ、最後の一本を岡野にやるんじゃなかった──が、がらくたをよく捜すとカッターが転がっている。

 そうだ、ソロバンがあればいいんだが。いや、なければ作ればいい。ずっと習っていたのに、いつもケーコを使っていたから忘れていた。

 これでできるはず、まず──

 あ、ソロバンって自分で作れば、何進法にするか自由に変更できる! 今日やった、十進法は級数にすぎない、ってのはそういうことか。それさえわかれば──これは楽だな。


 今は何時だ? 目の前には紙の山ができている。

 ふと触れるとドアは開いており、もう夜は明けていた。サンドイッチとスポーツドリンクが置いてある。

 誰だ? 岡野か?

 彼女の部屋をノックすると、

「何? バカ、今何時だと思ってるの」

 岡野の不機嫌な顔、可愛いパジャマ姿。相変わらずの口調の刺に、なんともいえずほっとする。

「ありがとうな」

「何がよ! いい、今日から絶対話しかけないでね」

「ああ」

 一人だ──海に放り込まれたような寂しさと、開放感を同時に感じる。

「いう暇なかったんだけど、伝言がたくさん来てるわ」

 と、ケーコと旧式パソコンをつなぎ、映像や音声メールを流し、プリントアウトを渡してくれた。海のみんなからたくさん来ていた。

 やはり葉波からはなかったが、特に峰の『お前は誰にも負けない』という言葉に涙を抑えるのが大変だった。

 一人じゃなかったんだ。みんな──

 ケーコがないことも、七つ道具を放り出して葉波と海に乗り出したとき──バカな漂流事件──のような解放感もある。そうだ、小さい頃は七つ道具もケーコもうっとうしくなることがあったっけ──

 というかみんな六人部屋なのに、なんで岡野だけ一人繭なんだろうな。運がいいのか?


 昨日の事件は結局、何事もなかったように──七つ道具がないだけ。

 みんなの、そして岡野の無視は続いているけど授業がどんどんきつくなるからそれどころではない。

 第一ケーコがないから、大量の計算を主に紙と鉛筆、せいぜい古い物がいっぱいある店で買った電卓でやらなければならない。先生は事情を理解してくれ、データの回覧では不都合がないようにプリントをくれるけど、特に三次元映像がないのは不便に思える。だれも何も貸してくれない。

 ただ、計算があまり必要でない、ケーコがいらない授業のほうが多いし、大変だ。

 基礎準備校の最後にやった、集合の概念──それがこんなに深く、数学のあらゆるところの本質だったなんて。ゼロと無限大も、これだけのことが──まださわりでしかない!

 そしてガロアの原論文の対訳! あの若さで──なんだか背筋が寒くなる。負けてたまるか! 我も人なり、彼も人なり!

 一日十時間の授業、予習復習も暗記すべきことも多い。睡眠時間は四時間切っているし、ケーコがあったとしてもネットも電話も無理だろう。もうみんな口をきく暇も、オレにちょっかいを出す暇もない。

 後に知ったが、全然連絡がなくケーコが発信する位置情報さえ絶えたことで、オフクロはすごく心配していたらしい。岡野が安心させていたが。前もバカやっちまったから、心配もわかるけど──

 まあとにかく講座に夢中だった。何か考える暇があったら、指数関数の複素数での意味を追求され、いやというほどの演習問題を無茶な時間でこなし、さらにそれを純粋数学の言葉に訳すほうが先だ。

 記号論理・集合論の言葉でちゃんと定義する、それだけで、今までオレは何をやってきたんだろうというぐらい世界が変わる。そうなると物理の見方も全然変わり、結晶とかだって群の考えを使うとこんな──。

 今回の小テスト──集合論などと、数学オリンピックの過去問──は二位。岡野との差がありすぎたのは納得するが、悔しい。

 このクラスのみんなは、こういうのがわかる連中ばかりなのだろうか?


 そんなある日、突然寮監に呼び出された。

「悪いが、今日中に退寮してくれ」

「は?」

「どうも……な、それにちょっと急に、別の講座で人数が増えた。君以外にも五人ほど退寮する予定だ。他に」

 どうも? お前らが排除しようとしてるんじゃないか!

 といってもどうしようもないので、かなり呆然としてオフクロに電話しようか──と思っていると、しばらくして岡野がやってきた。

「わたしも退寮組だし、あとちょっとだからうちに来てよ」

「え? いいのか?」

「まあ仕方ないじゃない」

 苦笑が妙に可愛くて、どぎまぎした。

「じゃ、荷物の手続きしようか」

 彼女が部屋に入ると、ざわっと騒ぎが起きた。連中の、憎悪の視線が突き刺さる。

 可愛いから人気があるのは分かるし、どうやら木田とかは本土のクラスメートだったらしいけど──

 海育ちのオレの荷物はすぐまとまる。いつ身一つで救命ボートに乗るか分からないし、またトランク一つだけOKといわれても慌てないように、というのがたしなみだ。

 授業が終わり、一時間ほど宿題をやって──まだまだ山ほど残っているが、やってもやっても終わる気がしない──坂を下りて大きな本屋で待ち合わせる。そして第二次関東大震災で一度壊滅し、風情は残しながら大きな耐震ビルの形になった古書店街を抜けて地下鉄に降りた。

「何駅?」

「何でそんなこと聞くの? 黙ってついてくればいいじゃない」

「はぐれたらどうするの?」

「メールくれればいいでしょ」

 ま、そりゃそうだな。ってオレにはケーコがないんだ。

 何度か乗り換え、駅にアーケードでつながる少し古い超高層マンション。

 普通なら入口で手続きなどをするところだが、何もなしでオレの掌紋が受理された。

 体内ケーコ一つで? どうやったんだろう。

 一階は銭湯や大きなロビーが主。

「なんだか老けた感じだな」

「そりゃ前は、本土のマンションなんて半分は老人ホームだったんだから」

“皆で皆を食わせ、介護し、育て教え、文明と自由を保つ”という当たり前のことが、実行となるととてつもなく困難だったらしい。新しい社会契約だ、と神谷さんに聞いた。

 まず財政とか予算とかが問題になり、そして高齢化での労働力不足、とかなんとか──

 日本など一時期はあまりの高齢化に、老人介護に国力の大半が費やされた時代があったとか。

 今は中国やインドがものすごい高齢化だが、幸い情報・ロボット技術の発展でそれほど大変ではないようだ。

 まあそんなことより、本土では岡野はどんな部屋に住んでいたんだろう。オフクロと親しいとかいう両親は──

 かなり高い階の部屋に入る。うちより広い、そう思うと急にうちが恋しくなった。 

「おじゃまします」

 うちにはじめて入ったときの、岡野の気持ちが何となくわかった。

「悪かったな」この一言を言うのに、嵐の中帆桁を渡るより勇気が必要だった。

 うちよりは広い、古い感じの3LDK。

「荷物はここ、この繭を使って。本土での水道とかいろいろ、使い方はわかる?」

「ああ、テレビとかでよく見てるから。ご家族は?」妙に改まった声になってしまう。

「今日は帰りが遅いから、食べて宿題すませちゃお」

 と、ラーメンの出前を待ちながらも宿題に取り組んだ。

「あのさ、計算は頭でやってる? それともケーコで?」

「もう別々じゃないんだけど」

 あきれたような口調。どうなってるのかな。

 ふと、

「ふたりっきり、だね」

 と、いたずらっぽい口調で彼女が口にした。

 心臓が跳ね上がる。大波のように高鳴ってとまらない。制御できない。息が苦しい。もしここに葉波がいたら、どうからかわれたことか。

「おい──」

 どうしていいかわからない──こんなときケーコがあれば、葉波の『帆桁端から逆さ吊り』という警告があるのに。

「ああ……持ってるよな? あのナイフ」

 オレの最後の一本、チタン合金の小さなワンピースナイフ。人魚の操作感、亜熱帯の海風が強くよみがえる。強烈に帰りたくなる。

「え?」

「なら大丈夫だ、もしオレが理性を失ったら遠慮するな」

「バカ! 順序数の復習から始めましょ」

 やっといつも通りになったか、と思ったけど、前は葉波もいた。そして、今は心臓がうるさくて集中できない。切れそうだ、早くご両親が帰ってきてくれれば──

「なあ、無限の順序数って絶対両端がくっついてる気がするんだ。それでメビウスの輪みたいに、ぐるぐる……」

「複素数空間のコンパクト化? うーん、どうかなあ……」

 岡野の両親は想像していたより普通の人。ただ、なんだか違和感がある。

 その日は宿題もあったけど、あまりにドキドキして結局眠れなかった。


 それから、どうも家では、彼女の顔を見るとドキドキして胸が苦しい。でも、予習復習や課題をやりながら色々話すのは最高に楽しいんだ。

「うそ、フェルマーの予想にも間違いがあるんだ」

「そりゃあるわよ。オイラーが二の三十二乗+1は素数じゃない、ってちゃんと示したのよ。こうやって──」

 伸びた黒髪が、はらりと耳からこぼれる。胸の谷間が──あ、そうか!

「一休みしようか」

「そ、そうだね」

 心なしか、彼女の無表情が少し柔らかくなっているようにも見える。そのたびに胸がドキドキして、頭がカーッとして──逆に冴えてくる。問題に逃げたい。

「でも、よくあんなややこしい証明についていけるわよね。みんな混乱してたわ」

「レマク・シュミット? ああ、オレは一級海技士(航海)試験に、年齢が足りないから資格はないけど学科は合格してるんだぞ?」

「それが?」

 怪訝というか、ちょっと表情が曇る。

「自分がどこにいるか、目的地はどこかがわかれば、適切な針路を選べばちゃんと着くよ。あの証明は、目的がはっきりしてたから」

「間違ったら?」

「なぜ間違ったか調べ、また自分の位置を調べて目的地への最適航路を割り出す、そうすれば修正できる。それに」

 と、いつも持っている細索を取り出していくつか複雑な結び方をして見せた。

「やだ、何しに紐なんて持ってるのよ」

「色々固定したり、太索が切れてたら端止めしたり、他にも──」

「もういい。あくまで海なのね、まともな直交座標より赤道座標のほうが慣れてるんじゃない? あ、お茶入れるね」

「だから、海の辞書にややこしいなんて文字はないのさ」


 ある夜。ちょっと厄介な群の宿題で、詰まって気分転換にと台所でなにか飲もうとしたら、岡野とはちあわせした。

「どうしたの?」

「ちょっと気分転換、何か飲もう」

「そう」

 それっきり黙って台所に向かい、二人分クッキーを取り出そうとして、少し迷っていた。

「どこにしまったっけ」

 自分の家なら普通全部わかってないか? 何かおかしいんだよな──

「おばさんを起こしちゃ悪いからな」

 苦笑し、自分の荷物からハーブティーと、七つ道具の氷砂糖と海難クッキーを取り出した。

「このティーバッグ」

「うちの庭でできたんだ、といっても世話してるのは葉波ん家だけどね。結構人気あるんだぜ、百合姉がブレンドしたやつで」

「うん……おいしい」

「こっちのクッキーは、お世辞にもうまいとはいえないけどな……あの時は本当にうまかった」

「あの時?」

 あ、しまった。

「ごめん、聞いてない? 葉波と流されたというか勝手に海に乗り出したことがあって、その時、丸二日我慢してからボートの底でみつけて、半分」

「聞いてる、みんなに」やるせないような、苦笑したような表情を浮かべ、「すごい結びつきよね、お互いの──」

「しょんべんなんて飲んでないぞ、海水同様、水分としてはマイナスになるから」

 よくからかわれるんだ。

「どう?」

「難しい! 今まで、可換じゃない計算があるなんて考えたこともなかったんだぜ?」

「まあね、ここは覚えて慣れるしかないわ──」

 立ち上がって、別の何かを探そうとして表情を歪め、頭を押さえた。

「どうした、故障か?」

「大丈夫、ちょっと──」

 立ち上がったオレにふらりと、倒れこむように抱きついてきた。

 しばらく目を閉じ、息をつくと、深呼吸をして、

「もう──大丈夫、ありがと」

 そう見上げる彼女を、オレは抱きしめてしまった。

 彼女は悲鳴も上げなかった。抵抗しなかった。ただ、驚いた、それでいて悲しそうな目で見つめ返した。

 どうしたんだ、オレは──バカな、冗談じゃない──

 暖かい、なんて柔らかくて──強靱なのに、壊れそうな感じ──こんな──

「それで、どうするの?」

 その言葉で、日が昇って霧が晴れた。

「ごめん──明日にでも」

「出て行くことないわよ、同罪だし──わかってて? それとも──なんでもない。ずっとましよ」

「え?」

「おやすみ」

 なぜオレはあんなことを──なぜ彼女は抵抗しなかったのだろう──なんで、あんなに悲しそうに──


 眠れるとは思えなかったが、気がつくと寝てしまって目が覚めるとぎりぎりだった。彼女もで、顔をあわせると気まずいよりまず苦笑が出たのがほっとした。

 傘を手に駅の乗り換えで、テレビで知っていたネオン街というのが見えた。

 メガフロートにも、そういうところはある。下手に狭いから、それが見えてしまうんだ。港にそういうのはつきものだし。

「どこにでもこういうのってあるんだな」

 なんとなく、あえて普通に話しかけたかった。彼女も自然に答えてくれる。

「でも、今はそれが害じゃなくって富を生むようにしてるわ。“森は常に腐敗があるが、豊かな生命には必須”が基本方針だから」

「海だってそうさ」

 違法な稼ぎはできるだけ合法化する──二十世紀後半、ヨーロッパではじめられた知恵だ。大麻などの禁制品は“地獄”など場所を限定して許可し、犯罪より合法的な商売のほうが儲かるように誘導する。

 どこであっても闇を社会の部品として活用し、闇の力で重大犯罪を制御、最低生活保障と予防精神医学、心理教育で犯罪の動機を減らす──どうしても社会そのものに適応できない者は“地獄”でそれなりの幸福を得られる。

 円卓騎士団にマフィアの若いボスと、そのボディーガードがいたことも重要な影響がある。

 二十一世紀初頭はテロが重大な問題になったけど、コンピュータと闇、両方の目から逃れてテロをやるのはほとんど不可能、わずかな反円卓テロがあるぐらいだ。

 あの時代──人類史上のいつどことも違い、少なくとも飢餓はないし、世界のほぼ全員が最低限の教育は受けている。

 今は多様な共同体が許されている。どんな集団にも、無茶な資源の浪費や環境汚染をしない、全員に最低限の衣食住と教育、医療、介護を与える、情報に触れることを禁じない、邪悪な支配をしないなどの最低条件はあるけど。だから本来ならそんなに不満はないはずだ──でもオレもわけのわからない不満はあるし。

 なぜか戦争もほとんどない。“人類の幸福な生存のための総力戦”はあるけど、武力を使う戦争じゃない。『第二次世界大戦』をあれから少し気分転換に手写ししたけど、逆になぜ今戦争がないのかが不思議なぐらいだ。

「難しいのは、配給や生存公役システムに入ってくる腐敗よね。それをプラスに利用するのって大変なの」

「そうなんだ」

「特に邪悪な人間、誰だって邪悪はあるけどそれがいっちゃってる連中って多いからね……腐敗を利用するの自体は江戸時代が参考になってるようね、あれは闇もうまく利用してたから。二十世紀後半、反腐敗ヒステリーで一度壊れたんだけど」

 彼女はなぜか、円卓などのシステムについても妙に詳しい。

「そういえば、前読んだ本じゃ、昔の人って今みたいな──ほら」

 と、街角の監視カメラやカメラなどがついた虫型ロボットをあごで指し、

「ああいうのって監視国家になるって、みんなすごく心配してたみたいだけど」

「ああ、『1984年』コンプレックスね」

 岡野がちょっと不愉快そうに表情を歪めた。

「ビッグブラザーが自分は見られないでみんなを見たらそうなるけど、見てる人もその後ろから監視されてるの。誰でも何でも見ていい、その気になれば誰だって、もちろん円卓騎士団を見てもいい」

「それをのぞきに悪用するヤツがいたらどうするんだ?」

「ああ、それで知らされてないのね、あなた考えなしにやりかねないから。残念だけど、見る者は見られる──まともにしていれば誰も気にしないけど、変に誰かのプライバシーをのぞこうとしたら逆に注目を集めて、名誉を失うの」

「やだなそれ」

 名誉はオンラインの現金になるし、他にも……すごく痛い。

「邪悪な人間は厳しく監視されてるしね。第一見てるのは円卓だし──いい、円卓は一人一人の人間なんて興味ないの。一人一人の人間そのものだって、わたしたち人間と同じようには認識してないのよ。わたしがあなたに話してるとき、あなたのここの」

 と、岡野はオレの額に触れて、

「右から何番目の神経細胞に話しかけてるわけじゃないわ。それと同じで人類全体、ううん地球ガイア──宇宙全体と接触してるの」

「ど……どうやって?」

 なんだそりゃ?

「ネット全体、ものすごい数のカメラ、あらゆるコンピュータのデータとか観測機器。ネットの、世界中の人が作るテキストさえそのごくわずかでしかないのよ、むしろ人の呼吸数とか細胞の電気──ケーコと連動したペースメーカーとかのデータ、それに街角のカメラに映る人の表情の、人間は意識しないパターンのほうが大事だったりするの。それを通じて、昨日熱力学で習ったでしょ? 一つ一つの空気の分子はわからなくても、統計的にわかることはできる。それと同じように──ううん、人が人の顔色を、ものすごい量の情報を瞬時に処理して読むように、あれは人間の大集団の、ヒトラーを生み出したような意識みたいなもの、太平洋戦争を起こした空気と直接交渉してるようなものなの。

 人間を動かす力が、いちばん強いのはなんだと思う?」

「道徳、法、利害、宗教……」

「あなた、本当にそれで動いてる?」

 ぎく。

「あ、ええカッコしいだけか」

 悪かったな。

「“みんながどうしてるか”“全体の空気”、“飼主カリスマの指導力”よ。人間なんて七割は羊みたいな群れ動物だから。あれはそれを制御、少なくともそれ、空気そのものと対話してるの。ううん、カトリックやイスラム教の、神はともかく教団の空気とは対話してると言っていい……科学、近代文明に反対してた宗教さえ、おおかた思い通りにしてるんだから」

 なんだそりゃ?

 彼女の口調がなんだか激しくなる。

「それに人間なんてごく一部でしかない、あちこちで進んでる、木や草、土や海の微生物にすごく小さな機械を入れて電気信号とかチェックしたり、それに大規模な天文、地球観測! パパが解析してる波や海の細かな」苦々しげに顔をゆがめ、オレの胸に針のような痛みが走る。「そんな情報全部が今の聖杯になってるの。人間なんかには想像だってできないわよ!」

「なんだそれ」

「このURLをチェックしてみなさい、“円卓は何も隠さない”──あ、ケーコ持ってないんだっけ。面倒ね」

 いいながらメモしてくれた。

 徹底した情報公開が、円卓騎士団の結成以来の基本方針の一つだ。騎士などの情報は、人間がチェックするには何万年もかかる偽屑情報の海に紛れさせる、という形で隠すけど。

「人間って、超知能とか神とかも、結局人間に似たものとして考えちゃうのよね──でも、違ったの。あれが人間を殺さないのは、単に運がいいだけよ──いつ方針を変えるかわからないから怖いの。たまたま善に見えるスカイネットだもの」

 スカイネット? ああ、去年3Dにリメイクされた《ターミネーター》か。オレはまだ子供版しか見てないけど。

「でも、すごく寛容で、ほらこんなことしゃべっても大丈夫なんだ! 自由じゃないか」

「文明の基盤を崩さない程度に自由、寛容を崩さない程度には寛容、ね。第一プライバシーなんて実際にはないも同じじゃない。情報公開とみんながみんなを監視してるから、国とかいろいろな機関はコントロールできてるけど……

 それにこうも環境税が高いと、財産の自由なんてないも同じ、少なくとも反円卓派はそう考えてる。それに今は、最低限しか求めてないからなんとかなってるけど、百年後はどうかな──あれが今後どうなるかなんて、誰にもわからない」

 ふと、彼女が寂しそうな表情をして、オレの手を取った。

 心臓が猛烈にドキドキし、口から飛び出しそう。

「わたしは、円卓が──この世界がだいっきらい」

「でも、別の世界がいいのか? あれを止めてなかったらオレも──どっちも、みんな死んでたし」名前を呼べなかった。なんて呼んでいいかわからない。だから間が持たないんだ──「前にひどいめにあったろ『何もしなかった未来』で。あっちのほうがいいのか?それとも『天国と地獄』?」

「他にも考えられない? あ、そろそろ誰かに会いそうだから、駅に着いたら水道橋側から来て」

「OK」

 岩波ホール側から上がり、新後楽園球場に向かう方向から──このへんのややこしい道は一度探検してる。羨ましいのはたくさんの古びた小さな稲荷の類だ。震災も乗り越えてしっかりとこの土地を守ってる、って感じがする。

 メガフロートにも寺社や教会はあるけど、特に老人はちゃんとした神社がないから嘘の土地だ、と文句をいうことが多い。去年歴史と同時に主要宗教の教義はやったし、日本では小さい頃から「古事記」などは読まされるから、その文句がわからないのは怖い、というのはわかる。

13

真実とは何だ?

決して直視したくないもの。

それに直面するには、ハンマーを振るうまで見ても見えず触ってもわからない、堅固な壁を打ち砕かなければならない。

自分だけでできるのか? 他人がしてくれるときもある、雷のように来ることも。神の御手?

少なくとも無麻酔で手術するぐらいの痛みの報酬は? しばしば死、だが自由──


 なんでこんな言葉を思い出すんだ? どんな夢だっけ?

 葉波? なぜ、どこへ行くんだ? オレを置いていくなよ、海の果てまで、なにがあっても一緒だって──

 あ、朝か、また──いや、今日はゆっくり寝てていいんだ。

 やっと講座が終わった。といっても、最終試験の結果次第では科学五輪特待生として次の合宿が、とか国費上級学校とかいう話もあるけど、できれば早く海に帰りたい。

 帆に風を受け、海をおもいきりはしりたい。思う存分繭でネットしたり録りためたのを見たい。新しいケーコもいるな。

 今朝は岡野と二人きりだ。両親とも忙しいらしい。でもありがたいといえばありがたい、彼女の両親はいい人だけど、若すぎてちょっと世話が過剰で、正直疲れる。

 食事も豪華すぎて家庭料理って感じじゃなかったり、逆に忙しいからって出前が続いたり──おいしいけど飽きるよ。まあ寮の連中から見れば贅沢な悩みだけどな、給食というか配給に近かった。

 講座自体はどうだったんだろう。

 何でゼロで割っちゃいけないのとか、小さい頃ちゃんと答えてもらえてなかった質問に、消化しきれないほどちゃんと答えてもらえた。宿題としてやるべき教科書も、普通にやったら何十年かかるんだ、ってぐらい紹介された。

 どれだけわかってないのにわかったふりをしてきたかも、少しはわかった。すごい。

 みんなにひどく──残念というか、連中を殺してやりたいのが本音だ。質問と小テストで散々へこましてやって、少し気は晴れた。先に進んでいれば勝ち、という授業ではなく、とことん理解の深さを問われたから助かった。木田みたいに解析は国際修士まで進んでいたのもいたからな。岡野は別格。

 でも、いくら嫌な奴でも、数学などでわかりあえる人がいるのは嬉しい。ネットでは世界中の数学好きとも交流できそうだし──

「帰りの船は明日でしょ? 今日は東京見物にしない?」

「あ、じゃあ、ケーコ買いたいな」

 オヤジも一応OKしてくれた。壊されたけど、バックアップデータはうちの繭にある。

 ケーコを買えば、久しぶりに電話やメールで──忙しかったのはあるけど、ずっとなぜかやらなかった。岡野の家の繭からも。

 こんなにケーコなしで過ごしたのは初めてだ。急に、まるで丸一日飲まず食わずのようだ。

「よかったら、同じ脳直結型にする?」

「え? やだよあんな欠陥品。海で壊れたら死ぬだろ」

「改良されてるからもう大丈夫よ。それに、国費上級学校に合格してても海に戻る気なの?」

 今の言葉を、聞かなかったことにした。

「それにああなったら仲間も迷惑するし。手術にどれぐらい?」

「そうね、慣れるためのリハビリを入れて一週間かな──通常版なら」

「アホいうなよ、夏休み終わるって」

 金のことをきいたんだが。

 まあ、もちろん海のみんなは大喜びで飛びつくだろうな、最新型ケーコはみんな憧れだから。みんな、岡野のことをうらやましがってたし。

 でもオレは元々、あんまりケーコは好きじゃないんだ。特に船ではまず使わない。余計なものなしに、肌で海を感じるのが好きだから。

「ついでにディズニーランドにも、行かない? 一人で行っちゃ駄目って言われてるの」

 つややかできれいな色の唇が、妙に気になる。

「オレはいいのか?」

「いないより、ましでしょ」

 言葉に心臓が跳ね上がり、自分でも顔が真っ赤になっていないか怖くてトイレに逃げた。

 踊り出したいような、逃げ出したいようなどうしようもない気分。

 どうしたんだろう、オレは──彼女の顔をまともに見ると胸が苦しい。できたら繭に逃げ込んで宿題でもいいからやりたい、という気持ちがある。

 出かけてみると天気が悪い──でも、われながら嫌になるぐらいうきうきしている。

 雨はやんでいるが、かなり台風が近くて風が強い。雲が流れている──でも何かが違う。


 この駅は乗降の音までディズニーか、呆れたもんだ。

 ディズニーランドはよちよち歩きの頃一度連れてきてもらったけど、やっぱりすごい。

 夏休み終盤の人波も。

 そしてよく見ると、やっぱり本土の連中のファッションセンスって違うよ。

 岡野みたいにサングラスだけとかも結構見かける。最新、って感じだ。オレもそう見て欲しくて、サングラスを買おうとして、

「みっともないからよしなさい」

 と、岡野に止められた。

 講座でも、オレはやっぱり浮いてたよな──興味さえあれば、世界中からいろいろ吸収できるんだけど。

 海側にモノレールで行くと、もうここはメガフロートだな、と気づく。

 潮の香自体はかすかだが、海という感じがはっきりする。

 なんとなく、下が大地か海かはわかるんだろうか。メガフロートで生まれ育つと普通だけど──おかものにとっては、メガフロート自体が怖いみたいだ。

 空をふと見上げると、かなり強い風。台風がかすめたんだっけ。海は時化だな。

 彼女がアイスクリーム売り場にオレの手を引っぱり、それで全部ふっとんだ。楽しむか!


「わたし、あいつが嫌いなの」

「あいつ? 彼氏か?」

「バカ」

 ふといって、彼女はゲースターの台に上った。くっついて立ったまま下半身を固定され、彼女は魔法剣、オレは魔拳銃とホーリーナイフのコンビを選んだ。

 備えつけの接眼3Dハイビジョンディスプレイを固定すると、景色全体がおどろおどろしい魔界と化す。

 唐突な落下から反転急上昇、一気にループ。大地が歪み、あちこちから魔物が襲いかかり、視界が輝く雲と放電の嵐で覆われる。

 なんとかお互いを守るポジションを見つける。

「パパよ」

「ああ──」

 あいつ、って父親だったのか。

「嫌になるぐらい、あなたそっくりなのよ!」

 叫びながら、剣を大きく振り下ろしてドラゴンの首をはねとばす。すごくきれいな動きだ。

「外では英雄で、家ではいばってばかりでまるっきりだらしなくって、女心には鈍感で!」

「悪かったな」

 ハービーをつぎつぎに狙撃し、ナイフで翼蛇を斬った。

「なにかあったときだけ張り切って、ふだんはまるっきりバカで」

「おほめにあずかって光栄だな、でもそっちだって」

「何よ」

 あれ? あまり会ってないけど、岡野の親父さんってそんな感じだったっけ?

「ほらそっち!」

 くそ、息が合わない──葉波だったら!

「ハナのこと、思い出してるの?」

 びくっとしてミス、大ダメージを受ける。

「悪かったわね、いい相棒じゃなくて」

「ないものねだりしても何にもならないだろ。がんばるからそっちも」

 とにかく近くの巨大羽虫を次々に撃墜した。

「それに、わたしは──円卓も嫌い」

「オレもこの世界、好きじゃないよ。義務ばっかり多くて──でも、選べない」

「どういうこと?」

「人間の世界がいやでも、一人で生きていくのは無理なんだし、まとまって正しい方向に行かなきゃたくさん死んじまうんだから!」

 と、中ボスのケルベロスの目に銃弾をぶちこんだ。

「今だ、突け!」

 葉波とだったらこんなこと、言う必要はない。ほら、タイミングがずれた──かばってこっちがダメージを負う。ぎりぎりだな──

 まあエンディングのときには、そんなの忘れて楽しんだ。

「次、どこ行こうか?」

 彼女も楽しんでいるようだ。すごく可愛い笑顔にどぎまぎする。

「そろそろ昼にしようか」

 と、オレは自然に彼女の手を取った。心臓がばくばくし、でもふしぎと落ちつく。

 彼女も抵抗せず、そっと手を任せてくれた。

 温かく、すごく柔らかい手──葉波と違い、ロープと海水で固まっていない。そういえば、葉波と最後に手をつないだのはいつだっけ──

 嵐のとき以外、手が触れるたびに反応するのはいつからだろう。葉波の顔を見るたび、声を聞くたびに胸が苦しくなるのは。でも、岡野にも同じように──

「なに考えてるの?」

 岡野の、ちょっと怒った表情。

「罰、お昼おごりね。あ、ちょっと──ん」

 体内ケーコで誰かと話しているときの癖、ちょっと口の端がむずむず動く。誰と話してるんだ?

「こっちにしよ」

 と西部街に向かい、寂れた感じのケイジャン専門店に着いた。でもかなりの行列になっている。

 行列で待っていると、すごい美人がこっちに歩いてきた。

 スポーティな服装、筋肉質にすらっと伸びた脚と豊かな胸の谷間がまぶしい。濃く日焼けし、野性的な色香が太陽のように放射されている。

 この人の海でも、圧倒的な存在感で皆の目をひきつける。

「由! 久しぶり」

 え? その声──声さえ微妙に違う、違う──

「葉波ぃ?」

 声がひっくり返った。嘘だろ──一カ月も経ってないのに。

「どうしたの、全然運動もしてないでしょ。すっかりなまっちろくなっちゃって! 久しぶり、えまちゃん。でもネットでいつもいっしょだったしね」

 あれほど聞きたかった、明るい声。目がキラキラ輝いている。

 オレは何も言えなかった──やっと席が開いた。三人席? 葉波が来ることを、あ、体内ケーコで待ち合わせたのか。

 割とおいしい、鉄鍋そのままで出てくる料理を三人でつつきながら、なんだか言葉が出なかった。

「どうだったの?」

「オレ? ひたすら勉強。広かったろ?」

「うん──すごかった。大地もあんなに広いなんて。おじさんたち、すごいね、あんなに広く森や農地にしたんだね」

「ああ。チェンさん、元気だった?」

「うん、由によろしくって」

「どんな意味だか」

「そんな意味よ」

 すごくきれいになった──いや、前から美人だったんじゃないか? 目が砂漠の星みたいだし、キャップ型ケーコからこぼれる金髪は陽に輝く波しぶきのようだ。

『帰ってきたときは、二人とも──きっと違っているはずよ』

 百合姉の言葉をふと思い出す。変わったのか? ちくん、と胸が痛い。

「じゃ、行こうか」

 待ちきれないように葉波が立つ。

「ノンサッチ号?」

「当然!」

 昔の木造帆船が、いくつかディズニーによって復元されている。

 係留されたまま、内部でピーターパンのショーをやったり、海に出ることも、時には中国まで航行することもある。

 特にイギリス軍艦シリーズはとても人気があり、オレたち帆船を練習船にしている、海の人々にはたまらない。一度行ってみたかった。

 岡野といってもつまらないだろうが、葉波となら最高だ。

「それに、行きたいところがあるの。言いたいことも」

 と、葉波がオレの手を取った。固い手に安心する。向こうでどうだったか聞く必要はないな。大変だったんだろうけど頑張ってきたんだ。オレの手は少しなまってる、でも勉強はしっかりした。

「あ」

 岡野が小さく声を漏らす。

 開いている左手をどうするか──さっきまでのように、岡野と手をつなぐわけにもいかない。

 ちょっと動いた岡野の手を、葉波が取った。

「やっぱりいいな、柔らかくって」

「でも、彼はこっちの手が好きなんでしょ。──さよなら」

 岡野がいきなりそういってオレを濡れた目で見つめ、手を振り放して離れた。

「由、追いかけなきゃだめ! さもないと、二度と会えないわよ!」

 え? 強引に葉波がオレの手を引っ張り、人波にまぎれて四次元ミラーハウスに入った岡野を追った。

「おもてからはさんで」

「ともで」

 一言だけ交わし、ミラーハウスに入った。

 いきなり合わせ鏡に上下左右をはさまれ、平衡感覚を失う──数秒後照明が消え、気がついたら目の前に長い通路ができている。

「え」

 う、気持ち悪くなってきた。それで四次元か、ひどいな。

 そうなると──そうだ──

 ほとんど目を閉じたまま手探りでそろそろ歩く──変形でできた通路の向こうに、岡野がいた。

「あ」

「よ」

 次の瞬間、また闇。

 逃げた彼女を追う。

 ずるいな、ひょっとしてあの体内ケーコ、この迷路の地図をハッキングしてるんじゃないか?

 なら、唯一ケーコを持っていないオレは認識されていないはず。

 なんとなく探していると行き止まりに、岡野がいた。

 オレの横を走りぬけようとしたのを、腕を伸ばしてつかまえた。

 勢いで倒れこみ、唇が重なる。

「あ」

 彼女の顔がゆがむ。

「どうして! どうして、どうして……わたしはもう──ううん、生まれつき──わたしが誰か知っても、追ってくれるの? どうして──本当に知らないの?」

 泣き崩れる彼女を思わず抱きしめ、キスで口をふさいだ。

 しばらくキスが続いて──正直、ずっとこうしていたかったが、ふと気がつくと出口へのほとんど一本道ができていた。そして、目の前の鏡に上下反転した葉波の姿。

 ばっ、と後ろの鏡を体で割りそうな勢いで彼女が離れた。

「行こうか」

 声をかけて手を伸ばすと、手は拒否して、でも並んでそのまま出口に向かった。

「お待たせ」

 出口での葉波は、なんともいえない泣きそうな笑顔を抑えていた。

 なにか言えよ──せめて。いつもみたく、帆桁端からぶらんこさせろよ。

「待ってたよ」

 そのまま、三人黙って──少し、手を伸ばしても触れない程度に距離を置いて岸に、ノンサッチ号に向かった。

 着いてみると、あまりに高くマストがそびえている。

「あんなところに人が登ってたんだ」

「学校船にだって、あれぐらいのマストはあるよ」

「ああ、あのとき──すごかったな、なんで怖くないのかな」

 怖いさ、もちろん! でもオレがやらなかったら船が沈み、みんな死ぬんだ。必死で我慢してるんだ──葉波は昔の、“泣き虫ゆーぼー”も知ってるけど──

 さりげなく見回りながら索具などを確認する。完全復元は本当だな、いつでも人数がそろえば出港できる。

「船底はどうかな」

「たまに航るからね、ちゃんとカキ殻は取ってるはずよ」

「カキ?」

「船の底にはフジツボとかいろいろつくのよ。掃除しないと、要するに摩擦がひどくてスピードが落ちるし、フナクイムシが木材を食い荒らして壊れちゃうこともあるの」

「なんだ」

「どんなだと思ったんだ?」

「教えない」

 普通に戻った、かな?

 タラップは舷側ではなく、鎖索孔ホーズホールにつながっている。

「水兵扱いね」

「出口は舷門だよ、出世して出るって事かな」

「ええと、ちょっと」

 岡野が体内ケーコをチェックしているようだ。

「まず最下層甲板オーロップから回ろうか。春おじさんがコンスティチューション号を見たときって」

「そうそう、大砲に体を入れてみたんだって?」

「それでバーン、って誰かが音を出して、びっくりして」

 岡野を外して話しているのが、ちょっと悪い気もするけど──ここで話すには、どうしても海の言葉になる。

「外で待つか?」

「だめよ、えまちゃんも来て」

 また、二人とも寂しそうな目で互いを見る。

「本当はすごいにおいなんだよな、何百人も全く体を洗わない男が押しこめられてるから」

「いくら完全再現といっても、そこまでは無理よね」

「この音、何?」

 ふと岡野が、小柄な彼女さえ頭をぶつけそうに低い天井を見上げた。

「ああ、索具──縄に風が当たって鳴る音さ」

「いい音してるわね、ちゃんと麻で作ってるんだ」

 葉波と二人、うっとりと耳を澄ます。

「そうそう、オレたちの新素材ロープじゃこんな音出ないよ」

「この大砲もちゃんと再現してるね」

「すごいよな、こんなのを人力で動かしてたなんて。うわ重い」

 ふ、と一歩下がっていた岡野に、葉波が手を貸して階段を上らせた。

 かなり急で少し揺れる、なんだか怖い。おかものには危険か。

「ごめんね」葉波が小声で、「でも、あたしたちは海で生まれたの」

「わかってるわよ、わたしが入る余地なんてないって。みんなにも言われたし」

「違う、わかってほしいの、少しでも」

 何の話だ? 女の子同士の話ってわからん。

 艦尾楼プープに着いたとき、ふと葉波が海を見て索具の奏でる音に耳を澄ませ、ふっと言った。

「ねえ由。もし、今この艦が転覆したら、どっちを助ける?」

 え? きれいな目が、まっすぐにオレを貫く。足が震える。

「む──両方助けるよ」

「できるの?」

 厳しい目。本気の目だ。

 できるだろうか? 口だけじゃなくて?

 あの夢を思い出す──

「絶対二人とも助ける。オレは死んでも」

「ばかぁっ!」

 突然岡野が怒鳴った。

「それで助けられても、嬉しくもなんともないから。絶対そんなことしないで」

 オレの袖をつかみ、顔がくっつきそうなぐらいに寄る。あまりの形相にぞっとする。

 どうしてそんなに怒るんだ?

「あ……知らないの、パパが──」

 え? みるみる、涙の粒がふくらんでいく。

「はっきりしてよ、知ってるの? 知らないの? こんなのひどいわ!」

 血を吐くような声、岡野が泣き出した。周りの普通の客が、びっくりしたようにこっちを見る。

「知らないわ」

 岡野が葉波を、信じられないような目で見た。

「なんで、脳がつながってもいない他人のこと? 言っちゃったのよ、この夏、あなたが彼を追いかけて砂漠に行くつもりだった、って。そのお返しに、もう言われてるとばかり思って──」

「あたしは言ってない、それにあたしたちは、おたがい嫌っていうほどわかってるから。由がえま──恵美えみを好きだって事も」

 ガヤガヤ、バンバン──遊園地の効果音、群衆の音がまるで場違いに響く。そして、かすかな潮風の香り。

「葉波の辞書に報復はない、それが、最後の清水せいすいでも」

清水せいすい?」

「真水のことよ」

 オレが一番知っているんだ、報復しないことが、最悪の報復になるんだ! 心があるのならば──それを思い出してしまって、胸が裂けそうなほど苦しくなり、オレは甲板を強く踏みつけずにいられなかった。

「本当にわかってないの? それともずっとからかってたの? わたしは──円卓騎士団、岡村晴の娘、岡村恵美えみよ」

 整った顔が涙に崩れる。岡野──岡村恵美の言葉に、オレの時間は止まった。


 円卓騎士団事件──オレにとっては本や映像の中の歴史だ。

 単純に言えば世界的な恐慌、貧困地域の社会崩壊、環境災害が文明崩壊に至るのでは、という危機感で、欧米富裕層の選民・白人至上主義秘密結社が人工伝染病などで人類の大多数を殺そうとしたのだ。まず人種……白人以外全員。ワクチンを投与されるエリート層以外の白人は、遺伝子などで選別されて半分程度に。

 地球は百億に贅沢な暮らしをさせるには小さすぎる、なら選ばれた人種が生き残ればいい、ノアの箱舟と同じ──聖書のヨハネ黙示録などを真に受け、黙示録騎士団と自称したという。

 その計画は極秘裏に、莫大な資金と強大な権力によって進められた。

 だが、インターネットにできた気ままな集まりがそれに気づいた。世界中の、あまりに多様で有能な人たちが何となく集まってしまった。地球と人類、人道、あるいは真の神、そして真実に忠誠を誓った人たちが。

 何篇もいろいろなジャンルのよくある冒険小説が集まったように、ごくわずかなメンバーが圧倒的な敵と戦った。

 暗殺、謀略、裏切り、口封じ、引退した老スパイの暗躍、サイバースペースの戦い、怪盗の脱獄劇、事故と見せた殺人を解き明かす名探偵、カジノでの対決、元特殊部隊員と暗殺部隊の銃撃戦、最新鋭機と旧式機の空中戦、嵐の中海賊まがいの新鋭戦艦斬りこみ奪取、拳法の達人による人質奪回──

 ただ、局面を打開したのは誰も想像もしないこと、今は聖杯探求と呼ばれている行動だった。円卓の騎士団と名乗った彼らが、黙示録騎士団研究所のコンピュータにアクセスしたのだ。

 今の、基礎準備校から最低限遺伝子を学んでおり、また今集合論の特別講座をやったばかりのオレにはわかる、人種生物兵器を作るのは不可能だ。人種を集合論的に定義しようとするとどうしようもなくなる。そして彼らは教養あるエリートであり、同時に人種とゆがんだ信仰にとりつかれていた。

 その矛盾で狂って──狂気じみて超高性能な複合コンピュータが作られた。

 地球全体に広がる、あらゆるコンピュータがつながるインターネットも、コンピュータ自体の発達、GSBNと都市圏の光ファイバーなど回線速度の向上で、それ自体が超巨大な超並列コンピュータ、データベースになっていた。

 そして円卓騎士団の別働隊だった天才トリオ、ギャラハッド・パージヴァル・ポーズと呼ばれる三人が中心となって、半ば事故でめちゃくちゃ危険で大胆な脳=コンピュータ直接接続を作り出し、彼ら自身が実験台になった。

 その三者がつながったとき、それが起きるのは必然だった──が、そのことは本人含め誰も知らなかった。

 それ──人格としてはアーサー王、システムは聖杯と呼ばれる──は人間を圧倒的にしのぐ知能を持ってしまったのだ──その日のうちに黙示録計画の証拠を暴き、研究所を完全にハッキングしながら、ついでにリーマン予想を証明するほどに。

 聖杯は人類を滅ぼすのではなく、選別するのでもなく、全員を生かす道を選んだ。人類にとっては実に幸運なことに。

 まあ、幸運かどうかは、それを知っている人に言わせるとわからないそうだ。

 黙示録側の研究者は伝染病の基本的な性格──感染性、潜伏期、発症率、死亡率を遺伝子工学の粋をつくして調整した。

 感染性は人類全員が確実に感染するほど高く、複数のルートで。

 潜伏期はできるだけ長く。潜伏期が短く致死率が高すぎると保菌者ごと病原体が全滅し、人類全体には広がらない。

 そして発症率──遺伝子をまず人種、そして知能や性格などでマーキングし、条件を満たす者は確実に発症、満たさない者やワクチンを投与された者は絶対に発症しないように。

 もちろん死亡率は、発症したら百パーセント。

 病原体は世界中の、おおよそ近代文明と接触のある人すべてに蔓延していた。

 だからこそ、アーサー王が変更していた病は、ほとんど全人類がかわるがわる発症した。数日の間体がうまく動かなくなり、激しい心身の苦痛──ある種の神秘体験に至るほど。自力では数日も生きられない重病人の介護はなんとかできるけど、殺し合いはとてもできないほど。ついでに、その病はエイズとマラリアの病原体も殺し尽くし、根絶した。

 同時におおよそコンピュータにつながるすべては止まっていた──中国やインドなど非白人核保有国の核を封じようとした軍事作戦も停止させられた。逆に非白人核保有国も、怒り狂いながら報復攻撃に出ることはできなかった。ほとんどの機械が動かなかった。

 その間、アーサー王によって世界中のコンピュータやテレビ、ラジオ、ロボットなどがハッキングされ、世界中の人に黙示録騎士団の陰謀を含め、あらゆる情報を開示した。自分の正体も明かし神を名乗ることなく、さまざまな面を持つ真実をありのままに。

 政治的な真実だけでなく、人間の本質まで。誰もがどれだけ、教育や宗教、文化なども含む邪悪に支配されているか──それを破って自分の魂を取り戻し、自由になる道も。

 それが人間との発想の違いだった──人間だったら混乱を恐れ、社会を守るために肝心な情報は隠す。または神を名乗り、権威を持って命令する。だがアーサー王は無造作に、すべてを白日の下にさらした。また人間の革命者は、反革命を恐れて恐怖政治を行う。だがアーサー王はそうしなかった。

 そして感染を予防され、唯一自由に動けた円卓騎士団の活躍で世界は再建に向かう。

 引き続き膨大な、さまざまな面を持つ真実が、世界の隅々まで伝えられた。

 世界全体が極度の貧困、無知と全面的に闘った。どんな貧しく偏狭な地域も円卓による技術革新が産んだ桁外れの生産力と莫大な余剰労働力を活かし、まず充分な食糧などが与えられ、治安を回復させられて自給自足と緑化が進められた。そして円卓の意志として情報に触れられない者が出ないよう、手回しや太陽電池で動く、GSBNやラジオにつながる最低限の端末が全人類に配られた。その端末を通じ、円卓が主に常駐ソクラテスを通じて、圧制下にあった一人一人の心も癒していった。

 また人工翻訳も可能になり、ニュインが急速に普及した。

 制度上も国家主権が制限され、国際連合やいくつかの世界組織が改革・民主化されて権限が拡大されるなど、世界全体が大きく変わった。配給・生存公役制度もその一例だ。

 事実上の世界革命。あまりにも混乱が大きすぎてしばらく流血はなかった。

 ただ、間もなく第二次事件が起きた。糾弾され、多くの特権を奪われた白人富裕層によるクーデター、真実を受け入れられず憎悪に狂った狂信者の暴動、コロンブス以来の莫大な不公平が抹殺に至りかけたことに怒り狂う非白人、貧民の暴力などが世界的に多発した。

 だがそれも、アーサー王に率いられた円卓騎士団、そして世界の真実を知り、自分が生きるためには協力するほかないと悟った世界の圧倒多数が鎮圧した。

 こちらはそれなりの犠牲があった。だがもちろん黙示録計画が成功していても、中途半端に終わってひたすらな殺し合いが起きていても、貧者による世界共産主義革命でも、核戦争でも、生物界および人間社会の破局があった『何もしなかった未来』でも比較できないほど多く、人類の大半が犠牲になったはずだ。『天国と地獄』は破局はないかもしれないけど、間違っても選びたくない。

 そして世界がはっきりした目的を与えられ、安定した後、あまりにも大きな名声を持ち、多くの敵に狙われる円卓騎士団は皆名を変え、姿を隠した──アーサー王も人間に関心を失ったかのように大抵沈黙している。

 ただし信じない者もいるが存在しているし、今も自分自身を改良、進化している。

 市場・競争を温存し、進歩を阻害する要因を人間たちに理解させたことで、また円卓が出す革新的な知恵で技術開発も急速に進んでいる──特に貧しい者のための技術も。

 そして人類の活動の相当部分を利用し、自分のコピーを作らせている。もう月にも、たとえ地球が滅んでもなんとかなるような拠点を作らせているそうだ。

 それは基本的に人類には干渉しないが、人類が大きな過ちをしてそれ自体の存続を脅かすようなこと、大量虐殺、人権侵害、大絶滅などの定められた悪があれば行動する、と警告している。それを殺すにはすべてのコンピュータを壊すか原始的なレベルに落とすほかないが、それはもう不可能だ。それ自身が自己進化で生み出した革命的なコンピュータが、あまりにも急速に普及してしまっている。

 そして日常の生産や介護など様々な仕事も、それが支配するロボットがかなりの部分をやってくれている。もちろん軍事はそれなしでは何もできない。

 中でもすごいとオヤジが言ってたのが、サハラやオーストラリアなど砂漠地帯での、超小型機械と自動工場と海水灌漑農場を組み合わせ、それがアシストする巨大な太陽熱風力発電設備だ。多くの労働力を吸収しつつ、まるでパンにカビが広がるように勝手に広がっていくから、あっというまにものすごいエネルギー設備ができてしまったのだ。

 オレたちの住むメガフロートも、結局はナノテクと自動工場の力がなければ不可能だったろう。

 今の人類圏は人類とそれの共生体でもあるのだ。

 もちろん、今も人々に混じって人類文明を裏から支えている円卓騎士団の権威と権限は計り知れない──民主主義の皮をかぶったプラトンの哲人国家だ、とかとんでもない秘密警察国家だ、とかいう文句を聞くことがあるほどだが、その文句も結局は円卓があくまで自由を大切にしてくれている、それどころか生きているから言えるんだ。

 そして一部はいまだにその体制を嫌い、円卓騎士団やその家族の暗殺などテロが──


「ちょっと待て、お前の両親」

「二人とも、あなたをだますため従卒スクワイヤに頼んだのよ」

 従卒は円卓騎士団の下級職員だ。

 ふと、葉波がこっちに気づいた。

「ちょっと、えまちゃん、どういうこと?」

「いっしょにいたくて!」岡野──岡村が叫んだ。「事情で寮から追いだされた、ってことにして嘘のマンション、嘘の家族で──いっしょに暮らしてるの」

 葉波の沈黙は、暴力や怒鳴り声より厳しい。特に船長としての沈黙は誰もが恐れる。

「わかってる……わかってる、ずるいって──」

「あ、野村や木田も──」

「小さい頃からわたしを守ってる従卒。てっきりあなたもだと思ってたのよ、助けてくれたから」

「あ──」

「台風の日に海に落ちたのは、無音銃のゴム弾。従卒のくせに人工呼吸なんて、って──いやだったの、どこに行っても狙われて、守られて、見られて、自分のない暮らしが。パパが造ったメガフロートも嫌いだったけど、一度見ておけって言われて行ってみた、でも追って来た。寮に入る予定も、船の日程まで変えたのに」表情が悲痛にゆがむ。「何回助けてくれたか」

「ジョンソンさん!」

 気がついた。

「そう、円卓騎士の一人でパパの親友」

「あの時も──」

 キスの感触が今更よみがえり、頬がかっと熱くなる。

「港でも公園でも、後ろで起きてる血なまぐさい戦いから目をそらすために──強引にキスしたの」

 葉波を見つめる目から涙があふれ、手のハンカチをくしゃくしゃにしている。

「こっちでも、さっきも?」

「あれは、違う」

 それって──

「葉波は、知ってたのか?」

 葉波も静かに、微笑みながら泣いていた。

「うん──体内ケーコが故障したあと問い詰めたの。なにも隠しごとなし、って約束して。さんざん破ってくれたみたいだけど、まあそれは──お互いさまよね」

「え?」

 葉波の表情に、ふと──恐ろしい確信が忍び寄り、強烈な空腹感と渇き、暑さと衰弱と恐怖を思い出した。

「じゃあ、これからはえみ、って呼べばいいのか? それとも岡村?」

「えみで、いいわよ」

「由、それどういう意味かわかってる?」

 葉波が厳しく問い詰める。

「いつまで目をそらしてるの? 海の男は、船では現実だけを見なきゃダメでしょ。二人とも由が好きなの。どっちか選んでよ─恵美を名前で呼ぶ、ってことは、彼女を選ぶの?」

 え──そうだ、葉波が、ゴビ砂漠に親父を手伝いに行くオレについてくる、って時点で──オレのことが好きだからに決まってる。

 う、うそだ──そんな──確かに葉波は好きだ、でも近すぎる──好きといわれても、頭がパニックになる。

 それに岡野──岡村恵美──いや──そんな──

 正直、今は恋をするのは面倒くさい。古文も音楽も苦手だから。今は愛の告白には、和歌などを作るか、または普通の歌か曲を作るのが普通なのだ──

 漢詩は読むのは好きだけど、恋愛向きじゃないみたいだし。


「彼女と、あっちに行ってたら?」

 そう、葉波がオレたちの手を引いて船から降ろし、ほとんど二人きりで魔界を走る、魔法のじゅうたんに乗せた。

 何も言わず、しがみついてくる──あまりに可愛い。

「由」

 消え入りそうな声。

「わたしも、由って呼んでもいい? それとも、そう呼んでいいのはハナだけ?」

「好きに呼べよ」

 どうしていいかわからない。息ができない。あまりに彼女が可愛くて、あまりに風が熱くて。

 その上品な不思議なにおい、白い肌──どうしたんだ、心臓は。

「由」

「え──み?」

「由──ゆう」

 と、胸に顔をもたせかけてきた。

「わたしはなに? 円卓騎士団の娘? 円卓の端末? なんなのよ!」

 オレは圧倒されていた。その中で思い出したのは、彼女が転校してきた時の同級生の反応だった。

「一人の──女の子だろうが。クラスの男子がぎゃあぎゃあ騒ぐような」

「じゃあ、抱いてよ、あのときみたいに」

 え?

「お、おい──」

「可愛い、抱きたい女の子、っていうほうが円卓の端末よりずっとましよ!」

「円卓の──端末?」

「わたしの体内ケーコは、一般人がつけてるのとは違うの。わたしは──遺伝子レベルでいじられ、胎児の段階で直接接続されてるのよ。こうして見てるものも、全部あれに送られてる」

「で、でも普通の女の子だろ、ほら」

 と、前のようにわざと、柔らかい胸をつかんだ。拒まない、オレの手をぐっと、より強く胸に押しつける。頭が真っ白になる。

「今の心拍の上昇も、血の中で増えるホルモンも、このときめきも、全部リアルタイムで二進法の情報になってあれに送られてるのよ」

「じゃあ、外せばいいじゃないか! 全部外して、どこか遠くに二人で」

 そう言ってしまって、初めて気がついた──どこか遠く、海の向こうには──飢えと渇き、死しかなかった。

「いつか──あなたも巻き込んでしまう──そして、あなたはパパみたいに、英雄になろうとするかもしれない」

「パパみたいに?──あ」

「思い出したようね?」

 円卓騎士団の話の一つ。優秀な船長で数々の貢献をし、特に海洋開発の基盤を築いた岡村晴氏は、第二次事件の動乱で妻子をかばって致命傷を負い、生命維持装置につながれて円卓に脳だけで参加している──

「もうあんな思いだけはしたくないの、だから──だいっきらい、でも大好きなの」

 そこで洞窟の向こうに光が見え、出口に着いた。

「じゃ、行こうか──由、できたら──ううん、ついてくるな、っていってもついてくるよね」葉波は寂しげに言うと、大通りを外れて歩き出した。オレにしがみつくように。

「由もバカよ、女の子の前であんなところ見せて」

「え?」

「嵐の海で! あんなすごい操船を見て、惚れない女の子なんていると思う?」

 なんて答えていいか、わからなかった。

「タイミングが悪かったのかな、もうちょっと早く、どっちかが好きって言ってれば」

 それにも、なぜか答えられなかった。あんなに葉波のことが好きだったはずじゃ……

 このディズニーランドって、大通りの人波を外れると意外と木々が多く、寂しい。

 海からの風がとても熱い。

 寂しい? なんとなく、ぞわっとする──あえて無視してきた──

 葉波が、静かに振り返る。

「恵美──どうして、こんな誰もいないところまでついてきたの?」

 岡野──岡村恵美が、ふっと──同情するような、もっと悲しいような目で葉波を見た。

「由、お願い──止めてよ! バカなことはやめろ、って言ってよ。また同じミスをするの? それってバカよ! どうしようもないわ」

 葉波の、あまりに悲痛な声。オレも泣きたくなってきた──でも、こうさせているのは、オレなのか?

「ついていくさ、海の向こうだって。何度でも。信じてるから」

 葉波が口を覆い、その目から涙が流れる。

「最低だな、オレ──二人とも、泣かせちまった」

「それだけじゃない、由──あの子を守って、って言ったでしょ? わかってないの、おかで勉強しすぎて波も読めなくなったの? ここは海の上よ、海は時化しけよ。前線が来てるのよ? この風がわからないの?」

 そういわれると、強烈な危機感が襲ってくる。そう──いつもの、嵐の感覚だ。

「あれは、どっちのせいでもなかった」

 オレは突然、口にしてしまった──同時に、船を沈める波がそそりたつのを確信する。

「どっちも壊れてたのよ」

 葉波は嫉妬で──あの時は、春おじさんの結婚が決まって。オレは今思えばくだらないが、とにかく出て行きたくて。

 また嫉妬しているのか──嫉妬? なんとなく、それを受け止めたくない。オレは和歌が下手だし──

 あの変な言動は、奴らと──反円卓テロリストと連絡していたのか?

「オレは葉波が寝てる間に、最後の清水せいすいを飲んでしまった」

「まじめに受け取ってなかったのね、飛び出したときもだけど。普通思わないわよ、ちょっと怒られただけであんなにすねて、海図にない無人島に行こうっていわれて真に受けるなんて。本当に備品を全部捨てるなんて。でもあたしも耐えられなくて、海水を飲もうとして、止めた由の首を絞めた」

 お互い、全部知ってる──自分と相手の、一番嫌な部分も。そして美しい部分も。

「でも、そこからはお前も雄々しく飢え渇き、死と戦った」

 まっすぐ目を見る。唇がひび割れ、舌があごにはりつく痛みを思い出す。

「由だって。最後の最後まで鉄でできてるようだった──生命の危険がせまったら、由は最高よ。あたしは、最後の最後で耐えられなくなる──一人では。由が支えてくれなきゃダメなの」

「オレはお前を信じてる。馬鹿なことをすることもあるが、立ち直ったら一番信じられる。オレだってお前が必要だ」

「だから、わかってるのよ! わたしみたいな化物が、あなたたちの間に入りこめるわけがないって──」

 岡野が泣き叫んだ。

「ううん、ちがう──もう遅いの」

 葉波の言葉と同時に、突然数人の、黒服にケーコのバイザーを下ろした大人が襲ってきた。

 オレは振り向き、叫ぼうとした拍子に、何人かが同時に組みついて──瞬時に全身に言葉にならない衝撃が走る。

「ご苦労だったな、情報どおりだ」

「どうも」

 葉波がその一人と──両肩を、左右からつかまれたまま──話す。

 唐突に──容赦なく、その表情がゆがみ、大男の腕に崩れて気絶し、頭のケーコが叩き落される。

 オレは悲鳴を上げようとしたが、声が出ない。恵美も倒れ、大型園内カートに担ぎこまれてようとしている。

「早く!」

「こいつは?」

「放っておけ、余分な死人は邪魔なだけだ」

 彼らが走り去ってすぐ、強い風が海から吹いてくる。

 反円卓テロリストか?

 風が心を集中させてくれる──よろめきながら立ち上がり、見回す。走り去る車、まず追わなければ──知らせないと、ケーコ──岡野のキャップ+バイザー型ケーコと、携帯電話時代から受け継がれた有線操作スティックが転がっている。

 内側に葉波の最後の一本、三日月のように優雅な折りたたみナイフもちゃんと隠されている。ごく小さく薄く軽い、超セラミックとハイパーカーボン複合材の波刃セレーション、カーボングリップ。

 一つ向こうの道にパレード!

 走りながらケーコをつけ、カボチャの馬車から鎌形の波刃にものをいわせて馬を切り離し、飛び乗った。回りの叫びなど気にしない。

 オヤジの植林を手伝いながら、モンゴル帝国の血を引く遊牧民ともつきあってきたんだ。裸馬だって何度も乗ってる。

 激しく抵抗し、足掻く。元競走馬か? おとなしく見えるが、こいつかなり強いぞ。

「おおっ!」

 引き綱を手綱替わりにつかんで一声かけ、腹を膝で締めつけた。

 馬が人をかきわけ、凄まじい勢いで飛び出す。

 道から外れて二人が乗せられた車を追う。すぐに馬とも息が通い、落ち着くと片手を離して追いながら、ジョンソンさんのナンバーに連絡し、メールを口述、送信した。葉波と互いのパスワードは知っているし、何度もケーコを貸し借りしているから不自由はない。

 銃撃があり、馬が驚いたが首筋を叩き、鎮める。オレの闘志が伝わったか、馬はもっと激しく走り出した。オレにも馬の闘志が流れ込んで一気に燃え上がる。

 道に出た瞬間、馬に驚いた車が自動的に止まる。後続の車も事故防止装置が働いたか、一斉に止まって逃げようとする車の侵入路をふさいだ。

 車は強引に園内に引き返した。追いつけ! 柵を飛び越えた。

 園内カートの暴走に、客がパニックになる。そして馬。

 車は小回りがきかないが、馬は階段も上れるし、いけっ! なんでも飛び越えられる。

 かなりきつい生垣を──よし! 越え、海の方向に追い詰める。

 やっと見える距離、向こうで小型船に!

 馬のわき腹を強く締めた──間に合え、くそ!

「葉波! 恵美!」

 叫びもむなしく、船は出てしまった──

「くそ」

 泡汗を吹く馬を降りて少しでも高いところに上がり、船がないか必死で見回し、同時に現在見ている画像を送信し──

 そこを、肩を抱きとめてくれた大きな手。

「ジョンソンさん?!」

「てめえ……」

 全高4mの重強力鎧パワードアーマーから、木田の声がした。その隣の軽強力鎧、野村がオレの胸倉を、機械の強大な腕で締め上げる。

「よくも」

「よせ! よく知らせてくれた。途中まで追ってくれたおかげで、陸路を封じることもできた。十分だ──いいか」と、ジョンソンさんが木田と野村に、「彼は何度も岡村さんを、正体も知らずに助けている。ゴム弾で海に落とされた彼女を無謀にも救けたのを皮切りに、ネットを通じて憎悪をあおられた、無能な実習生が無茶をして沈みかけた船を救った」

「彼はここに来る船でも、まず船客に化けた刺客を見分け、船の横腹の爆弾も見つけた。嵐の中別の刺客が仕掛けた破壊工作や放火、別の船からの攻撃からも船を救い、恵美さんを救ったのよ」神田さんもか。

「彼女が本土に降りてすぐの電車でも、別の駅で降りなかったら次の乗換駅で、人波にまぎれて毒を注射されていた。これ以上何をしろというんだ?」野村たちがぐっと詰まり、オレを振り払うように投げ落とした。

「長谷川由、もう十分だ……二人を助けたいのか?」

 着膨れに見える軽強力鎧のジョンソンさんがヘルメットを外し、厳しくオレを見た。船での目だ。

「もちろん!」

「なら、ここから一歩も動くな。命令だ」

 心臓が凍りつく。

「絶対に来るな。お前は優れた船員だが、プロの人質救出部隊兵士じゃない。強力鎧も銃も高機能弾頭軽迫撃砲スマートモーターも半機械化蜂も聖槍も使えない、使えたとしても我々のチームに馴染んでもいないのでは、足手まといにしかならない。二人が助かる確率を下げるだけだ。違うか、長谷川由。現実から目をそらすな!」

 う──がああああっ! その通りだ、オレがついていったら、邪魔なだけだ──

「必ず二人とも助ける。私達を信じて、弾幕や火の海に飛び込むよりも強い、真の勇気を見せてくれ」

 あああああああああっ! ちくしょうちくしょう!

「はい」

「信じるぞ? 縛ったりしないぞ?」

 おかものに縛られても抜けられるが、ジョンソンさんに縛られたら抜けられまい。

「は……い」

「よし、必ず二人とも助ける」

 さまざまな、軽量版から重装備までさまざまな強力鎧がぱっと動き、高速船や軽潜水艦、垂直離着陸機に飛び乗った。

 オレは悔しくて悔しくて、嵐のような焦燥感をじっと押さえ、砕けよとばかりに手を握り締めていた。

 職員──騎士団関係か、何も言わず馬を引き取ったのもろくに見ていない。


 すぐそばに見えるノンサッチ号の、巨大なマストを見上げる──

 段索を伝ってマストを駆け上がり、トップで敵と対決する。陰険なおっさんと妖艶な美女が、陰謀を丁寧に説明してくれる。

「正義? でも、彼らは『ライオンと牛に一つの法律を当てはめるのは、暴政だ』はちゃんと理解してただろ? 本当に最低限しか個々の共同体には要求しなかったはずだ」

「全員の最低生存保障、最低限の読み書きソロバンに科学、再生不能資源の浪費や環境汚染は重税、情報公開と自由の保障、奴隷的拘束禁止──十分暴政だ! 誰もが神と我々にひれ伏していればいいんだ、選民だけの豊かな世界が明白な天命マニフェスト・ディスティニィだ!」

「わたしだって円卓は嫌いよ──でも、あなたたちはもっと我慢できない」

 恵美の、自嘲を混ぜた声。

 ふとなんとなく、葉波が何をしたか、オレに何を求めているかわかった。

 何の合図もなくオレが帆脚索を握って飛び出すと同時に、葉波が縛られていたはずの手を抜いて岡野を帆桁から突き落とす。

 余計なロープが切れ飛ぶと、しっかり二重もやい結びで確保された岡野が索を伝ってこっちに流れる。

 オレは横静索シュラウドへ飛び移りながら帆を引き上げてそれをクッションにし、岡野を受け止める。

 葉波自身がどう動いたのかは読めている。

「目、閉じてろ」

 オレは恵美を抱きかかえたまま、一気に帆桁端に飛び移り、帆桁──高さ二十メートルの平均台を駆けてミズンマストにしがみついた。

 やはりメン・トップマストの上部が崩壊する──そして倒れてきた帆桁から、葉波がオレの腕に、文字通り空を飛んできた。すごいショックに肩が抜けそうになる。

「ど、どうして──」

 岡野が呆れた目で見る。

「黙って、歯を食いしばれ、舌かむぞ」

 葉波が別のロープを使って三人を縛り合わせ、後支索を滑り降りた。二人とも手が真っ赤な鉄をつかんだように熱くなり、皮がむける──何回かやらかしたけど、これって痛いんだ。

「ば、ばか──無茶しやがって!」

 ジョンソンさんにひっぱたかれ、乱暴に抱きしめられて頭をなでられる。

 野村と木田が、信じられないという目でオレたちを見ていた。


 白昼夢から覚めると、わめきちらしたくなる。

 船では空想に浸るな! 現実を見ろ──現実、オレは何もできない。ここを一歩も動いてはならない。

 ちぃっくしょう!

 この船を動かせれば──そして船、馬、人魚など、オレが使える様々なもので敵を追って、二人を助け出す──

 くそ、オレは何がしたいんだ? いいところを見せたいだけか──誰に?

 どっちに?

 違う、二人に生きていて欲しいだけだ! なんとしても! なんとしてもだ!

 一秒一秒、一分一分が静かに過ぎていく。からからに乾いた喉、汗がじっとりにじむ手。

 客たちは、何事もなかったように楽しんでいる。風が強まり、視界が揺れる。外海がどんなだか、ついこのあいだ通った海域を思い浮かべる。船酔いさえ感じる。

 海も、何事もないかのように波を打ち寄せ、しぶく。繋留された船が特有の揺れ方で揺れる。

 こんなの、あの時以来だ──美香が産まれる前、オヤジとオフクロが飛行機で台風に巻き込まれ、消息を絶ったことを思い出す。

 百合姉と葉波がずっと抱きしめてくれていたが、それでも気が狂いそうだった。

 突然、稲妻? 空は薄曇だが雷はありえない。

 円卓騎士団の聖槍! 宇宙空間の鏡からの、膨大な日光を自在に制御、鉄をも蒸発させる最終兵器。

 そして、また狂おしいほど時間が経つ。二人が、どちらかが死んだのではないか──彼らは本当に葉波も助けてくれるだろうか──うあああああっ! なんとかしてくれ! 飛び出したい──ああ。

 一隻の小型──オレにはわかる、漁船に見せているが軍用だ──船がこっちにむかってきた。

 くそ、二人は──船がいやになるほどのろく感じる──


「こっちだ!」

 ジョンソンさんの声。

 岸壁の階段から、びしょぬれの葉波と──恵美。

「葉波、恵美!」

 二人を抱きしめる。

「よかった──二人とも──」

 冷たく濡れた体。伝わってくる震え。

「うん、無事」

「ごめんなさい──」

 葉波が泣きじゃくる。

「いいんだ。守ってくれたんだろ?」

「相原葉波さんはある種の二重スパイだった。一時は嫉妬」ごほん、とジョンソンさんが咳をする。「をあおられて岡村さんを売ろうとしたが、私たちにもそのことを通報し、危険を省みず円卓に協力してくれた。おかげでかなり大きな反円卓組織を壊滅できた、当分岡村さんも無事だろう」

 ジョンソンさんが少し遠慮しながら話してくれる。

「この色男!」

 と、神田さんがオレの背中を叩いた。

「一度目が覚めたら、コイツは最高です」

 と、ぎゅっと葉波を抱きしめる。

「それに、どんなに助けてくれたか。最高のハッカーだし」

 恵美がオレにぎゅっと抱きついた。激しく抱き返す。

「助けてくれたのは由よ」

 葉波が、一本のナイフを取り出した。

 あ、オレの最後の一本──あの時恵美にやった──

「いきなり『あのナイフどこにしまってるの?』って、びっくりしたわ」

「そりゃ見てたもん、由が渡すとこ。大事にしてるのもお見通し」

 恵美が真っ赤になり、震えが止まった。

「それで、それ一本でロープを切って抜けて」

「やっぱりおかものよね、まともな縛り方も知らないんだから! 端止めもしてないし、キンクもあったし、あれじゃナイフがなくたって」

 ちゃんと縛らなかったことを怒っているようだ。

「ナイフ一本とロープひと巻きで、あれだけのことができるなんて。ネジまで閉めたり緩めたり、太い針金曲げたり」

「当たり前でしょ」

 柄にある、軽量化を兼ねた細長い穴は蝶ネジやシャックルを回すのに使う、海での必需品だ。

 二人がオレの腕の中で言い争う。それがなんだかすごく嬉しくて、笑い出した。

「“人魚”を奪ってこっちに飛び込んできたときにはびっくりしたわよ」

 神田さんが呆れた表情。

「これでも“嵐の長谷川”の相棒よ? でも、恵美じゃなかったら無理だった……彼女、すっごく強いのよ」

「え?」

「とどめの聖槍だけじゃないの、素手で何人も簡単に殴り倒しちゃうんだから」

「そういえば──」

 ひとしきり笑い合い、ふと三人抱き合っていることに違和感を感じて、着替えや飲み物を求めに離れた。

 そこに、別の方向から、七人の小人が踊りながら──敵?!

 とっさにオレは二人に向かって走った。背後で何か近接兵器を使ったか、何人かが倒れた。

「だめ、ヒーローに、パパ!」

 恵美の悲鳴。英雄になりたいのか? いや──知るか! オレは、大切な人に無事でいて欲しいだけだ。

「生きて欲しいだけ!」

「どっちに?!」

 葉波の声。

 最後の敵が倒れ、手榴弾が転がった。

 オレ一人伏せれば両方死ぬ。三人とも少し離れてる、どちらかを押し倒してかばうことはできるかもしれない。でもその場合もう一人は死ぬ。

 オレはためらいなしに手榴弾をつかむと体ごと、防波堤の隙間に突っ込んだ。

 全部太陽になったような光──それが、最後に肉眼で見たものだった。

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