第9話 誰何
ジルニッツ王国北方警備大隊、ソルボ砦総司令官コンラート・カーミールは、瞬く間に物言わぬ肉塊へと成り果てた。
つい先ほどまで歩廊に立ち、余裕と愉悦を滲ませていた人物とは思えぬ姿。左腕をへし折られ、右手を潰され、最後には脳天を叩き割られた。
砕けた兜の隙間から流れ出た血が、石の継ぎ目に入り込み、細い溝を黒く染めている。
もっとも彼の名誉のために言えば、決して弱かったわけではない。
なにより武を重んじる国境砦を若くして任されていたことが、その実力を何より雄弁に物語っている。
だが、その彼が瞬きをする間に地へ沈んだという事実は、残された兵たちの精神を揺るがすには十分だった。
「し、司令が殺られた!?」
「馬鹿な!」
「に、逃げろ! こんな化け物に敵うわけない!」
「ひぃぃぃぃ!」
兵たちの畏怖と尊敬を一身に受けていた若き司令官。その成れの果てを、ジルニッツ兵たちは戦々恐々と見つめた。
互いに視線を交わし、誰かが先に動くのを待つかのような沈黙が生まれる。けれど、それも長くは続かない。
ひとりが踵を返した瞬間、その動きは堰を切ったように広がった。
剣を捨てる者、盾を取り落とす者、我先に階段へ殺到する者。幾人かが転び、踏みつけられ、悲鳴を上げる。だが振り返る者はいない。
こうして歩廊の秩序は、あまりにもあっけなく崩れ落ちていった。
やがてその場に残ったのは、エルネストとオーランジュの戦奴隷たちだけだった。
バートを先頭にした奴隷たちが門へと走り、重い扉を開け放つ。軋む音とともに開いた門からオーランジュ軍が直後に雪崩れ込んできたが、もはや迎え撃つ敵は統率を失っていた。
かろうじて命令系統は残っていたものの、司令を失った混乱は収まらず、各所で散発的な抵抗が起きるのみ。指示は届かず、連携は乱れ、兵たちは自分の持ち場を見失っていた。
当初より長期戦を覚悟していたソルボ砦攻城戦は、こうして予想外の速さで終結したのだった。
◆◆◆◆◆
惨たらしく積み上げられた死体の山。
砦の中央広場だけは陽光が差し込んでいるが、照らし出されるのは血に濡れた石畳と、芝を赤黒く染める痕跡ばかり。
焼けた脂の匂いが風に乗り、吐き気を催す甘ったるさが鼻を刺す。
奴隷たちは命令に従い、黙々と死体を片付けていく。鎧を外し、武具を集め、身元のわかるものを分別し、あとは山に積む。生と死の区別は、作業の手順の中でのみ保たれていた。
「エルネスト。お前すげぇやつだったんだな。マジで信じらんねぇぜ!」
その一角で、バートが豪快に笑いながらエルネストの肩を叩いた。
「一人で敵を倒してったのもすげぇけどよ。あの偉そうなヤツをぶっ飛ばしたときはマジで度肝抜かれたぜ!」
「おうよ! 聞きゃあ、あいつ相当ヤバい奴だったらしいじゃねぇか。今回の作戦もヤツの攻略が肝だったらしいぜ。それをお前は簡単によぉ!」
「マジ、半端ねぇぜ!」
奴隷たちの声は次第に弾み、先ほどまでの緊張が嘘のように和らいでいく。
ここでは強さが何よりの価値を持つ。生き残った者こそが正しく、敵を多く倒した者は尊ばれる。ただそれだけの単純な理屈が、この世界を支えていた。
だが当の本人は、賞賛の声に一切の反応を示さない。返事もせず、視線も向けず、ただ黙々と死体を担ぎ上げ、運び、積み上げていく。褒め言葉も羨望も、彼の歩みを変える理由にはならなかった。
そのときである。一人の女が恐る恐る近づいてきた。
「あ、あのっ! こ、これ……どうぞ!」
差し出されたのは、粗末な木椀に注がれた水だった。
戦奴隷にとって水は決して潤沢ではない。飲用に耐えるものとなればなおさらだ。
どこから工面してきたのかわからないが、それが善意からであることは明らかだった。
エルネストは一瞥をくれ、作業の手を止める。血に濡れた指が椀へ伸びた。
「え、えぇと……さ、さっきは助けてくれてありがとう。あなたがいなかったら、きっと死んでいたと思う。だ、だから、あなたはわたしの命の恩人で……その……感謝してる。それで……喉が乾いたでしょ? これお水。飲んで」
にこやかに、親しげに振る舞いながらも、アンナの笑みはどこか強張っている。
怪物を前にしているのか、それとも恩人を前にしているのか、自分でも定めかねているようだった。
数瞬の間。視線が交差する。
エルネストは椀を受け取った。
「……もらおう」
一息で飲み干し、空になった椀を返す。
「美味かった」
アンナが手の中の椀を見つめる。次いで、持ちうる勇気をすべて絞り出して口を開いた。
「あ、あの! アンナです!」
「……」
「わ、わたしの名前! アンナといいます! あ、あの時は助けてくれてありがとう……その……エルネストさん」
「……呼び捨てでいい」
「あ、は、はい。ありがとうございます、エルネスト……さん」
「気にするな」
それ以上の言葉は続かなかったが、アンナは彼の隣に立ち、無言のまま死体運びを手伝い始めた。
並んで歩くその距離は、近いようで遠い。
やがて作業が半刻ほど進んだ頃、オーランジュ軍の伝令が広場へ現れた。鼻をひくつかせながら、死体の山を避けるように歩み寄り、声を張り上げる。
「エルネスト! エルネストはいるか! いたら名乗り出ろ!」
伝令の視線が広場を横切り、やがて奴隷たちの中心へと収束する。自然と開いた道の奥から、エルネストが前へ出た。
伝令は露骨に蔑むような目を向ける。
「お前がエルネストか? 大隊長がお呼びだ。ついてこい」
案内されたのは砦中央の一室だった。壁には地図が貼られ、長机が並ぶ。
つい先ほどまでジルニッツ軍の司令所であった場所を、今はオーランジュ軍が臨時の指揮所として使っていた。
扉をくぐった瞬間、室内の空気がわずかに張り詰めた。興味、値踏み、嫌悪。様々な感情が入り混じった視線が一斉に注がれる。
歓迎の色はない。戦奴隷という身分に加え、血と汗にまみれた姿は、彼らにとって不快な現実そのものだった。
囁きが走る。視線だけが忙しなく動き、値踏みするように行き交った。
やがて、豪奢な鎧をまとった大柄な男が口を開いた。
「楽にしろ。貴様がエルネストか。俺はこの大隊を預かるハインツ・フォン・ゲルストナーだ。敵を大勢屠ったというから、もっと厳ついのを想像していたが、案外普通だったな。話に聞いたぞ。今回の戦で一番の手柄は貴様だとな」
「……」
「攻城梯子を一番に登りきったのも、歩廊の敵を一掃したのもすべて貴様だというではないか。そして司令のコンラート・カーミールを屠ったのもな」
「……」
「実を言うと、今回の作戦の一番の要は彼奴だったのだ。なのに、それを簡単に屠ってしまった。――貴様、いったい何者だ?」
火傷で右半分が引き攣れた顔を、ハインツがじっと見つめる。
並の者ならその威圧に耐えきれず、言葉を探して口を開くだろう。けれど、エルネストは変わらず沈黙を保とうとする。
「貴様! 司令が尋ねているのだ、答えぬか、この無礼者が!」
「マティアス。今は私が話しているのだ。貴様は黙っていろ」
副官を制し、ハインツが薄く笑う。声も仕草も決して粗野ではなかったが、その声音には明らかな威圧が込められていた。
副官が一歩下がる。しかしその視線は忌々しそうにエルネストを睨んだままだった。
それにはかまわずハインツが続ける。
「答えたくないか。まぁ、それもよかろう。戦奴隷など所詮は犯罪者、食い詰め者、脱走兵と相場は決まっているからな。――で、何が目的でここにいる? ジルニッツ人よ」
室内の空気が、さらに一段冷えた。
それは単なる問いではない。身元を問い、真意を暴こうとする明確な意思だった。




