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第7話 始まり

 オーランジュ大公国とジルニッツ王国を隔てる国境線は、地図の上ではただの細い線に過ぎない。

 だが実際に立てば、それは長く、荒れ、そして冷え切った空気をまとっていた。


 整備されなくなって久しい街道は草に覆われ、ぬかるんだ土が足を取る。踏み固められていたはずの轍は崩れ、雨水が溜まり、靴底を重くした。


 かつては交易で賑わったこの道も、今では戦にしか使われていない。荷車の軋む音も、商人の声もない。ただ、軍靴だけが往復するのみ。


 夜明け前。 

 白み始めた空の下、その道を鎖を引きずる一団が無言で進んでいた。


 鎧の擦れる音。

 湿った土を踏む足音。

 抑えきれない呼吸の乱れ。


 誰も口を開こうとせず、ただひたすらに歩を進める者たち。


 戦奴隷。

 使い捨ての斬り込み役。

  

 彼らの命は安い。

 死んでも埋葬はされず、その場に打ち捨てられる。名も記録も残らず、戦果の報告に数えられることもない。


 その事実を誰もが理解していた。理解しているからこそ、誰もそれを口にしない。


「おらぁ、奴隷ども! 歩みを緩めるな!」


 馬上から怒声が降る。蹄が泥を跳ね、冷たい飛沫が頬に当たった。

 

「いいか、この作戦の成否は貴様らにかかっていることを忘れるな!」 


 笑い交じりの声。

 罵声は慣れていた。


「後ろを見るな! 役に立て! 死ぬときは前のめりに死ね!」


 ここは過酷すぎる。怒りも屈辱も、もはや感じない。ただ、恐怖だけが残っていた。

 胃の奥が冷え、喉が渇き、唾がうまく飲み込めない。


「な、なぁ……」


 隊列の端で、小柄な男が震える声を出す。視線は足元から上がらぬまま。

 泥の中に沈んだ石を避けるように、つまずかぬように。いや、それはつまずけば終わりだと知っている顔だった。


「前の戦……どのくらい生き残ったんだ?」


 隣を歩く大男――バートが鼻を鳴らす。

 

「なんだ、お前も初めてなのか。初陣だからって緊張するのはわかるがよ、もう少し肩の力を抜いたほうがいいぜ。そのままじゃあ、いざって時に剣を取り落としちまう」


 鎖を引きずりながら続ける。鎖が擦れるたびに、金属の冷たさが骨に響くようだった。


「――で、どのくらい生き残れるかって? そうだなぁ……ざっくり半分か」


 気安い口調だった。まるで世間話でもしているかのような。

 

「は、半分しか……」


「馬鹿だろ、お前。半分しか(・・)じゃねぇよ。半分()だ。二人に一人は生き残るってぇ寸法だ。ほら、悪くねぇだろ?」


 男は笑えなかった。膝が震え、呼吸が浅くなる。剣を握る手に力が入らない。指先がかじかんで、柄の感触すら曖昧だ。

 その様子を見てバートが肩を竦める。


「お前……ずいぶんと肝っ玉が小せぇなぁ。ここに放り込まれたってこたぁ、犯罪者か脱走兵なんだろうが」


 視線を横へ流す。


「見てみろよ。あいつを」


 視線の先。エルネストが歩いていた。

 呼吸は一定。足取りも乱れない。

 鎖の重みも、罵声も、背後の視線さえも意に介さぬように。

 それが逆に不気味だった。


「……怖くねぇのか?」


 小男が思わず問う。だが、返事はない。

 エルネストは聞こえていないかのように歩き続けていた。 ただ、その目だけが遠く――砦のさらに向こうにある、なにか別のものを見つめるように。

 


 やがて砦が見えてくる。

 石造りの高い壁。見上げるほどの高さが、朝焼けを背にして黒い影のように立ちはだかる。

 矢孔にはすでに人影があり、こちらの様子を窺っていた。

 その光景を見た瞬間、隊列の空気が変わった。


 息が荒くなる者。

 祈り始める者。

 吐き気を堪える者。

 喉が鳴り、押し殺した嗚咽が漏れる。

 

 もはや、逃げ場はない。

 


「陣形を整えろ!」


 隊長の号令が飛ぶ。


梯子(はしご)を前へ! 準備ができ次第、突撃だ!」


 作戦は単純だった。

 梯子を掛け、登り、死守する。

 ただ、それだけだ。


 だが、その「それだけ」が死を意味していた。

 本来、攻城戦は持久戦である。補給を断ち、疲弊させ、数で押す。決着が着くまでに月単位の時間がかかることも珍しくない。

 それを短期決戦など、どうかしている。狂気の沙汰だ。

 

 けれど、それを口にするものは誰一人いなかった。

 言えば斬られる。斬られた血は土に染み、誰の記憶にも残らない。


 やがて、合図が鳴った。


「突撃ぃぃぃ!!」


 号令一下、戦奴隷たちが走り出す。

 地面を蹴る足音が重なり、空気が震え、心臓の鼓動と同じ速さで世界が加速した。泥が跳ね、足首に絡み、肺に冷たい空気が刺さる。


 矢が降ってくる。


 盾に突き刺さる音。

 肉を裂く音。

 短い悲鳴。


 誰かが倒れ、踏み越えられる。

 振り返る者はいない。

 振り返れば死ぬ。

 

 岩が落ちる。

 頭が砕ける。

 脳漿が飛び散る。


 煮え油が降り注ぐ。

 皮膚が焼け、肉が弾けた。

 焦げた脂の匂いが鼻を刺し、吐き気が喉まで上がる。

 

 止まれば死ぬ。

 進んでも死ぬ。

 たいして違いはない。


 それでも梯子は掛けられた。



 そのとき、一人の男が梯子を登り始めた。


 矢を弾き、足を止めず、ただ登る。 

 迷いはなく、躊躇もない。


 エルネストだった。

 

 誰よりも先に頂に到達すると、待ち構えていた敵兵の剣が振り下ろされた。

 だが、その剣が振り切られることはなかった。


 首が落ちる。

 次も。

 その次も。

 声すら上がらず、息が途切れる音だけが短く残る。

 ただ人が倒れる光景だけがその場に広がっていた。血が歩廊を濡らし、靴が滑る。剣の柄がぬるついた。


 剣を奪う。

 斬る。

 捨てる。

 また奪う。


 動きは滑らかで無機質だった。

 怒りも気迫もない。ただ、目の前の障害を排除しているだけ。


「八番梯子確保!」


 その時、誰かが叫んだ。


「続け! 孤立させるな! 行け! 登れ!」


 それを合図に、奴隷たちが梯子に群がる。まるで蟻が獲物に群がるがごときその光景は、ひたすらに恐怖と焦燥に満ちていた。

 次々に梯子を登っていく奴隷たち。砦の上はすでに混戦になっていた。叫び声と鉄のぶつかる音が、狭い石壁の上で耳を打つ。


 

 アンナが梯子を登り切ったのは、その少し後だった。

 年の頃は十五、六ほどだろうか。未だ幼さの残る顔を涙に歪め、それでも懸命に梯子を登り続けた。


 腕は震え、足は重い。それでも下を見れば、死体と血しかない。

 上へ行くしかなかった。

 そして頂上に辿り着き、歩廊にその身を晒したその瞬間――世界が変わった。


 血。肉。悲鳴。

 滑る足元。転がる腕。飛び散る内臓。

 匂いが鼻を焼き、鉄の味が喉に上がる。胃の中がひっくり返りそうになり、息を吸うたびに血と油と汗が肺に入った。


 理解が追いつかず、ただ、無防備に立ち尽くす。

 そこへ襲い掛かる敵兵たち。小柄な女だと見るや、躊躇なく剣を振り上げた。


 ――死ぬ。


 その瞬間、視界が赤く染まった。

 敵兵が崩れ落ちる。代わりに立っていたのは、エルネストだった。

 血塗れの剣を放り捨て、足元から新たな剣を拾い上げる。二、三度振ってわずかに頷く。刃先から雫が落ち、石に当たって鈍い音がした。


「なぜ登ってきた」


 振り向かないまま言う。


「死にたいのか」


 声に感情はない。

 返り血に染まった背中。壊れた顔。止まらない動き。

 そこには生きている人間の熱が感じられない。今や怖いのは敵ではなく、この男だった。



 アンナは問いに答えられず、震える指が宙を彷徨う。やがてエルネストは興味を失ったように歩き出した。


 次の敵へ。

 また斬る。

 また進む。


 アンナは動けなかった。

 ただ、理解しようとしていた。


 なぜこの男は――


 泣きも叫びもせず、

 怒りすら見せず、

 戦い続けているのかを。


 そこにあるのは勇気なのか。それとも、すでになにかが壊れているのか。

 血煙の向こうで、エルネストがまた一人斬り捨てた。


 その背は、どこまでも孤独だった。

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