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第6話 開戦前

 長年にわたり対立し続けてきたオーランジュ大公国とジルニッツ王国。

 およそ二百年の間、両国間には大小さまざまな衝突が繰り返されてきた。だが、これまで一度たりとも決定的な事態に陥ったことはない。

 精々が国境を数キロ程度攻め込むのが関の山で、それもすぐに押し戻される。今も昔も変わらず、この二国間の国境線は同じところにあった。


 そんな中、ついに事態は動き始める。

 これまでにない規模の軍の集結。そこにはオーランジュの本気が垣間見えた。そして、その前線には数多の戦奴隷たちが、捨て駒として投入されていたのだった。



 ◆◆◆◆



 夜明け前の空気は冷たく澄んでいた。

 吐いた息が白く滲み、湿った土の匂いが鼻につく。

 敵の砦を見下ろす小高い丘。集められた戦奴隷たちは、誰一人として声を上げようとせず、ただ鎖の擦れる音と、抑えきれない震えがあるだけだった。


「よう、新入り。なんだお前、ブルってんのか?」


 背後から野太い声が響く。振り返れば、そこに巨大な男が立っていた。

 二メートル近い身の丈に、岩のように盛り上がった肩。間近で対峙すれば、威圧だけで息が詰まりそうになる。


 だが、その声には妙な軽さがあった。言い換えれば気安さだろうか。

 エルネストは一度だけ視線を向け、すぐに砦へと戻した。


 返事はない。

 右半分が引き攣れた醜い顔。それを見た男の顔に怯んだような表情が浮かぶ。だが、それも一瞬。すぐに気を取り直して口を開いた。


「おいおい、無視かよ。初陣でビビるのは仕方ねぇけどな、返事くらいしてくれてもいいんじゃねぇか? ――俺はバートだ。お前は?」


 沈黙。


 それでもバートは気にした様子もなく続けた。


「いいか、新入り。ここは地獄だ。十戦生き残らなきゃ外には出られねぇ。それは知ってるな?」


「……知っている」


 短い返答だった。


「なら話は早ぇ。俺はあと五戦だ。五戦生き延びりゃ正規兵になれる。こんな糞溜めみてぇな斬り込み役からは卒業できるんだ。だからよ――」


 バートがわずかに声を落とす。


「お前にも生き残ってもらわねぇと困るんだよ。俺が生き残るためにもな」


 言葉の裏に、取り繕わない本音が滲んでいた。

 にやりと笑い、続けて言った。


「つーわけで、お前は仲間だ。名前がわからねぇと不便だからな。教えろ」


「……」


「教えろ」


 数瞬の間。


「……エルネストだ」


 名乗りには一切の抑揚がなかった。ただ、話を打ち切るためだけに言ったように聞こえた。


「そうか」


 バートが笑う。悪人面の厳つい男だが、笑った顔はどこか子供じみて見えた。


 その時、別の男が鼻で笑った。


「やめとけよバート。そんなチビに目ぇかけても無駄だろ」


 エルネストを値踏みするような視線。露骨な嘲りだった。


「見ろよ、その貧相な身体をよ。どうせ最初の壁で死ぬ。前の新入りと同じだ。まったく、目に浮かぶようだぜ」


 皮肉屋らしい、決めつけるような言葉。バートが顔をしかめる。


「よせよ、エティ。助け合わなきゃ全員死んじまう」


「助け合いだぁ? 笑わせんじゃねぇよ」


 エティが薄ら笑う。エルネストに近づき、耳元で言った。


「ここで死ぬのはな、弱い奴からだ。足手まといは仲間じゃねぇ。――邪魔なんだよ」


 エルネストの襟首を掴み上げ、そのまま乱暴に振り回す。

 剣の鞘がぶつかり、乾いた音を立てた。


「いいか新入り。怖気づいたら後ろから刺す。どうせ誰も気づきやしねぇ。――わかるな?」


 エルネストは抵抗せず、されるに任せている。しかしその瞳は砦に向けられたまま。

 やがて口を開いた。


「好きにしろ」


 声は低く、平坦だった。そこに怒りも恐れもない。

 意味のない会話を終わらせようとする、それだけの言葉だった。


「てめぇ……」


 挑発されたと思ったのだろう、エティが腰の剣を引き抜く。だが、直後に動きが止まった。


 視線が絡む。


 そこにあったのは敵意でもなければ憎しみでもない。


 空洞。

 底のない、濁った闇。


 覗き込んだ瞬間に、どこまでも沈み込んでいく感覚だけがあった。


 エティの喉が鳴る。

 剣先が震え、真っ直ぐ構えていられなかった。


「……ひっ」


 気づけば手の力が抜けていた。

 剣が落ち、甲高い金属音が地面を転がる。

 エティはその場にへたり込み、荒い呼吸を繰り返すことしかできない。

 バートが黙ってそれを見ていた。



 周囲を見渡せば、戦奴隷たちの様子はさまざまだった。


 震えを抑えられない者。

 恐怖で吐き続ける者。

 立ったまま小便を垂らす者。

 壁にもたれ、祈るように目を閉じる男。

 虚ろな目で空を見つめる女。


 誰もが、ここで死ぬ可能性を理解していた。


 だが、エルネストだけは違う。

 砦を見つめる視線に恐怖はなく、ただ、消えない何かだけがあった。



 やがて、正規兵がやってくる。

 年嵩(としかさ)の男だった。見るからに歴戦の兵らしく、鎧には無数の傷が刻まれ、視線には温度がなかった。


「整列!」


 怒鳴り声ひとつで場の空気が引き締まる。

 一拍置いて周囲を見渡し、朗々(ろうろう)と声を上げた。


「おい、奴隷ども! これから作戦を教えてやる。よく聞け!」


 言いながら視線が順に奴隷たちをなぞる。そこに人を見る色はない。


「お前らの役目はひとつ! 砦に梯子を掛ける! それだけだ!」


 沈黙。


「その後はどうするか? 決まっている。死ぬまで梯子を守れ! 以上だ!」


 作戦というにはあまりに粗すぎる。これでは奴隷の命は幾つあっても足りはしない。

 堪らず一人の男が震えながら手を挙げた。


「し、質問が……」


 兵の視線が止まる。


「……なんだ」


「矢を防ぐ方法は――」


 言い終わる前だった。

 剣が振られ、血が噴き、男が崩れ落ちる。

 悲鳴は短かった。


 周囲が静まり返る。

 兵が剣の血を払い、淡々と告げた。


「質問は反抗とみなす。――恐怖は足手まといだ。足手まといは死ぬ。それだけだ」


 誰も声を出さない。いや、出せなかった。誰かが唾を飲み込む音だけが聞こえた。


「半刻後に出発する。精々それまでに震えを止めておけ」


 言い終えた兵は、死体には一瞥もくれずに背を向けた。


 見送る戦奴隷たちの中で、エルネストだけが変わらず砦を見つめていた。

 そこには恐怖も怒りもない。


 ただ、消えない情念だけがあった。

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