第5話 暗い情念
モンタネル大陸北西部に位置するジルニッツ王国。
約二百年前に建国されたこの国は、国境を北に接するオーランジュ大公国と長きにわたって戦を繰り返していた。
事の始まりはジルニッツの建国時に遡る。当時ジルニッツはバスタルド王国の一所領に過ぎなかったが、当時のジルニッツ侯爵――ルードルフが反乱を起こしたのだ。
その混乱の最中、突然に隣国イゼルニアに攻め込まれたバスタルドは程無くして滅亡。その時に最後まで抵抗したのがオーランジュ公爵領だった。
盟友だと思っていたルードルフに裏切られ、長年付き従ってきた王家をイゼルニアに滅ぼされた。オーランジュ公爵――ヴォルクハルトは独立を余儀なくされる。
母国バスタルドが滅んだ責はルードルフにあり。そうヴォルクハルトは主張し、かつての盟友であったジルニッツ王国に宣戦を布告。
以来二百年にわたり、決して終わることのない小競り合いが続いてきたのだった。
◆◆◆◆
小さな手が頬に触れている気がした。
柔らかな声音。笑っている気配。すぐそばにある温もり。そのすべてが愛おしい。
『ねぇねぇ、ととしゃま、もう起きて。いちゅまで寝てるの?』
返事をしようとして声が出ないことに気付く。
『ごめんね、ヘンリケ。とと様は疲れているのよ。もう少しだけ寝かせてあげましょうね』
今度は優しい女の声だった。
どこか懐かしく、胸の奥が温かくなる。
名前を呼ばなければならない。呼べばきっと、すべて思い出すはずだ。
けれど、思い出せない。
目が開かない。
声が出ない。
身体が動かない。
声だけが遠ざかっていく。
行かないでくれ。
俺を置いて行くな。
焦りが胸を満たす。
……違う。これは眠りではない。
なにかを……取り返しのつかないなにかを失った気がする。
思い出せ。
思い出すんだ。
俺は――
「あ……」
途切れる。
温もりが消える。
声が遠ざかる。
代わりに、冷たい痛みだけが身体を満たした。
「ヘンリケ……ジークリット……!」
呻き声が絶叫に変わり、一人の男が身を起こす。
直後に全身の痛みに悲鳴を上げて、再びその場に倒れ込んだ。
両の目からは涙が溢れ、口からはとめどなく嗚咽が漏れる。ふと、周りを見渡せば、見覚えのない風景が広がっていた。
くすんだ石の天井。湿った空気。戦場とも牢とも違う、奇妙に静かな小さい部屋。
そこに寝かされている自分に気付いた。
「……うぅ……」
呻きとも唸りともとれる、くぐもった声。それを漏らしながら身を起そうとする。すると、前触れもなく部屋の扉が開いた。
「おう、やっと起きたか。それだけの怪我だってぇのに、よくもまぁ、死なずに済んだものだな」
言いながら部屋に入ってくる男。
軋む鎧と腰に帯びた剣。それは兵士だった。けれど警戒よりも先に、気安さが漂っている。
苦痛に顔を歪める男へ気さくに話しかけてきた。
「どうだ、かなり痛むだろう? 無理をするなよ。――でだ。まずは名を聞かせてもらおうか」
気遣うような素振りを見せつつ、平気で尋問の言葉を吐く。いや、実際に彼は問い質そうとしていた。それが職務であるかのように。
だが、男は沈黙を貫こうとする。
「おいおい、だんまりかよ。せっかく助けてやったのに、名も教えねぇとか、ちょっと不義理がすぎるんじゃねぇのか?」
「……頼んだ覚えはない」
「ふん、言ってくれるな。そっちにその気がなくてもよ、見つけちまったもんは連れ帰らなきゃならんのよ。お前がどこの誰なのか。なぜそこにいたのか。それを訊き出すのが俺の役目だからな」
「……」
「まぁ、言いたくなけりゃいいけどよ。俺たちとしちゃあ、進んで言いたくなるようにするだけだ」
兵士が腰に吊るした剣をこれ見よがしにぽんぽんと叩く。その様子にも感慨すら覚えずに、男は唇を真一文字に引き結んだまま。
再び兵士が口を開いた。
「なんだよ、お前。まただんまりを決め込むつもりか? どのみち、その怪我じゃ逃げられやしねぇ。無駄に痛い目を見る前に話したらどうだ? ――もっとも、お前がジルニッツ人であることは訛りでわかるがな。どうだ?」
「……」
「それでだ。何度もうわごとを呟いていたが、ヘンリケやらジークリットってのは一体誰のことだ? 家族か?」
伺うような兵士の声。聞いた男の表情が一変した。
呼吸が止まる。忘れていたものが、形を持って押し寄せた。
血。
冷たい石床。
動かない小さな身体。
温もりが失われていく感触。
「……あ……」
声にならない。
掌を見つめる。
そこにはなにも残っていなかった。
「殺された……娘と……妻だ……」
「そうか」
たった一言。
同情なのか、慣れなのかわからない。兵士は一瞬だけ視線を逸らした。
掌を見つめたまま呆然とする男。どうやら大切ななにかを思い出したらしい。
その彼へ向かってなおも兵士が問いかけた。
「おおかた、嫁と娘を殺されたってぇところか。そりゃあ、難儀なこったな。ってまぁ、このご時世じゃあ大して珍しいことでもねぇけどよ。俺の隊にも、似たようなのが何人もいる。――そんでだ。つまりお前は復讐に失敗したってことでいいのか? んで、返り討ちにあって瀕死の重傷を負ったと」
現実は残酷なほど淡々としていた。
呆然とする男。どうやら、すでに身体の痛みさえ忘れているようだった。
「……そうだ、失敗したんだ。俺はしくじったんだ……。――勇者だとか英雄だとかおだてられていながら、妻子の仇さえ打てなかった……」
「はぁ? 勇者? 英雄だぁ? お前なに言ってんだ、大丈夫か? ――まぁいい。そろそろ与太話は終わらせて、名を教えてもらおうか。このままじゃ報告書も書けやしねぇ。境遇に同情はするがよ、俺もさっさと仕事を終わらせたいんでな。協力してくれ」
その言葉に正気を取り戻したらしい。男は瞬間、視線を彷徨わせた。悪戯書きだろうか。壁に残った擦れた文字が目に入り、口から洩れた。
「エルネスト……俺の名はエルネストだ。家名はない。農民だ」
「そうか。それじゃあお前の名はエルネストだな。これからそう呼ばせてもらう、いいな? ――にしても農民なぁ……」
なにか思うところがあるのだろうか。兵士が男の名乗りを確認する。
ただ、エルネストは小さく頷くだけだった。
今や仇敵となったジルニッツ王国とオーランジュ大公国。
この二国を隔てる国境沿いの一角が、今朝からなにやら騒がしい。聞けば、敵国の衣服を纏った男が、オーランジュの海岸に打ち上げられていたそうだ。
左胸に大きな切創。身体に幾本もの矢が突き立ち、顔の右半分は火傷で潰れている。見たところ罪人か脱走兵だと思われるが、詳細は不明。
オーランジュの兵たちからすれば、憎き敵国――ジルニッツ人に違いはない。だが、見るも無残な姿にいささかの同情を禁じ得なかった。
意識のない瀕死の男。結局、それは発見した警備兵によって尋問のために運ばれることになった。
エルネストは、無言のまま説明を聞き続けた。それから、自身について断片的に話し始めた。
そして最後に問う。その瞳は暗く濁っていた。
「俺はジルニッツ人だ。お前たちにとっては仇以外のなにものでもない。このまま殺されても文句は言えないだろう。だが、俺にはやらねばならぬことがある。こんなところでむざむざ殺されるわけにはいかない。もしも殺すつもりなら、お前たち全員を道連れにしてやる」
「おいおい、物騒なことを言うもんじゃねぇよ。まぁ、そう焦るな。お前がジルニッツの脱走兵で、妻子の仇討ちに失敗したところまではわかった。けどな、それを頭から信じろというのも無理な話だ。このご時世、敵国の間者である可能性も捨てきれん」
観察するような兵士の視線が、頭から足の先まで何度も往復する。
「それはわかっている。ただ、俺を信じてくれと言うほかない。それができないと言うのなら――」
言いながらエルネストが身体を起こそうとする。
襲い掛かる耐えがたい苦痛と疲労感。けれどエルネストは、軽く眉をひそめただけでそれ以上の表情を見せようとしなかった。
兵士が押し留めた。
「おいおい、頼むぜ、無理すんなって。その身体でなにができるってんだ? 手当てするのに診させてもらったが、顔の半分は潰れちまってるし、矢傷も多い。左胸の傷なんて相当深いぞ。よくそれで死ななかったと感心するほどだ。それもすべて鍛錬の賜物ってぇわけか? よく鍛えられた、いい身体をしているな。とても農民風情には見えねぇよ」
「……」
意味ありげなにやにや笑いを兵士が浮かべる。エルネストが押し黙っていても、かまわず兵士は話し続けた。
「まぁ、仮に脱走兵なら話は簡単だ。規則通りに、捕虜として捕らえるまでのことだからな。そのあとは……そうだな。まずは戦奴隷として戦場の最前線に投入されるだろうよ」
「戦奴隷……」
「あぁ、そうだ。最前線に放り込まれて、ジルニッツ兵と殺し合いをする。捨て駒としてな。もちろん逃走なんて許されねぇ。そんな素振りを見せてみろ、途端に背中を斬られるぞ。――とまぁそんなところだが、全部が全部、悪いことばかりでもねぇ。生き残れりゃ正規兵として使われる道もあるが……まぁ、大抵は死ぬ」
「……殺せばいいのか」
「ん?」
「ジルニッツ兵を」
「まぁ、そういうことになるな。――で、どうするよ? このまま間者として処刑されるか、戦奴隷として一縷の望みに掛けるか。まぁ、いずれにせよ、ろくな未来が待っているとは思えんがね」
「……」
俯いた顔からは表情が読めない。もっとも、右半分が火傷で潰れた顔には、ほとんど表情は表れないが。
兵士が重ねて尋ねる。
「どうした? 迷っているのか? 俺はどっちでもかまわんぞ。ここでお前を捕えるのも、殺すのも俺の裁量だ。もちろん戦奴隷として前線送りにするのもな。――さぁ、好きな方を選べ」
見透かすような兵士の視線。返答如何によっては、この場で斬り殺すのも吝かではない。そう、さりげなく腰に当てられた手が物語っていた。
エルネストが答える。
「……なら、前線へ送れ」
兵士が目を細める。
「戦奴隷として……存分に殺してやる。ジルニッツ兵をな」
そこには痛みも迷いもなかった。
ただ、消えない暗い情念だけが、かろうじて彼を生かしていた。




