第41話 開戦前夜
夜の野営地は、重く沈んでいた。
見張りの足音が響き、焚火の薪が爆ぜる。馬が鼻を鳴らし、遠くからは鎧の擦れる音も聞こえてくる。
それでも昼のような喧騒はない。
明け方に戦を控えた夜には、兵たちの息をひそめたような重さがあった。
明日、オーランジュ軍は攻勢に出る。
それを知らぬ兵はいない。
だからこそ、皆が口数を減らしていた。
そんな野営地の奥に、ハインツの野戦天幕がある。
布で囲っただけの仮の指揮所であるはずなのに、その内側だけは妙に整っていた。卓があり、椅子があり、地図が広げられ、油皿の火が惜しげもなく揺れている。
とても土の上に立てただけの天幕とは思えない。
その入口を、ひとりの男がくぐる。
エルネストだった。
遊撃から戻ったばかりの体には、泥と血がこびりついている。
外套の裾は裂け、髪は乱れ、頬にも乾いた汚れが筋になって残っていた。
もともと人目を引くような身なりではないが、今夜は輪をかけてひどい。
その男の前に、卓が置かれていた。
柔らかな白いパン。肉。湯気の残る豆の煮込み。新鮮な果物。細首の壺には酒まである。
兵に配られる黒パンと薄い汁を思えば、まるで別世界の食事だった。
卓の向こうで、ハインツが言う。
「食え」
エルネストはなにも言わず椅子を引き、座り、手を伸ばした。
パンを掴む。ちぎらず、そのまま口へ運び、噛み、飲み下す。
肉を切る。口へ入れる。豆を掬う。酒をあおる。
手は止まらない。
味わっているようには見えなかった。
だからといって、飢えた獣のように貪るわけでもなく、ただ、必要なものを必要なだけ体へ流し込んでいた。
食える時に食う。
それだけの動きを、ハインツは黙って見ていた。
「遊撃、ご苦労だった」
返事はない。
「よく働いた。補給を守り、敵を退けた。明日の戦が少しはやりやすくなる」
エルネストは肉を噛み、酒で流し込む。
「もっとも、少し、だがな」
ハインツは椅子の背にもたれた。
「相手は寄せ集めでも数はあり、守る側でもある。こちらは長引けば苦しい。ゆえに、明日は押す」
一拍置く。
「だが、貴様を最初から前へは出さん」
油皿の火が揺れた。
「潰しどころで使う。穴を開けるべき時に開ける。それが貴様の役目だ」
エルネストはなにも言わず、パンを噛む音だけが聞こえた。
ハインツが続ける。
「これから斬るのは、ジルニッツの貴族どもだ。お前を知る顔もあるだろう。お前が知る顔もあるやもしれん」
反応はない。
「それでも、鈍らぬな」
エルネストの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
だが、それだけだった。
次の瞬間にはまた肉へ刃を入れている。
ハインツはその横顔を見つめた。
「旧知と刃を交えるのは、気分のいいものではあるまい」
返事はない。
酒を飲み干し、空になった壺を静かに置き、エルネストはようやく顔を上げた。
暗い目だった。熱はない。ただ、底に沈んだものだけが重い。
「あの女を殺す」
それだけだった。
ハインツは薄く笑う。
「そうだ。お前はそれでいい」
卓の上の皿は、ほとんど空になっていた。
「よく食うな」
エルネストは答えない。
「戦奴隷は、こうでなければ困る。寝られる時に寝て、食える時に食う。そうして生き延びる」
エルネストは果物を掴み、噛み砕いた。
ハインツはそれを見ながら続ける。
「明日、貴様は合図があるまで下がっていろ。使いどころはこちらで決める」
短い沈黙。
エルネストは小さく頷いた。
「貴様に必要なのは勇み足ではない。突破だ」
その言葉にも、返答はなかった。
食事を終えたエルネストが立ち上がる。
礼はなく、そのまま背を向け、天幕の出口へ向かう。
「ひとつだけ言っておく」
ハインツの声が背にかかった。
「明日、貴様を見て崩れる者が出るかもしれん」
エルネストは振り返らない。
「その時は、踏み越えろ。ためらうな」
しばしの沈黙のあと、エルネストはわずかに顎を引いた。
それだけで、夜の外気の中へ消える。
布が揺れ、冷たい風がひと筋入り込んだ。
ハインツはその背を見送り、地図へ視線を戻す。
「……強い駒だな」
独り言のように呟いたが、声音に侮蔑はなかった。
外へ出ると、夜はさらに冷えていた。
晩春だというのに吐く息が白い。地面は湿り、踏むたびに靴底へ張りつく。
見張りの松明が風に揺れ、火の粉が暗がりへ散った。
少し先に、アンナの姿があった。
炊事場からの戻りだろう。湯気の立つ桶を抱えたまま、天幕から出てきたエルネストを見つけて足を止める。
駆け寄ることはしない。ただ、その目が泥と血に汚れた外套の裾を見て、頬の汚れを見て、それからようやく顔へ戻った。
「……お帰りなさい、エルネストさん」
声は静かだった。
しかし返事はない。
それでもアンナは気にした様子もなく、傷の具合を確かめるようにひと目だけ見て、小さく息をついた。
「お湯、持っていきます。少しでも、汚れを落としてください」
エルネストがわずかに顎を引く。
アンナもそれ以上は言わず、道を空けるように半歩下がった。
すれ違いざまに桶の縁を握る手から力が抜けた。そのことに気づいているのは、おそらく彼女自身だけだろう。
エルネストが天幕の列の間を歩いていく。
正規兵たちの区画は静かだった。誰もが明日に備えている。
刃を研ぐ者。壁にもたれる者。目を閉じている者。酒に逃げようとする者。
だが、どの顔にも余裕はない。
さらに奥へ進む。
粗末な天幕が並ぶ区画へ入ると、空気が変わった。
戦奴隷たちのいる場所だ。
布は薄く、焚火は小さい。湿った藁と汗の臭いが鼻を突く。地べたに座った男たちは痩せ、疲れきった顔で木椀を抱えていた。
その焚火のひとつから、聞き覚えのある声が上がった。
「おい、なんだ。生きてたのか」
バートだった。
巨体を丸めるように座っていた男は、エルネストを見つけるとにやりと笑った。
その隣で、エティが顔を上げる。
「……お前、帰ってきたのか」
その声には、露骨な安堵が混じっていた。だが、それを悟られたくなかったのか、エティはすぐに顔をしかめた。
手にした木椀を膝の上で揺らし、わざとぶっきらぼうな調子を作る。
「いや、別に心配してたわけじゃねぇぞ。ただな、お前がいねぇまま戦が始まるかと思ったら、ちょっと嫌だっただけだ」
「同じことだろ」
焚火の向こうで、バートが笑う。その大きな背中は、周囲の痩せた戦奴隷たちの中ではやけに目立った。
「うるせぇ」
エティが木椀を揺らしてみせる。中身はほとんど汁だけだった。
「見ろよこれ。豆が沈んでるだけだぞ。明日から本隊戦だってのに、食いもんは相変わらずこれだ。やってらんねぇ」
焚火の周りには、同じような椀を抱えた戦奴隷たちが何人もいた。誰もが疲れた顔をしている。明日の戦を前にしても、腹を満たせるほどのものは与えられていなかった。
エルネストはなにも言わず、焚火のそばへ立つ。
火の明かりが、泥と血で汚れた外套の裾を赤く照らした。
バートがその肩を軽く叩いた。
「どうだった?」
エルネストが焚火を見つめたまま答える。
「……いつも通りだ」
「雑だなぁ」
バートが笑う。
エティは眉をひそめたまま、椀の汁をひと口すすった。
「お前、明日は前に出るのか?」
エルネストが首を振る。
「まだだ」
「まだ?」
「温存かよ」
エティが心底羨ましそうな顔をした。
戦奴隷である以上、前へ押し出されて当然だ。そうでないだけで、扱いの違いは十分すぎるほどわかった。
「いいご身分だな、おい。こっちは最初から身体を張ってるてぇのに」
「だがよ、温存ってのは、最後に一番きついところへ突っ込まされるってことだろ」
バートが横から言う。
「それはそれで御免だな」
「……たしかに」
エティが唸る。
少しだけ間が空いた。焚火の火がぱちりと鳴る。
周囲の戦奴隷たちも、露骨にならぬ程度にエルネストの方を見ていた。戻ってきたことだけは確かめているらしかった。
エティがぼそりとこぼす。
「でもまぁ、いるだけマシか」
エルネストは答えない。
バートが木椀を傾け、中身を飲み干した。
「そりゃそうだ。こいつは最初から前へ出される駒じゃねぇ。押し切れねぇところを無理やり破る時に使われるんだ」
「自分で言ってて嫌にならねぇのか、その言い方」
「嫌にはなるが、違ってもいねぇ」
バートは肩をすくめた。
エティがエルネストを見る。
「……戻ってきてくれて助かった、って言ったら気持ち悪いか?」
返事はない。
「そうだよな、お前そういうやつだよな」
自分で言って、自分で納得したように頷く。
バートが笑った。
「で、飯は食ったのか?」
エルネストは短く答える。
「あぁ」
「なにをだ」
「パンと肉」
一拍おいて、エティの顔が固まった。
「は?」
バートが吹き出す。
「おいおい、本当か」
「ふざけんなよ!」
エティが声を荒げた。
「こっちは汁だぞ! 肉ってなんだ! 白パンか!? どうせ白パンもあったんだろ!」
エルネストは黙っている。
その沈黙が、肯定にしか見えなかった。
「くそっ、やっぱりか!」
エティが頭を抱える。
「なんで同じ戦奴隷でこうも違うんだよ! 俺も突破戦力になりてぇよ!」
「お前は突破する前に折れるだろ」
バートが笑う。
「うるせぇ!」
怒鳴りながらも、さっきまでの沈んだ調子は少し薄れていた。
しばらく、誰も喋らなかった。焚火の火だけが小さく揺れている。
それを戦奴隷たちは木椀を抱えたまま見ていた。
明日になれば、その多くが前へ押し出される。誰も口にはしないが、それは皆わかっていた。
やがてエティが、低い声で言う。
「……明日、勝てるのかね」
それは普段の軽口ではなかった。
バートもすぐには答えない。火を見つめたまま、鼻を鳴らす。
「知らねぇよ」
「出たよ、それ」
「知らねぇもんは知らねぇ。ただ、負けりゃ終わる」
「最悪だな」
「いつも通りだろ」
エティは小さく舌打ちしたあと、エルネストを見た。
「お前はどう思う」
エルネストは焚火を見つめたまま、しばらく黙っていた。
そして、ひとことだけ言う。
「勝つ」
それだけだった。
根拠も説明もない。だが、その一言だけで場が静まり、バートが口の端を吊り上げた。
「それで十分だ」
エティは顔をしかめた。
「雑すぎる……でもまぁ、今はそれでいいか」
夜はそのまま更けていった。
焚火だけが、黙り込んだ男たちの顔をかすかに照らしている。
その先に待つ朝を、誰も口にはしなかった。




