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第40話 愚痴

 ジルニッツ王国の貴族連合軍の一角で、グスタフ・ノール子爵は肩をひとつ回して顔をしかめた。


 鎧が合っていないのだ。

 父の代から家に伝わるものだから仕方ない、と言われればそれまでだが、仕方ないで済ませるには肩も脇も痛すぎる。


 胸当ては妙に大きく、歩くたびに上下に揺れる一方で、肩回りは不自然に食い込んでくる。どう見ても、今のグスタフには一回り大きかった。


 手甲の革紐を結び直しながら、グスタフはうんざりした顔で息を吐く。


「……戦の前に鎧に殺されそうだ」


 思わず漏れた独り言に、すぐ横から笑い声が返ってくる。


「それは困るな。まだ敵の顔も見ていない」


 隣にいたアルノー・ショルツ男爵だった。


 年は近い。育った土地も近い。爵位で言えばグスタフの方が上だが、そんなものを今さら持ち出す間柄でもなかった。

 互いの父親同士の代から付き合いがあり、若い頃には狩りも酒も一緒にやった仲だ。戦場に出てなお、気安く話しかけてくる数少ない相手でもある。


「笑い事じゃないぞ」


「顔がそう言ってない」


「本気だ」


 グスタフは苦々しく言い、腰の剣帯を直した。


 自分の身体に合っていないのは、なにも鎧だけではない。

 この場そのものが、まるで合っていなかった。


 彼は三年前に父親から家督を継いだ、ノール家四代目当主である。

 響きこそ立派だが、中身は大したものではない。領地は南北に走る街道沿いにあるとはいえ狭く、これといった産物もなく、昔から関所の通行料と宿場の税でどうにか食いつないできたような小さな子爵家だ。


 そんな家が、今は王命ひとつで兵を出し、前線へ立っている。


 どういう因果だ。

 喉元まで出かかった愚痴を、グスタフはひとまず飲み下した。


 視線を上げれば、野営地のあちこちに自領の兵と、呼びかけに応じて集まった傘下の騎士爵家の者たちがいる。

 誰の目にも統一された軍には見えない。鎧は古いものも新しいものもあり、剣の長さも鞘の意匠もばらばらで、盾に描かれた紋章も色も揃っていなかった。


 もはや一つの領地の軍ですらない。いわば、同じ旗の下に集められた寄せ木細工のような集団だった。



 その中の一角で、兵の潜めた声がふと耳に入った。


「……こんなとき、勇者様がいてくれたらな」


 すぐに別の声が遮る。


「しっ。やめろ。その名は口に出すなと言われているだろう」


「……ああ、悪い」


 それきり、会話は途切れた。

 

 だが、完全に消えたわけではない。

 聞こえなかったふりをしているだけで、周囲の何人かがわずかに顔を上げた。焚火の明かりの中で、言葉にならなかったものだけが、静かに揺れている。


 グスタフもまた、なにも言わなかった。

 

 知らぬはずがない名だ。

 だが、軽々しく口にしていい名でもない。


 王都からの布告には、勇者は乱心した逆賊として死んだと書かれていた。


 それでも。


 こうして戦場に立たされていれば、ふと口をついて出てしまうのも無理はない。

 もし、あの男がいたなら――そんな、どうしようもない仮定が。


 

 周囲を見渡す。

 

「改めて見ると、ひどいな」


 グスタフがぼそりと言うと、アルノーも周囲を見回した。


「立派に見えるのは旗だけだ」


「旗だけでも立派に見えるなら、まだましだろう」


「お前のところの兵は、まだちゃんと靴を履いてるじゃないか。うちは一人、左右で別々の靴を履いてきたぞ」


「……嘘だろう」


「本当だ。見た時はさすがに頭が痛くなった」


 グスタフは鼻で笑いかけて途中でやめた。

 笑っている場合ではない。この連中で本当に戦うのだと思えば、冗談では済まされなかった。


「全軍を挙げて敵を迎え撃たねばならんのは分かる」


 彼は声を落として言った。


「だが、こんなので大丈夫なのか」


「さあな」


 アルノーは肩をすくめる。


「俺たちは王命で兵を出しただけだ。もともと領内の見回りと盗賊退治くらいしかしてないぞ。他領の兵と肩を並べて大軍を組むなんて、誰も想定しちゃいない」


「それはうちも同じだ」


 グスタフは苦い顔をした。


 戦の備えといっても、精々が村同士の揉め事や山賊避けの延長でしかない。大軍が動き、隊列がぶつかり、何百何千という兵がひとつの意思で進むような戦は書物の中でしか見たことがなかった。


「ディーター司令も苦労しているそうだな」


 アルノーが言う。


「我らのような小領主は大人しく従うしかないが、伯爵だの侯爵だのになると話が違うらしい」


「そのようだな」


 グスタフは顔をしかめた。


「誰が中央に出るだの、どの家の旗が前に立つだの。馬鹿としか思えん」


「戦功の取り分がどうとかも聞いた」


「この状況でか」


「この状況だからだろうな。連中にとっては」


 アルノーの言葉に、グスタフは返事をしなかった。


 実際、その手の話は耳に入っていた。

 どの家がどれだけ兵を出したか。どの隊が前衛に立つべきか。左翼の配置は家格に見合わないだの、予備兵の配分が軽んじられているだの。

 戦が始まる前から、盤面の外で削り合っている。


 戦に負ければ、爵位も領地もすべて失いかねない。

 そうなれば前衛も中央もないというのに、どうしてそこまで家格に執着できるのか、グスタフには理解できなかった。


「……家格を競っている場合かよ」


 つい口をつく。


「最悪だな」


「ああ。最悪だ」


 アルノーはあっさり認めた。


 沈黙が落ちる。

 その向こうで、兵が槍を立て直し、馬丁が声を荒げ、鎧が鳴った。

 人は多い。旗も多い。だが、それらが一つの軍であるようには到底見えなかった。



 兵が集められてから、もう一月が経つ。


 最初の頃はまだよかった。

 皆、緊張していたし、どこか高揚感もあった。王命に応じ、国を守る戦に出る。そう言われれば、領主も兵もそれなりに胸を張れた。


 だが一月だ。


 出るぞと言われては待ち、動くぞと言われては布陣だけ変え、また待つ。

 その間に食糧は減り、馬は痩せ、兵たちは緩み始めていた。初めての戦に備えていた張りは、いまや苛立ちと倦怠へと変わりつつある。


「そっちはどうした」


 アルノーがふと思い出したように言った。


「家族は」


「妻子なら義父のところへやった」


「疎開か」


「疎開というほど大げさなものでもない。ただ、ここよりはましだろう」


「うちは嫁が嫌がってな。領地を空けるなと」


「気丈なことで」


「ただの頑固者だよ」


 そう言って、アルノーは少しだけ笑った。


「子どもらは実家へ押し込んだがな」


「賢明だ」


「お前のところは?」


「妻と娘二人に泣かれた」


「それはつらいな」


「泣きたいのはこっちだ」


 半ば本気で言うと、今度こそアルノーが声を立てて笑った。

 その笑いが少しだけ救いだった。でなければ、鎧の重さと空気の悪さに押し潰されそうだった。


 グスタフは空を見た。

 曇っている。陽は高いはずなのに、薄い雲が広がって色が冴えない。いかにもなにか始まりそうなのに、なにも始まらない空だった。


「正直なところ」


 グスタフは低く言った。


「俺は、このままなにも起きなければいいと、少し思っている」


「少し、か?」


「かなり、だ」


「だろうな。俺も同じだ」


 アルノーは笑わなかった。


「だが、そうはいかんのだろう」


「ああ」


 グスタフは答えた。


 いずれ来る。

 オーランジュ軍の本隊が。

 その時になって、この寄せ集めがどこまで持つのか。考えたくもなかった。


 その時、遠くで角笛が鳴った。


 短く、乾いた音。

 野営地のあちこちで人の動きが一瞬止まり、それからざわめきが広がる。伝令が馬を飛ばして横切り、別の方角では旗手が慌てて持ち場を確認していた。


 まだ開戦の合図ではない。

 それでも、空気が変わったのは分かった。


 アルノーが小さく息を吐く。


「……始まるか?」


「いや、まだだろう」


 グスタフはそう言ったが、声に自信はなかった。


 角笛はもう鳴らない。だが一度変わった空気は戻らず、兵たちの顔からも先ほどまでの弛みが消えつつあった。


 待つだけの時間が、終わるのかもしれない。


 グスタフは肩に食い込む鎧の重みを感じながら、無意識に剣の柄へ手を置いた。

 手のひらに汗が滲んでいる。


 自分は父から領地を受け継いだだけの男だ。

 戦働きで名を挙げたこともなければ、大軍を率いたこともない。

 そんな男が今、こうして前線に立っている。


 あまりに分不相応だと思う。


 それでも立っているしかない。

 立たねば、後ろにいる家族も領地も、守るものすべてがたちまち崩れるのだ。


 遠くでまた、人のざわめきが大きくなった。


 グスタフは唇を引き結ぶ。

 隣ではアルノーも、もう笑っていなかった。


 戦はまだ始まっていない。

 それなのに、胸の内だけが先に疲れ始めていた。

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