第39話 帰投命令
魔法騎士隊は先の戦いで確かな損耗を受けていた。
戦死一名。重傷二名。軽傷五名。
ただでさえ数の少ない部隊にとって、決して軽い数字ではない。
しかも、死んだのは未熟な若手ではなく、前線の空気にも慣れた中堅だった。
くわえて、重傷者のうち一人はしばらく戦列に戻れそうになく、軽傷者たちも動けるというだけで、戦闘に耐えられるかはまた別の話だ。
補給を許せば、オーランジュ軍はたちまち体勢を立て直す。一度は崩せても、物資と時間を与えれば、また前へ出てくる。
任務が止まらない以上、魔法騎士隊も動き続けるしかなかった。
だが、その代償は着実に積み上がっている。
林縁に敷かれた仮の野営地には、負傷者の呻きと、湿った薪の燃える匂いが重く垂れ込めていた。
◆◆◆◆
一方、オーランジュ軍の遊撃隊も無傷ではなかった。
街道から少し外れた林の縁。
小さく抑えられた焚火の明かりが、泥と血に汚れた兵たちの顔を鈍く照らしている。
魔法騎士隊との連戦で、隊はじわじわと削られていた。
浅い傷なら誰もが負っている。深手を負った者は、歯を食いしばって横たわり、包帯に滲んだ血が乾いて黒く固まっていた。
そんな中、本隊からの伝令が来た。
「マルク隊長」
息を切らせた兵が一礼する。
マルクは木箱に腰掛けたまま、気だるそうに顔を上げた。
「今度はなんだ」
「本隊より命令です。補給線護衛ならびに遊撃任務を打ち切り、直ちに帰投せよとのことです」
「……は?」
思わず間の抜けた声が出た。
伝令は表情を変えない。
「繰り返します。補給線護衛ならびに遊撃任務を――」
「聞こえている」
マルクは片手を振って遮った。
それから眉間を押さえ、小さく息を吐く。
「で、理由は」
「すべての補給を止めることは不可能であり、一定の損耗は許容するとの判断です。今後は本隊同士の戦いに備え、兵を前線へ集めると」
「ふっ」
乾いた笑いが漏れた。
笑ったというより、鼻で吐いたに近い。
「じゃあ今までの苦労はなんだったんだって話だな」
「隊長」
「分かってる。命令は命令だ」
そう言いながらも、口元には薄く苦味が残る。
何日も泥を踏み、補給路を這い回り、死体の横で飯を食い、夜襲まで受けてきたのだ。
ようやく形になってきたと思ったところで、今度は戻れと言う。愚痴のひとつも出る。
「……ったく」
マルクは立ち上がり、焚火の向こうを見た。
そこで、少し離れた暗がりに立つエルネストの姿が目に入る。
木立の影に半ば溶けるように、ただじっと夜の奥を見ている。
外套は血と泥で汚れているが、戦場帰りとしてはいつもと大差ない。顔にも変わらぬ無表情が張りついている。
ぱっと見れば、普段通りと言ってしまえそうな姿だった。
だが、マルクにはそう見えなかった。
なにが違うのか。ひと言では説明できない。
ただ、あの男だけが妙に沈んで見える。
周囲の死体も負傷兵も見えているはずなのに、まるでそれとは別のところへ意識を引かれているような、そんな立ち姿だった。
「おい」
思わず声をかける。
エルネストはゆっくりと振り向いた。
返事はない。
「戻るぞ。本隊だ」
数瞬の沈黙のあと、エルネストは小さく頷いた。
それだけだった。
マルクはその顔を見つめる。
やはり、なにかがおかしい。いつもならなにを言っても石みたいに動かないのに、今日はその石が妙に深い水底へ沈んだように見える。
「傷は」
「……平気だ」
「そうかよ」
珍しく返ってきた言葉は、それだけだった。
マルクは鼻を鳴らして踵を返す。
聞いてどうなるものでもない。こいつが喋るとも思えない。
それでも、胸のどこかに妙な引っかかりだけが残った。
「全員に伝えろ!」
振り返りざま、マルクが怒鳴る。
「遊撃任務は終わりだ! 本隊へ戻るぞ! 死にかけも担いで連れてけ! 置いていくなよ!」
誰かが「へいへい」と気の抜けた返事をし、別の誰かが「ようやくか」と吐き捨てる。
疲れ切った兵たちの間に、安堵とも諦めともつかぬ空気が広がった。
補給線を追い回す段階は終わった。
次に来るのは、もっと大きな戦だ。
そのことを、誰もが理解していた。
◆◆◆◆
同じ頃、魔法騎士隊の野営地にも伝令が届いていた。
ヘルムートは書面にざっと目を通すと、火のそばにいた隊員たちを見回した。
「聞け」
その一声で、ざわついていた空気が止まる。
「補給線破壊任務はここで打ち切る。本隊へ帰投だ」
「帰投?」
「いよいよ来るってことか……」
「本隊同士がぶつかるのか」
押し殺した声がいくつも漏れた。
ヘルムートが頷く。
「そういうことだ。これ以上、小刻みに補給路を絶っている段階ではない。主力が動く」
「……了解」
答えたのはリリィだった。
その声はいつも通りに聞こえたが、胸の内は穏やかではなかった。
補給線狩りが終わる。ということは、あの戦奴隷を追う機会も、いったんはここで切れるということだ。
そう考えた瞬間、自分でも意外なほど強い引っかかりが胸に残る。
追いたいのか。
確かめたいのか。
それとも、もう一度会うのが怖いのか。
どれも正しく、どれも違う気がした。
「副隊長」
横から声がした。
オスカーだった。
「これで、しばらくは補給部隊狩りも終わりですね」
「ああ」
短く返す。
「……なにか、気になりますか」
「いや」
リリィは少しだけ間を置いてから言った。
「なんでもない」
「そうですか」
オスカーはそれ以上なにも言わなかった。
森での一件以来、彼はなにか思うところがあるようだったが、無理に踏み込んでこない。
ヘルムートが命令を続ける。
「負傷者は馬へ回せ。動ける者は装備をまとめろ。出るのは夜明けと同時だ」
「はっ」
短い返答が重なる。
火の向こうで揺れる隊員たちの顔は、誰もが疲れていた。
だが、その疲れの奥にあるものは共通していた。
ついに来るのだ。
局地戦ではなく、軍と軍が正面からぶつかる時が。
リリィは黙ったまま、遠くの暗がりを見た。
あの森の奥も、あの男も、ひとまずここで切れる。そう分かっているのに、胸の奥に残る棘だけは抜けなかった。
◆◆◆◆
翌朝、両軍はそれぞれ本隊へ引き返し始めた。
オーランジュ側では、負傷兵を荷駄車へ押し込み、武具と死体と食料を無理やりひとまとめにして動かしていく。
ジルニッツ側では、損耗した魔法騎士隊が静かに馬を進める。動けぬ者は支えられ、歩ける者だけが歩いていた。
局地戦の時間は終わった。
これからは、本隊そのものがぶつかる。
その空気は、まだ姿の見えぬ雷雲のように、すでに両軍の頭上へ垂れ込めていた。
マルクは肩越しに後ろを見た。
もう補給路を警戒する必要はない。だが、だからといって気が楽になるわけでもない。
次はもっと厄介だ。規模も、死人の数も、今までとは比べものにならない。
その少し後ろを、エルネストが無言で歩いていた。
顔は変わらない。
歩き方も変わらない。
それでも、どこか遠い。
リリィもまた、別の場所で馬を進めながら、口を結んでいた。
小競り合いは終わった。
だが、終わったからといって、胸の内まで片づくわけではない。
誰もが、それぞれのものを抱えたまま、前線へ戻っていく。
いよいよ本隊同士がぶつかる。
その時が、もうすぐそこまで来ていた。




