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第37話 鍋の音

 貴族連合軍の指揮所は、朝の冷えた空気の中でも落ち着かなかった。

 天幕の外では、兵が行き交い、馬が鼻を鳴らし、どこかで荷が下ろされる音がする。だが、その慌ただしさのわりに、軍全体が一つにまとまっている感じは薄い。

 

 寄せ集めの軍とはそういうものだった。

 命令は下る。兵は動く。しかし、その間にいる貴族どもの面子と損得が、なにをするにも妙な澱みを生む。


 司令ディーター・フライベルクは、その澱みにうんざりしていた。


 中央の机に広げられた地図へ視線を落としながらも、耳は別のところへ向いている。

 つい先ほどまでいた男爵が、自領の兵はこれ以上前へ出せぬだの、馬を減らされたら困るだのと散々喚いたばかりだった。


 そうかと思えば別の伯爵が、中央への配置換えを匂わせて探りを入れてくる。

 戦の話をしているはずなのに、頭数と面子の話ばかりだった。


 その時、天幕の入り口が鳴った。


 副官ゲロルトが戻ってくる。

 その後ろには、見慣れぬ魔法騎士が立っていた。


「司令」


 ゲロルトが一礼する。


「魔法騎士隊より伝令です。ヘルムート・リューム隊長の書面を持参しております」


「通せ」


 短く答える。


 中へ入ってきたのは、三十前後の男だった。

 鎧は汚れているが、背筋は崩れていない。無駄な緊張もなく、かといって弛みもない。

 ヘルムートが使いに寄越すだけのことはある、とディーターは思った。


「ベルンハルトと申します」


「要件は」


「魔法騎士隊隊長ヘルムート・リュームより、司令へ急報です」


 差し出された書面を、ディーターはその場で受け取った。


 文面は短かった。余計な修飾もなければ、断定もない。現場でなにがあったかを最低限に絞って記してある。

 隊長らしい書き方だ、とディーターは思った。途中で誰の目に触れても困らぬよう、意図的に削いだ文だった。


 だが、それだけに行間が広い。


「口頭で補え」


「はっ」


 ベルンハルトはすぐに応じた。


「夜明け前、我が隊の見張り線に不審者が接近。捕縛時にはすでに瀕死でした。男は王妃殿下の私印付きの羊皮紙を所持しており、死亡前に言伝(ことづて)を残しております」


「内容は」


「『任は果たせず。だが、『例の者』が懸念通りであったことは確認した』――以上です」


「……」


 ディーターの指先が、書面の端で止まる。


「男の身なりは」


「兵には見えませんでした。色味を落とした軽装。汚れ仕事に慣れた者のようであったと、現場の報告にあります」


「私印は本物か」


「副隊長付きの古参隊員が、本物と判断しております。――これを」


 そこでベルンハルトは、丁寧に包まれていた羊皮紙そのものを差し出した。


 ディーターはそれを受け取る。

 封じ目に残った紅の蝋は、たしかに見覚えがあった。

 王家の公印ではない。表に出るものでもない。だからこそ、見間違えようがなかった。


 王妃コルネリアの私印。


 その一瞬で、頭の中にいくつもの線が走った。


 ここは前線だ。

 軍が把握し、軍が動かすべき場所である。

 そこへ王妃の私印を帯びた者が現れ、何らかの密命を遂行し、死に際に報告だけを残した。


 それがなにを意味するか。


 自分の知らぬところで、王妃の手が前線まで伸びている。

 しかも、軍の指揮系統とは別の論理で。


 ディーターは羊皮紙を机へ置いた。


「この件を知っているのは」


「ヘルムート隊長、リリィ副隊長、オスカー・バルテン、それに私のみです」


「他には漏らすな」


「はっ」


 ベルンハルトが背筋を伸ばす。

 その横でゲロルトが口を開いた。


「司令、これは――」


「分かっている」


 ディーターが遮るように言った。

 分かっている。だからこそ、正面から触れるべきではない。


 伝言の相手は、王妃コルネリアで間違いないだろう。だが、直接照会すれば警戒を与えるだけだ。知らぬ存ぜぬで押し切られるか、あるいはもっと深く潜られる。

 いま必要なのは、問い詰めることではなく足元を探ることだ。


 王都には、まだ使える人間がいる。

 王宮に出入りできる古い伝手も、完全に切れたわけではない。


「ゲロルト」


「はっ」


「内々に照会をかける。王妃周辺、それとルッツの動きだ。表向きは通常の軍務連絡に紛れ込ませろ」


「承知しました」


「これはまだ王妃の名で扱うな。前線の不審者案件として止めておけ」


「はっ」


 そのやり取りの前で、ベルンハルトは黙って立っていた。

 余計なことを聞かず、ただ必要な返答だけを待っている。


 ディーターは視線をそちらへ向けた。


「隊長には、受領したと伝えろ。羊皮紙はこちらで預かる」


「承知しました」


「それと、この件は現場にも口を慎ませろ。余計な憶測を広げるな」


「はっ」


 それで十分だった。


 ディーターは机上の羊皮紙をもう一度見た。


 王妃が前線になにを見ているのか。

 なにを知っているのか。


 まだ分からない。


 だが、軍の外の手が伸びている以上、放置はできなかった。



 ◆◆◆◆



 同じ頃。

 オーランジュ軍の本陣では、ハインツのもとへ伝令が駆け込んでいた。


 副官マティアスがそれを通し、土にまみれた兵が天幕の中へ膝をつく。

 顔色は悪いが、意識ははっきりしていた。夜通し走ってきたのだろう。肩が上下していた。


「マルク隊より報告です」


 そう言って差し出された書面を、ハインツは受け取った。

 ざっと目を走らせる。


 夜襲。

 死者三名。

 相手は普通の兵ではない。

 遊撃隊員の補充要請。


 そこで一度、視線が止まった。


「……ほう」


 小さく漏れた声に、マティアスが反応する。


「なにか」


「いや」


 ハインツは書面を机へ置いた。


「面白くない話というだけだ」


 一言告げて、伝令へ向き直る。


「マルクはなんと言っていた」


「敵は暗殺者の類ではないかと。毒、夜襲、軽装、いずれも兵のそれではなかった、と」


「他には」


「目的は不明。だが遊撃隊を狙っていたのは間違いないと」


「そうか」


 ハインツは頷いた。表情はほとんど変わらない。

 しかしマティアスには、大隊長がなにかに気づいていることが分かる。

 そういう時の顔だった。


「補充は?」


 とマティアスが尋ねる。


「回せる範囲で回す」


 ハインツは淡々と答えた。


「遊撃を止めれば補給線がまた食い荒らされる。向こうが仕掛けてくるにせよ、こちらが引く理由にはならん」


「承知しました」


「それと、マルクに伝えろ。警戒を倍にしろ。火も配置も、今まで通りだと思うな」


「はっ」


 そこで伝令は下がらされた。



 再び天幕の中が二人だけになる。

 マティアスが小さく息を吐いた。


「大隊長。狙いはやはり――」


「口にするな」


 ハインツは即座に切った。

 副官が黙る。しかし、言わずとも分かることはある。


 夜襲の相手がただの遊撃隊だったとは、ハインツも思っていない。

 連中の狙いは、遊撃隊の中にいる『誰か』だ。

 そう考える方が自然だった。


 もっとも、それを表に出すわけにはいかない。

 エルネストの正体を知る者は限られている。そこを広げる愚は犯せない以上、今はまだ、なに食わぬ顔で使い続けるしかなかった。


「妙な真似をしてくる」


 ハインツが椅子に深く腰を預けたまま言う。


「こちらが隠しているものに、鼻の利く犬が寄ってきたと見るべきでしょうか」


 マティアスが低く問うと、ハインツは口の端だけで笑った。


「犬ならまだいい。首輪をつけて引き回せる」


 その目は笑っていない。


「だが、今回は違う。だから始末が悪い」


 マティアスは返事をしなかった。

 返す必要がなかったからだ。



 ◆◆◆◆



 炊事場では、大鍋の中身がぐつぐつと重たい音を立てていた。


 アンナは柄杓でそれをかき回しながら、湯気の向こうの火を見る。

 夜明けからしばらく経っているというのに、空気はまだ冷たい。手元の熱がなければ、指先まで強張りそうだった。


 その時、外が少しざわついた。


 視線を上げる。

 土を蹴り上げるように走ってくる兵が一人、ハインツたちのいる方へ消えていくのが見えた。


 ただの伝令。

 それだけのことかもしれない。

 けれど胸がざわついた。


「いまの、遊撃隊からじゃない?」


 別の炊事係の女が言う。


「さあね」

「なんか慌ててたよ」

「また被害でも出たんじゃないの」


 その、なに気ない噂話がアンナの手を一瞬だけ止めた。


 遊撃隊。


 そこにエルネストがいることを、彼女は知っていた。


 戦争なのだから、死傷者が出るのは当たり前だ。

 そんなことは分かっている。

 分かっているのに、胸の奥では別の声がする。


 あの人ではありませんように。


 それだけを、ひどく幼い願いのように繰り返してしまう。


 アンナは小さく息を吸うと、止まりかけていた手を動かした。

 鍋は待ってくれない。火も、湯も、配る椀も、いつも通りに用意しなければならない。


 自分にできることはなにもない。

 前線へ走っていくことも、剣を取ることもできないのだ。


 だからせめて、戻ってきた者へ出す湯だけは切らさぬようにする。

 それくらいしか、できることがなかった。


 ぐつぐつと煮える鍋の音だけがやけに大きく聞こえる。

 それだけが、胸のざわつきを誤魔化してくれるような気がした。

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