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第36話 荒唐無稽

 夜明けはまだ遠かった。

 東の稜線がわずかに白み始めてはいるが、街道沿いの野営地にはなお夜の冷たさが残る。

 焚火も細く、灰をかぶった火がときおり脈を打つように揺れるだけだった。


 その外縁、見張り線を巡っていた隊長ヘルムート・リュームを、リリィとオスカーが見つけて駆け寄ってくる。

 二人の顔を見るなり、隊長はただならぬ空気を察した。


「なにかあったのか」


 リリィが短く頷いた。


「不審者を捕えました。すでに死にましたが」


「どこで」


「川下の見張り線です。夜番が最初に見つけました」


 オスカーが一歩前へ出る。


「その男が、これを」


 差し出されたのは、小さく折り畳まれた羊皮紙だった。

 封じ目には、深い紅の蝋が残っている。そこへ押されていたのは王家の公印ではなく、百合を崩したような、どこか女の私物めいた繊細な印だった。


 ヘルムートの目が、わずかに細くなる。


「……分かるか?」


「王妃殿下の私印です」


 オスカーは低く答えた。


「表には出ないものです。ですが、見間違えようはありません」


「偽物では?」


「その可能性がないとは言い切れません。ですが、少なくとも私には本物に見えます」


 短い沈黙が落ちた。


 ヘルムートは羊皮紙を受け取ると、しばらくなにも言わずにそれを見ていた。

 王妃の私印――その一点だけで、この件がただの不審者騒ぎでは済まないと理解したのだろう。


「男はなにか言ったのか」


「言伝を頼まれました」


 今度はリリィが答えた。


「『任は果たせず。だが、“例の者”が懸念通りであったことは確認した』――そう言い残して死にました」


 ヘルムートは顔を上げた。


「『例の者』……か」


「意味は分かりません」


「だろうな」


 隊長は短く言った。

 それから、ひどく慎重な声で続ける。


「状況から見て、そいつはオーランジュ軍の内側でなにかをしていたのだろう。失敗したか、あるいは見つかったか。いずれにせよ、死ぬ前にこちらを頼って報告だけは果たそうとした――そう考えるのが自然か」


「私もそう思います」


 リリィが答える。


「しかし、それ以上は分かりません。『例の者』が誰なのかも、『懸念』がなんなのかも」


「あぁ」


 さっぱり分からない。

 だが、だからといって黙殺できる話でもない。


 王妃の私印を帯びた者が前線の近くで死に、その最後の言葉がこれだ。現場判断で飲み込んでよい話ではない。

 ヘルムートは迷わなかった。


「司令へ上げる」


 そう言ってから、彼は少しだけ眉を寄せた。


「とは言うが、私が動くのはまずい。現場を離れられん」


「では」


「書面を作る。実物も添える」


 ヘルムートがオスカーへ視線を向ける。


「オスカー、ベルンハルトを起こせ。事情は伏せていいから、伝令の支度だけ整えさせろ」


「はっ」


「馬も選べ。足の確かなやつを一頭出せ」


「承知しました」


 オスカーは一礼すると、すぐにその場を離れた。

 足音が遠ざかる。


 その背を見送ったあとで、ヘルムートは改めてリリィへ向き直った。


「……それで、フォーゲル。まだなにかあるな」


 図星だった。

 リリィは一瞬だけ口をつぐみ、わずかに視線を落とす。だが、すぐに顔を上げた。


「……ひとつ、気になることがあります」


「言え」


「荒唐無稽だと、笑ってもらって構いません」


 ヘルムートは笑わなかった。

 ただ、続きを待った。


 リリィが一拍置いて言う。


「昼間に見た、あの戦奴隷のことです」


「奴隷?」


「傷も汚れもあって、顔はそこまでは分かりませんでした。しかし、剣の運びと、魔力の使い方が――あまりに見覚えがありました」


「誰に」


「……勇者エルヴァンに」


 言ったあとで、自分の声が思ったより乾いていることに気づく。

 たぶん、それだけ長く喉の奥で温め続けていた言葉だったのだろう。


 さすがに、今度ばかりはヘルムートもすぐには返さなかった。それでも言葉を選んだ。


「ありえん」


 断定というより、自分に言い聞かせるような声だった。


「私もそう思います。しかし、それでも――単なる見間違いでは済ませられません」


 ヘルムートはしばらく黙っていた。

 笑いはしない。だが、すぐ信じるわけでもない。その沈黙の重さが、そのまま思案の深さに見えた。


「馬鹿げている――と言いたいところだ」


 やがて、そう言った。


「しかし、お前がそこまで言うなら、聞き流すわけにもいかん」


「では――」


「いや。その話は書面には載せない」


 きっぱりとした口調だった。


「王妃の私印と言伝だけで十分に重い。そこへ勇者の名まで混ぜれば、話が飛躍しすぎる」


「……はい」


「その懸念は、ひとまずここで止めろ。私とお前、二人の胸の内だけにしまっておく。いいな」


「了解しました」


 ヘルムートはそこでようやく、少しだけ息を吐いた。


「伝令にはベルンハルトを使う。書面の扱いも口も固いからな」


「妥当です」


「フォーゲル、お前はもう少し休め。顔色が悪い」


「……眠れそうにありません」


「だろうな」


 それだけ言って、ヘルムートは踵を返した。

 夜明け前の薄闇の中へ、隊長の背が遠ざかっていく。



 しばらくして、書面を受け取った中堅の隊員が、封じた羊皮紙と報告書を預かり、馬へ跨った。

 ベルンハルトは寡黙な男だ。

 余計なことを言わず、必要なことだけを理解した顔だった。


「司令へ直接届けろ」


 ヘルムートが命じる。


「はっ」


「途中で誰にも見せるな。口頭での補足も忘れるな」


「承知しました」


 馬が蹄を鳴らし、夜明けへ向かって駆けていく。

 その背を見送りながら、リリィはじっと立ち尽くしていた。


 荒唐無稽だ。

 自分でもそう思う。


 だが、あの剣筋だけは、どうしても頭から離れない。

 王妃の私印を持つ者が命を賭して残した言葉と、昼間の戦奴隷の姿。それが、胸の中で気味悪く絡み合っていた。



 ◆◆◆◆



 同じ頃。

 オーランジュ軍の遊撃隊の野営地では、夜襲の後始末が続いていた。


 空はまだ暗い。火を戻した焚火の明かりが、死体と負傷者の顔をぼんやり照らしている。湿った土には血が吸い込まれ、黒く濁った染みになっていた。


 肩を切られた槍兵は、結局、明け方を待たずに死んだ。


 傷そのものは深くなかったが、刃に塗られていた毒の回りが早かったのだろう。

 最初は歯を食いしばって耐えていた男も、やがて痙攣を起こし、泡を吹き、最後にはまともに息もできなくなった。


 最終的な被害は、見張りに立っていた盾兵ひとり、焚火のそばで胸を刺された弓兵ひとり、そして毒を受けた槍兵ひとり。

 計三名の死亡だった。


 マルクは死体を見下ろしながら、短く息を吐いた。


 重い。

 だが、遊撃任務そのものを止めるわけにはいかない。


 補給線を守る兵が消えれば、敵はまた食い荒らしに来る。

 夜襲の理由は分からないが、それと任務の是非は別だった。


「本隊へ走れ」


 護衛に付いていた補給部隊の兵に向かい、マルクが言う。


「ハインツ大隊長に報告だ。夜襲を受けたこと、相手が普通の兵ではないこと、被害の数、全部だ」


「はっ」


「それと、遊撃隊員の補充をしろとも伝えろ。減ったままじゃ回らん」


「承知しました」


 兵が駆けていく。


 死体の脇には、昨夜斬り倒した敵の一人も転がっていた。

 装備は軽く、色味は地味で、武具に余計な飾りはない。

 光を返さぬ剣。毒。火を消す手口。なにもかもが、普通の兵ではなかった。


「なんなんだ、こいつら」


 マルクが吐き捨てるように言う。

 しかし、答える者はいない。

 魔術師たちも、残った兵たちも、みな重い顔で黙ったままだ。


 明らかにこの遊撃隊を狙ってきた。だが、なぜ今なのか、なぜここなのか、それがまったくわからない。



 ふと視線が動く。

 少し離れた場所で、エルネストがいつものように座っていた。


 夜襲の中心にいたはずなのに、いまはなに事もなかったかのような顔でいる。剣はすでに拭われ、血の跡だけがわずかに外套の裾へ残っていた。


 マルクが歩み寄る。


「おい」


 返事はない。

 けれど、視線だけは向く。


「心当たりはあるか」


 エルネストは数瞬、こちらを見ていた。

 それから、ぼそりと答える。


「さぁな」


 それだけだった。


 あとはいつも通り、黙る。

 顔も動かない。

 まるで、本当になにも知らないかのように。


 マルクはしばらくその無表情を見ていたが、やがて鼻を鳴らして離れた。


 分からない。

 やはり、あの男だけはどこか違う。


 夜襲の中心にいて、生き残り、逃げた敵まで追った。

 それでいて、自分が狙われたとも、違和感があるとも、なにも言わない。


 これは、知らぬままでいた方がいい類の人間なのかもしれない。

 そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。


 湿った朝の空気の中、野営地では死体を包む布が静かに広げられていく。


 夜は明けつつあった。

 しかし、なにが起きたのかは、まだ誰にも分かっていなかった。

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