第35話 点と線
夕暮れの川辺は、灰色の空の下で静かに息を潜めていた。
細い流れの水面が鈍い光を返し、湿った土と草の匂いが冷えた空気に混じり合う。
魔法騎士隊の野営準備は、いつもより重く進んでいた。馬の鞍が外され、荷が降ろされ、濡れた外套が草の上に乱雑に置かれる。
誰もが無言に近い。
言葉が少ないのは、疲労のせいだけではなかった。
今日、隊から一人、死者が出たからだ。
中堅の男だった。未熟な新入りを庇い、そのまま刃を受けた。
焚火の準備が進む少し離れた場所で、若い隊員が俯いたまま立っている。
言葉もなく、ただ拳を握りしめる。自分のせいで死なせた、という思いがその肩から見て取れた。
「お前のせいじゃない」
リリィが言った。
声は厳しい。だが突き放してはいない。
「敵は最初からそこを狙っていた。避けきれなかったとしても、それはお前の責任じゃない」
「ですが……」
「だがもなにもない」
若い隊員が顔を上げる。
目が赤い。泣き腫らしたのではなく、感情の置き場が分からない目だった。
リリィが顔を真っ直ぐに見る。
「死んだ者に報いる方法はひとつ。――死なないことだ」
「……はい」
「それができないなら、ここにいるべきじゃない」
「はい」
返事の最後だけ、ようやく少し力が戻る。
リリィはそれ以上言わずにその場を離れた。
川辺へ向かうと、川面の冷たさが頬を撫でた。
責任を感じていないわけではない。いつもなら、こんな時こそ頭の中は死者のことで埋まる。
配置は正しかったか。退き際を誤らなかったか。自分の判断に綻びはなかったか。考え始めればきりがない。
けれど、今日は違った。
昼間に見た、あのオーランジュ兵――いや、兵ですらない。あれは、最下層の戦奴隷にしか見えなかった。
なのに。
あの踏み込み。
あの剣筋。
あの戦い方。
ありえないと頭ではわかっている。
けれど、身体のどこかが見間違いではないと告げていた。
「副隊長」
声をかけられ、振り返る。
オスカーだった。
古参の部下は、いつもの通り大きくも小さくもない声で言った。
「あなたのせいじゃありませんよ。あまり自分を責めないでください」
オスカーはそれ以上言わない。
死んだ隊員のことだと、はっきり口にしなくても分かる。
リリィは一瞬だけ黙った。
責任から目を逸らしているのは分かっている。
しかし今、頭を占めているのは別のことで、そのことがなんとも言えず気持ち悪かった。
「……そうだな」
口から出たのは、ひどく半端な返事だった。
オスカーの眉がわずかに動く。けれど、そこを問い詰めたりはしない。
「夜番は多めに回します」
「そうしてくれ」
「了解です」
それだけ言って、オスカーは下がった。
リリィは再び川面へ目を向ける。
濁った水の流れはなにも映さず、ただ低い音だけを立てていた。
◆◆◆◆
夜は静かに更けていった。
焚火は小さく保たれ、見張りはいつもより増やされていた。
昼間の損害を受け、隊の空気も張り詰めている。誰もが今日は早めに休んだが、深く眠れた者は少なかった。
リリィも仮眠を取っていた。
しかし、明け方近く、遠くで騒ぐ声に目を覚ます。
薄明にもまだ届かぬ時間。
空は黒から灰へ移り変わる途中で、地面の輪郭だけがぼんやりと浮いている。
外套を引っ掴み、走り出す。
「何事だ」
声を上げると、近くにいた隊員がすぐ振り向いた。
「不審者です! 夜番が取り押さえました!」
「どこだ」
「川下の見張り線のところです!」
リリィはそのまま駆けた。
夜番の兵が二人、ひとりの男を地面へ押さえつけていた。
ほとんど黒ずくめに近い服装だ。全身が泥と血に塗れ、ぱっと見ただけで普通の人間ではないと分かる。
兵でも、盗賊でもない。もっと別の、どこにも属していないような薄気味悪さがあった。
男は深手を負っていた。
脇腹から血が流れ、片腕もまともに動いていない。息は浅く、喉の奥で湿った音を立てている。
ここへ辿り着くためだけに、無理やり生き延びてきた有様だった。
「離せ。だが警戒は解くな」
リリィの言葉に、兵たちがわずかに力を緩める。
男はその隙に震える指で胸元を探った。周囲が身構える。だが、引きずり出されたのは小さく折り畳まれた羊皮紙だった。
封じ目には、深い紅の蝋がわずかに残っている。
そこへ押されていたのは王家の公印ではなく、百合を崩したような、どこか女の私物めいた繊細な印だった。
オスカーがリリィの横へ並ぶ。
羊皮紙を受け取り、顔色を変えた。
「これは……」
「分かるのか」
「王妃殿下の私印です。公には使われません」
リリィの目が細くなる。
「妃殿下の子飼いか。——なぜこんなところにいる」
「私にもそこまでは」
オスカーも低く返した。
男はなおもなにかを言おうとしていた。
けれど、血で濡れた唇が痙攣し、うまく息が継げない。それでも、ここで倒れるわけにはいかぬとでも言うように、目だけはぎらついていた。
男はリリィの袖を強く掴んだ。
夜番の兵が剣の柄へ手をかけるのを、リリィは片手で制した。
男の爪先が震えている。
視線はリリィを見ていない。もっと遠く、ここではないどこかを見ていた。
「言伝を……頼む」
掠れた声。
喉の奥で血が鳴った。
「誰にだ」
「これの……主……」
リリィが黙って続きを促す。
男は息を継ごうとして咳き込み、血を吐いた。それでも離さない。袖を掴んだ指だけが妙に力強かった。
「任は……果たせず……」
そこで一度、言葉が切れる。
喉が潰れたような音がして、男の肩が大きく揺れた。
「だが……『例の者』が……懸念通りで、あったことは……確認した……」
最後の方は、聞き取れるかどうかの声だった。
誰も意味を理解できない。
しかし、だからこそ、かえって不気味だった。
王妃の私印を帯びた男が、命の最後に残した言葉。
「おい、『例の者』とは誰のことだ」
リリィが問う。
男の目がようやく焦点を結ぶ。けれど、答えはなかった。
唇が動く。
言葉にならない、血の泡だけが端に滲む。
次の瞬間、袖を掴んでいた指から力が抜けた。
身体が崩れ、地面に沈む。
もう動かない。
夜番の兵が息を呑み、誰かが短く呪いの言葉を吐いた。
オスカーがゆっくりとしゃがみ込み、男の首筋へ指を当てる。
「……死にました」
リリィはなにも言わなかった。
王妃の私印。
得体の知れぬ密命。
そして、『例の者』。
意味は分からない――はずだった。
なのに、昼間のあの戦奴隷の顔が、どうしても頭から離れない。
返り血。
無表情。
そして、見間違えるはずのない剣筋。
否定しようとすればするほど、その像が鮮明になり、断片的だった点と点が頭の中で結びついていく。
「副隊長」
オスカーの声で、リリィはようやく我に返った。
「この件、どうしますか」
「……隊長に報告する」
「承知しました」
短いやり取りだったが、リリィの視線はなお男の死体から離れなかった。
例の者。
懸念通り。
王妃はなにを知っているのか。
なにを恐れているのか。
そして、あの戦奴隷は――
夜が明けても、リリィの胸中からその疑問は消えなかった。
王妃が恐れている“なにか”は、戦場の彼方にあるのではなく、自分たちの足元にいるのではないか、という嫌な予感だけがいつまでも残った。




