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第34話 夜襲

 夜は深く、街道沿いの林縁を冷たい闇が覆っていた。

 雨は上がっていたが、地面はまだ重く湿り、踏み固められた土はぬかるみを残したままだ。


 荷駄車を円形に並べた野営地では、小さな焚火が三つ赤く揺れている。火は敢えて小さく抑えられ、炎の輪はわずか数歩先までしか届かない。

 その淡い光が、兵たちの疲れた顔と、泥に汚れた外套をぼんやりと浮かび上がらせていた。


 補給部隊から回された差し入れは、久しぶりにまともなものだった。

 塩を利かせた干し肉と、わずかに温かみの残る煮込み。量は決して多くないが、ここ最近の薄いスープと黒パンに比べれば、文句を言う気にもならない。


 焚火の周りに腰を下ろした兵たちは、木椀を両手で包み込むようにして口へ運ぶ。

 言葉を交わす者もいれば、ただ火を見つめている者もいた。


「今日は当たりでしたな」


 槍兵のひとりが、木椀を覗き込みながら言う。


「飯の話か」


 向かいの盾兵が鼻を鳴らした。


「そっちもあるが、戦の方もだ」


「まあな」


 別の兵が肉を噛みながら続ける。


「連中、完全に待ち伏せを食った顔してたな」


「次はもう少し慎重になるだろうさ」


「その前に、また餌に食いついてくれりゃ楽なんだが」


 小さな笑いが漏れる。



 焚火の端では、魔術師たちが低い声で別の話をしていた。


「……見ただろ、あの男」


「見た」


「詠唱していなかったな」


「あぁ。少なくとも、俺にはそう見えた」


 ひとりが木椀を持ったまま、焚火越しにエルネストの方をちらと見る。


「無詠唱で魔力弾を撃ちやがった。しかも一度や二度じゃない」


「馬鹿な、で済ませたいところだが……」


「済まんだろ、あれは」


 別の魔術師が、火を見つめたままぼそりと言った。


「正規の訓練を受けた魔術師でも、あそこまで自然にはいかん。何者だ、あの男」


「……気味が悪いな」


 そこで会話は途切れた。

 誰もそれ以上は言わない。ただ、焚火の赤い明かりの向こうにいる男を、必要以上に見ようとはしなかった。



 昼間の戦いは、比較的うまくいった部類だ。補給部隊を狙って現れたジルニッツ側の魔法騎士隊を、こちらは待ち構えて迎え撃った。

 少数ながら厄介な相手だったが、不意を打たれたのは向こうの方だ。隊列を崩しきられる前に押し返し、撤退に追い込んだ。


 激戦ではあったが敗走ではない。死者も出ていない。

 それが、この野営地の空気をわずかに緩ませていた。


「浮かれるなよ」


 マルクが焚火の向こうへ声を投げる。


「今日はうまくはまっただけだ。次も同じとは限らんからな」


「分かってますって」


「だったら、飯食ってさっさと寝ろ。見張りの番を忘れるなよ」


「へいへい」


 気の抜けた返事に、また小さく笑いが起きた。


 その輪から少し離れた暗がりにエルネストがいた。大きな岩の上に腰を下ろし、闇の中へ半ば沈むように佇んでいる。

 眠っているのか、起きているのかも分からない。焚火の明かりがかろうじて横顔を掠めるだけで、その目が閉じているのかどうかさえわからなかった。


 マルク・ディーボルトは、そんなエルネストを横目で見ながら、肉を一口齧った。


 只者ではない。それだけはもう、嫌というほど分かっている。

 ローゼン川の夜だけではなく、昼間もあらためて思い知らされたからだ。


 待ち伏せ自体はうまくいった。その中でも敵の動きを最初に崩したのはエルネストだった。

 盾の陰から回り込もうとした騎士を一歩で間合いに捕まえ、詠唱に入った魔術師へ魔力弾を叩き込み、そのまま斬る。

 混成の遊撃隊が形を保てたのは、あの男が最初の数瞬を制したからだった。


 何者なのかは知らない。知る必要もなかった。ハインツが手元に置きたがる理由も、いまさら聞こうとも思わない。


 ただ、エルネストを見ていると、マルクは時折妙な感覚に襲われる。同じ軍の中にいるはずなのに、まるで別の戦場の人間を見ているような感覚になるのだ。

 こちらが地形だの隊列だのを考えている間に、あの男だけは別の理屈で動いている気がする。うまく言葉にできないが、そんな感じだ。



 その時、不意にエルネストの視線が動いた。

 ほんのわずかだが、確かに闇の一点へそれが向いた。

 マルクが息を呑むより早く、エルネストが剣を抜き、なにも見えぬ夜気へ向けて一閃する。

 直後、甲高い金属音が弾けた。


 キン、キン、キンッ――。


 軽い。

 剣ではない。もっと細く、硬い金属の弾かれる音だった。


「敵襲!」


 即座にマルクが叫ぶ。それとほぼ同時だった。

 焚火へなにかが投げ込まれる。赤い火が一瞬でくぐもり、黒い煙を吐いて沈んだ。

 視界が落ちる。


「起きろ! 武器を取れ!」


 マルクが怒鳴りながら立ち上がった。だが、暗くて仲間の姿がよく見えない。

 隣の補給部隊の焚火の明かりが遠くに滲むだけで、こちらの野営地はたちまち半端な闇に呑まれていた。


 空気が変わる。

 兵が駆け込んでくる時の荒さがない。草を踏む音も、鎧の鳴る音もない。

 ただ、そこになにかが“いる”としか言いようのない、嫌な気配だけが野営地の内側へ滑り込んでくる。


 その中で、ひとりが喉の奥で短い音を漏らした。

 悲鳴にもならぬ、潰れた息のような音だった。

 続いて、なにかが倒れる音。


「どこだ!」

「見えねぇ!」

「盾を――」


 最後まで言い切れなかった。別の方向でまた、くぐもった声がして、人影が崩れた。


 違う、とマルクは思った。夜襲ではあるが、兵のそれではない。

 火を消す。声を上げさせない。正面から来ない。戦場ではなく、裏路地で人を殺すような動きだ。


 その時、闇の中で何かが閃いた。

 反射がない。月光も、遠くの火も、ほとんど返さない。

 最初は見間違いかと思ったが違う。剣身が、最初から光を返さぬよう処理されていた。

 遅れて、鼻を刺すような匂いに気付く。――毒か。


 マルクは咄嗟に身を引いたが、遅かった。喉元を狙って滑り込んできた刃を辛うじて避け、肩口で受ける。

 痺れるような衝撃。浅い。だが、まともに食らっていれば危なかった。


 近距離で接していても、敵の姿は輪郭しか分からない。

 完全な黒衣ではなさそうだが、闇に紛れるために色味を落とし、武具も鳴らぬよう押さえられている。


 やはり兵ではない。姿を見せず、音を立てず、ただ静かに相手を殺すことだけを目的とした手際だった。


 次の一撃が来る。マルクが剣を返した。

 その瞬間、横から風を裂いてなにかが飛び込んでくる。


 エルネストだった。

 無駄のない踏み込み。横薙ぎの一撃で、襲っていた影を胴から断ち切る。

 血が闇へ散るのも見えず、ただ重いものが地へ落ちる音だけが響いた。

 

 エルネストは止まらず、そのまま林の中へ飛び込んでいく。

 闇のさらに深い方へ。



「おい、待て――」


 マルクが呼び止めるよりも前に、気配は木々の間へ消えた。

 林の中は暗い。野営地の明かりも届かず、なにが起きているかも見えない。

 ただ、剣戟の音だけが響いてくる。


 短く速い。金属がぶつかる鋭い音が二度、三度。そこへ湿った土を蹴る音、枝を払う音、そして低い呻きともつかぬものが混じる。

 途中、一度だけなにかが光った。しかし、それもすぐに闇へ呑まれてそれきりだった。


 マルクは歯を食いしばり、残った兵へ怒鳴る。


「盾を寄せろ! 火を戻せ! まだいるぞ!」


 混乱の最中でも、生き残った者たちは即座に動いた。

 盾兵が身を寄せて輪を作り、弓兵が闇へ矢を番える。魔術師のひとりが火を起こし、消された焚火の脇に小さな灯りを戻した。


 その赤い明かりの中で、被害がようやく見えてきた。

 見張りがひとり、喉を裂かれて死んでいる。焚火のそばでは別の兵が胸を押さえたまま動かない。


 もうひとりは肩を切られ、うずくまっていた。傷は深くなさそうだが目に見えて顔色が悪い。


「毒か」


 魔術師のひとりが膝をつく。


「分かるか」


「はっきりとは……。ただ、まともなものでないのは確かです」


 マルクの胸に、怒りとも焦りともつかぬものが沸いた。


 ただの敵ではない。こちらを殺すためではなく、もっと別のものを狙ってきた手つきだ。

 それがなんであるのかを、口に出さずとも理解してしまう。



 その時、林ががさりと鳴った。

 全員がそちらを向く。

 弓が引き絞られ、槍が半歩前へ出る。マルクも剣を構えた。


 だが、木立の間から現れたのはエルネストだった。

 血まみれの剣を無造作に手に下げている。返り血か、自分の血か。それすら闇の中では判別しづらい。

 顔色も呼吸も変わらず、ただ、いつもの無表情のままこちらへ歩いてくる。


 マルクが問うより先に、エルネストが言った。


「一人……討ち漏らした」


 それだけだった。

 悔しさも、苛立ちも、焦りもない。事実だけを置く声だった。


 それきり黙り、エルネストは再び岩の方へ戻ると、何事もなかったかのように腰を下ろした。

 討ち漏らしがあるというのに、その横顔に揺れはない。闇の中へ溶け込むように座る姿は、襲撃の前となにも変わらなかった。


 マルクはしばらくその背を見ていたが、やがて視線を地面の死体へ落とした。

 兵が二人、死んでいる。

 負傷者は三人。そのうちひとりは、毒が回れば朝まで保つかも分からない。


 昼間はうまくやった。魔法騎士隊を追い返し、補給部隊も守った。しかし、夜になってこれだ。

 エルネストは生きている。敵もほとんどは斬った。それでも、勝った気はまるでしなかった。


 湿った夜気の中、林の奥だけがやけに静かだった。

 

 一人、逃げた。

 

 その事実が、消えた焚火の跡よりもなお、不吉に思えた。

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