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第32話 寄せ集め

 冷たい雨が野営地一帯を灰色に塗りつぶしていた。


 風はない。だからこそ、降り続く雨音だけが絶え間なく耳につく。

 ぬかるんだ地面は踏み固められて泥となり、行き交う兵や従者の足にまとわりついた。

 野戦用の天幕は急ごしらえのものばかりで、張り方の甘い綱からは雫が糸のように垂れている。


 その中央に、他よりひと回り大きな指揮所用の天幕があった。

 鎧の上から厚手の雨除けを羽織ったリリィは、部下たちを従えてその前に立つ。濡れた外套の裾から雫が落ち、泥へ小さな輪を作った。


「副隊長殿、お待ちしておりました」


 入口に立つ兵が布を押さえ、道を開ける。

 リリィは短く頷くと後ろを振り返った。


「ここで待機だ。呼ばれるまで入るな」


「はっ」


 部下たちの返答を背に受けて、リリィは天幕へ入った。


 中は外より幾分ましだが、快適とは程遠い。湿った革と泥の匂いが混じり合い、中央の机には広げられた地図が重し代わりの短剣や石で押さえられている。

 濡れた外套を脱ぎもせず立つ者も多く、床には乾き切らない足跡が幾重にも刻まれていた。

 その一角に、見慣れた顔がある。


「フォーゲル、来たか」


 低く落ち着いた声だった。

 魔法騎士隊隊長、ヘルムート・リューム。

 四十を越えた年齢にふさわしい落ち着きと、場数を踏んだ者だけが持つ揺るがなさを備えた男だ。

 高位貴族の家に生まれながら、王都で家名に守られてきた種類の人間ではない。鎧の着こなしひとつとっても、前線を知る者のそれである。


 リリィはまっすぐ歩み寄り、一礼した。


「遅れました」


「いや。ちょうどいい」


 ヘルムートはリリィの濡れた肩をひと目見て続けた。


「道中は?」


「問題ありません」


「そうか。だが今はまだ気を抜くな」


 無事を確かめるのも、すぐに気を引き締めさせるのも、ヘルムートらしい物言いだった。


「戦況は理解しているか」


「命令書に記されていた範囲では」


「なら十分だ」


 ヘルムートは天幕の中を軽く見回した。


「魔法騎士隊まで引っ張り出される時点で、穏やかな話ではない。本来なら、こういう寄せ集めの穴埋めに使う戦力じゃないのだが……今回はそうも言っていられんらしい」


「はい」


 リリィも小さく頷いた。


 数こそ多くないが、魔法騎士隊は魔獣討伐や局地的な制圧、小規模な精鋭任務にこそ真価を発揮する、機動力と突破力に優れた部隊だ。

 正面から兵を並べてぶつけ合う大軍戦で、本隊の一部として埋めるような使い方をされるのは本来ではない。

 それを承知で呼ばれたのだから、事態の重さは明らかだった。


「隊の状態は」


「招集済みです。遅れていた者も合流したと報告を受けました」


「よし」


 ヘルムートが短く頷く。

 それだけの仕草なのに、妙な安心感があった。

 リリィはふと、天幕の内側を見回した。


 すでに集まっているのは魔法騎士隊だけではない。街道沿いに領地を持つ諸侯の面々が、それぞれ従者や近習を背後に置いて立っている。

 爵位の高い者ほど中央の机に近く、低い者ほど外縁へ追いやられていた。


 外縁寄りの位置に、父ローラントの姿もある。伯爵位では中央には届かないが、その背筋はまっすぐに伸びていた。


 ふと、視線が合う。

 ローラントはなにも言わず、ほんのわずかに頷いた。リリィもそれだけを返し、すぐに前へ向き直る。


 改めて見れば、誰が命令を受ける側で誰が口を挟む側なのか、まだなにも始まっていないうちから形になっている。

 ある男爵は所在なさげに立ち尽くし、別の子爵は黙って床を見ていた。

 その一方で、中央近くには雨の中の野営とは思えぬほどふんぞり返った顔もある。兵を多く出した家もあれば、金だけ出して面子だけは保っている家もある。

 

 寄せ集め。


 その一言で済む光景だった。


 その時、天幕の外がざわめいた。

 直後に入口の布が大きく持ち上がる。


 入ってきたのは、司令ディーター・フライベルクだった。

 痩せた体つきの、鋭い目をした男である。飾り気はない。公爵家の出でありながら、豪奢さよりもまず軍人の乾いた気配が立つ。

 あとに続く副官のゲロルトも、書板を抱えたまま無駄のない足取りで入ってきた。


 多くの者が背筋を伸ばす。

 だが、全員ではなかった。


 中央近くに陣取っていた男の一人などは、わずかに顎を上げただけでまともに礼を取ろうともしない。

 ディーターはそれを咎めもせず、ただ一度だけ視線を走らせ、そのまま机の前に立った。


「始めるぞ」


 余計な前置きのない、短い一言。

 ディーターが顎を引くと、ゲロルトが一歩進み出た。


「現状を確認いたします」


 副官の声はよく通った。


「すでにご存じのとおり、オーランジュ軍はローゼン川を突破。副司令ランドルフ・ヴェルナー閣下は戦死されました。敵は南岸を確保したのち、街道沿いに南下しております」


 そこまで言っただけで、天幕のあちこちに小さなざわめきが走る。


「ローゼン川が……」

「ランドルフ殿まで討たれたとなると……」

「まさか、ここまで早いとは」


 私語だった。

 本来の軍議なら、まずありえない。

 だが、ゲロルトは表情ひとつ変えず続ける。


「今回ばかりは敵も本気です。従来の国境紛争の延長と見るべきではありません。ソルボ砦の陥落、ローゼン川の突破、この二点だけでも十分に異常であるとご理解ください」


 またざわめきが広がる。

 誰もが知っている事実だ。しかし、改めて言葉にされることで現実味が増す。しかも口にしているのが、前線の軍務に携わる者であるとなればなおさらだ。


 ディーターは腕を組んだまま、そのざわめきを黙って聞いていた。

 咎めもせず、急かしもせず、ただ切るべき瞬間を待っているように。


 ゲロルトが地図へ手を伸ばす。


「もっとも、敵も無傷ではありません。突破後の進軍速度が想定より鈍い。長雨の影響もありますが、本国からの補給に遅れが出ている可能性が高いと見ています」


「ほう」

「つまり敵も弱っていると?」

「ならば、こちらにまだ時間があるということか」


 今度は勝手な声があちこちから上がり始めた。


「なら焦る必要はないのではないか」

「なにも野戦でぶつかるばかりが能ではあるまい」

「敵が飢えるなら、そのまま待てばよい」

「待っている間に次の町を焼かれたらどうする」


 意見とも雑音ともつかぬ声が交錯する。

 ゲロルトはなおも無視して言葉を続けた。


「この遅滞により、こちらも布陣の準備に時間を得ました。よって――」


「待て」


 低い声が割って入る。

 中央寄りに立つ侯爵が、不満げに眉をひそめていた。


「布陣の説明の前に確認したい。我が家はこの中でも最も多くの兵を出している。であれば、中央あるいは主攻を担うのは当然こちらであろう」


 言葉が終わるか終わらぬかのうちに、別の男が鼻で笑った。


「兵を出した数だけで口を利くか。貴殿の家は侯爵家であろう。ここには公爵家もおわすぞ」


 言ったのは、恰幅のよい壮年の貴族だった。

 フリッツ・ウェラー公爵。

 王家とディーターの親戚筋にあたる家の当主である。


「主攻だの先陣だの、軽々しく口にするな。軍の顔となるべきは家格の高い家に決まっておる」


「顔だと? 顔で戦ができるなら苦労はない」


「口の利き方に気をつけよ、侯爵」


「そちらこそ、金だけ出して偉そうにされても困る」


 空気が一気に悪くなる。

 別の場所でも、小さな火種が連鎖し始めた。


「こちらは兵を揃えるだけでも苦労しているのだ」

「ならばなぜ出てきた」

「王命だからに決まっておろう」

「無理に出てきて足手まといになられても困る」

「あの時は援軍を出さなかったではないか」

「前線に出たこともないくせに」


 片隅にいた男爵がぐっと唇を噛み、俯いた。

 こういう場では、弱い家ほど声を上げにくい。


 リリィは眉を寄せた。

 まだ敵は目前に来てもいないのに、この有様である。


 ゲロルトはなおも説明を続けようとしていたが、さすがにもう無理だった。誰かが上書きし、別の誰かがさらに被せる。もはや軍議ではなく市場の口論だ。


 その時だった。


「……もういい」


 大きな声ではなかった。

 しかし、それだけで空気が止まる。


 ディーターだった。


 腕を組んだまま一歩前へ出る。鋭い目が、天幕の中をゆっくりと見回した。


「ここは、敵が迫る中で布陣を決めるための場だ。家格を競うための場ではない」


 静かな声音だった。

 だが、怒鳴るよりもよほど冷たい。


「兵を出した数を誇る者も、家名を誇る者もいるようだが、ここで敗れればどちらも同じだ。領地を焼かれ、街道を踏み荒らされ、次に奪われるのは誇りそのものになる」


 誰も口を挟まない。

 ディーターは続けた。


「全責任は私が取る。配置も、任務も、すべてだ。だから今は口を閉じ、戦うための話を聞け」


 その時、ウェラー公爵がわずかに顎を上げた。


「そうは申されるがな、フライベルク卿」


 ねっとりとした、試すような声だった。


「もしもの時は、本当に貴殿が全責任を負えるのか? 我らにはそれぞれ家がある。軽々しく従えと言われても困る」


 天幕の空気がまた張る。

 リリィは無意識に息を殺した。


 ディーターは一瞬だけウェラーを見た。

 その視線に熱はない。冷えている。


「負けた時の話は、負けぬための話を終えてからにしろ」


 雨音だけが耳に残る。


「責任の置き場を探すのは、戦ってからで十分だ。始まる前から敗北の算段をする者は要らん」


 ウェラー公爵の口元がわずかに引きつる。

 何かを言い返そうとしたが、先に言葉を重ねたのはディーターの方だった。


「それとも、もう帰るか? 私は止めん。だがその時は、王命に背いた名を自分で背負え」


 それで終わりだった。


 天幕の誰もが理解した。

 これは恫喝ではない。事実を言っているだけだ。

 だからこそ、重い。


 ウェラー公爵は口をつぐみ、視線を逸らした。

 他の貴族たちも、それ以上は続けなかった。


「……ゲロルト、続けろ」


「はっ」


 副官が一礼し、改めて地図の上へ手を置く。


「本隊はこのラインで迎撃します。地形上、敵の進軍路は絞られる。よって正面は厚く、左右は機動で補う形になります」


 今度は私語はない。

 さきほどまでの喧噪が嘘のようだった。


 ゲロルトは簡潔に布陣を説明していく。中央、左右、予備兵力、伝令線。

 寄せ集めである以上、不満は残るだろう。それでも形だけは整えねばならない。そして最後に、視線を魔法騎士隊の方へ向けた。


「魔法騎士隊には別命があります」


 ヘルムートもリリィも表情を変えない。

 だが、天幕の中の空気がまたわずかに揺れた。


「敵本隊の後方へ迂回し、補給線を断っていただきたい」


 短い沈黙。

 それからヘルムートが口を開いた。


「理由を伺っても?」


「敵はすでに補給に遅れを見せています。正面から削るより、そこを断つ方が早い。また、魔法騎士隊は少数精鋭であり、正面布陣に組み込むより、独立して動いていただく方が機動力を生かせると判断しました」


「了解しました」


 ヘルムートの返答に迷いはなかった。


 リリィは黙っていた。

 補給線を潰す。言葉にするのは容易だが、敵中深くへ入り、背後を断つ任務だ。危険でないはずがない。


 しかし、異論を挟む気はなかった。

 ここで最もまともな命令があるとすれば、むしろこれだと思えたからだ。


 ディーターが魔法騎士隊へ視線を向ける。


「敵が足を止めている今しかない。頼む」


 それは貴族たちに向けた時のような硬さではなく、現場の兵へ向ける、軍人としての声だった。


 ヘルムートが一礼する。


「お任せを」


 リリィもそれに続いた。


「必ず」


 軍議はなおしばらく続いたが、あとは細部の確認に近かった。

 貴族たちはようやく口を閉ざしたものの、不満が消えたわけではない。

 顔を見れば分かる。誰もが自分の損得を抱えたままだ。

 それでも会議は終わった。


 天幕の外へ出ると、冷たい雨はまだ降り続いていた。

 リリィは雨除けを被り直し、どんよりと垂れ込めた空を見上げる。


 天幕の中で交わされた言葉を思い返すたび、ひどく疲れる。

 敵と戦う前に、味方の足並みの悪さと戦わねばならない。まともな軍なら、まず起こりえない面倒だった。


「嫌になるな」


 ぽつりと漏らした声は、雨に紛れて消えた。


 しかし、だからといって立ち止まるわけにもいかない。

 自分たちの仕事は決まったのだ。


 背後で天幕の布が揺れ、ヘルムートが出てくる。

 リリィはすぐ表情を戻した。


「副隊長」


「はい」


「顔が渋いぞ」


「隊長ほどではありません」


「言うようになったな」


 ヘルムートはわずかに口元を緩めた。


「だが、やることは単純だ。補給線を断つ。敵に息を継がせない。それだけだ」


「はい」


「寄せ集めの本隊がどれだけもつかは知らん。だからこそ我々が先にやる」


 リリィは頷いた。

 それで十分だった。


 雨はまだ止まない。

 だが、その冷たさはかえって頭を冴えさせた。


 寄せ集めの軍。

 前途多難な布陣。

 面子ばかり気にする貴族ども。


 その中で、少なくとも自分たちのやるべきことだけははっきりしている。


「行くぞ、フォーゲル」


「はい、隊長」


 リリィは答え、ヘルムートの後に続く。

 泥濘の中へ踏み出す足取りに、もう迷いはなかった。

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