第31話 勝利と現実
ローゼン川の戦いが終わり、後始末を済ませたオーランジュ軍は、ふたたび南へ向けて進み始めた。
川辺の死体は焼かれ、折れた槍や砕けた盾はまとめて捨てられ、使える物だけが拾い集められていく。
勝ったとはいえ、戦のあとに残るのは地味な汚れ仕事ばかりだ。兵たちは疲れた顔のまま歩き、荷車は軋み、馬は鼻を鳴らす。戦奴隷たちも、その列の中にいた。
ローゼン川攻略の最大の功労者が誰だったのか。
それを知る者は一部にいたが、その名が広く語られることはなかった。
夜襲があった。
敵副司令が討たれた。
それだけが伝わる。
誰がやったのか。それは曖昧なまま伏せられた。
ハインツの意図だろう。戦奴隷が目立って得るものなどなにもない。使える駒ならなおさらだった。
「ま、あいつも気にしねぇだろうけどな」
エティが鼻を鳴らす。
実際、エルネストは褒賞にも名誉にも一切の関心を示さなかった。ただ、ローゼン川から戻って以降、ただでさえ少ない口数がさらに減った。
話しかければ視線くらいは向ける。
だが、返る言葉は「……あぁ」程度だ。
バートもエティも周囲の戦奴隷たちも、なにかあったのだとは察していた。けれど、誰も聞かなかった。
どうせ答えない。それに、聞いていい顔でもなかった。
あの無表情の奥に、なにか覗いてはいけないものが沈んでいる。そんな感じがあった。
戦いのあと、ハインツからエルネストに与えられた褒賞は三日間の休暇だった。
もっとも、昼の行軍は他と同じくやらされ、野営に入ったあとの雑事が免除されるだけだ。
それでも戦奴隷には破格だった。
「歩かされる休暇ってなんだよ」
初日にエティがぼやく。
「夜に働かなくていいなら上等だろ」
バートが笑う。
「お前は単純でいいよな……」
そんなやり取りの少し先で、エルネストは無言のまま歩いていた。
肩と脇腹に傷がある。しかし顔色ひとつ変えない。歩いて、止まって、野営に入れば毛布にくるまる。
食う。
眠る。
三日間、行軍の時間以外はほとんどそれだけだった。
物にも、景色にも、他人にも執着しない男だが、食うことと眠ることだけは違う。身ひとつの奴隷にとって、それだけは削れないのだと分かっているのだろう。
アンナは、その様子を遠くから見ていた。
生きてはいる。だが、どこかがひどく遠い。
もともと、あの男は抜け殻の中に灯った情念だけで立っているようなところがあった。いまはそれがいっそう濃い。人の声が届いているのかも分からない時がある。
このまま放っておけば、どこまでも沈んでいく。
人として戻れないところまで。
アンナにできることは多くない。
引き止める言葉など持っていないし、抱えてやれるほど強いわけでもない。
それでも、傷があれば手当てする。水が切れれば汲む。食べていなければ食べさせる。
せめて、人間が人間にするだけのことを途切れさせない。
それくらいしかできなかった。
三日目の夕刻。
野営地の隅でエルネストは毛布にくるまっていた。起きているのか眠っているのか分からない顔で、焚き火の明かりを受けている。
アンナはそのそばに膝をついた。
「巻き直します」
エルネストが目を開ける。
返事はない。
「傷です」
短く言うと、しばらくしてからエルネストは上体を起こした。
無言のまま巻布を外す。傷口を見て、アンナは眉を寄せた。塞がり始めてはいるが、まだ危うい。
「無理したら、また開きます」
「……あぁ」
「休める時は、ちゃんと休んでください」
返事はない。
ただ、抵抗もしない。
アンナは薬草をあて、布を巻き直した。礼もない。だが、それでよかった。
なにかを返してほしいわけではなく、ただ、まだこの男が傷つけば血を流し、眠れば回復する人間なのだと忘れさせたくなかった。
「終わりました」
そう告げると、エルネストはわずかに顎を動かした。
アンナはすぐに立ち上がる。近づきすぎない。それもまた必要だった。
焚き火のそばで見ていたエティが、ぼそりと言う。
「相変わらず、ようやるよな」
「なにがだ?」
バートが木椀を傾ける。
「アンナだよ。俺なら放っとくぞ。返事はしねぇし、愛想もねぇし」
「だからじゃねぇか」
「なにが」
「放っといたら、ほんとにどっか行っちまいそうなんだろ」
エティは鼻を鳴らした。
「……物好きだな」
「そうかもな」
三日後、春の長雨が始まった。
朝から空は暗く、冷たい雨が降り続く。道はぬかるみ、荷駄車の車輪は泥に沈み、馬は脚を取られる。濡れた外套は重く、寝場所までじめついた。
進める距離は目に見えて落ち、兵たちの苛立ちだけが積もっていく。
「くそったれ……」
泥だらけの靴を持ち上げながら、エティがうめく。
「橋の上で死ぬのも嫌だけどよ、泥の中で腐るのも勘弁だな」
「まだ腐ってねぇだろ」
バートが笑う。
「気分の話だよ! 靴ん中までびしょびしょだぞ!」
雨は十日ほど続いた。
ようやく上がった時には、兵の誰もが息をついた。だが、次の問題はすぐに表面化した。
本国から前線へ伸びた補給線が、限界に近づいていたのである。
ローゼン川を越え、さらに南下したことで物資を運ぶ距離は長くなっていた。長雨で道が荒れたことも重なり、車列の遅れが目立ち始めた。
最初に不足したのは飼料だった。
馬が弱れば、荷が届かない。荷が届かなければ、兵の口に入るものが減る。
そこから先は早かった。
食糧、矢、薬草。
なにもかもが足りなくなる。
軍は結局、雨が上がったあとも進軍を止めざるを得なかった。本国から補給が届くまで、およそ一ヵ月。前線はその場に縫い止められる。
近隣の町や村から供出の名目で奪うこともできたが、軍はそれを大きくやらなかった。いずれ支配する土地を、自分たちで荒らしすぎるのは得策ではない。
その分、しわ寄せは下へ回る。
真っ先に割を食ったのが戦奴隷たちだった。
もともと少ない配給が、さらに減った。薄い汁はますます水っぽくなり、黒パンは目に見えて小さくなる。
ある晩、配給を受け取ったエティが木椀を覗き込んで絶句した。
「……これ、食いもんか?」
誰も答えない。
「いや、聞けよ。湯に塩でも落としただけじゃねぇのか?」
「贅沢言うな」
バートが黒パンを齧る。
「贅沢じゃねぇって……。俺ぁただ、食ったって気になりてぇだけだよ」
エティは黒パンを持ち上げた。
「見ろよこれ。前より絶対ちっせぇって」
「今さら育つ歳でもねぇだろ」
「笑いごとじゃねぇよ」
文句を言いながらも、エティはきっちり平らげた。もとより残す気などない。
周囲も似たようなものだった。皆、腹を空かせている。
食事のあとは、冗談を言う気力も続かなかった。
焚き火を囲んでいても、誰もが無意識に腹を押さえている。沈黙の合間に、遠くの咳や馬のいななきがやけに大きく聞こえた。
アンナも黙って食べていた。向かいではエルネストが、相変わらずの無表情で自分の分を口へ運んでいる。
平気なわけではない。ただ、顔に出さないだけだ。
こういう時ほど、あの男は自分を削ることに躊躇がない。飢えにも、疲れにも、痛みにも、どこかで諦めきっているようなところがある。
アンナは自分の黒パンを見つめ、少しだけちぎって差し出した。
「……食べてください」
エルネストはその手を見て、次にアンナを見る。
返事はない。
「……あなたの方が身体は大きいんですから」
言い聞かせるような声だった。
自分を削るのは勝手でも、勝手に壊れていいわけではない。そう押しつけるような響きがあった。
エルネストが焚き火の光に目を細める。しばらくして、その欠片を受け取った。そうして、そのまま半分に割ると片方をアンナへ差し戻した。
「……」
食え、という意味なのだろう。
アンナは押し問答せず受け取った。
「……そうですか」
二人はそれ以上なにも言わず、自分の分を口にした。
その様子を見ていたエティが肩をすくめる。
「ほんと、よくあれで通じるよな」
「慣れだろ」
バートが笑う。
「嫌な慣れだな……。つーか、片方が喋らなさすぎるんだよ」
そう言ったあと、エティは腹を押さえた。
「……腹減った」
「さっき食ったろ」
「食ったうちに入らねぇんだよ! 昨日なんか鶏の丸焼きの夢見たぞ。手ぇ伸ばしたとこで起きたけどな」
「そりゃ気の毒だ」
「だろ? もっと同情しろよ」
周囲で何人かが小さく笑った。だが、それも長くは続かない。
軍が止まれば、不満と空腹だけが積もっていく。
兵たちは次の戦を待ちながら、じわじわと削られていた。




