第30話 招集命令
ジルニッツ王国北中部。
街道沿いに領地を持つフォーゲル伯爵家の屋敷は、古いながらも端正だった。
石造りの壁には大きな傷みがなく、屋根も窓枠も丁寧に手入れされている。庭木はよく剪定され、花壇の土は均され、小径にまで雑草ひとつ目立たない。
華美ではない。
だが、隅々まで目が届いた家そのものが、ここに住む者たちの気質を語っていた。
その庭の一角から、鋭い掛け声が響く。
「――はっ!」
乾いた音とともに、剣が空を切る。
剣を振っていたのは、ひとりの女だった。
艶のある薄茶色の髪を邪魔にならぬよう後ろで編み上げ、簡素な長袖のブラウスに乗馬用のズボンという、貴族令嬢らしからぬ格好をしている。
手にした剣も装飾とは無縁の、実用一点張りの無骨なものだった。
年は二十代半ば。
長身で、鍛え上げられた身体つき。
切れ長の瞳はやや険しく見えたが、顔立ちそのものは整っている。
化粧気はまるでない。しかし、もし着飾らせれば社交界でも十分に通るだろうと、誰もが思うに違いなかった。
ただし、本人にその気はまるでなかったが。
「朝から励むのは結構だがな」
背後から、苦笑まじりの声が飛ぶ。
女が剣を止め、肩越しに振り返る。そこに立っていたのは中年の男女だった。
男のほうは、フォーゲル伯爵家現当主ローラント・フォーゲル。
年齢相応の落ち着きはあるが、背筋はまっすぐで、いまなお剣を執れる身体を保っている。すらりとした体つきに穏やかな顔立ちが乗り、柔和な印象の強い男だった。
隣に立つ女は妻ディアナ。
背は低めで、柔らかな物腰をした女性である。若い頃はさぞ愛らしかっただろうと思わせる面影が、今もその表情の端々に残っていた。
娘とは違い、いかにも淑女らしい雰囲気をまとっている。
「お前はもう二十六なのだからな、リリィ」
父が言った。
「朝から剣ばかり振っておらず、そろそろ少しは自分の将来というものを考えてくれてもよいのではないか」
「考えている」
女――リリィ・フォーゲルは即答した。
「騎士としてどう生きるかをな」
「そういう意味ではない」
父がため息をつく。
母も横で小さく頷いた。
「せめて、お見合いの釣書だけでも見てちょうだいな」
「興味ない」
間髪入れずに切り捨てる。
「今回のお相手はプレル男爵家の次男だそうだよ。評判も悪くないし、顔立ちも整っていると――」
「顔など、ついていればいい」
あまりに素っ気ない返答に、両親が揃って眉を下げた。
「そもそも結婚自体に必要を感じない。このまま騎士を続けていく」
「お前はそう言うがなあ……」
ローラントがぼやく。
「家のこともあるだろう。お前は長女なのだぞ」
「家ならエミーリエに継がせればいい」
「またそういうことを」
ディアナが困ったように口元へ手を当てた。
このやり取りは初めてではないのだろう。諦めと愛情が、ほとんど同じ色で滲んでいる。
リリィは父母を見比べ、少しだけ面倒そうに剣を下ろした。
「まだその話を続けるのか」
「まだ、ではない。いつも途中でお前が逃げるだけだ」
「逃げてはいない。不要だから断っている」
「言い方の問題だ」
ローラントが眉を寄せる。だが本気で怒っているわけではない。
そこへ、使用人が駆け込んでくる。
「旦那様、奥様、お嬢様。王城より使者が」
三人の視線がそちらへ向いた。
門のところに、軍装の伝令が立っている。
それを見た瞬間、リリィの目の色が変わった。
両親の小言から逃れる好機を見つけた、という色でもあった。
「では、話は終わりだな」
「待ちなさい」
母の制止も半ば無視して、彼女はさっさと伝令のほうへ歩いていく。
ローラントが頭を押さえた。
「ほら見ろ。また逃げた」
「逃げたわね」
「逃げましたな」
使用人まで小声で同意し、ディアナが「あなたまで」と呆れた顔をした。
リリィはそんな背後の空気を聞こえぬふりで、伝令から差し出された封書を受け取った。
封蝋には王家の紋章。宛名を見れば、間違いなく自分の名がある。
魔法騎士隊副隊長、リリィ・フォーゲル。
怪訝に眉をひそめながら封を切る。
中身に目を通した瞬間、その顔からさっきまでの気安さが消えた。
「……招集命令」
低く呟く。
オーランジュ軍がソルボ砦を落とした報は知っていた。だが、それはあくまで国境の戦が少し大きく動いた程度の認識だった。
二百年続く小競り合いの延長。そう捉えていたのは、彼女も同じである。
しかし、紙面に記されていたのはその先だった。
ローゼン川突破。
ランドルフ戦死。
王都街道沿い諸侯への兵力供出命令。
魔法騎士隊への即時出頭。
事態の重さが、一息で胸へ落ちてくる。
リリィが顔を上げた。
ちょうどその時、使者がローラントへ別の書状を差し出しているところだった。
「父上にもか」
「……ああ」
ローラントは短く答えた。
まだ中身を読んでいる最中だが、顔色だけで十分だった。彼にも兵を出せとの命が下ったのだ。
庭の空気が変わる。
つい今しがたまでの、婿だ見合いだという話は一瞬で遠くへ退いた。
ディアナだけが、わずかに青ざめた顔で娘を見た。
「リリィ……」
「すぐ出る」
返答は早かった。
「営舎へ戻る。父上は兵を集めてくれ。詳しいことは道々で聞く」
もう切り替わっていた。先ほどまで見合い話を嫌がっていた女と同じ人間とは思えないほど、声も目つきも実務的になる。
ローラントは一瞬だけ娘を見つめ、それから短く頷いた。
「気をつけろ」
「父上も」
それだけ言って、リリィは屋敷へ駆け戻った。
使用人たちが慌ただしく動き始める。屋敷全体が戦時の色へ塗り変わっていくのを、ディアナはその場に立ったまま見ていた。
「……あの子、ほんとうに行くのね」
「そりゃ行くだろうさ」
ローラントは苦笑した。
「そう育てたのは、半分はお前だぞ」
「あなたもでしょう」
夫婦は顔を見合わせ、同時に小さく息を吐いた。
そのため息には困り果てた色があったが、それ以上に、娘を誇らしく思う気配が混じっていた。
◆◆◆◆
休暇を切り上げたリリィが魔法騎士隊の営舎へ着いた時には、すでにあちこちで慌ただしい足音が響いていた。
鎧の搬出。
馬の世話。
武具の点検。
普段ならどこか緩んだ空気のある営舎も、この日ばかりはさすがに落ち着かない。
「副隊長!」
リリィの姿を見つけた隊員が駆け寄る。
「戻ったか。状況は」
「ローゼン川が抜かれました。ランドルフ閣下も戦死とのことです」
もう知っている。けれど、その一言だけで十分だった。
リリィの背筋がさらに伸びる。
「……そうか」
初めてだった。これほど大きな規模の戦が、自分の目の前へ迫ってくるのは。
魔獣討伐も、街道警護も、小規模な衝突も経験してきた。
だが、国境線が崩れ、王都への街道が脅かされる戦は別物だ。
彼女は足を止めず、そのまま営舎の中へ入った。
「休暇の者はまだ戻らないのか!」
廊下に声が響く。
「二名は本日中に到着予定です!」
「武具の手入れを怠るな! 弓弦も、剣の油も、明朝までに全部確認しろ!」
「はっ!」
「馬具もだ! いざ出る時に壊れましたでは済まさん!」
「はいっ!」
厳しい。
しかし、その口調には無駄がなかった。叱責というより、間を許さぬだけだ。
リリィ自身にとっても、怒鳴っている時のほうが落ち着けるのかもしれない。
ひと通り命令を飛ばし終え、彼女が部屋を出ていく。
廊下に響いていた足音が遠ざかると、ようやく営舎の空気が少しだけ緩んだ。
若い騎士が隣の先輩へ小声で囁く。
「初めて会いましたけど、副隊長って怖いっすね。いつもあんな感じなんすか?」
「お前、新入りだったな」
先輩騎士は苦笑した。
「まあ、だいたいいつもあんな感じだ」
「今日も元気そうでなによりだな」
別の男が生温い目で言う。
「でも、あの人がいると隊が締まるんだよな」
「それはある」
「口はきついけど、見捨てねぇしな」
若い騎士が少しだけ肩の力を抜いた。
「……じゃあ、怖いだけじゃないんすね」
「怖いけどな」
即答だった。
その場に小さな笑いが漏れる。
「それにしてもよ、相変わらずいい尻してるよな」
「馬鹿、今それ言うか」
「いや大事だろ」
「違いねぇ」
「お前ら、ほんと懲りねぇな」
誰かが呆れたように言う。けれど、顔は笑っていた。
「知ってるか? あの人の名前の由来」
「リリィちゃん、だろ?」
「深窓の令嬢みてぇな名前だよな」
「生まれた時、めちゃくちゃ可愛かったらしいぜ。両親ともに、それはもう大騒ぎだったとよ」
「いまでも十分きれいだと思うけどな」
「化粧してドレス着たらすげぇだろうな」
「似合う気はしねぇけど」
「いや、そこが見てみてぇんじゃねぇか」
「本気で惚れてるヤツもいるらしいぜ」
「リリィちゃん、最高!」
「リリィちゃんの尻は騎士隊一!」
「馬鹿っ! 声がでけぇって! 聞こえていたら斬られるぞ」
その時だった。
部屋の扉が勢いよく開いた。
「貴様ら、準備は終わったのか!」
リリィだった。
一同の背筋が一斉に伸びる。
「すいません!」
返事だけは見事に揃った。
リリィはじろりと室内を見回した。
誰がなにを話していたのか、だいたい察している顔である。だが、そこは敢えて追及せずに言う。
「口より手を動かせ。出立前に叩き直されたいなら、いくらでも付き合ってやる」
「遠慮します!」
また見事に揃った声。
リリィは鼻を鳴らした。
「なら働け」
それだけ言って踵を返す。
部屋の外へ出ていく尻を見送りながら、若い騎士がぽつりと呟いた。
「……やっぱ怖ぇっす」
「まあな」
「でも、ちょっと安心しました」
その言葉に、先輩騎士たちは顔を見合わせる。
「そういうもんだ」
「だろ?」
営舎の中では、再び忙しない物音が満ち始めていた。
ローゼン川は破られた。ランドルフは死んだ。次は、自分たちの番かもしれない。
それでも誰かが前に立って怒鳴っているうちは、まだ隊として形を保っていられる。
リリィ・フォーゲルという女は、少なくとも部下たちにとって、そういう存在だった。




