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第3話 走馬灯

 海へ落ちる。

 風が耳を切り、身体が闇に飲まれていく。


 その一瞬の中で、エルヴァンの意識は奇妙なほど静かだった。

 走馬灯とはこういうものか、と思う。


 浮かぶのは妻の顔でも娘の笑顔でもない。

 それよりも前の、あの夜の王妃の私室だった。


 ——そう。すべてはあの夜から始まったのだ。




 豪奢な調度品が並ぶ王妃の私室。

 そこに二人だけがいた。


「のう、エルヴァンよ。今宵(こよい)こそは色よい返事を聞かせてくれるのであろうな? このわらわが直々に願い出ておるのだ。よもや断るなどと申すまいのぉ?」


 隠しきれぬ艶を滲ませた、美しく澄んだ声音。 

 豪奢な装飾に身を包み、一目で高貴とわかる女が放った言葉だった。


 年の頃は二十代半ば。輝く金色(こんじき)の髪を高々と結い上げ、仕立ての良いドレスを纏う。

 整った顔立ちの奥には薄い笑みと同じだけの冷徹さが貼りついていた。

 その眼前――床に片膝を突き、俯いたままの男が低く答えた。

 

「妃殿下……それについては重ねてお断り申し上げております。いかに貴女様のお申し出であれど、それだけは何卒(なにとぞ)ご容赦いただきたく」


 丁寧で慇懃、だが芯の強い声。女より幾つか年上らしい、精悍な面立ちの二十代後半と思しき男。


 女の口元がわずかに歪む。

 それは怒りではなく、「不快」そのものだった。


「勇者エルヴァンよ。其方(そなた)、己の立場がわかっておらぬようじゃな。千人に一人の『魔力持ち』として生まれ、勇者の称号を得て邪竜を討った。確かにそれは称えられることなれど、出自は卑しい平民――いや、貧民と言うべきか。竜殺しの功績により侯爵位を賜りしが、其方の卑しき血は何一つ変わっておらぬ」


「はっ。なればこそ、貴女様の申し出をお断り申し上げているのです」


 男が片膝のまま項垂(うなだ)れる。

 見下ろし、女が妖艶な仕草のまま吐き捨てた。


「ふんっ、嫌味か? 邪竜殺しらしからぬ温和な面をしておるくせに、なかなかどうして豪気な男よ。このわらわに正面から異を唱える者など他におらぬわ。――よいか? わらわは其方の血を残してやろうと言うておるのじゃ。なんの不服がある?」


「恐れながら申し上げます。血を残すとおっしゃいますが、なにぶん私にはすでに血を分けた子がおりますゆえ――」


「黙れ。そのようなことはどうでもよい」


 言い終わらせず言葉を遮り、女の顔から微笑みが消える。

 声は低くもならず、荒れもしない。ただ温度だけが落ちた。


「よいか。わらわは、其方と子を成そうと申しておるのじゃ。聞けば其方の娘は、二歳にして『魔力持ち』の才を開花させたと言うではないか。ならば、ここで由緒正しき我が王家と其方の血が合わされば、必ずや優れた稚児(ややこ)を授かるであろうと言うておる」


 傲岸不遜な態度とともに女が見下ろす。対して男は無言で項垂れるばかり。

 その姿には「邪竜殺し」と称えられる勇者の片鱗も見えなかった。


「これこそ鳶(とび)が孔雀を生むというものぞ。必ずや将来は、其方を大きく凌駕する才を発揮するに違いない。それを想うと零(こぼ)れる笑みを隠し切れぬわ」


 くっくっく。女は口元を隠すでもなく、妖艶に喉を鳴らして笑った。



 居丈高に振る舞う女と平伏する男。

 二人はジルニッツ王国王妃コルネリア・ローゼ・フォン・ジルニッツと、勇者エルヴァン・レヒナーである。

 彼らはいま、王妃の私室で密談を交わしていた。


 周囲の耳を憚(はばか)る話なのだろう。コルネリアは専属の侍女から護衛の騎士に至るまで、身の回りの者をことごとく部屋の隅へ遠ざけていた。


 その前でエルヴァンはひたすら頭を下げ続ける。

 国を代表する強者(つわもの)でありながら、決して頭を上げられない。それには幾つもの理由があった。


 貧民街の孤児として生まれながら「魔力持ち」の才を見出されたエルヴァンは、幼少期から王国の盾となるべく育てられた。

 厳しい訓練に耐え、魔法技術を叩き込まれ、社交界でも通用する教養と作法まで仕込まれてきた。


 千人に一人生まれると言われる「魔力持ち」は、そのほとんどが貴族の出だという。

 あるいは、両親のどちらかに高貴な血が流れていたのかもしれないが、エルヴァンの記憶に両親の面影は残っていないので、考察する意味は薄い。


 ともあれ、スラム出身のエルヴァンは、今や生まれながらの高位貴族と言っても過言ではないほどに所作も外見も洗練されていた。

 加えて「王国の盾」の二つ名に恥じぬ剣技を有し、本職の従軍魔術師には及ばぬとしても、並の魔術師では相手にならないほどの魔法戦も演じられた。


 まさに高位貴族の鑑(かがみ)。

 心中はどうであれ、表立ってその出自に触れる者は減り、それは一種のタブーとして避けられるようになっていた。


 そんなエルヴァンが平伏したまま再び口を開いた。



「恐れながら申し上げます。妃殿下には国王陛下という正当な伴侶があらせられます。子を成すことをご所望とあらば、まずは陛下に乞うべきかと」


 感情は餌にされる。だから彼は無表情という名の表情を鎧にしていた。

 直後、コルネリアの顔色が変わる。椅子から立ち上がり、小刻みに震えるほど両拳を握りしめて言い放った。


「なにを申すか、この下郎めが! わらわと陛下の仲など其方(そなた)でも知っておろう! それを承知のうえでの放言か!」


「なにとぞ、お許しを」


「婚儀から五年。正室であるわらわとの間に子を成さぬうちから側妃を囲いたてまつり、陛下がこの身に触れなくなって久しい。だというのに……だというのに、なぜにあの女の方が先に孕(はら)んだのじゃ! おかしいではないか!? わらわは正当なるジルニッツ王妃なるぞ! なのに側妃の方が先に稚児(ややこ)を授かるなど、到底納得できるものではないわ!」


 優雅な所作は消え失せ、静かに、しかし爪が掌に食い込むほど拳を握りしめる。


 その怒りは「愛情」の欠落から来るものではない。

 失われたのは夫の心ではなく「王妃としての正当性」だ。彼女はそれを、なにより恐れていた。


 エルヴァンが床を見つめたまま静かに返した。


「ご事情は承知しておりますし、心中もお察し申し上げております。しかしながら、だからと言って妃殿下の申し出を受け入れる理由にはなりません。私は貴女様の忠臣ではありますが、それ以前にフリードリヒ国王陛下の臣下にございます。それを裏切る真似は、とても――」


「えぇい、くどいわ! 陛下があの女――オリーヴィアに惚れ込んでいるのは周知の事実。いまさら御心をわらわに向けさせるのも難しかろう。そのくらい存じておるわ、このたわけがっ!!」


「ならばなおさら、お申し出を受けるわけにはまいりません。ご夫婦の仲は私も存じております。にもかかわらず突然妃殿下が懐妊しようものなら、必ずや誰が相手かと問い質されましょう」


 理屈。

 正論。

 王妃がもっとも忌避するもの。

 正論は権力を庇護しない。それは常に彼女の手の届かぬ外側から刺してくる。


「其方に心配される謂(いわ)れなどないわ! わらわは陛下と交渉したのじゃ。あの女――オリーヴィアの懐妊に理解を示す代わりに、月に二度、わらわと肌を合わせよとな。其方とまぐわうのはそれに合わせればよい。懐妊したとて、疑義などあろうはずもない」


「しかし……」


「のぉ、エルヴァンよ。其方は奥方との間にすでに一児を儲けているではないか。それも強い『魔力持ち』の子をな。それはつまり、其方の子種が優れていることの証左ではないのか? それをわらわにも注いでほしいと言うておるのじゃ」


「妃殿下――」


「これは他言無用じゃ。わらわと其方、二人だけのな。もちろん生まれる子は陛下のお子として育てるし、愛情も注ぐと約束しよう」


 次第に口調が和らぎ、表情まで甘くなる。懐柔するように、優しく、しかし逃げ道は塞ぐように。


 それでも勇者が言い淀んでいると、話はついに核心へ触れた。


「あの泥棒猫――オリーヴィアに先を越されたとは言え、わらわが『魔力持ち』の子を産めればそれでよい。そもそもわらわは正妃なのじゃからな。そのうえ子が勇者の素質を持っているとなれば、わらわの地位が再び盤石になるのは間違いなかろう?」


「……」


「ともかく顔を上げよ、勇者エルヴァン。わらわは其方の顔を見ながら話がしたいのじゃ。決してわらわ一人では成し得ぬ。其方の協力が必要じゃ」


 コルネリアが促す。それでもエルヴァンは俯いたまま。

 声が跳ねた。


「えぇい、いい加減に顔を上げよ! わらわの言が聞けぬのか!?」


 これ以上の固辞はかえって無礼。そう判断したエルヴァンがようやく顔を上げた。そこには、怒りでも恐怖でもない、諦めに近い疲労感が浮かんでいた。


 それを見て、コルネリアはなおも畳みかける。


「なんじゃ、その顔は? 其方らしくもない。もしや奥方に義理立てか? 其方の一穴主義には敬意を表するが、これは国家の一大事として捉えるべきぞ。むろん奥方には漏らさぬ。もっとも、国王の妃と寝たなどと、妄言にしか受け取られぬであろうがのぉ」


 そう言って、王妃は再びくつくつと笑う。

 そして言い放った。


「さぁ、勇者エルヴァンよ。これが最後じゃ。色よい返事を期待しておるぞ。――わらわとまぐわるのか否か、どちらじゃ? 今すぐ答えよ!」


 もはや言葉を選ぶことすら放棄した問い。

 エルヴァンは片膝を突いたまま真摯に答えようとする。顔にはどこか吹っ切れたような、覚悟の色が宿っていた。


「恐れながら……謹んでお断り申し上げます。私は国王陛下、ひいてはこの国に忠誠を誓っております。力及ばぬ身ながら、この地位を与えてくださった陛下には深く感謝しているのです。それを裏切るなど……とても私にはできません」

 

「なんじゃと……?」


 王妃の声が乾いた。

 理解できない。拒否されたという現実を、彼女の理性が拒絶した。


「この国には建国の父――ルードルフの血が脈々と受け継がれています。フリードリヒ陛下ご自身にもです。それを意図して絶やさせるなど、まさに反逆行為。私ごときにできるはずもございません」


「エルヴァン……其方……」


「さらに言えば、妻ジークリットのこともあります。私は彼女を愛しています。それを棚に上げて不貞をはたらくなど、どうしてできましょう」


 見上げるエルヴァンの瞳。今やそこには、揺らぎようのない決意が宿っていた。

 コルネリアの顔が醜く歪む。

 

「わらわの……このジルニッツの妃であるわらわの言が聞けぬと申すか!? 一体其方は何様だと言うのじゃ!? 其方は……其方は……」


 顔を真っ赤に染め、般若のごとき形相で憤る。

 整った容姿であるがゆえに、その怒りはなお際立った。

 そして吠える。


「えぇい、誰かおらぬか! 出会え! この男を捕えよ!!」


 絹を裂くような王妃の声。聞きつけた者たちが駆けつけてくる。

 護衛の騎士たちがぐるりと取り囲み、その中心に勇者エルヴァンが物言わぬまま佇む。

 騎士長が告げた。


「聞こえているな、エルヴァン殿。剣を捨てていただこう。――して妃殿下、罪状をお訊きしても?」


 顔を真っ赤にしたまま、わなわなと怒りに身を震わせるコルネリア。

 騎士長の問いに威勢よく答えた。


「不敬じゃ! 無礼にも此奴(こやつ)はわらわを拒絶したのじゃ! 正当なるジルニッツ王国妃であるわらわの言(げん)を無下にしてな! なんと愚かしくも腹立たしい言い草じゃ! ――この不埒者を捕えよ! ただちに牢へ放り込むのじゃ!!」


「……承知いたしました。ではエルヴァン殿、ご同行願おうか」


 諦めに似た表情を浮かべ、騎士長が静かに促す。

 おとなしく従うエルヴァン。その顔に恐怖はない。

 あるのはすべてを受け入れた者だけが見せる覚悟だけ。


 娘の顔が浮かぶ。妻の声が聞こえる。


 ——それが最後になるとは、この時はまだ知る由もなかった。

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