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第3話 最後の呪詛

 次第に血の匂いが濃くなっていく。

 そして、それが誰のものなのかを考えるよりも先に理解した。


 もはやジークリットは動かない。腕の中のヘンリケもまた動きを止めた。

 エルヴァンは格子に額を押し当てて声を出そうとする。けれど叶わなかった。


 指先が震え、鎖がかすかに鳴る。

 届かない。どんなに手を伸ばしても触れることは叶わない。

 しかしエルヴァンは、わかっていても手を伸ばすのをやめられなかった。


「……あなた……」


 ジークリットが掠れた声でつぶやく。まだ生きていた。

 焦点の定まらない瞳が、かろうじて夫の方を向く。腕にはまだ最愛の娘を抱いたままだった。


「ヘンリケが……」


 言葉が途中で途切れ、代わりに血がこぼれた。

 エルヴァンが首を横に振る。


「喋るな」


 優しく言ったつもりだった。

 だが、自分でも驚くほど遠くに聞こえる。


「ごめんなさい……」


 ジークリットの指が僅かに動き、娘の背を撫でようとして途中で止まった。


「守れなかった……」


 それは謝罪ではなく事実の確認だった。

 エルヴァンはなにも答えない。答えが意味を持たないことをわかっていたからだ。

 ただ、妻から視線を逸らせなかった。


 呼吸が浅くなっていく。身体から力が抜けていく。ただ、抱きしめる腕だけがほどけなかった。


 やがて……動かなくなる。

 音が消え、それ以外のすべてがそのまま残った。



「なるほど……」


 穏やかな声だった。

 コルネリアは床に横たわる母子を見下ろし、僅かに首を傾げる。それはまるで、物語の結末が腑に落ちたような所作だった。


 周囲を見渡す。哀れみか悲しみか判然としない、皆一様に居心地が悪そうな顔をしていた。

 それを横目にコルネリアが再び口を開いた。


「これが其方の選んだ結末か」


 責めるでもなく嘲るでもない、確認するだけの声音。顔に浮かんだ微笑みだけが場違いなほど柔らかかった。

 その声にもエルヴァンは反応しない。見れば顔に怒りはなく、悲しみさえもまだ形を成していなかった。

 あるのは空白だけ。灰色に満たされた心の余白。


「哀れなことじゃ」


 コルネリアが言う。それは慈悲の形をしていたが、感情は乗っていなかった。

 ルッツの指が僅かに震え、周囲に控える騎士たちは身じろぎひとつしない。


 その時、エルヴァンが格子から手を離した。鎖を鳴らし、顔を伏せ、唇が僅かに動き出す。

 泣いているのかと思った。ならば、せめて視線を外してやろう。

 周囲の者たちが己の良心に従おうとしたその時、ルッツだけが異変に気付いた。


「……天から降りし風雨の如き炎よ――」


 ルッツの顔色が変わり、慌ててコルネリアの前へその身を割り込ませる。


「妃殿下! お下がりくだ――」


 遅い。


 エルヴァンの指先に熱が灯り、それが次第に形作っていく。

 それは怒りでも祈りでもない、ましてや涙でもない。ただ、この世界を拒絶する意思だった。


「――その身を紅蓮に染め上げ敵を討て」


 一瞬の静寂。呼吸が止まる。

 そして――空気が軋んだ。



 吹き上がる炎柱と襲い掛かる灼熱。立ち昇る黒煙。

 しかし、炎は一瞬で収まった。残ったのは焦げた石の匂いとゆらぐ熱だけ。

 見れば鉄格子が崩れ落ちていた。砕けた鉄が床に転がり、乾いた音を立てる。


 その向こうにエルヴァンの姿が見える。うつむいたまま表情は見えず、ただ焼け爛れた皮膚の影が揺れていた。


 誰も動かない。いや、動けなかった。降って湧いた目の前の光景に理解が及ばず驚愕するのみ。

 ルッツだけがすでに剣を抜き放っていたが、その切っ先は僅かに下がり小さく震えていた。自分でも気づかぬほどに。


 エルヴァンが一歩前へ出る。その右手には牢格子だったであろう鉄棒が握りしめられ、無造作に床へ向かって下げられていた。


 もう一歩。

 歩幅は一定、足音も小さい。だがそれだけで騎士たちの肩が強張った。


 誰かが息を呑む。次の瞬間、気づかぬ間に一人の騎士が倒れていた。

 鉄棒が振られたのかさえわからない。ただ首が傾き、遅れて血が噴き出した。

 エルヴァンがさらに一歩前へ出る。視線は向けない。倒れた騎士の存在すら認識していないらしい。


 続けて鉄棒が振られ、鈍い音が響き、骨が砕ける感触だけが石床に残った。

 誰かが後ずさり、誰かが足を滑らせる。けれど誰一人として背を向けようとしなかった。

 逃げれば生き残れるかもしれないが、その一歩が踏み出せない。踏み出した瞬間にすべてが終わってしまいそうな気がした。


 怖い。

 理由はわからない。ただ、目の前の男が人間ではないと本能が告げていた。


 エルヴァンがなおも歩く。

 狭い廊下の真ん中を、早くもなく遅くもなく、確実に歩を進める。

 距離が縮まってくる。鉄棒を振るうたびに一人消え、床に肉塊が撒き散らされた。

 叫びはない。怒声もない。あるのは棒が空気を切る音と、肉が潰れる鈍い音だけ。すでにそこは静かな殺戮の場と化していた。


 コルネリアがそれを見つめる。この期に及んでも笑みは消えていなかったが、瞳の奥に僅かな揺らぎが生まれていた。

 ルッツが前へ出て言う。


「復讐を果たしたければ、ここまで辿り着いてみせろ」


 声は静かだったが掌は汗で濡れている。注視しなければわからないほど、細かく剣先は震えていた。

 それを前にしてエルヴァンが歩みを止める。そして――視線だけをルッツに向けた。


 瞬間、ルッツの背を冷たいものが走り抜ける。指に力が入らずに、思わず剣を握り直した。

 相手を見る。

 そこに怒りはなく、憎しみもなかった。

 ただ、空白があった。

 ルッツにはそれがなにより恐ろしかった。



「妃殿下、お下がりください」


 ルッツが無礼を承知で半ば強引に王妃を背に隠す。口ではそう言いながら、彼の額には脂汗が浮かんでいた。


 廊下の先で鉄が転がる音がする。焦げた匂いの向こうから、エルヴァンが歩いてくる。うつむいたまま、視線すら上げようとせぬままに。

 騎士がまた一人倒れた。斬撃は見えず、ただ姿勢が崩れ、首が傾き、そのまま崩れ落ちた。

 誰も声を上げない。上げれば次は自分の番だと理解するように。


 また一歩進む。

 鉄棒が振られる。

 鈍い音。

 肉が潰れる。


 それだけだ。


 怒声も憎悪もなく、機械的に排除されていく。その様子を睨みつつルッツが歯を食いしばる。そして誰へともなく言う。


「……壊せたはずだ、最初から。あの牢など、お前にとっては檻ですらなかった」


 エルヴァンは答えない。歩みも変わらない。


「逃げればどうなるか、わかっていたのだろう」


 ルッツの視線が床へ落ちる。血に濡れた母子へ。


「見せしめにされる。必ずだ」


 小さく息を吐く。


「だから壊さなかった。逃げなかった。時間が過ぎるのを待とうとした」


 沈黙。


「……間に合わなかったがな」


 その言葉にもエルヴァンは反応せず、一歩、また一歩と近づいてくる。騎士たちが迎撃するために狭い廊下に刃を並べた。

 それでもエルヴァンは止まらない。受け、流し、突き刺す。動作に迷いも無駄も一切見られない。


 外敵のための勇者の力を、誰もこれまで内向きに意識したことはなかった。だが、それが自分たちに向けられたことに恐怖する。

 感情の気配がなく、ただ正確に敵の数だけが減っていく。恐怖は叫びではなく沈黙として広がった。


 やがて騎士はルッツだけになる。

 エルヴァンが足を止め、ゆっくり顔を上げる。そして視線だけが向けられた。

 その瞬間、ルッツは理解する。この男はもはや怒ってすらいないのだと。


「ここから先へは通さぬ」


 静かな声だった。


「通りたければ俺を殺せ。――ただし、ひとつ言っておく。お前が守るべきは家族だったはずだ。くだらぬ忠義や矜持ではない。……それがわからぬから、すべてを失ったのだ」


 決して責める声ではない。ただ、逃げ場を断つ刃のようだった。

 エルヴァンの動きが僅かに鈍る。だが、それも一瞬だった。


「……ルッツ、どけ」


「どかぬ」


「この女を斬る」


 それだけだった。

 聞いたコルネリアが笑い出す。血の海を前にして、なお饒舌だった。


「して、その後はどうする? 其方一人の怒りで世界が変わるとでも? ――よいか、よく聞け。其方の後ろ盾はもとより、嫁の実家も一族郎党処断は免れぬ。それらもすべて其方が種を()いたのじゃ。自業自得というものじゃな」


 その時だ。駆けつけた魔術師が呪文の詠唱を始め、ほどなくして炎と光が放たれた。

 狭い廊下。逃げ場はない。それでもエルヴァンが前へ踏み出した瞬間にルッツも踏み込んだ。


 閃光が目を焼き、爆炎が肌を焦がす。同時にルッツの刃が胸を貫いた。

 それでもエルヴァンは倒れない。

 次いで身体に幾本もの矢が突き立ち、血が流れ、よろめきながら壁へ背を預ける。

 荒い呼吸。それでも視線はコルネリアから外れない。しばらくして、ようやく口が動いた。


「……必ず」


 掠れた声だった。


「殺す」


 それだけを残し、エルヴァンは身を翻した。次の瞬間、その姿は窓の外へ消える。

 外は断崖絶壁、真下には海が荒れ狂っている。高さは優に百メートルはあるだろう。

 暗闇に消えていく勇者の姿。風の音だけが聞こえてくる。

 誰も追わず、誰も覗き込まない。ただ夜だけがそこにあった。


 しばらく瞬きすらしなかったルッツが、やがて窓から視線を外さず言った。


「……落ちれば助からぬ」


 独り言のようだった。それはこの結末に対する断定か、願望か。いずれにせよ彼は、表情の見えない顔でコルネリアへ告げた。


「この闇では捜索も叶いません。今宵はどうかお引き取りを」


 返事はなかった。背後でコルネリアが小さく鼻を鳴らした。

 ただそれだけで、窓の奥では風だけが鳴っていた。

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